2020年5月17日日曜日

大東亜戦争25 ビルマの戦い③ 戦場にかける橋

イギリス領ビルマとタイの国境付近は、、長らく続いた鎖国政策と険しい地形の影響によって、鉄道は愚か道路整備すら満足にされていない状況でした。

タイに駐留していた日本軍は、海上輸送を避けて陸路でのビルマ戦線への輸送ルートを確保すべく、1942年から鉄道の建設を開始していました。

「泰緬鉄道」です。

山脈を越える400キロの壮大な工事には、日本兵1万2千人、募集で集まったタイ人数万人、ミャンマー人18万人、マレーシア人8万人、インドネシア人4万5千人の他にも、連合国の捕虜6万人が使役にあたりました。

募集を募ったとはいえ、その過酷な労働環境が広まり人員が集まらなかったため、日本軍は現地の住民の役人を通じて間接的な圧力をかけて労働力を調達せねばならず、その悲惨な事実は「ロームシャ(労務者)」というインドネシア語となって刻まれてしまいました。

この鉄道工事において、補給困難による栄養失調や、マラリヤなどにより数万人の死者が出ました。

日本軍は1943年に現地に病院を建設するなどして対策を講じますが、死亡率を下げることはできなかったようです。

ですが、映画「戦場にかける橋」で描かれているような橋の建設作業は、実際には捕虜がやらされていた訳ではなく、運搬や掘削などの単純作業が主だったと言われています。

また、日本人のみが楽をしていたわけでは決してなく、日本兵も一千人の死者を出しており、死亡率だけでいえば日本兵は捕虜の10倍でした。

1943年にはいると1日10時間もの過酷な労働作業をこなし、「5年はかかるだろう」と言われていた工事を10月に終わらせることができました。

鉄道完成後、日本軍は、日本兵を除く作業での犠牲者を追悼するために慰霊塔を建設し、捕虜は元の収容所にもどされました。
泰緬鉄道
カンチャナブリー慰霊塔
泰緬鉄道から話を本筋に戻します。

1942年に始まったビルマ侵攻の結果、日本軍はビルマのほぼ全土を制圧しました。

しかしミッドウェー海戦の敗北など、徐々に日本の快進撃が息をひそめて劣勢に立たされ始めると、ビルマ方面においても反攻の機運が高まってきます。

1942年の末には、ビルマ西端の「アキャブ地方」に配属された日本軍に対してイギリス軍が攻撃を仕掛けました。(第一次アキャブ作戦)

日本軍は611名の戦死者を出しながらもイギリス軍を撃退する事に成功します。

イギリス軍は次なる作戦として、小部隊を敵地深くまで侵入させる長期のゲリラ作戦「ロングクロス作戦」を行いました。

この作戦のために編成された第77インド旅団は「チンディット」と名付けられ、1943年2月8日、7部隊3200名がビルマ北部へ進出を開始します。

山を越えて川を渡り、情報収集を行いながら鉄道や橋梁を破壊するなどの工作を続けて損害を与えましたが、日本軍の掃討戦によってチンディットは1000名程の戦死者を出し、後退を余儀なくされました。

しかしこの作戦によって、日本軍は「アラカン山脈とチンドウィン川が防御壁になる」という考えを改めなければならず、イギリスの拠点「インパール」を攻略せねばならないという認識を持つようになったのです。

さて一方で、支那・ビルマなどのアジア戦線におけるアメリカの方針は、アジア方面陸軍司令官のスティルウェルと、フライングタイガース指揮官のシェンノートによって対立が生まれていました。

