負け犬の遠吠え
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2022年6月4日土曜日
大東亜戦争64 戦争の終わらせ方②聖断
2022年5月16日月曜日
大東亜戦争63 戦争の終わらせ方①赤い霧
「近衛上奏文」
戦争を始める事よりも戦争を終わらせる事の方が難しい、とはよく言ったものです。
大東亜戦争において、「戦争を終わらせよう」という動きは1942年6月のミッドウェー海戦の後くらいから始まっていました。
開戦前からドイツとの同盟に反対し、親米派として対米開戦回避に動いていた吉田茂は、実現こそしなかったもののミッドウェー海戦での敗北を転機とするため、スイスでの和平工作を行おうとしていたのです。
吉田茂 |
このような動きは、吉田反戦グループをもじって「ヨハンセングループ」と呼ばれ、軍部や憲兵隊本庁から警戒、監視されるようになります。
1945年、1月、米軍がフィリピンにまで迫りいよいよ日本の敗戦が濃厚になると、昭和天皇は重臣たちに意見を求めました。
軍部を刺激しないように秘密裏に行われた重臣たちと昭和天皇の会談の中で、ヨハンセングループの一員であった近衛文麿は、昭和天皇に戦争終結を訴えるべく「近衛上奏文」を奉呈します。
近衛文麿 |
近衛上奏文の内容は以下の通りです。
・敗戦は最早必至である事
・敗戦以上に、共産革命を危惧すべきである事
・米英は國體の改造までは望まないであろうという事
・恐慌による困窮で共産主義を受け入れやすい状況が整い、
軍部内では国家社会主義思想が蔓延している事
・「一億玉砕」などの全体主義は共産主義分子の陰謀である事
・軍内部の共産主義勢力を一掃すべきである事
・自分もそれに引きずられるように支那事変を泥沼化させてしまった事
近衛上奏文の内容は、今にして見てみればなかなか的を得た内容であったと評価できます。
しかし反面、戦争終結に向かうための具体的な対策がなく、ただただ共産革命の脅威を述べたもので、しかも軍内部の粛清を求めてくるその内容に昭和天皇は驚きました。
軍部の改革について近衛文麿と議論を交わした後、飽くまでも現実的な意見として「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか難しいと思う」と発言されたのです。
この「(軍の人事改革については)もう一度戦果をあげてからでないと難しい」という発言には主語がないため一人歩きしてしまい、現代の歴史教育において悪用されています。
東京書籍「現代からの歴史 日本史A」という本の145ページでは「(戦争を終わらせるのは)もう一度戦果を上げてからでないと難しいと思う」と、あたかも昭和天皇が戦争継続の意思を示し、戦争終結を先延ばしにしたのだと捏造されているのです。
「アメリカの思惑」
戦争を終わらせる・・・と言っても、勝った者負けた者、両方が「戦争を終わらせよう」と納得しない限り終戦は実現しません。
よく「日本はミッドウェー海戦で戦争を終わらせるべきだった」という言説を時々目にします。
アメリカとしては、日本と戦争したからには、「徹底的にぶっ潰す気」が満々で、たとえミッドウェー海戦で日本が敗北したからといって、そう易々と終戦を受け入れてくれるはずがありません。
1943年に開かれた「カサブランカ会談」において、ルーズヴェルト大統領は日本に対し「無条件降伏」を要求すると発表しました。
カサブランカ会談 |
無条件降伏は「講話」「条約」など双方の譲歩によるものではなく、敗戦国に「NO」と言える権利のない恐ろしいものです。
話し合いによる終戦の道を絶ったのは他でもない、アメリカだったのです。
また、同年の「カイロ会談」において、「日本を無条件降伏させるためには本土上陸が必要である」という認識がアメリカをはじめとする連合国の間で共有されました。
カイロ会談 |
米軍はそれを元に日本上陸作戦を検討し、その骨子が1945年初めに完成します。
