2019年10月29日火曜日

大東亜戦争10 蘭印作戦③ バラタユダ


インドネシアの影絵芝居「ワヤン・クリ」
「クディリ王国」は、西暦929年から1222年まで約300年間、ジャワ島東部を中心に繁栄していたヒンドゥー教国家です。

12世紀の初めに王国の最盛期を築いた「ジョヨボヨ王」は、宮廷詩人に命じて古代インドの民族叙事詩でありヒンドゥー教の聖典である「マハーバーラタ」をジャワ風に仕立て直させました。
マハーバーラタは、日本で言うなら「古事記」みたいなものでしょうか?

こうして完成した「バラタユダ」は、国家統一のために同族争いをして大量の犠牲を出した事に対する、ジョヨボヨ王の懺悔の書でした。
king-jayabaya(ジョヨボヨ、又はジャヤバヤ)

しかし不可思議な事に、バラタユダは単なる文学ではなく、その内容にはジョヨボヨ王の予言が含まれていました。

電線、電話、飛行機、電車などを暗示する言葉が書かれ、中には民族の行く末を指し示す重大な内容もあったのです。

「我が王国は、どこからか訪れる白い人々に何百年も支配されるだろう。
彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。
しかしやがて、北方から白い衣を身につけた黄色い人々が攻めてきて、白い人々を追い出してくれる。
黄色い人々は我が王国を支配するが、トウモロコシの花が咲く前に去っていく。
その後に救世主ラトゥ・アディルが降臨する」

この予言にはいくつものパターンがあり、白い人々を「水牛」黄色い人々を「猿」として表現しているものもあります。

クディリ王国が滅びた後、インドネシアにはイスラム教が広がっていく事になるのですが、「メシア思想」を持つイスラム教にとってこの予言は受け入れやすく、民衆の間に広がって行きました。

やがてその予言通り、ジャワ島は白い人々(白人)に支配されてオランダ領となったわけですが、スラカルタ王家に仕える宮廷詩人「ロンゴワルシト」によって、バラタユダは影絵による歴史劇「ワヤン・マディオ」として公開され、人々に伝承されて行きました。
1932年に出版された本 ジョヨボヨ王の予言が書かれている

1942年2月14日、スマトラ島の「パレンバン」に日本陸軍の落下傘部隊が降下し、オランダ軍の飛行場を占領する様を見た現地住民たちは、予言通りに「白い衣を纏った黄色い猿がやってきた」と歓喜したと言われています。
空の神兵


パレンバンの石油施設の鹵獲に成功した日本軍はスマトラ島を制圧し、蘭印作戦最後の目標であるジャワ島へと侵攻して行きます。

ジャワへ向かうべく、2月18日にベトナムのカムラン湾を出港した日本軍の主力軍を迎え撃つためにABDA艦隊も出撃し、「スラバヤ沖海戦」が起こりました。

2月27日から3月1日にかけて激しい海戦が繰り広げられますが、統率に欠けるABDA艦隊は大惨敗を喫しました。

ABDAは重巡洋艦1隻・軽巡洋艦2隻・駆逐艦9隻を失ったのに対し、日本軍の損害は駆逐艦一隻が大破したのみでした。

この戦いで特筆すべきは、「日本軍による敵兵の救助活動」です。

海戦が終わった翌日の3月2日、駆逐艦「雷」の艦長「工藤俊作」は、撃沈されたイギリスの重巡洋艦「エンカウンター」の乗組員たちが海面に漂流しているのを発見します。
工藤俊作中佐
駆逐艦「雷」

その数はおよそ400名、雷の乗組員の数より多い人数であり、捕虜とはいえそれだけの敵兵を艦内に入れるのは危険な事でした。

さらに救助活動中に潜水艦に狙われる可能性もあったのですが、工藤艦長の「おい助けてやれよ」の一言で救助が行われることになりました。

3時間にも渡る救助活動によって422名ものイギリス兵が救助され、オランダ海軍の病院船に引き渡されました。

日本海軍が敵に対して救助活動を行うのは珍しい事ではなく、このスラバヤ沖海戦のみにおいても、重巡「羽黒」が20名、「江風」が37名、「山風」が67名の敵兵をを救助しています。

