2019年8月29日木曜日

支那事変10 泥沼

逃げ遅れた支那人の老婆を助ける日本兵(1938 広東省)

オーストラリア人ジャーナリストで、孫文や蒋介石の顧問として活躍した「ウィリアム・ヘンリー・ドナルド」は、戦後にこう語っています。

「日本は、1938年から1941年までの間に、12回も和平提案を行ってきた。しかもその条件はチャイナに有利なもので、領土的な要求は含まれていなかった。」
ウィリアム・ヘンリー・ドナルド
W・H・ドナルドは、1938年以降の和平交渉にしか言及していませんが、その前年である1937年にも日本は何度も和平を模索していました。

1937年8月には「船津和平工作」が進められていましたし、9月にもイギリスを介して和平条件を提示しています。

しかしどちらも実を結ぶことはありませんでした。

10月には、支那に権益を有する九カ国によって、「ブリュッセル国際会議」が開催されましたが、この会議は「日支和平の仲介」が目的とされていたものの、実際は支那利権を有する国々による「日本の吊るしあげ」にすぎず、それを感じ取った日本は不参加を表明します。

日本は「軍事目的が終了した時期に、公平な第三国による和平の斡旋を受け入れる」という方針を決定し、アメリカ やイギリスなどに伝えます。

日本が考えていた「公平な第三国」とは、ドイツでした。

ドイツは支那に領土的な権益を持たず(第一次世界大戦で日本が引き継いだ)、なおかつ「中独合作」によって中華民国との太いパイプを持っていたのです。

ブリュッセル会議の開催など、世界的に和平交渉を後押しする空気の中、日本はドイツ公使の「オスカー・トラウトマン」を仲介した和平交渉「トラウトマン工作」を進め、11月上旬には正式に蒋介石の国民政府に和平条件7カ条を通知しました。

しかし蒋介石は、開催中だったブリュッセル会議でアメリカやイギリスがより強い圧力を日本にかけてくれるだろうと期待して、この和平交渉には乗りませんでした。

このトラウトマン工作は、支那事変の戦線が拡大しきる前の、唯一にして最大の和平の機会であったと言えますが、蒋介石の思惑によって事変の収集には至りませんでした。
オスカー・トラウトマン
以前、中華民国が幣制改革を行う時、イギリスが日本に共同出資を持ちかけ、日本がそれを断り、決定的な溝を作った事を書きました。支那事変7 紙幣戦争

しかし、この支那事変に至っても、イギリスは少なからず日本の味方でいました。

ブリュッセル会議において、イギリス大使は本国政府に「日本に対する制裁を議論すべきではない」という旨を上申していたのです。

イギリスは、列強国が集団で日本に圧力をかけて停戦に持ち込むのではなく、あくまでも日本と支那の問題として、第三国を介して和平を結ぶのが望ましいとする日本の考えに理解を示していたのです。

支那において最大の利権を得ていたイギリスは、アメリカの進出を警戒して日本と歩調を合わせようとしていたようにも思えます。

もし、この時に日本が「国際社会の中で孤立せずに強かにやりこなす」という選択肢を持っていたとすれば、その鍵はイギリスが握っていたのではないでしょうか。

しかし、日本が選んだ道はあくまでも、「列強国によるアジア支配に啖呵を切る」というものでした。

その選択を「愚か」だと断じる事も避けたいと思います。
支那利権を貪っていたイギリスと、そこに付け入ろうとするアメリカ
トラウトマン工作が決裂した日本は、ブリュッセル国際会議の最終日の11月15日、アメリカのグルー大使に
・これ以上支那を追撃する必要はない
・この時期に和平を結ぶのは支那自身の為になる
と訴えかけ、アメリカが和平の斡旋をして欲しいと依頼しました。