「ダウンフォール(奈落の底)作戦」と呼ばれたその内容は、日本を海上封鎖し、薬剤散布によって食糧生産を不可能にすることで飢餓状態に追い込み、さらに原爆を多用するだけでなくサリンなどの化学兵器も投入することなどが盛り込まれており、11月の九州上陸「オリンピック作戦」関東上陸「コロネット作戦」によって成り立っていました。
ダウンフォール作戦 |
これに対し日本軍は「一億玉砕」を掲げ、本土決戦に備えて陣地を構築、男女構わず根こそぎ徴兵した2500万人を本土決戦に投入する予定でした。
この時の名残で今でも九州南部などには、地下壕が多く存在しています。
もはや日本の敗戦は必至、それでも竹槍で戦おうとしていた当時の日本人達の気持ちは、ダウンドール作戦の内容を知れば決して馬鹿にできたものではありません。
そしてこの作戦の決行を米軍に尻込みさせていたのは他でもなく前線で戦い続けていた日本軍将兵です。
南洋の島々での米軍の損耗率は想定を超えるものになっており、「小さな島を攻略するのにこれだけの損害が出るのなら、日本本土上陸はどうなってしまうのか」という認識が米軍上層部に芽生えていたのです。
そしてダウンフォール作戦において米軍の死傷者は50万人にも達すると見越し、この数字は国内での厭戦気分を高め、アメリカ国民の非難が日本ではなく米軍に向かうであろう事が予想されました。
米軍は戦闘で負傷した兵士に「パープルハート」という勲章を送りますが、ダウンフォール作戦を見越して作られた50万個の勲章の在庫がようやく底をついたのは2010年の事だそうです。
さて、アメリカが日本本土上陸をせずに勝利を確定するためにはソ連の力が必要でした。
1945年2月、ソ連のスターリン、イギリスのチャーチル、アメリカのルーズヴェルトはソ連領クリミア半島のヤルタで会談を行い、そこでなんとルーズヴェルトはスターリンに「ドイツの降伏から3ヶ月後に、日ソ中立条約を破って対日参戦する」ように要請したのです。
その見返りとして、ルーズヴェルトはソ連に南樺太、千島列島を引き渡し、満州の権益を約束します。
そして4月5日、ソ連は日本に「日ソ中立条約」は延長しないと通達しました。
それでも条約の有効期間はあと一年残っていました。
ヤルタ会談 |
「日本の和平工作」
吉田茂を中心とした「ヨハンセングループ」が戦争の早期終結を目指していたことは先述した通りですが、政府として戦争終結に動き出したのは、東条内閣が倒れて小磯国昭が総理大臣に就任した1944年7月の事でした。
小磯国昭 |
絶対国防圏であるサイパンが陥落し日本の敗戦が確定したこの時にできた小磯内閣は、ある意味「戦争を終わらせるための内閣」でした。
しかし小磯国昭は政治状況も戦況も把握しておらず、「日本はこんなにも負けているのか」と口にするほどで、終戦への道筋をたてる事ができずに「一億総玉砕」に備えるしかありませんでした。
小磯内閣は蒋介石率いる支那国民党との単独講和を行い、連合国全体との講和へと発展させる事を目論みましたが、交渉は難航、親日派の汪兆銘の死などによって完全に頓挫してしまいます。
そこへ、支那南京政府から繆 斌(みょうひん)という政治家がやってきて、日本と国民党との仲介役を申し出ます。
小磯首相はこの話に飛びつきますが、繆 斌は蒋介石からの親書も持ってきておらず、非正規ルートで信用できない話だと周囲からは猛反対を受けました。
それでも繆 斌工作に執着する小磯首相は昭和天皇からの信用を失ってしまい、小磯内閣は解散する事になってしまいます。
足並みがそろわず「無能」と評価されてしまう小磯内閣でしたが、外務大臣、陸軍、海軍はそれぞれ非公式で和平交渉の道を手繰り寄せていました。
1945年3月、駐日スウェーデン公使ウィダー・バッゲは極秘で日本政府に和平交渉の仲介を打診します。
外務大臣の重光葵はこの確かなルートを頼りに「バッゲ工作」を推し進めました。
バッゲは「永き歴史を有する立派な日本を破滅に陥れるには忍びない」と重光に語っています。
重光葵 |
