2020年12月11日金曜日

大東亜戦争28 ソロモン諸島の戦い② ソロモンに散る

 


米軍はガダルカナル島を占拠して以来、1943年2月にはラッセル諸島に進駐し、飛行場を建設するなどして日に日に戦力を増強、ソロモン諸島方面の日本軍基地への空襲を強化していきました。


このような状況の中、日本海軍は「六◯三作戦」と呼ばれる大規模な航空作戦を展開しすることになります。

その内容は、戦闘機をラッセル諸島方面に進出させ、敵機を誘き出して殲滅する「ソ作戦」、
戦闘機と爆撃機の連合部隊によるガダルカナル島に停泊する敵艦船攻撃の「セ作戦」から成るものでした。

1943年6月7日に「第一次ソ作戦」、12日に「第二次ソ作戦」が行われ、一定の戦果を挙げたと判断した日本海軍は、続く「セ作戦」に移る事を決定します。


6月16日に行われたこの「セ号作戦」、後に「ルンガ沖航空戦」と呼ばれる激しい空戦となりました。
零戦70機、艦上爆撃機25機の日本軍と、100機の米軍戦闘機が激突したのです。

この時代の航空戦は敵機の撃墜を目視で確認するしかなく、戦果を過大に見積もってしまう傾向にありました。

華々しい戦果報告とは裏腹に米軍の損失はそう大きくはなく、逆に日本海軍は連日の空戦を通じて零戦30機、艦爆13機を失う大損害を被ってしまいます。

それどころか、この作戦で多くの主力パイロットを失ってしまった日本軍は、今後の任務遂行に大きな支障をきたすほどの航空機不足、練度の低下に悩まされる事になりました。


この頃になると、米軍の戦闘機の性能や編隊戦法の向上によって、大戦初期には空の覇者だった零戦も優位性を失っており、零戦は戦果をあげる事が困難になっていたのです。

さて、日本海軍航空部隊を退けてガダルカナルの防衛に成功した米軍は、日本軍のラバウル航空基地への反攻作戦の第一手として、ニュージョージア島侵攻という大規模作戦に打って出ます。

6月はじめから中旬にかけて行われた「六◯三作戦」において、既に日本軍は多くの戦闘機を失っていたため7月4日にはニュージョージア島の日本軍を駆逐できる、というのが米軍の目論見でした。

米軍は、ニュージョージア島攻略を支援するため、まずレンドバ島を占領し、砲台を築こうとします。

これを阻止するために日本軍も攻撃隊を出して上陸しよう突する米軍へ攻撃を加えますが、対空砲火を受けて返り討ちにあいます。

レンドバ島に上陸した米兵5000名に対し、140名しかいない日本軍守備隊は、敵の上陸を打電したのち、消息を絶ってしまいます。

米軍は27時間で砲台を完成させ、ニュージョージア島のムンダへの砲撃を開始しました。
※写真はムンダから見たレンドバ島


レンドバ島を占領されてしまった日本軍は、その隣の「コロンバンガラ島」の防衛を強化すべきだと考えます。


日本軍は速射砲と兵力を上陸させるため、駆逐艦10隻による輸送を試みますが、7月5日に米軍艦隊と交戦する事になりました。(クラ湾夜戦)

ここ戦いで日本海軍は2隻の駆逐艦を失いますが、米軍の軽巡洋艦一隻を撃沈し、予定の半分である1600名の兵力と90トンの物資の揚陸させる事ができ、「一応」の成功をおさめることができました。


さて、クラ湾夜戦の前日、7月4日に既にニュージョージア島へ上陸していた米軍でしたが、日本軍の夜戦と伏兵線による頑強な抵抗に拒まれて前進できずにいました。

ニュージョージア島のムンダでは激しい戦いが繰り広げられており、7月9日、日本軍はコロンバンガラ島からニュージョージア島へ一部の兵力を輸送します。(7月5日にコロンバンガラ島へ兵力を輸送したのに??)

この輸送は米軍の抵抗を受けずに成功する事になりましたが、当然ながらコロンバンガラ島では兵力が不足します。

そこで今度はラバウルからコロンバンガラ島へと増援が送られる事になりました。

7月12日、軽巡洋艦「神通」を旗艦とする艦隊に守られた駆逐艦輸送船団がアメリカ・ニュージーランドの連合軍と遭遇し、「コロンバンガラ島沖海戦」が勃発します。

艦隊の戦闘を進んでいた「神通」は、他の駆逐艦が雷撃を成功させるための囮となって集中砲撃を受けますが、破壊されて航行不能になっても尚、砲撃を繰り返しました。

米軍は砲撃を続ける神通を撃沈させるために3000発の砲弾を使用したため、他の日本軍駆逐艦は雷撃を成功させる事ができ、米軍駆逐艦1隻撃沈、駆逐艦2隻大破、軽巡洋艦3隻大破の戦果を挙げる事ができました。