工藤艦長は「当たり前の事」をしただけだと思っていたので、内地に帰還した後もこの劇的な救助劇を誰にも話さなかったので、親族すら知らなかったといいます。

そんな工藤俊作の今際の言葉は「俺は独活の大木だったよ」だったそうです。
工藤艦長に命を救われたイギリス海軍士官「サムエル・フォール」

さて、スラバヤ沖海戦の大勢も決していた3月1日、日本軍はいよいよジャワ島へと上陸します。

首都バタビア、ボイテンゾルグなどを次々に占領しながら進軍し、ジャワ島最大の軍事拠点「バンドン要塞」に到達しました。

日本軍が多大な犠牲を出したあの「旅順要塞」の6倍の広さを持ち、35000名の守備兵力を誇るバンドン要塞を前にして、日本軍の兵力はわずか4000しかありませんでした。
バンドンの地下壕

そこで、日本軍は700名の挺身隊を結成し、要塞の一角を奪取し、そこを防御陣地にしてしまおうという捨て身の作戦を決行します。

若松満則少佐が率いる「若松挺身隊」は、全員討ち死にする覚悟で何度も何度も突撃を繰り返し、要塞の重要拠点を占拠することに成功しました。

この鬼のような勢いに怖気付いたのはオランダ軍です。

「あんなに少人数で突撃してくるはずがない。おそらく、背後に強力な大部隊が控えているのではないか」
と勘違いしたオランダ軍はすぐさま降伏しました。

日本軍司令官「今村均」は、8000名のオランダ人捕虜にピストルの携帯を許しました。
今村均

捕虜が武器を持つなど異例のことなのですが、インドネシア人が襲撃してくる事を恐れたオランダ人が願い出たのでした。

彼らがインドネシアに強いてきた支配は、それほどまでに過酷なものだったのでしょう。

こうして蘭印作戦は成功に終わり、日本軍は天然資源を手に入れるという目的を達する事ができました。

これからインドネシアの資源は、日本の戦いを支えてくれる事になります。

インドネシアでは、フィリピンやシンガポールなどのような抗日活動は少なく、日本軍はインドネシアの独立を支援する事にしました。

日本は、教育を行う事が最も重要だと考え、師範学校を設立し、教師を育成しました。
マカッサル師範学校

そしてインドネシアの青年たちに武器の使い方、軍事技術、化学などを教え、軍事訓練を行いました。

インドネシアに持ち込まれた訓練機「赤とんぼ」は、今でも大切に保管されています。
九三式中間練習機
バンザーイ



















2019年10月25日金曜日

大東亜戦争9 蘭印作戦② 皇国の軍隊、ジャングルをゆく

ジャワの夜明け


1942年、1月11日にタラカン島を制圧した日本軍の次なる目標は、ボルネオ島の「バリクパパン」でした。

バリクパパンには製油工場があり、この油田地域をなんとか破壊せずに攻略できないものかと、日本軍参謀は秘密裏でオランダ軍との交渉を行いましたが、オランダ側は降伏勧告を受け入れませんでした。
バリクパパンの製油工場

1月21日、バリクパパンを目指して日本軍の輸送船団がタラカンを出発します。

この動きを察知していたのは、連合軍ABDA艦隊です。

ABDAとは「America」「 British」「 Dutch」「Australia」の米英蘭豪艦隊の事で、連合軍がオランド領東インドを日本から守るために結成されたものです。
オランダ軍潜水艦「Kー18」

1月24日未明、日本軍の輸送船団はオランダ海軍の潜水艦の魚雷攻撃や爆撃機による空襲、アメリカの駆逐艦の砲撃などによって39名の戦死者をだし、輸送船を5隻喪失する大損害を被りました。