陸軍のスウェーデン駐在武官の小野寺信少将はヤルタ密約の情報を入手し、ソ連が日本へ侵攻してくる事をいち早く察知していた人物ですが、陸軍中枢はその報告を信じずに握りつぶしました。
ソ連の侵攻を警戒した小野寺はスウェーデン王室を通じて和平工作を模索します。
共産主義革命によって封建制度が打破され、ロシアやドイツの王室が次々と失われていく時代に、2000年以上もの歴史を誇る日本の皇室の存在に興味を示していたのです。
「日本は、皇室の存続さえ保障されれば降伏する」という情報は、スウェーデン国王を通じてトルーマンへ伝えられ、小野寺少将の工作はスウェーデン国王と面会する約束をとりつけるまでに進んでいました。
さらには海軍内部でも、藤村義朗中佐と、アメリカ戦略情報局スイス支局長アレン・ウェルシュ・ダレスによる「ダレス工作」が密かに進められていました。
しかし、「バッゲ工作」「小野寺工作」「ダレス工作」は、小磯内閣が倒れて新たに発足した鈴木貫太郎内閣において外務大臣に就任した東郷茂徳によって全て中止されてしまいます。
東郷茂徳は、「スウェーデンなどの小国による和平交渉は無力であり、無条件降伏につながる恐れがある」と考え、ソ連に和平交渉の仲介を依頼したのです。
1945年6月22日、天皇臨席の最高戦争指導会議において、「対ソ和平交渉」が国策として決定されました。
しかしソ連は回答を先送りにして時間を稼ぎます。
日本政府は1ヶ月という無駄な時間を過ごし、そして7月26日に「ポツダム宣言」を突きつけられてしまうのでした。
ソ連の対日参戦を察知していたにも関わらず、それでも日本政府がソ連に希望を抱いてしまった理由は、軍部・政府中枢に共産主義が浸透し、ソ連と気脈の通じる人物がいたからに他なりません。
鈴木貫太郎首相の秘書官、松谷誠が作成した「戦後処理案」には、日本が共産化しても皇室は維持できるため、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだと書かれており、また、参謀本部班長の種村佐孝大佐は、対ソ交渉に関する意見書に「ソ連の言いなりになる覚悟で交渉にあたるべし」と書き綴っていました。
この種村は戦後、シベリアの捕虜収容所で共産主義革命のスパイとして訓練を受け、日本共産党に入党しています。
松谷誠 |
日本の中枢に潜り込んでいた共産主義者達の行動は、原爆投下、ソ連侵攻など、日本にとっての大惨劇を招いてしまうのでした。
2022年4月18日月曜日
大東亜戦争62 日本本土空襲② 神の名を借りた虐殺
1939年、ドイツの科学者によって「核分裂反応」が発見されると、ナチス政権下で原子爆弾開発が推し進められるようになります。
これに焦ったアメリカやイギリスは対抗するように共同で原爆開発「マンハッタン計画」を開始、科学者・技術者を総動員しました。
マンハッタン計画の中心となった研究者の中には、ナチスドイツから迫害されて亡命してきたユダヤ人科学者が多数存在し、大きな影響を与えています。
彼らは飽くまでもドイツが核兵器を先に所有する事に危機感を抱き、「ドイツ憎し」で動いていたので、日本に対する使用は想定していなかったと言われています。
原爆開発に直接関わってはいないものの、アメリカ政府への原爆開発の要請に署名したこともある科学者「アルベルト・アインシュタイン」は「日本に原爆を使用しないように」との手紙を1945年3月25日にルーズベルト大統領に送りましたが、大統領はこれを読む事なく4月12日に病没してしまいます。
1945年5月にドイツは降伏しましたが、原爆開発の矛先はそのまま日本へ向けられます。
7月16日、世界で初めての核実験「トリニティ」が行われました。
トリニティという言葉は「三位一体」という意味であり、これはキリスト教の宗教用語です。
この名前がつけられた意図は定かではありませんが、実験名をつけたのはユダヤ系アメリカ人の物理学者で、原爆開発研究所の所長であるロバート・オッペンハイマーでした。
彼は実験名をつける時、イギリスの詩人ジョン・ダンの詩の一節が頭にあったと語っています。
