2019年5月28日火曜日

明治維新17 松平容保の苦悩

「保科正之(ほしな まさゆき)」は、第二代将軍・徳川秀忠の妾の子として生まれました。

第三代将軍・徳川家光は、腹違いの弟である正之の器量を見抜き、大変可愛がりました。

そして保科正之は、会津23万石の大名に引き立てられ、稀代の名君とまで呼ばれるようになったのです。

妾の子から大名へと、異例の出世を遂げた保科正之は、徳川幕府に大きな恩義を感じていました。

そして次のような家訓を示します。

「もし二心を抱けば、我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」

これは、主君(幕府)に背くような心を持つような奴は私の子孫じゃないから、誰も従うなよ!という意味です。

この言葉が、のちの会津藩の運命を大きく左右する事になります。
保科正之
会津松平家は幕府へ忠誠を尽くす忠義の国として220年も続く事になるのですが、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。

不作が原因となって大規模な一揆が起こったり、財政破綻の危機を乗り越えたり、6代目、7代目が早死にした為に保科正之の血が途絶えたりと、様々な難局を乗り越えて会津藩を存続させてきました。
会津藩はこの辺
9代目会津藩主「松平容保(まつだいら かたもり)」は婿入り藩主で、水戸徳川家の血筋である美濃高須藩の出身です。
松平容保

会津松平家の家風である神道、儒教、そして家訓を叩き込まれた容保は、「尊皇の精神」と「幕府への忠誠」を合わせ持つようになるのでした。

松平容保が藩主になった1852年はペリーが来航する前年の事であり、時代は一気に幕末の動乱期を迎える事になります。

京都では、開国を受け入れて外国と条約を結んだ幕府に対し、それに反発する「尊王攘夷」を掲げた志士たちが続々と集まっており、過激派が強盗などを起こして治安が悪化していました。

もはや町奉行の手に負える事態ではないと判断した幕府は、「京都守護職」を設置し、京都市中の治安維持と二条城の警備を任せようと考えます。

本来ならば、京に近い彦根藩がこの任に就くはずだったのですが、彦根藩主である「井伊直弼」は桜田門外の変で殺されており、跡を継いでいた13歳の若い藩主には荷が重すぎると判断されたのです。

安政の大獄などによって人材不足に陥っていた江戸幕府が目をつけたのは、東日本で最も信頼の置ける会津藩でした。

しかし、当時の会津藩の財政は既に破綻状態。

容保も病に伏せっており、京都守護職という大任を何度も断りました。

会津藩を守護職に推薦していた政事総裁職の「松平春獄」は、とうとう会津藩の家訓を引き合いに出します。

「もし二心を抱けば、我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」

この言葉の前に容保は辞する言葉を失い、京都守護職を引き受ける決心をしました。
会津藩家訓
家臣たちは皆「薪を背負って火を消しに行くようなものだ」と反対しますが、容保の決意を知ると、肩を抱きあって涙し、京都を死に場所にする覚悟を決めます。

京都守護職に就けば会津藩は滅びる事になると、誰もがわかっていたのです。

実際、京都守護職の経済負担はとてつもなく大きく、会津藩は216000両の出費を余儀無くされました。

しかしその役職に対して支払われるのは、半分にも満たない96709両です。

年間11万9300両(30億円相当)の赤字になるのです。

当然、赤字を賄うために税を徴収せねばなりません。

結果、会津藩の農民達は、重税に苦しむ事になってしまいました。

さて、攘夷の嵐が吹き荒れる中、会津藩兵を率いて上洛した松平容保ですが、京都では神道を学んで培った尊皇の精神を遺憾なく発揮します。

戦国時代以降、武士達の台頭に伴い皇室を始め、公家・公卿達の生活は圧迫されていました。

皇室への支給は定額制だったのですが、幕末の動乱の中で物価が急騰してしまい、孝明天皇に出される魚は、とても食べられる品質のものではなくなっていたそうです。

内職で生計を立てる公卿もいたほどで、そこには裕福な幕府への妬みが少ならからず存在し、幕府に不満を持つ攘夷派の志士達に付け入る隙を与えてしまっており、幕府の唱える「公武合体」の妨げとなっていたのです。

松平容保は皇室の待遇改善を幕府へ建白し、急いで大阪湾から新鮮な魚を取り寄せ、孝明天皇に食べさせました。

孝明天皇は「これは肥後の魚か!肥後の魚か!」と繰り返し喜んだそうです。
この肥後というのは、「肥後守」の官位をもつ松平容保の事を指しています。
孝明天皇
このような姿勢によって、容保は朝廷の厚い信頼を得る事になりました。