当然ながら、アメリカがこの依頼に動くはずもなく、日本軍は南京攻略へと進んでいくことになります。

そして12月、今度は蒋介石が日本との交渉を望んだ為、再びトラウトマンを介した和平工作が行われましたが、すでに日本軍も南京を陥落させて軍事的優位に立っており、さらに多大な損害を被っていた為、それまでのような寛大な条件を提示することはできなくなっていました。(第二次トラウトマン工作)

蒋介石は曖昧な返事でのらりくらりと回答を引き伸ばし、結局両国代表の面会もならぬまま、1938年1月16日、日本政府は交渉打ち切りの声明を出してしまいます。

近衛文麿首相は、「国民政府を対手とせず(国民政府は相手にしない)」と発言し、両国の外交官は帰国、日本と国民政府の国交は断絶されてしまいました。(第一次近衛声明)

両国の和平に奔走した広田弘毅外相は、戦後の東京裁判で「支那事変を拡大させた」としてなぜか絞首刑に処される事になってしまうのでした。
広田弘毅外務大臣
どうすれば終わるのか、いつになったら終わるのか、全く見当のつかない状況の中で、近衛内閣は1938年4月1日、「国家総動員法」を制定しました。

これによって、国家が人的・物的資源を自由に統制できるようになり、国民の自由意志よりも国家の命令の方の優先される事になりました。

この目的は、「長期化する戦争を乗り切る為に全ての国力を軍需に集中させる事」だったのですが、その発想の根本には「社会主義思想」が見え隠れしていました。

国家総動員法を立案したのは内閣直属の「企画院」ですが、実は企画院内部には共産主義思想が蔓延しており、のちに企画院関係者21名が治安維持法違反で検挙される「企画院事件」が起こっています。

「右傾化すると戦争になる」などと報じて現在のマスコミは「右翼=軍国主義」と言うイメージを刷り込もうとしていますが、日本の戦争体制を築き上げたのは「左翼思想」であったという事実も念頭において頂きたいものです。


さて、首都・南京を攻められて「漢口」まで逃げ出していた蒋介石でしたが、日本軍が漢口にまで攻めてくると今度はさらに内陸部にある「重慶」へ首都を移しました。

蒋介石は日本を広大な大陸に引き込んで「消耗戦」を挑んできたのです。

しかし商工業の要所を抑えられた国民政府に、長期戦に耐えうる国力などなかったはずです。

実は蒋介石は、アメリカ・ソ連・フランス・イギリスなどから多大な軍事支援を得ていました。

支那における軍事行動は、支那利権を持つ欧米列強各国を全て敵に回してしまったのです。

支那事変の実態は、欧米列強が背後に隠れた「代理戦争」であったと言えます。

1938年10月、日本軍が要衝「武漢三鎮」を攻略したところで支那事変の戦況は小康状態に入りました。

重慶は山脈に囲まれた要衝となっており、陸軍が侵攻するのが非常に困難だったのです。

ところで、支那事変において世界を敵に回した日本でしたが、理解者がいないわけではありませんでした。

ローマ法王の「ピウス11世」です。

ピウス11世は日本の軍事行動を支持し、
「日本の行動は、侵略ではない。日本は支那を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」
という声明を全世界のカトリック教徒へ発信しました。

ピウス11世は、平和を乱しているのが共産主義である事をいち早く見抜いていたのです。

しかし、第二次世界大戦が始まる前、1939年に死去したため、その影響力を発揮する事はできませんでした。
ピウス11世
蒋介石率いる国民革命軍は、日本との戦いの中で多くの一般市民を巻き添えにしてきました。

「堅壁清野」という作戦については前回も書きましたが、これは国民革命軍が退却するときに、日本軍が施設を利用できないように村々を焼き払う事です。

その最たるものが「長沙焚城」です。

1938年11月、日本軍が迫る「長沙」において、「日本軍が来たら火を放つように」と指示をされていた国民革命軍は、長沙城外で火事が起こったのを「のろし」だと勘違いし、次々に放火を始めました。