ジョン・ダンの詩には「トリニティ」という単語が含まれる次のような一節があります。
「私の心を叩き割ってください、三位一体の神よ。私を倒して、力一杯、壊し、吹き飛ばして、焼いて、作り変えてください」
ユダヤ教やキリスト教には「終末論」という考えがあり、これは人類に破滅的な神の審判が下され、イスラエルの民だけ救われるというものです。
彼らは「原爆」と「三位一体の神」を重ね合わせ、自らの悪の所業を「神の裁き」として正当化しようとでもしたのでしょうか。
トリニティ実験で使用された人類初の原子爆弾は「ガジェット」という無機質な名前を与えられ、核の時代の始まりを告げました。
話は変わりますが、実は日本も「原子爆弾」の開発を進めていました。
陸軍航空研究所の所長、安田武雄中将は部下に原子爆弾の開発を命じ、1943年5月に「二号研究」を開始します。
中心となったのは理化学研究所の「日本の近代物理学の父」仁科芳雄博士で、彼は英国科学雑誌「ネイチャー」に核分裂実験の成果を投稿するほどでした。
しかしとにかく肝心の「ウラン」が入手困難でした。
日本、満州、朝鮮などでウラン鉱山の探索が行われますが結果は出ず、福島県では中学生を動員してウラン採掘を行いましたが、そこで採掘されたわずかなウラン石も、ウラン含有量の少ないものでした。
同盟国ドイツからの潜水艦輸送が最後の頼みでしたが、輸送中にドイツが降伏、ドイツ潜水艦は浮上して降伏する道を選びます。
日本への輸送任務のために同乗していた日本人将兵、友永中佐、庄司中佐両名は大量の睡眠薬を飲んで自決しました。
日本へ輸送されるはずだったウランは全て没収され、日本の原爆開発は不可能となったのです。
また、日本陸軍に遅れて海軍も「F号研究」として原爆開発を目指していました。
熱拡散法によるウラン濃縮を目指した仁科博士の二号研究に対し、F号研究は遠心分離法を用いたもので、日本を代表する原子核物理学者である荒勝文策博士や、後にノーベル賞受賞者となる湯川秀樹などが携わっていました。
「二号研究」「F号研究」ともに物資不足は決定的で、成功する見込みは皆無でしたが、その研究内容のレベルは高く、これらの資料は戦後、GHQの手によって全て持ち去られました。
1945年2月4日に行われたヤルタ会談において、ルーズヴェルト大統領はソ連のスターリンと「ドイツ降伏の三ヶ月後に対日参戦するように」との密約を交わします。
日本を降伏させるためにソ連の力が必要だと考えていたルーズヴェルトは4月12日に死去し、ドイツは5月に降伏、ソ連の来日参戦は8月上旬であることが予想されました。
7月16日のトリニティ実験が成功すると、ルーズヴェルトの後任のトルーマン大統領は、原爆さえあればソ連の力は必要ないと考え、ソ連が日本に侵攻してくる前に原爆の圧倒的な威力を見せつけてソ連を牽制する必要性がでてきました。
トルーマンの大統領としての最初の仕事は「原爆をどこに落とすか」を決めることです。
原爆投下予定地として当初想定されていたのは「京都・広島・横浜・小倉」となっており、候補に挙げられた都市はなるべく建物を残して原爆の威力を調査するために無差別爆撃が行われないでいました。
横浜では原爆投下予定地から外れた翌日に大空襲が行われ、原爆の威力を確かめるために最適な盆地である京都をどうするのか迷走した挙げ句、8月2日に最終候補地が決定します。
第一候補に広島、第二に小倉、長崎は第三候補でした。
米軍の原爆投下は実に用意周到で、かつてない形状の爆弾を投下することになるので、「パンプキン」と呼ばれた黄色くて丸い形状の模擬原子爆弾を用いて各地で投下訓練を行いました。
原爆は分解された状態で重巡洋艦「インディアナポリス」によってテニアン島に運ばれ組み立てられ、Bー29に積み込まれました。
原爆を輸送したインディアナポリスはその後、日本の潜水艦によって撃沈され、多くの乗員がサメに食べられてしまいます。
1945年8月6日と8月9日、この2つの日の惨状についての説明は日本人には不要かと思います。