しかし戦局に大きな影響を与える事はなく、日本軍はバリクパパンへ部隊を揚陸させることに成功、坂口支隊はバリクパパンを占領します。

油田はすでに破壊されていましたが、復旧作業によって完全に復活し、戦中の日本を大きく支えてくれることになります。

オランダ軍は、他にもバリクパパンの水道や電気設備などを破壊する「焦土作戦」を行い、日本軍が使用できないようにしていました。

現地住民を追い出して住宅までも破壊する徹底ぶりだったため、日本軍がバリクパパンに到着した時、現地住民たちは皆、飢餓状態でフラフラだったといいます。

日本兵たちが食料を与えると、手を合わせて涙を流しながら抱きついてきたそうです。

敵と戦闘中にも、住民たちはぞろぞろと日本軍のそばにやってくるので、流石に危ないと思った日本兵が「危ない、弾が飛んでくるぞ」と身振り手振りで伝えても、「日本軍は勝つから、後ろにいれば安全だ」と言ってついてくるのでした。

オランダによる非人道的な植民地支配がいかにひどかったのかを感じさせるエピソードです。

さて、いよいよボルネオ島攻略の大詰めに入った日本軍が目指す次なる目標はボルネオ島南端の「バンジェルマシン」でした。

しかし坂口支隊はバリクパパン沖海戦にて輸送船を喪失してしまった為、海路での進軍は困難でした。

そのため、主力部隊は陸路でバンジェルマシンを目指す事を余儀なくされたのですが、400キロあるその道中のうち、100キロはジャングルという悪路でした。
400kmというと、東京から京都?

1月30日にバリクパパンを出発した坂口支隊は、753もの架橋を作りながら、マラリアで9名の戦病死者を出しながらも2月10日に先頭部隊がバンジェルマシンに到達し、あっという間に占領してしまいました。
バンジェルマシンに進駐する日本軍


このような急襲作戦を可能にしたのは、坂口静夫兵団長によって行われた、パラオでの演習でした。

大東亜戦争海戦直前、パラオに駐留した坂口兵団の各隊に、兵団長から
「各隊はジャングル突破の演習をし、平地と変わらないように進めるようにすべし」
とのお達しがあったのです。
ボルネオ島のジャングル

各隊は毎日、朝から晩までジャングル突破の訓練を行いました。

どうしても木に触れてしまうために、「漆かぶれ」によって兵士たちの顔や体はパンパンに腫れ上がってしまいます。

それでも身体中を包帯でぐるぐる巻きにした兵士達を前に、坂口兵団長は「血を流すくらいなら汗を流せ」と厳しく訓示し、皆それに応えるかのように演習を続けるのでした。

やがてジャングル突破もすっかり慣れてしまい、まるで平地であるかのように進むことができるようになりました。

この訓練の成果は「ジャングルを走破しての奇襲攻撃が多くなるだろう」という坂口兵団長の読み通り、蘭印作戦の大成功に大きく貢献する事になったのです。

しかし、過酷な訓練を強いた兵団長の心中は苦しかったようで、兵舎で眠りにつく兵士達の顔を、窓の外からじっと見ている兵団長の姿を、パラオの人によって目撃されています。
坂口静夫少将

日本軍はその後、「アンボイナ事件」で有名なアンボン島や、現在ではリゾート地として名高いバリ島、蘭印とオーストリアを結ぶ要衝ティモール島などを占領していきます。

次回は、蘭印作戦の本丸とも言える「スマトラ島」「ジャワ島」の戦いについて書きたいと思います。




2019年10月22日火曜日

大東亜戦争8 蘭印作戦① 最後の咆哮

タラカン島でペットの猿と戯れる日本軍パイロット(1942年)