しかし「朝廷」と「幕府」の板挟みの中で、容保の運命は揺れ動く事になっていきます。

容保は京都の治安維持も徹底しました。

攘夷派の過激な志士達は幕府を批判するために毎日のように暗殺を行っており、京都の治安は最悪なものになっていました。

そこで容保は新撰組を支配下に置き、攘夷派、倒幕派の志士達を摘発し、「八月十八日の政変」では、攘夷派、倒幕派の公家や、長州藩士を京都から追放する事に成功します。

「禁門の変」においても長州藩を撃退しますが、これによって長州藩と会津藩の関係性は最悪なものになりました。

孝明天皇の信任を得た一橋慶喜や松平容保(会津)、松平定敬(桑名藩・容保の弟)らは幕府から距離を置き、ある意味独立した状態で幕政を指示し、後に「一会桑政権」と呼ばれるようになります。
こうした孝明天皇からの過度な優遇は、薩摩藩や幕府からの反感すら買うようになり、薩摩藩と長州藩が接近する原因を作る事にもなってしまいました。

容保が幕府の為、朝廷の為と思って行動していた事が、どんどん敵を増やすことになっていたのです。

松平容保に欠けていたのは、政治的な駆け引きのバランス感覚だったのかも知れません。

そのような状況の中、1866年に将軍家茂が亡くなると、1867年に孝明天皇も崩御します。

容保が最も頼りにしていた人、そして最も忠義を尽くしていた人を立て続けに失う事になりました。

そして新しい将軍、徳川慶喜が薩長に対して融和路線を取るようになると会津藩は立場がありません。

容保は京都守護職を辞任して会津藩へ帰る事を望みましたがそれも許されませんでした。

徳川慶喜は松平容保の反対をよそに、大政奉還をして政権を返上してしまいます。

慶喜は将軍を辞して、一大名として生き残る道を選んだのです。

しかし王政復古によって徳川家の処分が決まると、会津藩士達は憤慨し一触即発の状況になりました。

京都で戦闘を起こして朝敵になるわけにはいかないと考えた徳川慶喜は、松平容保を引き連れて二条城から大阪城へ移ります。

慶喜に戦う意図はありませんでしたが、憤慨した会津藩士達を止める術はなく、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発し、旧幕府軍は「朝敵」になってしまいました。

徳川慶喜は、松平容保を家臣達から引き離して事態を収拾すべく、容保に命じて開陽丸に乗り込み江戸へ下りました。

家臣を見捨てる形となってしまった容保は責任を取って会津藩主を辞任、養子の喜徳に家督を譲りました。
第十代会津藩主・松平喜徳。徳川慶喜の弟
江戸で謹慎していた徳川慶喜や会津藩、桑名藩を「朝敵」と定めて追討命令が下ると、新政府軍に対して抗戦を訴える松平容保は慶喜から江戸城登城の禁止と、江戸追放を言い渡されてしまいます。

今や松平容保は、政権を握る長州藩からは恨まれ、朝廷からは敵視され、幕府からも疎まれる存在になってしまったのです。

傷心の中、やっと故郷・会津に帰る事ができた容保は謹慎し、朝廷に対し恭順の姿勢を見せて処分を待ちました。

しかしその一方では、プロイセンなどを頼って武器を購入し、武装防衛の準備も進めます。
会津藩からしてみれば、幕府も朝廷も薩長中心の新政府も皆敵という状況の中で、あらゆる可能性を模索していたのではないでしょうか。

しかしこのような「武装恭順」の姿勢は評価されず、仙台藩、米沢藩、庄内藩などを通じて出された降伏嘆願書は奥羽鎮撫総督の参謀「世良修蔵」に悉く踏みにじられました。
世良修蔵
その横暴な態度に激昂した仙台藩士は世良を処刑し、新政府軍と東北諸藩との戦争は避けられないものになってしまいます。

江戸薩摩藩邸焼き討ち事件に関わった庄内藩も、会津藩と同様に新政府軍の討伐対象とされていたため、会津藩と庄内藩は「会庄同盟」を結びます。

この同盟を起点として、世良修蔵を斬ってしまった仙台藩、保科正之時代の会津藩に返しきれない恩義を持つ米沢藩、中立姿勢が認められず新政府との交渉が結れるした長岡藩などが集まり、計31藩による「奥羽越列藩同盟」が結成されました。
奥羽越列藩同盟旗
松平容保に使えていた家老に「西郷頼母(さいごう たのも)」という人物がいました。

彼は、政局の争いに巻き込まれて大変な目にあうからと、最後まで会津藩が京都守護職に就く事を反対し続け、家老職を解任させられていましたが、戊辰戦争の勃発と共に呼び戻されて復帰しました。
西郷頼母
西郷頼母は、主君である松平容保と同様、新政府に対して恭順の姿勢をとっていましたが、新政府が遣わした奥羽鎮撫総督の世良修蔵が「松平容保の斬首」を要求してきた事により、態度を一変させ、白河口の総督として出兵する事になります。

白河口は、「東北の入り口」であり、交通の要衝でした。

会津藩と新撰組は、新政府のものになっていた白河小峰城へ侵攻し、占領します。
消失した白河小峰城
白河小峰城











しかしその10日後に白河小峰城は新政府軍に奪回され、その後も城を巡っての攻防戦は3ヶ月間に渡って繰り広げられました。

白河口で粘る会津藩兵を尻目に新政府軍は北上を開始、二本松藩の居城、二本松城を攻めます。
二本松藩には、有事の際には年齢を2歳加算できるという独自の制度があったため、最少年齢が「12歳」と言う少年兵部隊ができてしまいました。