しかし小倉に投下される予定であった原爆が長崎に投下された理由については「天気が悪かったから」という定説がまかり通っていますが、実際は違います。
一発目の原爆が投下されて以降、日本軍は少数編隊のB-29には神経を尖らせていました。
小倉の八幡製鉄所の従業員たちは B-29の少数編隊が北上しているという情報を入手すると、コールタールを燃やして煙幕を張ります。
これによって小倉上空は煙で覆われ、B-29は投下予定地が確認できなくなり、予定爆撃航路を3回も行き来したあと、目標を長崎へ変更したのです。
長崎の空も雲で覆われていたのですが、雲の切れ間から一瞬だけ市街地が確認されたため、原爆が手動投下されました。
爆心地がカトリック教会の真上であったことはなんとも皮肉な事です。
被爆したマリア像が今も残っています。
広島の「ウラン型」長崎の「プルトニウム型」の二種類の原爆投下は、どんな綺麗な言葉を並べても許される事のない「人体実験」です。
戦後、日本に進駐してきたGHQは、これまで必死に治療を行ってきた日本人医師達に治療法の発表と共有を禁じ、死没被爆者の皮膚や臓器、生存被爆者の血液やカルテなどを没収しました。
治療してしまったら「実験」にならないからです。
アメリカは原爆被害についての報道も規制し、原爆傷害調査委員会「ABCC」を広島、長崎に設置し、被爆者達を観察し、経過を追って情報を収集しました。
数回にわたり行われた被爆者に対する大規模な調査のデータには、日本人は一切関わる事が許されませんでした。
被爆者達は草を食べ、雨水をすすり、傷は自然治癒に任せるしか生きる術がありませんでした。
ABCCは現在も「放影研」と名前を変えて、日米共同で今も被爆者達の追跡調査を行っています。
2022年4月10日日曜日
大東亜戦争61 日本本土空襲① 日本人の殺し方
「焼夷弾」は、目標を爆風で吹き飛ばすのではなく、確実に着火させて火災を引き起こし、焼き払うための武器です。
アメリカでは1941年、日米開戦前に既に日本を焼夷弾爆撃する構想が存在しており、開発中のB-29爆撃機を大量発注していました。
1942年に入るとフランクリン・ルーズベルト大統領はユタ州に「ダグウェイ実験場」を創設します。
これは現在でも生物兵器・化学兵器の研究が行われる施設であり、1943年には正確に設計された日本家屋が24戸も建設されました。
下町の街並みを再現したこの「日本村」では繰り返し焼夷弾が落とされ、焼夷弾の落下軌道、延焼範囲、燃え方、消火時間などの詳細なデータが記録されました。
このような実験をもとに日本本土空襲を計画したのはアメリカ陸軍航空軍司令官のヘンリー・アーノルド大将です。
B-29による初めての爆撃は1944年の6月、支那の成都から八幡製鉄所を目標にしたものでした。
しかし成都の基地からでは、航続距離の問題で九州北部しか爆撃できず、燃料輸送の問題もあって回数も限られていました。
しかしサイパンが陥落すると、日本の主要都市の大半を爆撃する事が可能になります。
サイパンの第21爆撃集団司令官に就いたヘイウッド・ハンセル准将は日本本土爆撃を実行しましたが、マリアナ基地が未完成だった事や、天候に恵まれなかった事などが響いて大した戦果をあげられませんでした。
ハンセルは戦略爆撃にこだわり、名古屋の全面的焼夷弾攻撃を要求された時も、「市街住宅地域の焼夷弾攻撃は承服しがたい」と反論しています。
このような上層部との意見の食い違いや、爆撃の度に戦果に見合わない損失を被っていた事から、ハンセルは爆撃集団司令官から解任されてしまいます。
ルーズベルト大統領は、来たる「日本本土上陸作戦」のために、戦略爆撃ではなく無差別爆撃を行い、日本を焦土化しておかねばならないと考えていたのです。
支那で行なった「漢口大空襲」の実績を高く評価されて、第21爆撃集団司令官へ新たに抜擢されたのは、カーチス・ルメイ大将です。
ルメイの戦術は独創的でした。
より精密な爆撃を行う為に爆弾倉を一つ取り除いて機体を軽量化しようと試みたハンセルとは対照的に、ルメイはなんと機銃・弾薬・射撃手を下ろして軽くなった200キロ分の焼夷弾を積み込んだのです。