長沙城内では大火災が起こり、20万人以上の死者が出る大惨事となりました。
長沙焚城(文夕大火)
「長沙大火で逃げ遅れた老婆を助ける日本兵」とされている写真

他にも、国民革命軍は、日本軍の侵攻を食い止めるため、蒋介石の承認を得た上で黄河の堤防を決壊させました。

これによって黄河の水は堤防の外に流出し、少なくとも数十万以上の水死者が出ました。(一説には100万人とも)

日本軍には犠牲者や損害はほとんどなく、むしろ積極的に現地支那人の救助活動を行なっていたようです。

日本軍と住民達が共同で防水作業をしている所に、国民革命軍は容赦なく攻撃を仕掛けました。
また、国民革命軍は黄河のみならず、揚子江でも同じように堤防を決壊させて大規模な水害を起こしています。

このような国民革命軍の蛮行は、支那の住民達からの反感を買い、国民党の求心力は失われていくことになり、後に共産党に支那の覇権をとって変わられる原因となるのです。

さて、戦況が膠着した後、日本が攻略した地域では治安が維持されるようになり、自治政府ができるようになりました。

国民党のナンバー2であった「汪兆銘(おう ちょうめい)」は、支那事変における国民革命軍の横暴によって苦しむ民衆の被害に心を痛め、日本との和平を望むようになります。

「長沙焚城」を明確に批判した事によって、蒋介石との溝は決定的になっていました。
汪兆銘

一向に事変収集の目処が立たない近衛内閣も「国民政府を対手とせず」という近衛声明を修正し、11月3日に「第二次近衛声明」を発表します。

この声明は、欧米に対抗すべく日本・支那・満州で経済ブロックを形成しようとする、アジアの自存自衛の為の構想「東亜新秩序」を謳ったものでした。
近衛文麿
この声明に呼応した汪兆銘によって、汪を支持する高宗武(こう そうぶ)などが日本政府と話し合いを重ねるようになり、ついに11月20日に「満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などが約束された「日華協議記録」への調印が実現しました。

これを受けて、汪兆銘は国民党から命を狙われながらも重慶を脱出します。

しかし近衛首相は、12月22日に「善隣友好」「共同防共」「経済提携」の「近衛三原則」を発表し、支那との和平方針を示し「日本軍の撤兵」を外してしまいました。(第三次近衛声明)

この声明の中に、「日本軍の撤兵」が含まれていなかった事に汪兆銘は失望を隠せず、さらに近衛文麿首相は、第三次近衛声明の数週間後に突然総辞職してしまいます。

近衛内閣の後を継いだのは「平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう)」を首相とする平沼内閣です。
平沼騏一郎
平沼内閣による汪兆銘との交渉は、近衛内閣と比べ物にならないほど過酷な内容で、汪の側近の高宗武が逃亡して交渉原案を暴露するほどでしたが、汪兆銘は和平を開く覚悟を以って日本の修正案を受け入れ、日本軍の保護のもとで1940年3月に「南京国民政府」を樹立させました。
汪兆銘政権

しかし汪政権である南京国民政府の誕生にも関わらず、日本や汪兆銘が意図したように、蒋介石の「重慶国民政府」との和平実現に繋がる事はなく、南京国民政府は国際的には「日本の傀儡政権」に過ぎませんでした。

汪兆銘は過去に狙撃された時の傷が原因で1944年に死去する事になります。

命をかけて日本との和平を模索した汪兆銘は「漢奸(売国奴)」とみなされ、墓を爆破されて遺体を燃やされ、野原に捨てられてしまいました。

汪兆銘は墓を爆破された代わりに石像が建てられましたが、この石像は弔いの意味を持つものではなく、「唾を吐きかける」為でした。

「死者に鞭を打つ」という文化には、全く理解の余地がございません。
汪兆銘夫妻がひざまづく姿の裸像
汪兆銘政権も和平には結びつかず、重慶政府との交渉も停滞する状況においては、蒋介石に降伏させるしか事変を終わらせる方法はありません。