1941年の8月から、日本には石油が一滴も入って来なくなっている状況の中、開戦当初の日本の最大の目標は「蘭印の石油資源を手に入れる事」でした。

「蘭印」とは、「オランダ領東インド」の事で、今でいう「インドネシア」です。

とはいえ、大小様々な島に民族も宗教も違う人々が暮らしていたわけであり、1つの「国家」としてまとまっていたわけではありませんでした。
島によって宗教が違う

皮肉にもインドネシアという「国」が形作られたのは、17世紀にオランダが、島々を一括りに「植民地」として支配した事がきっかけでした。


オランダによる支配は、現地住民にとって非常に過酷なものとなりました。

耕地面積の20%は、オランダ向けの「お茶」や「コーヒー」を強制的に栽培させられるようになり、食料の自給体制は崩壊し餓死者が続出して人口も激減します。

さらにオランダ人男性は、インドネシアの女性と積極的に子供を作り、その混血児や華僑に統治を任せました。

イスラム教が多かったインドネシアにキリスト教を持ち込み、改宗した者を優遇するなどして、宗教的な対立をも起こさせました。

当然ながら、教育を施すこともしなかった為、読み書きができず宗教も部族も違うインドネシアの先住民達が団結する事はありませんでした。

300年にも渡るオランダの支配によって、先住民達は「抵抗する力」を奪われてしまったのです。

オランダに対する最後の抵抗「ジャワ戦争」
しかしこのような「愚民化政策」は20世紀の初頭には限界を迎えていました。

オランダ領東インドの住民達の生活水準は極度に悪化し、植民地で生産されるオランダ製品の品質をも劣化させる恐れがあり、オランダ資本にとっても好ましくない状況となっていたのです。

そのため、現地住民に初等教育を受ける機会を与えた「倫理政策」が行われる事になります。

とりわけ、オランダ側に近しい一部のエリート層の現地住民のみ、東インドに設立された大学で専門的な教育を受ける事もできました。

そしてそのような高等教育を受けた者の中から、「独立」を志す者が現れ、団結していくようになりました。

彼らの運動が礎となって、オランダ領東インドの住民達に「インドネシア」という1つの「国家」の概念が出来上がっていったのです。

1920年創立のバンドン工科大学は、インドネシア初代大統領のスカルノを輩出しました。

インドネシアを取り巻く世界情勢は大きく動いたのは1940年です。

第二次世界大戦の勃発によってオランダはドイツに奇襲を受け、オランダはあっという間に敗北したのです。

オランダ本国はドイツに占領されましたが、オランダ王族と政府はイギリスに亡命し、引き続き蘭印を統治することになりました。

日本軍としては、そのような不安定な政情につけ込んで、可能ならば蘭印に無血進駐したいところでありました。

下手に蘭印への侵攻に手間取れば、石油施設を破壊されてしまう恐れがあるからです。

しかし地理的に考えても、どうしても蘭印への侵攻はマレー作戦やフィリピン作戦の後になってしまうため、「奇襲」は非常に難しい話でした。

大東亜戦争開戦と同時に開始された「フィリピン作戦」において、北部のレイテ島を攻略するのに時間がかかってしまってしまった日本軍ですが、南部のミンダナオ島の攻略は迅速に進める必要がありました。

フィリピン南部は位置的にも蘭印に近いため、攻略拠点として重要である事に加え、ダバオに住む二万人の日本人居留民を保護する必要があったのです。

蘭印攻略を担当する第16軍司令官「今村均(いまむら ひとし)」のもと、猛将・坂口静夫少将が率いる「坂口支隊」と第14軍から引き抜かれた「三浦支隊」が共同でミンダナオ島の「ダバオ」を攻略する事になりました。
今村均中将
坂口静夫少将

12月20日、坂口・三浦両支隊はミンダナオ島に上陸、翌日にはダバオを占領し、監禁されていた日本人居留民を救出する事に成功しました。

当時、フィリピンは宗主国アメリカの主導により独立準備が進められており、フィリピンの現地住民達にとって日本は明確に「敵国」でした。

12月8日に日米が本格的に開戦してからは、ダバオに住む日本人居留民はフィリピン人の民兵によって監禁され、男は陣地構築のための労働力に使われ、年寄りは炊事をさせられ、女性は慰み物にされていたのです。

