2022年5月16日月曜日

大東亜戦争63 戦争の終わらせ方①赤い霧

 



「近衛上奏文」

戦争を始める事よりも戦争を終わらせる事の方が難しい、とはよく言ったものです。

大東亜戦争において、「戦争を終わらせよう」という動きは1942年6月のミッドウェー海戦の後くらいから始まっていました。

開戦前からドイツとの同盟に反対し、親米派として対米開戦回避に動いていた吉田茂は、実現こそしなかったもののミッドウェー海戦での敗北を転機とするため、スイスでの和平工作を行おうとしていたのです。

吉田茂


このような動きは、吉田反戦グループをもじって「ヨハンセングループ」と呼ばれ、軍部や憲兵隊本庁から警戒、監視されるようになります。

1945年、1月、米軍がフィリピンにまで迫りいよいよ日本の敗戦が濃厚になると、昭和天皇は重臣たちに意見を求めました。

軍部を刺激しないように秘密裏に行われた重臣たちと昭和天皇の会談の中で、ヨハンセングループの一員であった近衛文麿は、昭和天皇に戦争終結を訴えるべく「近衛上奏文」を奉呈します。

近衛文麿


近衛上奏文の内容は以下の通りです。

・敗戦は最早必至である事

・敗戦以上に、共産革命を危惧すべきである事

・米英は國體の改造までは望まないであろうという事

・恐慌による困窮で共産主義を受け入れやすい状況が整い、

 軍部内では国家社会主義思想が蔓延している事

・「一億玉砕」などの全体主義は共産主義分子の陰謀である事

・軍内部の共産主義勢力を一掃すべきである事

・自分もそれに引きずられるように支那事変を泥沼化させてしまった事

近衛上奏文の内容は、今にして見てみればなかなか的を得た内容であったと評価できます。

しかし反面、戦争終結に向かうための具体的な対策がなく、ただただ共産革命の脅威を述べたもので、しかも軍内部の粛清を求めてくるその内容に昭和天皇は驚きました。

軍部の改革について近衛文麿と議論を交わした後、飽くまでも現実的な意見として「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか難しいと思う」と発言されたのです。

この「(軍の人事改革については)もう一度戦果をあげてからでないと難しい」という発言には主語がないため一人歩きしてしまい、現代の歴史教育において悪用されています。

東京書籍「現代からの歴史 日本史A」という本の145ページでは「(戦争を終わらせるのは)もう一度戦果を上げてからでないと難しいと思う」と、あたかも昭和天皇が戦争継続の意思を示し、戦争終結を先延ばしにしたのだと捏造されているのです。



「アメリカの思惑」

戦争を終わらせる・・・と言っても、勝った者負けた者、両方が「戦争を終わらせよう」と納得しない限り終戦は実現しません。

よく「日本はミッドウェー海戦で戦争を終わらせるべきだった」という言説を時々目にします。

アメリカとしては、日本と戦争したからには、「徹底的にぶっ潰す気」が満々で、たとえミッドウェー海戦で日本が敗北したからといって、そう易々と終戦を受け入れてくれるはずがありません。

1943年に開かれた「カサブランカ会談」において、ルーズヴェルト大統領は日本に対し「無条件降伏」を要求すると発表しました。

カサブランカ会談


無条件降伏は「講話」「条約」など双方の譲歩によるものではなく、敗戦国に「NO」と言える権利のない恐ろしいものです。

話し合いによる終戦の道を絶ったのは他でもない、アメリカだったのです。

また、同年の「カイロ会談」において、「日本を無条件降伏させるためには本土上陸が必要である」という認識がアメリカをはじめとする連合国の間で共有されました。

カイロ会談

米軍はそれを元に日本上陸作戦を検討し、その骨子が1945年初めに完成します。

「ダウンフォール(奈落の底)作戦」と呼ばれたその内容は、日本を海上封鎖し、薬剤散布によって食糧生産を不可能にすることで飢餓状態に追い込み、さらに原爆を多用するだけでなくサリンなどの化学兵器も投入することなどが盛り込まれており、11月の九州上陸「オリンピック作戦」関東上陸「コロネット作戦」によって成り立っていました。

ダウンフォール作戦

これに対し日本軍は「一億玉砕」を掲げ、本土決戦に備えて陣地を構築、男女構わず根こそぎ徴兵した2500万人を本土決戦に投入する予定でした。

この時の名残で今でも九州南部などには、地下壕が多く存在しています。

もはや日本の敗戦は必至、それでも竹槍で戦おうとしていた当時の日本人達の気持ちは、ダウンドール作戦の内容を知れば決して馬鹿にできたものではありません。


そしてこの作戦の決行を米軍に尻込みさせていたのは他でもなく前線で戦い続けていた日本軍将兵です。

南洋の島々での米軍の損耗率は想定を超えるものになっており、「小さな島を攻略するのにこれだけの損害が出るのなら、日本本土上陸はどうなってしまうのか」という認識が米軍上層部に芽生えていたのです。

そしてダウンフォール作戦において米軍の死傷者は50万人にも達すると見越し、この数字は国内での厭戦気分を高め、アメリカ国民の非難が日本ではなく米軍に向かうであろう事が予想されました。

米軍は戦闘で負傷した兵士に「パープルハート」という勲章を送りますが、ダウンフォール作戦を見越して作られた50万個の勲章の在庫がようやく底をついたのは2010年の事だそうです。