しかし重慶への道のりは遠く険しく、陸軍の進軍は困難であるとされました。

そこで航空機による爆撃で重慶国民政府の戦略中枢を破壊する事になり、1938年から1943年にかけて218回の爆撃が行われました。

この爆撃による死者の総数は1万人を超えるとされており、現代においては「無差別爆撃の原型」だと非難され、後に日本全土が空襲で焦土化された事も「重慶爆撃の報い」などと考える人(NHK)もいます。


日本軍の資料を公平な目線で紐解いてみれば、初期の爆撃は間違いなく「無差別爆撃」ではなく、「戦略爆撃」であり、爆撃対象は飛行場や軍事施設に限られていました。

しかし重慶には市街地に相当数の高射砲が設置されており、日本軍爆撃機にも多大な損害が出ていました。

その為、1940年の後半からは市街地を5つに区分し、地区別に絨毯爆撃を行うことになったのです。

日本軍は律儀にビラを撒いて爆撃予告をしていた為、大した戦果は得られなかったようです。

当時の重慶の人口は100万人、218回の爆撃で1万人の死者が出ていますが、これを日本の同規模の都市が受けた空襲の被害と比べてみると、「熱田空襲」では一回の空襲で2000名、神戸では二回の空襲だけで8000名、横浜では一回の空襲で一万人が死亡しています。

数字だけを見ても、日本軍が行った重慶爆撃と、アメリカが日本に行った空襲とでは、「やり方そのものが全く違う」のだと認識できます。

「日本が先に無差別爆撃を行ったのだから、空襲を受けたのは因果応報だ」というような論調には全く同意できないのであります。
日本軍の爆撃から逃れる為に豪に避難したものの、多くの人が圧死、窒息死しました

1940年、最大速度・武器・航続距離・上昇機能・旋回性能、全てにおいて外国の一流機の水準を超えた戦闘機が開発されました。

その機体は、皇紀2600年の「00」にちなんで「零式艦上戦闘機(零戦)」と名づけられます。

それまでの戦闘機では航続距離が足らず、重慶まで爆撃機を援護することができずに多大な損害を出していた日本軍爆撃機も、零戦によって護衛される事になりました。

零戦の初出撃は非常に華々しい戦果をあげる事になります。

重慶で待ち受けていたソ連製の戦闘機27機を、12機の零戦がわずか10分で全滅させたのです。

国民革命軍の空軍を指揮していたアメリカ人の「シェンノート」は、零戦のデータをアメリカに報告しましたが、「日本人がそんな飛行機を作れるはずがない」と取り合ってもらえませんでした。



クレア・リー・シェンノート
















ここまで、支那事変がいかに出口の見えない泥沼だったのかを書いてきました。

そんな中、1937年に始まった支那事変もズルズルと1年半ほどが過ぎ、国力を消耗していた日本に追い討ちをかけるかのように、ソ連が動き出すのでした。




















2019年8月25日日曜日

支那事変9 南京への道



前回、「第二次上海事変」が勃発したことによって、日本と国民党の衝突が北支だけでなく上海にまで広がり、全面戦争の様相を呈して「支那事変」へと突入した事までを書きました。

8月13日から始まった国民革命軍(国民党の正規軍)の攻撃に対し、日本政府は8月15日、遂に不拡大方針を撤回し、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」という声明を発表しました。

この声明によって「上海派遣軍」が結成され、「松井石根(まつい いわね)」大将が指揮を執ることになります。

奇しくも「8月15日」は、日本にとって「敗戦を受け入れた日」でもあり、「戦いを決意した日」でもあった、というわけであります。
松井石根

上海に租界を持つ列強各国は、日支両国に戦闘中止を要請しましたが、停戦協定違反をして明確に開戦意思を持つ国民革命軍を前に、日本は「戦う」以外の選択肢を持たなくなっていました。