毎夜毎夜、若い日本人女性がフィリピン軍民兵に連れていかれ、一人一人暴行されていきました。

中には自ら命を絶った既婚者もおり、その夫は怒りに任せてフィリピン軍の兵舎に乗り込み、射殺されたと言います。

日本人が住んでいた家屋の95%は、現地住民による略奪や打ち壊しにあい、その惨状を見聞きした日本軍兵士は涙を隠す事ができなかったそうです。

解放された日本人達は、軍の指導のもとで居留民団を結成しました。

そして治安維持の為に自警団が組まれたのですが、軍より銃が支給されていたため、しばしば抗日組織や、かつて日本人に暴行・掠奪を働いた現地住民との間に衝突が起きてしまい、時には過度な掃討戦が行われました。

復讐心のあまりか、強姦・強盗などを働く「不良日本人」が多数出たため、軍部は「皇国の威信を汚すことの内容に、現地住民に寛容に接するように」との要望を新聞に載せています。
戦前のダバオの日本人小学校

1942年1月11日、坂口支隊はボルネオ島北部に位置するタラカン島へ攻撃を仕掛け、オランダとの戦闘が始まりました。

タラカン島は1400名の蘭印軍が守備していましたが、上陸する日本軍を止める事はできず、13日に降伏します。

しかし、日本軍の軍艦に狙いを定めていたカロンガン砲台には降伏の知らせが届いておらず、油断していた日本軍の掃海艇2隻が砲撃を受けてしまいました。

沈み行く掃海艇の中で、乗組員たちは仁王立ちになって最後まで戦いました。

砲座まで沈んだ状態で、果たして一体どうやって発射させる事ができたのか、最後の咆哮をあげるかのように、掃海艇の砲塔がドカンと火を噴いたのです。

「壮絶な大和魂である」と、日本兵は皆、涙を流しながら掃海艇の最期を見送りました。
掃海艇の砲塔を利用して作られた慰霊塔 ※おそらく現在は無くなっています
沈没したのは13号・14号型掃海艇

坂口支隊がタラカン島を急襲したのと同日、セレベス島北部のメナドの空は、白い大輪の花に埋め尽くされていました。

その花の正体は、帝国海軍空挺部隊のパラシュートでした。

334名の落下傘兵がランゴアン飛行場へと降り立ち、ほとんど損害もなく占領する事に成功したのです。

この「メナド降下作戦」は、日本で初めての空挺作戦となりましたが、一ヶ月後に陸軍が行う予定だったパレンバン空挺作戦の秘匿性を守る事が優先され、大々的に発表されることはありませんでした。

また、この作戦を遂行する途中、落下傘兵を乗せた九六式陸上輸送機が友軍機から誤射されてしまい、搭乗していた12名が死亡する悲惨な事件も起こりました。

何はともあれ、ダバオを拠点にメナド・タラカンへ攻め入った日本軍は、いよいよインドネシアに侵攻を開始します。

着実に近づいてくる「地獄」の存在を忘れさせてくれるかのような蘭印作戦の圧勝劇は、後にこう語られる事になります。

「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」










2019年10月18日金曜日

大東亜戦争7 グアムの戦い(海底ケーブル争奪戦?)



グアムは、ウェーク島とフィリピンの中間地点であり、日本の委任統治領であるパラオやマリアナ諸島に非常に近い場所に位置しています。



そのため、大正12年の「帝国国防方針」には、「アメリカと戦争になった際にはグアムを攻略する事」が明記されており、日本にとって太平洋における重要拠点とし認識されていました。