さて、アメリカが日本本土上陸をせずに勝利を確定するためにはソ連の力が必要でした。

1945年2月、ソ連のスターリン、イギリスのチャーチル、アメリカのルーズヴェルトはソ連領クリミア半島のヤルタで会談を行い、そこでなんとルーズヴェルトはスターリンに「ドイツの降伏から3ヶ月後に、日ソ中立条約を破って対日参戦する」ように要請したのです。

その見返りとして、ルーズヴェルトはソ連に南樺太、千島列島を引き渡し、満州の権益を約束します。

そして4月5日、ソ連は日本に「日ソ中立条約」は延長しないと通達しました。

それでも条約の有効期間はあと一年残っていました。

ヤルタ会談


「日本の和平工作」

吉田茂を中心とした「ヨハンセングループ」が戦争の早期終結を目指していたことは先述した通りですが、政府として戦争終結に動き出したのは、東条内閣が倒れて小磯国昭が総理大臣に就任した1944年7月の事でした。

小磯国昭

絶対国防圏であるサイパンが陥落し日本の敗戦が確定したこの時にできた小磯内閣は、ある意味「戦争を終わらせるための内閣」でした。

しかし小磯国昭は政治状況も戦況も把握しておらず、「日本はこんなにも負けているのか」と口にするほどで、終戦への道筋をたてる事ができずに「一億総玉砕」に備えるしかありませんでした。

小磯内閣は蒋介石率いる支那国民党との単独講和を行い、連合国全体との講和へと発展させる事を目論みましたが、交渉は難航、親日派の汪兆銘の死などによって完全に頓挫してしまいます。

そこへ、支那南京政府か繆 斌(みょうひん)という政治家がやってきて、日本と国民党との仲介役を申し出ます。

繆 斌

小磯首相はこの話に飛びつきますが、繆 斌は蒋介石からの親書も持ってきておらず、非正規ルートで信用できない話だと周囲からは猛反対を受けました。

それでも繆 斌工作に執着する小磯首相は昭和天皇からの信用を失ってしまい、小磯内閣は解散する事になってしまいます。

足並みがそろわず「無能」と評価されてしまう小磯内閣でしたが、外務大臣、陸軍、海軍はそれぞれ非公式で和平交渉の道を手繰り寄せていました。

1945年3月、駐日スウェーデン公使ウィダー・バッゲは極秘で日本政府に和平交渉の仲介を打診します。

外務大臣の重光葵はこの確かなルートを頼りに「バッゲ工作」を推し進めました。

バッゲは「永き歴史を有する立派な日本を破滅に陥れるには忍びない」と重光に語っています。

重光葵

陸軍のスウェーデン駐在武官の小野寺信少将はヤルタ密約の情報を入手し、ソ連が日本へ侵攻してくる事をいち早く察知していた人物ですが、陸軍中枢はその報告を信じずに握りつぶしました。

ソ連の侵攻を警戒した小野寺はスウェーデン王室を通じて和平工作を模索します。


共産主義革命によって封建制度が打破され、ロシアやドイツの王室が次々と失われていく時代に、2000年以上もの歴史を誇る日本の皇室の存在に興味を示していたのです。

「日本は、皇室の存続さえ保障されれば降伏する」という情報は、スウェーデン国王を通じてトルーマンへ伝えられ、小野寺少将の工作はスウェーデン国王と面会する約束をとりつけるまでに進んでいました。

さらには海軍内部でも、藤村義朗中佐と、アメリカ戦略情報局スイス支局長アレン・ウェルシュ・ダレスによる「ダレス工作」が密かに進められていました。

アレン・ウェルシュ・ダレス


しかし、「バッゲ工作」「小野寺工作」「ダレス工作」は、小磯内閣が倒れて新たに発足した鈴木貫太郎内閣において外務大臣に就任した東郷茂徳によって全て中止されてしまいます。

東郷茂徳は、「スウェーデンなどの小国による和平交渉は無力であり、無条件降伏につながる恐れがある」と考え、ソ連に和平交渉の仲介を依頼したのです。

東郷茂徳

1945年6月22日、天皇臨席の最高戦争指導会議において、「対ソ和平交渉」が国策として決定されました。

しかしソ連は回答を先送りにして時間を稼ぎます。

日本政府は1ヶ月という無駄な時間を過ごし、そして7月26日に「ポツダム宣言」を突きつけられてしまうのでした。

ソ連の対日参戦を察知していたにも関わらず、それでも日本政府がソ連に希望を抱いてしまった理由は、軍部・政府中枢に共産主義が浸透し、ソ連と気脈の通じる人物がいたからに他なりません。

鈴木貫太郎首相の秘書官、松谷誠が作成した「戦後処理案」には、日本が共産化しても皇室は維持できるため、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだと書かれており、また、参謀本部班長の種村佐孝大佐は、対ソ交渉に関する意見書に「ソ連の言いなりになる覚悟で交渉にあたるべし」と書き綴っていました。



この種村は戦後、シベリアの捕虜収容所で共産主義革命のスパイとして訓練を受け、日本共産党に入党しています。

松谷誠

日本の中枢に潜り込んでいた共産主義者達の行動は、原爆投下、ソ連侵攻など、日本にとっての大惨劇を招いてしまうのでした。