支那戦線へ戦力を集中して制空権を確保することを主張し、蒋介石の支持を得ていたシェンノートでしたが、日本軍航空隊の強さは彼の構想を打ち砕きました。

次第に支那国民党軍を再建してビルマ北部を奪回しビルマルートを回復する、というスティルウェルの構想が支持されるようになります。
蒋介石夫妻とスティルウェル

支那から空輸(ハンプ越え)で移動してきた国民党軍の部隊にアメリカ式の装備を与えて訓練を施し、「新編第一軍」を結成したのです。

後に日本軍はこの新編成された国民党軍によって地獄をみる事になります。

新編第一軍


2020年5月12日火曜日

大東亜戦争24 ガダルカナル島の戦い③捲土重来

アウステン山平和記念公園
第38師団の輸送失敗の後、大本営はさらに第51師団と第6師団をガダルカナル島に送りこもうと計画しましたが、ガダルカナル島周辺の制空権は完全に米軍が掌握しており、低速の輸送船は近づくことすら不可能な状態で、駆逐艦による「鼠輸送」でさえ、3ヶ月で10隻を撃沈されてしまう有様でした。

1942年12月31日、御前会議にて「ガダルカナル島からの撤退」が決定され、「捲土重来」を意味する「ケ号作戦」が実行される事になりました。

撤退作戦を成功させるには、まずは米軍にその意図を悟られず、日本軍に再び総攻撃の意図がある、と思わせなければなりません。

そのため、駆逐艦による輸送を継続し、さらにヘンダーソン飛行場への航空攻撃を強化しました。

しかし1月25日には72機の零戦と一式陸攻12機がガダルカナル島へ侵攻しますが、ラバウルの基地からガダルカナル島までの片道1000キロの航路はパイロットにとってあまりにも負担が大きく、戦果をあげられませんでした。


そんな中、1月29日、日本軍偵察機がガダルカナル島の南西にあるサンクリストバルの南方に米軍艦隊を発見します。

日本軍は、夜間攻撃を行うためにわざと少し遅れて攻撃隊を発進させ、29日、30日と二回にわたって戦闘が繰り広げられる「レンネル島沖海戦」が勃発しました。


この戦闘によって日本軍は10機を失いますが、巡洋艦「シカゴ」を撃沈、駆逐艦「ラ・ヴァレット」を大破させる勝利をあげる事ができました。

この戦闘により米軍の目をそらす事ができた日本軍は、2月1日からガダルカナル島撤退作戦を決行する事ができたのです。

重巡「シカゴ」
一方で、ガダルカナル島でも撤退の準備が進められていました。

1月14日にガダルカナル島最北のエスペランス岬へ上陸したのは、矢野桂二少佐率いる30歳前後の補充兵を臨時編成した750名の「矢野大隊」と、現地日本軍に撤退を伝えるために来た第八方面軍参謀、「井本熊男中佐」です。

15日、井本中佐がガダルカナル島現地の司令官、百武晴吉中将に大本営の決定した撤退作戦を伝えます。

現地の将校は皆、最後の突撃を行い、名誉ある戦死を選ぶべきだと主張しましたが、翌日、百武中将は「大本営の決定に従うべきだ」と決断をしました。
百武晴吉中将

これを受けて矢野大隊は最前線へと向かいます。

彼らは、生還を生還を期さない決死の救出作戦を行う為にやってきた陽動部隊であり、撤退完了までの間に防衛線を死守する事が役目なのです。

しかし矢野大隊の将兵たちは皆、自分たちが決死隊である事は知らされてはおらず、あくまでも米軍への反転攻勢の糸口となるための再攻撃だと信じていました。

そんな彼らは補充兵の寄せ集めとは思えないほど、想像以上に頑強な戦いぶりをみせます。

一食分の食料を「1日分」とし、20日以上もの戦いに耐え抜きました。

迫撃砲による集中砲火を浴び、戦車に蹂躙されながらも、爆雷を戦車に貼り付けて破壊する対戦車攻撃や、夜襲、奇襲作戦を展開し、米軍の侵攻を食い止め続けました。
日本軍陣地へ砲撃を加える米軍