さらに、10000m弱の超高度からの爆撃を行っていたのを、1500〜3000m程の高度に変更し、高射砲や迎撃を避ける為に夜間爆撃をする事にしました。
高度を下げる事によってジェット気流の影響を受けることがなく、燃料も少なくて済むようになるのです。
全ては「一人でも多くの日本人を焼き殺す為」でした。
カーチス・ルメイは日本の主要都市、中小都市を次々に焦土を化していきます。
のちにルメイは
日本人の女子どもを殺す行為であったことは知っていたがやらなければならなかった
日本人を殺すことに大して悩みはしなかった
などと語っています。
以下に、1945年に行われた主な空襲を記述します。
【1月】
3日 名古屋・大阪
6日 九州
9日 関東・東海道・近畿
14日 名古屋・伊勢神宮外苑
19日 東京
【2月】
15日 名古屋・浜松
【3月】
10日 岩手県盛岡市・宮城県仙台市・千葉県銚子市
東京大空襲(被災家屋26万戸・死者83793人)
12日 名古屋
13日 大阪(死者3000名)
17日 神戸(死者2669名)
18日 大分
19日 名古屋・呉
24日 名古屋
27日 小倉
【4月】
7日 和歌山県新宮市
8日 岡山県玉野市
12日 福島県郡山市・岐阜県各務ヶ原市
13日 東京
15日 東京・神奈川県川崎市
21日 大分市
26日 山口県宇部市
30日 静岡県浜松市
【5月】
3日 高知県香南市
5日 広島県呉市・大分市
10日 山口県徳山市・愛媛県宇和島市
11日 兵庫県(西宮・芦屋・神戸)
14日 名古屋市・山口県宇部市
19日 静岡県浜松市
24日 東京
29日 横浜市(475機のB-29により一万人以上が死亡)
【6月】
1日 兵庫県尼崎市・大阪市
5日 兵庫県(西宮・芦屋・神戸)・和歌山県新宮市
7日 大阪府(豊中市・大阪市)
9日 愛知県名古屋市熱田区(2000人死亡)・ 岐阜県各務ヶ原市・兵庫県鳴尾村
10日 千葉市・茨城県(日立市・土浦市)15日 岐阜県(各務ヶ原・多治見)
17日 茨城県日立市・神奈川県平塚市・静岡県沼津市・岐阜県各務ヶ原市・
三重県桑名市・和歌山県新宮市・大分県(大分市・別府市)
18日 千葉県白浜市
19日 茨城県日立市・千葉県銚子市・福井県福井市・岐阜県各務ヶ原市・京都府長岡市
20日 新潟県長岡市※パンプキン爆弾・福島県(福島市・いわき市)※パンプキン爆弾
茨城県日立市※パンプキン爆弾 静岡県焼津市※パンプキン爆弾
東京八重洲※パンプキン爆弾 富山県富山市※パンプキン爆弾 愛知県岡崎市
岐阜県各務ヶ原市・大阪市東住吉区※パンプキン爆弾
22日 愛媛県宇和島市・高知県(大方市・土佐山田町)
23日 山口県宇部市
24日 三重県(津・桑名・四日市※四日市にパンプキン爆弾)
岐阜県(大垣・各務ヶ原※大垣にパンプキン爆弾)・滋賀県大津市※パンプキン爆弾
大阪府大阪市・兵庫県(西宮・神戸※神戸にパンプキン爆弾)・和歌山県新宮市
岡山県岡山市・広島県呉市・愛媛県(新居浜・西条、共にパンプキン爆弾)
25日 愛媛県宇和島市・大分県津久見市・和歌山県串本町(艦砲射撃)
26日 大阪府大阪市東住吉区※パンプキン爆弾
新潟県(鹿瀬町・・柏崎市共にパンプキン爆弾)・富山県富山市※パンプキン爆弾
静岡県(焼津・島田・浜松全てパンプキン爆弾)・愛知県名古屋市※パンプキン爆弾
福島県いわき市※パンプキン爆弾・茨城県日立市※パンプキン爆弾・愛媛県松山市
27日 山口県徳山市・福岡県大牟田市・熊本県松橋町・愛媛県宇和島市
28日 青森県(青森市・大湊町)・広島県呉市・山口県宇部市・三重県津市
愛知県一宮市・岐阜県各務ヶ原市・鳥取県(米子・所子)
29日 福島県郡山市※パンプキン爆弾・東京都保谷市※パンプキン爆弾
和歌山県和歌山市※パンプキン爆弾・京都府舞鶴市・山口県宇部市・岐阜県大垣市
静岡県浜松市(艦砲射撃)
30日 岐阜県各務ヶ原市・三重県桑名市・愛媛県宇和島市
31日 静岡県清水市(艦砲射撃)