上海の陣地を守る海軍陸戦隊は、10倍以上の兵力を持つ国民革命軍の攻撃に大損害を出しながらも耐え抜きました。

8月23日、上海派遣軍として編成された「第3師団」と「第11師団」の二個師団が上海北部の沿岸に上陸し、上海市を目指します。

しかし上海近郊には国民革命軍によって強固な陣地が構築されており、上海派遣軍は苦戦を強いられ、上海市内に入ることができず、市内で居留民を守る陸戦隊はなおも奮戦せねばなりませんでした。

一方、平津作戦によって日本軍が制圧していた北支方面でしたが、国民革命軍が40数個師団の大兵力を集結させており、不穏な動きを見せていました。

全面戦争となった今、日本軍が目指すべきは中華民国国民政府の首都・南京ですが、上海から南京へのルートは水田が入り組んでおり、進軍が困難でした。

そこで水田が乾く秋以降まで待ち、それまでの間に北支に集結する敵勢力の粉砕が陸軍の目標とされました。

近衛内閣はこの支那における全面戦争を「支那事変」と名付け、北支方面軍を編成します。

日本軍は9月半ばには河北省の「保定」までを占領する事に成功しました。

その後、北支方面軍の中から主力の「第6師団」「第18師団」「第114師団」を抽出して「第10軍」を編成し、戦線が膠着していた上海に送られることになります。


上海の南にある杭州湾
アドバルーン

第10軍は上海を包囲する国民革命軍の背後を衝くべく、「杭州湾」へと上陸し、
「日軍百万上陸杭州北岸」
と書かれたアドバルーンを揚げました。

このアドバルーンに国民革命軍は大きく動揺し、後方の撤退路の遮断を恐れて一斉に退却をはじめます。

そして日本軍は上海の制圧に成功、第二次上海事変は幕を閉じる事になったのです。

しかしこの時点で日本軍の戦死者は「9千名」にものぼっていました。

日本としては、全面戦争など想定していなかったものの、ここまでの損害を出した以上、もはや「引くに引けない状況」になってしまったのです。

日本軍はすぐさま「南京攻略戦」を展開すべく、南京へ向けて進軍を開始しました。

しかしこの動きに驚いたのは他でもない、第10軍と上海派遣軍を束ねる司令官・松井石根大将でした。

実はこの急進軍は、第10軍司令官「柳川平助」中将の独断による「暴走」だったのです。

松井大将は、実はしばらく兵を休息させるつもりでおり、一説には和平交渉が進むのを待つつもりだったのではないかとも言われています。


柳川平助

松井大将の制止も間に合わず、参謀本部は仕方なく南京攻略戦を追認したのでした。

インフラ整備の行き届いていない支那の広大な大陸においては、「現地軍の統制」は死活問題です。

情報伝達もままならず、兵站は伸びきり、掠奪が起こる原因となるのです。

このような事態が起こってしまった事は、日本軍がしっかりと反省すべき点なのですが、なかなか議論される事はありません。

この柳川平助ですが、実は「皇道派の重鎮」であり、政府や軍に大きな不満を持つ人物だったのです。

このような人物を司令官として起用したのは、まさに日本軍の人事のミスだったと言わざるを得ません。

(皇道派については以下を御参照ください)
支那事変5 文民統制、なぜできぬ

さて、日本軍の進撃に伴い国民革命軍は後退していくのですが、この時に大活躍(?)したのが「督戦隊」です。

督戦隊とは、自軍を後方から監視し、退却する部隊などがあればそれに攻撃を加えるという「強制的に戦闘をさせる部隊」の事です。

国民革命軍の部隊は、日本軍から逃げる為に必死で督戦隊と戦闘し、数千名の死傷者を出したと言われています。

逃げる為に仲間同士で殺し合うというのは、なんとも悲しく情けない話であります。
督戦隊のイメージ

さらに国民革命軍は退却の際、日本軍や共産党が使用できないように市街地に火を放って焦土化させる「堅壁清野」という焦土化作戦を行いました。

この焦土作戦によって、国民革命軍は膨大な数の自国民を巻き添えに殺してしまう事になります。

そしてあろうことか、現在では「三光作戦」という名前をつけられ、その所業は日本軍が行なったことになっています。
はいはい
南京へ向かう日本軍を最も苦しめたのは「便衣戦術」でした。