1941年11月末、日本海軍は小笠原諸島の母島に集結し、12月8日の開戦と同時にグアム島空襲を行いました。

一方で、開戦とともにアメリカ軍は、当時グアムに住んでいた数十名の日本人を逮捕、監禁してしまいます。

12月10日の午前3時に日本軍5000名が上陸を開始、グアムを守る米兵は700名前後でした。

日本軍の圧倒的な兵力によって戦闘は1日で終結し、グアム島の占領は完了し、監禁されていた日本人も救出されます。

米軍は50名の戦死者と650名の捕虜を出たのに対し、日本軍は1名の戦死者のみという大勝利でした。

ところでこの「グアム作戦」ですが、その目的は戦略的なものだけではなかったようにも思えます。

グアムは、戦争を遂行する上での重要拠点なだけではなく、「海底ケーブル」が敷設されていたのです。

国際通信を可能にした「海底ケーブル」は、資本主義や帝国主義の広がりに伴い普及していました。

世界の4分の1を支配していた大英帝国は、自国の植民地を海底ケーブルで結び、世界を一周する「オール・レッド・ライン」を築き上げます。
オール・レッド・ライン

海底ケーブルは、単なる「電線」だけではなく、絶縁体となる「ゴム」が必要となります。

マレー半島は、「グッタペルカ(ガッタパーチャ)」と呼ばれるゴムの木の産地であり、ここを植民地として所有していた大英帝国はまさに「世界の通信」を掌握していたのだと言えます。
海底ケーブル敷設作業

日本に初めて電線が通ったのは明治2年、1869年のことです。

そこから10年も経たないうちに函館から長崎まで電線が繋がる事になるのですが、このような日本の近代化に伴う「電信利権」は列強国によって貪られる事になります。

銀座周辺の電線

日本に電線が敷設された1869年に開設されたデンマークの「大北電信会社」は、北欧からシベリアを経由して、ウラジヴォストークから香港、上海、長崎などの極東地域までの電信網を完成させ、日本の対外電信の独占権を得ました。

海底ケーブルを敷く為の国力も、技術も、材料も持たなかった当時の日本は、「通信」を外国に依存するしかなかったのです。

その為、日本は様々な問題に直面する事になります。

1つは、「情報戦」です。

大北電信会社はデンマークの企業ですが、実はロシアのロマノフ朝が大株主でした。

その為、日露戦争の講和会議の時、代表団と日本政府とのやり取りは全てロシアに傍受されており、日本の交渉は後手に回ってしまったのです。

そしてもう1つは、海底ケーブルの「巨額の使用料」でした。

日本は回線使用料として、通信費の三分の一を大北電新会社に支払っており、日本政府を悩ませていたのです。

国を守っていくためには、日本にとって「通信自主権」を得ることが、至上の命題だったわけです。
太平洋海底ケーブル

そんな日本にとって、大東亜戦争は大きな転機となりました。

開戦と同時にゴムの産地であるマレー半島に侵攻し、日本は太平洋へと繰り出します。

実は、日本とアメリカの間にも海底ケーブルが繋がっており、そのルートは東京→小笠原→グアム→ミッドウェー→ホノルル→サンフランシスコだったのです。

日本軍の侵攻目標とケーブルの中継点が一致しているのは、果たして単なる偶然でしょうか?

1940年に大北電信会社グアムを占領した後、日本はグアムの海底ケーブルを引き込んで、パラオや、占領地のメナドに引き込んで使用しています。

日本がマレー半島、ハワイ、グアムに攻め込んだのは「海底ケーブルを手に入れるため」という1つの側面もあったようです。

そしてその翌年には大北電信による電信業務を全廃させ、日本は長年の夢であった「通信自主権」を獲得する事に成功したのです。

「情報戦に弱い」と言われる大日本帝国でしたが、日本も必死だった事が窺えます。




2019年10月13日日曜日

大東亜戦争6 ウェーク島の戦い



ウェーク島はハワイとフィリピンの中間地点にあり、アメリカ本土〜ハワイ〜フィリピンのラインを結ぶ重要拠点です。

日本にしてみれば、日本本土と、委任統治領のマーシャル諸島を結ぶ直線上に存在し、米軍基地が駐留するウェーク島は非常に邪魔な存在であり、開戦前から日本軍はウェーク島の攻略作戦を練っていました。