日本軍の損害は神通の一隻のみ、輸送作戦は完全に成功する事ができました。

神通は大爆発を起こして真っ二つに折れますが、沈みゆく最後まで砲撃を続け、450名余りが艦と共に海へ沈んでゆきました。

後に、戦史研究家のサミュエル・E・モリソンは「神通こそが太平洋戦争中、最も激しく戦った軍艦である」と賞賛したそうです。




それにしても日本軍の場当たり的で大局観のない輸送計画はただただ損害を増やすのみ。

このような戦い方をしてしまった事を反省する事が、「他国に謝罪する事」よりも「戦争の義を語る事」よりもまず優先されるべきなのです。








2020年12月5日土曜日

大東亜戦争27 ソロモン諸島の戦い① 司令官の死


 1943年1月、ニューギニア島のポートモレスビー攻略を目論んだ「スタンレー作戦」は、ブナ守備隊の壊滅により失敗に終わりました。

続く2月には、ガダルカナル島からの撤退を余儀なくされるなど日本軍の戦局は劣勢に転じており、連合軍の次なる攻撃目標はパプアニューギニアであると予測されました。

日本陸軍は連合国軍の侵攻に備えるため各拠点に兵力を送るべく、護衛の駆逐艦8隻と輸送船8隻で輸送船団を結成し、「第八十一号作戦」を展開しました。

しかし護衛といっても駆逐艦の防空能力は低く、航空戦力も乏しいものでありました。



2月28日にラバウルから出航した輸送船団は3月2日にB-17爆撃機の襲来を受け、輸送船一隻を失います。

さらに3月3日には、爆撃機、戦闘機など連合国軍の大部隊の攻撃を受け、7隻の輸送船を失います。

駆逐艦や小型艇による救助活動は敵機の攻撃によって妨げられ、漂流中の日本兵には容赦なく機銃掃射が加えられ虐殺されました。

結局この「ビスマルク海海戦」において日本軍は輸送船8隻、駆逐艦4隻、戦闘機4機、2500トンの物資と3000名以上の将兵を失う大損害を被り、この戦いは「ダンピール海峡の悲劇」と呼ばれました。


日本軍はこれで船団方式による輸送を諦め、駆逐艦や潜水艦などの細々とした輸送に頼らざるを得なくなりました。

その頃日本軍はソロモン諸島のコロンバンガラ島に飛行場の建設を計画しており、米軍はそれを察知して砲撃を計画していました。



3月5日深夜、コロンバンガラ島への輸送任務についていた日本軍の駆逐艦2隻「村雨」「峯雲」が、コロンバンガラ島を攻撃しようと襲来した米軍艦隊と遭遇し、「ビラ・スタンモーア夜戦」が勃発します。

軽巡洋艦3隻、駆逐艦3隻の米軍艦隊に対して、たった駆逐艦2隻の日本軍は一方的に攻撃を受けて沈没してしまいました。


この敗戦の結果を受けて連合艦隊司令長官の山本五十六は、このままでは現状の戦線を維持することも困難であると考え、航空兵力を集結させて大規模な作戦を展開し、敵に大打撃を与える必要があると考えました。


「い号作戦」は、ポートモレスビーやガダルカナルなどを目標にし、山本司令長官が自ら指揮をとる異例の作戦でしたが、かき集めれるだけ集めた航空機は348機、これは真珠湾攻撃の時に集まった360機にも満たない数でした。

しかもこの時点で、歴戦の勇士である腕利きのパイロットの多くが戦死しており、日本軍はパイロットを育てることが急務であるような状況でした。

い号作戦は、ソロモン方面を「X」ニューギニア方面を「Y」とし、攻撃を二期に分けて行う事になっていました。


4月7日、X攻撃(フロリダ沖海戦)が行われ、日本軍は零戦157機、爆撃機67機でガダルカナル島を襲撃しました。

さらに11日、Y2攻撃では零戦72機、爆撃機21機でニューギニアへ。

続く12日のY攻撃においては零戦131機、爆撃機44機でポートモレスビーを攻撃。

14日にも零戦133機、爆撃機60機でラビ基地へと襲撃しました。

米軍は、日本軍の動きを逐一偵察し、レーダーなどで攻撃を事前に予測し、爆撃機や艦船を退避させて被害を極限にまで抑えました。

その結果、米軍の損害は航空機25機、駆逐艦、貨物船、油槽船などを一隻ずつ失ったのみで、その戦果は61隻の戦闘機を失った日本軍にとって、決して見合うものではありませんでした。

これだけの大規模な作戦でも、日本軍は戦力を削られるだけの結果となってしまったのです。


さて、この「い号作戦」のためにラバウル基地に来ていた山本五十六でしたが、前線航空基地の兵達を労うため、4月18日にパラレ基地に行く予定となっていました。

しかし前線視察計画の電報は、すでに暗号を解読していた米軍に傍受されており、山本長官の視察の経路と時間は米軍に把握されてしまいました。

山本五十六殺害計画は、真珠湾攻撃を立案した山本五十六に対する報復の意味を込めて、「ヴェンジェンス(報復)作戦」と名付けられました。

米軍のP-38戦闘機による襲撃を受けた一式陸上攻撃機2機が墜落、ジャングルに墜落した1番機には山本司令長官が搭乗していました。

米軍は、日本海軍の暗号を解読していることを悟られないように、山本五十六の死をさも偶然のように報道しました。

日本国内では、山本五十六の死は5月21日に公表され、6月5日に国葬が行われました。