便衣兵とは「隠れ戦闘員」の事で、軍服を着ず、民間人に紛れ込んで攻撃を仕掛けてくる軍人です。

当時の戦時国際法である「ハーグ陸戦条約」においては、「民兵」「義勇兵」についての交戦資格は認めていたものの、その条件として「公然として武器を携帯している事」と定められており、支那事変における便衣兵は「国際法違反」であると言えました。

すなわち便衣兵は交戦資格を認められておらず、戦闘によって捕まった場合、「捕虜」としてではなく「犯罪者」として裁かれる事になるのです。

日本軍がとある村に立ち寄った時、日章旗を振る女性達の歓迎を受けたものの、その背後には便衣兵が潜んでおり、突然、日本軍に対して銃撃を加えてきた事もありました。

または、日本兵が国民革命軍の兵士を追いかけて、一寸の差で入城すると、そこには敵兵の影も形もなく、大勢の市民がいるだけだったというような事が、しばしば起こっていたのです。

さらに厄介な事には、支那事変において、日本軍の敵は国民革命軍だけではありませんでした。

その敵とは、共産党の軍隊「八路軍」です。
八路軍

前線で日本軍と戦う国民革命軍とは違い、八路軍は便衣戦術を展開し、農村部などで小部隊を襲撃しました。

クワを手に取り農作業をする農民たちの脇を日本兵が通りすぎると、地面に埋めてあった銃を掘り出して後ろから攻撃して来る、そんな光景がしばしば見られたといいます。

日本軍は連戦連勝の快進撃を続けてはいたものの、農村部ではゲリラ戦の様相を呈しており、補給路の確保に精一杯な状況でした。

日本軍は占領した地域を全て制圧できていたわけではなく、「点と点を線で繋いだ」範囲しか確保できていなかったのです。

日本兵にしてみれば、一体どこで何と戦っているのかわからないような、恐ろしい戦場であったと言えます。

この戦いにおいて、しばしば日本兵の遺体は激しい損壊が加えられていました。

同胞の惨たらしい様を目の当たりにし、さらに誰が敵だかわからない混沌とした戦場において、日本軍にもっとも必要だったのは厳しい「統制」だったはずなのです。

しかし先述したように、南京への急進軍は現地軍の「暴走」で行われていました。

その為、非戦闘員と戦闘員の区別がつかない状況で、過度に神経質な掃討戦が行われた可能性は否めないと思います。

そしてその様を、あたかも「日本軍が非戦闘員である民間人を殺傷している」ように見せかける事はさぞかし容易だった事でしょう。

それが、後に「南京大虐殺」という「虚構」を生み出す隙を作り、現在の日本人を苦悩させているのです。
虚構の世界遺産
しかし、日本軍にとって便衣兵と戦う事はこれが初めてではなかったはずです。

日清戦争の時も、清軍の敗残兵は軍服を脱ぎ捨てて便衣となりゲリラ戦を展開したため、民間人が巻き添えとなる「旅順事件」が起こりました。
旅順事件

シベリア出兵の際も、共産主義勢力の遊撃部隊「パルチザン」を掃討するために村を焼き払う「イワノフカ事件」が起きています。
イワノフカ事件の慰霊碑

どちらの事件も、国際的な問題としては取り上げられておりませんが、日本軍はこれらの事件から、「支那で戦うという事はどういう事なのか」という事を考え、便衣戦術に対して対策を立てるべきだったのではないでしょうか。