こうした矢野大隊の奮戦によって、米軍は日本軍の撤退作戦に全く気づかないまま、最初の撤退は2月1日に行われました。

ガダルカナル島に到着した駆逐艦によって、海軍250名、陸軍5160名を収容し、翌日にはブーゲンビル島に帰還することに成功したのです。

2月4日にも再び撤退は行われ、20隻の駆逐艦により海軍519名、陸軍4458名を救出することに成功します。

しかし2度にわたる撤退作戦によって作戦が見破られている可能性も捨てきれず、海軍は3度目の駆逐艦の出撃を拒みますが、陸軍からの強い要請と、全ての駆逐艦長が志願した事により、2月7日に第三次撤退作戦は行われる事になりました。

3度に渡って行われた「ケ号作戦」は、総じて海軍832名、陸軍12198名を救出する大成功を収めました。

米軍が日本軍の真意を理解したのは、その翌日の事でした。

米軍を指揮していたニミッツ提督は、のちに
「最後の瞬間まで、日本軍は増援作戦をしているように思われた。彼らの、計画を偽装させ、果敢に敏速にこれを実行できる能力が、日本軍の残存部隊の撤退を可能にしたのである」
と書き綴っています。

しかしこの成功には、矢野大隊の奮戦があった事を忘れてはなりません。

大本営は、彼らを全滅が前提の「捨て駒」として送り込みましたが、彼らは大隊の半分以上の戦死者を出しながらも、なんと2月4日の時点でいまだに防衛線を死守していたのです。

しかし矢野大隊は最後まで「捨て駒」としての扱いしか受けられず、生き残った300名の兵士達ですら「70名は島に残れ」と言われる始末でした。

矢野少佐は直ちに「ならば全員で残る」と腹を決めました。

足を負傷して歩行困難になっていた宮野政治中尉が見かねて「自分が残ります。」と志願した事により、代わりに宮野中尉率いる傷病者達が現地に残る事になり、矢野大隊は第三次撤退で駆逐艦に乗る事ができたのです。

128人の「宮野隊」はほぼ全滅しましたが、中には捕虜となって帰国する事ができた者もいるそうです。
ガダルカナルに取り残された残置部隊



2020年5月8日金曜日

大東亜戦争23ガダルカナルの戦い② ガ島奪還作戦


これまでのガダルカナルでの戦闘の失敗を踏まえて、日本軍はガダルカナル奪還のために大兵力を派遣する事になりました。

10月初旬、陸軍から第二師団がガダルカナルへ派遣され、さらに海軍によってヘンダーソン飛行場を砲撃する事が決まったのです。

ガダルカナルへ向かっていた巡洋艦隊の第一陣がサボ島沖海戦で敗戦するなどのトラブルもありましたが、10月13日には榛名、金剛などの戦艦を中心とした艦隊が、さらに14日にも重巡洋艦によってヘンダーソン飛行場への砲撃が行われました。

その結果、ヘンダーソン飛行場は航空機の半分以上と、ガソリンのほとんどを消失する大損害を被ります。
ヘンダーソン飛行場
しかし実は、アメリカ軍はすでにヘンダーソン飛行場以外にも、もう一つ小規模の滑走路を建設済みであり、日本軍はその事を把握していませんでした。

ガダルカナル島に上陸を開始した第二師団の輸送船団が敵機の攻撃にさらされた結果、兵員は上陸できたものの、銃火器は20%、食料は50%しか揚陸する事ができませんでした。

ただでさえ飢えに苦しむこの島に、武器も食料も足りない2万人の兵員が上陸したのです。

本来なら大兵力を以て正攻法でガダルカナル島を奪還する予定でしたが、日本軍はジャングルを通ってゾロゾロと迂回せねばならず、道を整備する道具もコンパスもないまま、部隊はまさに支離滅裂になってしまうのでした。

