2020年7月3日金曜日

大東亜戦争26 アリューシャンの戦い② 霧の中

1942年、日本軍はミッドウェー作戦の一環としてアリューシャン諸島のアッツ島とキスカ島を占領していましたが、これに対し米軍は空襲と潜水艦による攻撃を繰り返し、日本軍はしばしば損害を被っていました。

1943年に入ると、キスカ島南東のアムチトカ島に空港が建設され、米軍からの空襲は激しさを増していました。
1943年3月、日本軍は第五艦隊の護衛による輸送船団による輸送作戦を決行します。

3月27日、アッツ島を目指す日本軍の輸送艦隊と、米軍の水上部隊が遭遇し、アッツ島沖海戦が勃発しました。

戦力的には優位だった日本海軍ですが、遠距離での激しい砲撃戦になったため命中弾も少なく、戦闘自体は引き分けに終わりました。

しかし重巡洋艦「那智」「摩耶」ともに弾薬をほぼ使い果たしてしまい、アッツ島への輸送作戦は中止せざるを得ませんでした。
アッツ島は、一年の大半が霧に覆われ、海は時化っている過酷な環境でした。
米軍は、一年で最も霧の多い5月にアッツ島上陸作戦を計画します。

全島の制圧には3日あれば十分、という目論見のもと、5月12日、米軍は11000名の兵力をアッツ島へ上陸させました。
上陸した米兵

迎え撃つ日本軍の守備隊はわずか2650名です。
アッツ島の日本兵

戦闘初日は濃い霧に阻まれ、散発的な戦闘が行われただけに終わりましたが、翌日、米軍は霧に紛れて「芝台」と呼ばれる高台にある日本軍陣地を包囲し、激しい攻撃を加えました。

日本軍は機関銃で抵抗しましたが、この反撃によって陣地の場所が特定されてしまいます。

米軍の激しい爆撃、砲撃を浴びることになってしまい、大きな損害を出したため芝台陣地は放棄されることになりました。

日本軍は「舌形台」と呼ばれる陣地に拠点を移し、米軍と激しい戦闘を繰り広げます。

島の南部では米軍のさらなる部隊が上陸し、戦艦からの艦砲射撃も行われました。

島の低地の霧は晴れるも、日本軍陣地の高台は未だ不気味に霧に包まれていました。

艦砲射撃が行われる度に、日本軍兵士のちぎれた手足が高台から転がってきたといいます。

しかしそれでも日本軍は強く、陣地に攻撃を仕掛けた米軍の一個大隊は激しい砲撃によって海岸まで退避せざるを得ない状態に陥りました。
大きな損害を出した米軍はこの谷を「殺戮の谷」と呼びました。

日本軍は頑強に粘り強く戦いましたが、徐々に、確実に劣勢に立たされていき、大本営はアッツ島の救援、奪回を諦め、「放棄」を決定します。

5月29日、生き残った日本軍守備隊は、傷だらけの体で最後の突撃を行いました。

100m先も見えない霧の中、撃たれても立ち上がり、弾薬は尽き果てて銃剣による突撃であったにも関わらず、米軍の陣地を次々と突破して行き大混乱に陥れました。

日本軍の突撃は米軍第7師団本部に迫る勢いでしたが、猛反撃を受けて最後の一人が死ぬまで戦い続け、全滅しました。
全滅した日本軍

「山崎保代」司令官は、右手に軍刀、左手に国旗を持ち、兵達の先頭に立って突撃し、戦死したと言われています。

このアッツ島の戦いにおいて、日本軍の戦死者は2638名、生き残ったのはわずか1%
のみ、これが日本軍にとって「最初の玉砕」となりました。

戦闘後に発見された辰口信夫軍曹の日記は、英訳されて戦後に出版され、貴重な資料として話題となりました。

「私の愛し、そしてまた最後まで私を愛してくれた妻・耐子よ、さようなら。どうかまた会う日まで幸福に暮らしてください。ミサコ様、やっと4歳になったばかりだが、すくすくと育ってくれ。ムツコ様。あなたは今年二月に生まれたばかりなので父の顔も知らないので気の毒です。」
藤田嗣治「アッツ島玉砕」

日本軍は、アメリカ本土に近いキスカ島に米軍が上陸すると考えていたため、キスカ島に重点的に戦力を配備させていました。

しかし米軍が上陸したのはアッツ島だった為、キスカ島の守備隊は孤立してしまい、「キスカ島撤退作戦(ケ号作戦)」が実行されることになります。

5月下旬に行われた第一次撤退作戦は、ソロモン方面で駆逐艦を多く失っていた海軍が渋った為に、水上艦艇ではなく潜水艦が用いられました。

しかし米軍の警戒は厳しく、成果をあげられないまま15隻の潜水艦のうち3隻を失い、6月下旬に潜水艦による撤退作戦は打ち切られ、改めて水上艦艇によって行われることになったのです。

撤退にあたり、米軍との戦闘は可能な限り避けたいものです。

そこで、視界0にも近い濃霧の中での撤退作戦が計画され、レーダーを搭載した新鋭高速駆逐艦「島風」が任務に当たることになりました。
駆逐艦「島風」

しかし、第二次撤退作戦は7月の中旬に数回行われますが、いずれも霧が晴れてしまい中止となってしまいます。

そしてついに7月29日、気候班が出した「濃霧の可能性・大」の報告を元にキスカ湾への突入が実行され、待ち構えていた守備隊5200名をわずか55分で収容しました。
この時、キスカ湾内は奇跡的に霧が晴れていたのです。

艦隊は直ちに全速力で脱出、途中で米軍の潜水艦と遭遇するも、日本軍の艦隊は偽装工作を行っていたため、潜水艦からは米軍の艦隊だと認識されて素通りし、事なきをえました。

8月1日には全艦が帰投し、無傷で撤退作戦は完了しました。

日本軍の撤退に気づかない米軍は、8月15日に34000名の大兵力をキスカ島へ上陸させます。

しかし米兵たちの見たものは、遺棄されたわずかな武器と、数匹の犬でした。

日本の軍医はいたずらで「ペスト患者収容所」と書いた立て札を立てておいたため、上陸部隊はパニックに陥り、大量のワクチンを発注したと言われています。
上陸した米兵が見たものは、墜落死した米兵のために、日本兵達が作ったお墓だった

こうしてキスカ島撤退作戦は数々の幸運が重なって成功し「奇跡の作戦」と呼ばれました。

しかし、アッツ島の守備隊たちが、米軍の目論見どおり「3日」で壊滅していれば、キスカ島守備隊の命はなかったでしょう。

米兵たちは、18日間も戦い抜いたアッツ島守備隊を恐れ、キスカ島上陸にも慎重にならざるを得なかったのです。

奇跡を起こしたのは、アッツ島守備隊で玉砕した英霊達のおかげでもあると考えざるを得ません。