これは藩の上層部が勝手に決めた事ではなく、白河口の戦いに兵力を割かれている現状を案じた少年達が出陣の嘆願を繰り返した結果です。

後に「二本松少年隊」と呼ばれる事になるこの少年達は、大人達に混じって勇敢に戦いました。

13歳の岡山篤次郎は、出陣の前に、母親に頼んで身につけている物全てに名前を描いてもらいました。

母が理由を尋ねると、
「私の屍だとすぐにわかりますから」
と答えたそうです。
岡山篤次郎の墓
二本松領を占領した新政府軍の次の目標は「会津藩」でした。

会津藩では鳥羽・伏見の戦い以降、年齢別に部隊を構成する組織づくりを進めていました。

18歳から35歳までの「朱雀隊」
36歳から49歳までの「青龍隊」
50歳以上の「玄武隊」
そして16歳、17歳の「白虎隊」です。

会津藩は国境付近に主力軍を送り出していましたが、新政府軍の北上を止める事はできず、いよいよ会津松平家の居城、若松城にまで新政府軍が迫って来ていました。

白河口から若松城へ帰ってきた西郷頼母が再び恭順する事を進めますが、もはや耳を貸すものは誰もいませんでした。

会津城下を守るべく、予備兵力だったはずの白虎隊も出陣しますがあえなく敗走し、生き残った7人は、敵に捕まり生き恥を晒すよりは、死んで武士の本分を示そうと自刃しました。
(喉を突いた飯沼貞吉のみが生存)
飯沼貞吉
迫り来る新政府軍に対し、会津藩は籠城戦の構えを取り、最後まで戦おうとします。

武家屋敷では、籠城戦の足手まといにならないようにと、婦女子は城に入らず自決を選びました。

その数、西郷頼母の家族・親戚21名を筆頭に、200名以上と言われています。
西郷頼母の妻の辞世の句が刻まれた「なよたけの碑」
会津若松城での籠城戦では、老若男女5000人が一丸となって戦い、一ヶ月もの間持ちこたえました。

しかしその頃、列藩同盟の東北諸藩はほとんどが降伏しており、頼りにしていた米沢藩が降伏した事によって、松平容保は降伏を決意します。
会津若松城(鶴ヶ城)
松平容保は養子の松平喜徳とともに東京の久留米藩邸へ送られ、処分を待ちました。

会津藩家老「萱野長修(かやの ながはる)」は「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」とその責任を一身に背負って処刑されました。

容保は死罪を免れ、会津藩の領土は明治政府の直轄となります。

会津藩士やその家族17000人は青森県下北半島の「斗南藩」へ移住することになりました。
斗南藩
極寒の地で、農業の専門家でも苦労する程なのに、農業はおろか他の職業の経験もない会津藩士達にとって、ここは「格子なき牢獄」と呼ぶにふさわしい場所であり、多くの者が餓死したと言います。

老若男女が一丸となって戦った会津藩ですが、それはあくまでも「武士」だけの話であって、会津藩の農民達の反応は至って冷たいものでした。

会津藩では、ただでさえ苦しい財政の中、京都守護職を引き受けた事でさらに重い税を課さなければならず、さらに戦争が始まるという事で厳しい徴発を受けていたのです。

農民達は、会津若松城が落城すると、一斉に蜂起し、各地で一揆が起こりました。
会津世直し一揆
さて、この戦争には、後世に禍根を残す厄介な出来事が起こっており、今尚、会津と長州の関係を悪くしています。

「遺体埋葬論争」です。

新政府軍が、亡くなった会津藩士達の埋葬を許さず、野ざらしにしたという話があるのです。

実際に、会津藩士の遺族の手記には、城下町で腐った家族の死体を探し歩いたという話が多く残されています。

しかし近年、戦争終結の直後から、明治新政府の民政局から埋葬の指示が出されていた事がわかっています。

それでも全てがきちんと埋葬されたというわけではないようで、若松城内には、井戸に投げ込まれただけだったり、埋葬の仕方が甘くて地表に出てしまう遺体もあったようです。

このような劣悪な埋葬の仕方が、現在にも残る禍根の原因になっているのだと考えられます。

これらの遺体は、半年後に改葬される事になりました。
阿弥陀寺に巨大な穴を掘り、1281人の遺体を埋めて土をかぶせると、塚の高さは1、2mにもなったそうです。
石垣の高さまで遺体が積み上がった
松平容保が忠義を尽くしたが為に起こった会津戦争は、明治維新を経てまさにこれから世界の列強国と渡り合って行こうという「新しい日本」に訪れた一つの変化なのではないでしょうか。

なぜ、同じ日本人同士、両者ともに最後まで徹底的に戦い抜かねばならなかったのでしょうか。
会津戦争とは、「『サムライの国』との決別」だったのではないかと考える次第であります。