10月24日、第二師団は統制のとれないながらも各個バラバラに米軍陣地に攻撃を開始、「第二次総攻撃」が始まりました。

数少ない戦車はジャングルを通れず、正面からの陽動作戦に使用されました。

再三にわたり夜襲を仕掛ける第二師団でしたが、米軍の反撃により半数以上が戦傷死し、壊滅状態に陥ります。

陽動部隊にも激しい砲撃が加えられ、陸軍支援の為に派遣された軽巡洋艦も撃沈されました。

師団参謀は「ガダルカナル奪回は不可能」と判断し、総攻撃作戦は中止されました。
陽動部隊
第二師団
10月下旬に行われたこの総攻撃を支援する為に、日本海軍は機動部隊を出撃させていました。

この動きに対抗する為に、米軍もまた機動部隊を出動、10月26日に「南太平洋海戦」が勃発します。

この戦いで日本海軍は自軍の空母二隻に損害を出しつつも、敵空母「ホーネット」を撃沈、さらに空母エンタープライズを大破させる大戦果をあげました。

これによって、米軍は太平洋方面で稼動できる空母が存在しなくなり、これを好機とした日本軍はガダルカナルへ第38師団1万名を派遣することを決定します。
攻撃を受ける空母ホーネット
これを受けて、11月10日、師団長・佐野直義中将率いる第38師団の先遣隊がガダルカナルに上陸しました。

そして14日には主力部隊の輸送が開始され、戦艦二隻を含む護衛艦隊も共に出動します。

これを迎え撃つ米海軍と三日間にわたる激しい海戦を繰り広げたのが「第三次ソロモン海戦」です。

戦艦同士が至近距離で撃ち合う乱戦の中、先日の南太平洋海戦で損失させたはずの敵空母「エンタープライズ」が、なんと修理を行いながら参戦してきました。

エンタープライズから発進した攻撃隊によって日本軍の戦艦「比叡」は撃沈、さらに6隻の輸送船を沈めました。

日本軍は結局、二隻の戦艦を失った上、2000名の兵員とわずかな弾薬、4日分の食料しか送り届ける事はできませんでした。
砲撃する米戦艦ワシントン
撃沈する輸送船団
第三次ソロモン沖海戦の敗北によって、ガダルカナル島周辺海域の制海権を失った日本軍は、夜間に駆逐艦を用いてすこしずつ輸送する「鼠輸送」にて陸軍への補給を行うしかありませんでした。

11月30日、田中頼三少将率いる駆逐艦隊が闇夜に紛れてガダルカナル島沿岸に到着、食料を半分だけ詰めたドラム缶をロープにつないで海上に投入し、陸からそのロープを引いてドラム缶を手繰り寄せて物資を供給する作戦を実行しました。

しかしこれも途中で米軍の巡洋艦隊に発見され、「ルンガ沖夜戦」が発生します。

日本軍は魚雷で応戦してなんとか勝利したものの、輸送を成功させることはできませんでした。

ルンガ沖夜戦
こうして、ガダルカナル島には2万人以上の日本兵が集結したわけですが、飢餓や伝染病が蔓延り戦闘に参加できる者は8000名ほどでした。

米軍の防御施設は日に日に強化されており、飛行場には近づくことすらできなくなっていました。

アウステン山に立てこもっていた日本軍1300名は12月17日に米軍の攻撃をうけて壊滅、12月31日、遂に御前会議によってガダルカナル島からの撤退が決定されます。

ガダルカナル島は米軍の兵站基地と化し、米兵たちは部隊の練度を上げる為に「日本人の敗残兵狩り」を行いました。

米軍の捕虜となった傷病兵は一列に並ばせられ、戦車で踏み潰されていったと言われています。

ガダルカナル島に上陸した総兵力は3万ですが、撤退できたものはわずかに1万人。

戦死者は5千人、残りの1万5千人は餓死か病死でした。

ガダルカナル島への進出は、日本の継戦能力を遥かに越えた無謀な作戦でした。

以降、戦局は防戦一方となり、完全に劣勢に立たされていくのでした。