大東亜戦争の開戦間際、アメリカ軍は真珠湾に配備していた空母「エンタープライズ」をウェーク島に送り込み、戦闘機を配備させて日本軍の襲来に備えていました。

アメリカは「日本に開戦の意思がある」という事に、明確に気づいていたのです。
空母エンタープライズ
1941年12月8日、開戦と同時に日本軍のウェーク島攻略が開始され、九六式陸上攻撃機34機による爆撃が行われました。
九六式陸上攻撃機

この爆撃は高度450mで行われていたため、高度3600mを飛行して警戒に当たっていた4機のF4F戦闘機には全く気づかれませんでした。

この爆撃によって、ウェーク島の飛行場は大きな損害を被り、地上の8機のF4Fは大破させ、米兵23名が戦死しました。
F4F ワイルドキャット


しかし米軍のウェーク島守備部隊の整備兵達は、傷ついた体に鞭を打って残存機体を整備し、迎撃体制を整えます。

その後も二度にわたり日本軍による爆撃が行われましたが、熾烈な対空砲火によって日本軍にも損害が出るようになりました。

12月10日夜、ウェーク島上陸作戦を開始しようとしますが、波が高すぎて延期せざるをえませんでした。

翌日早朝、日本軍は駆逐艦による艦砲射撃を行い、上陸するために再びウェーク島に接近します。

しかし、砲撃によって敵戦力を叩き潰したと思って油断していた日本軍に、ウェーク島の砲台が攻撃を始めました。

この砲撃によって駆逐艦「疾風」が轟沈します。
駆逐艦「疾風」

修理や整備を終えた4機のF4Fも出撃してきたため、日本の駆逐艦隊は退避しますが、F4Fの執念の攻撃によって駆逐艦「如月」が撃沈しました。
駆逐艦「如月」

2隻の駆逐艦を失う「惨敗」を喫した日本軍は撤退し、上陸作戦は失敗に終わりましたが、F4Fも無傷ではなく、ウェーク島の守備戦力は壊滅状態に陥りました。

日本軍は12月21日に再びウェーク島へ出撃し、攻撃機による空襲を行いました。

翌日にも戦闘機6機、艦上攻撃機33機による空襲を行いましたが、ウェーク島に残った最後のF4F戦闘機2機による待ち伏せにあい、艦上攻撃機2機が撃墜されてしまいます。

そのうちの1機に搭乗していたのは、真珠湾攻撃の際に誘導機を務めた「水平爆撃の名手」と呼ばれた「金井昇」一等飛行兵曹でした。

金井兵曹は、4000mの高さから爆撃して全て命中させる事ができる腕前の持ち主で、空母蒼龍の艦長も、「蒼龍には世界一の爆撃手がいる」と誇りにしていたほどの人物でした。

真っ赤に染まった風防の中から、笑顔で手を振りながら海に落ちていく金井兵曹の姿を、味方の機が見ていました。

この直後に日本軍はF4Fを全て撃ち落とし、ウェーク島は空の守りを失いました。

日本軍は上陸を開始し、激戦の末、23日にはウェーク島を陥落させる事に成功します。

ウェーク島攻略戦は、2隻の駆逐艦を失い、450名以上の戦死者を出すという、非常に犠牲の大きな戦いとなりました。

大東亜戦争開始当初の中では、最も苦戦した戦場だと言えるでしょう。

ウェーク島の戦いでは1200名の捕虜が出たため、輸送船「新田丸」によって捕虜たちは上海へ送られる事になりました。
新田丸

日本軍は捕虜達全員に対し、船内取締規則を強く言い聞かせ、違反者は処分する方針を伝えたのですが、航行中に4回、捕虜が警備兵の拳銃を奪おうとする事件が発生します。

「反乱の恐れが大きくならないように処刑せよ」という軍令部の指示を受けた護送隊長の「斎藤利夫」中尉は、5名の捕虜に死刑を宣告して処刑し、遺体は米国旗で覆って水葬しました。

戦後、斎藤利夫はGHQにより戦犯として逮捕されそうになりますが、7年間も逃亡生活を続けたそうです。