もっとも、ゲリラ戦の1つの真理として「皆殺しにしないと終わらない」という残酷な事実があります。

大東亜戦争での沖縄戦においては、日本兵と民間人が同じ地域に混在してしまっただけで、米軍は民間人の行列に機銃掃射を加えました。

ベトナム戦争でも米軍は、北ベトナム軍がゲリラ戦を展開してきた為、躊躇する事なく村々を焼き払っています。
ベトナムにおける米軍の蛮行
結論を申し上げますと、戦闘員と非戦闘員の区別が困難な状況、つまり「便衣戦術」を採る以上、「女子供もろとも攻撃の対象になる」と言う事は世界的な共通認識なのです。

なぜ現在において日本が責められているのかと言うと、理由はただ1つ「敗戦国」だからに過ぎません。

我々はその事を把握しておくべきだと思います。

何はともあれ、1937年12月12日、南京は陥落しました。

南京国民政府の首都を落としたのです。

日本兵は皆、これで蒋介石との講話が進められ、戦争は終わるだろうと信じていました。

しかしその期待はもろくも崩れ去ることになります。

南京国民政府は11月には既に、首都を重慶へ移すことを決定していたのです。

しかし蒋介石は南京での徹底抗戦に最後までこだわっていた為、日本軍が南京にまで侵攻した時には多くの一般市民が南京に取り残されており、戦闘に巻き込まれる事になってしまいました。

国民革命軍の指揮官であり、南京防衛の要であった「唐生智(とう せいち)」は、南京の市民が逃げ出さないように渡し船を破壊しており、多くの民間人に犠牲が出てしまったのです。

「南京大虐殺」なんてとんでもない、非難されるべきは蒋介石の決断の遅さ、指揮官の無責任さでありましょう。

支那事変において揺るぎようのない事実があります。

「支那事変において、支那人を一番多く殺したのは日本人ではなく、支那人である」

という事実です。

蒋介石が首都を重慶へ移して以降、日本軍は広大な支那の内陸部へと誘い込まれ、出口の見えない泥沼にはまっていく事になりました。

































2019年8月16日金曜日

支那事変8 盧溝橋の銃弾



1933年、満州事変の停戦協定である「塘沽停戦協定」が日本と国民党の間で交わされた事によって、中華民国と満州国の国境は明確になりました。

しかし国境付近では国民党主導による反日活動が活発になっており、国民党軍と日本軍の小規模な衝突や、親日派の民間人に対するテロが頻発していました。

その為、日本は華北を国民党の支配から切り離し、日本の影響力を強めようと「華北分離工作」を進めました。
華北って大体この辺り
国民党主導の反日活動は、「一切の挑戦撹乱行為を行うことなし」と明記された塘沽停戦協定に違反していた為、これに基づいて
「梅津・何応欽(かおうきん)協定」
「土肥原・秦徳純(しんとくじゅん)協定」
が立て続けに結ばれる事になり、国民党軍が華北から撤退する事が約束されました。

これによって国民党の支配力が薄まった河北省では、それまで悪政に苦しめられていた民衆によって「減税」と「自治」を求める武装蜂起が次々と起こります。

この蜂起には日本人も参加していた為、この蜂起は民衆が自発的に行ったものではなく「華北分離工作」の一環である、と現在では指摘されています。

「幣制改革」が進めらて支那の通貨が統一されると、国民党の経済的影響力が増す事が懸念される為、日本を焦らせました。

(参考)支那事変7 紙幣戦争

しかし同時に、幣制改革における「銀の国有化」が民衆の反発を生んでいる事がわかると、土肥原賢二少将は、自治権を求める民衆運動に乗じて、政治家の「殷汝耕(いん じょこう)」に働きかけて「冀東防共自治政府」を樹立します。

これは塘沽停戦協定で定められた非武装地帯の中にできた親日政権であり、治安の維持は支那人によって組織された保安隊に任されることになりました。



冀東防共自治政府

殷汝耕
土肥原賢二














冀東防共自治政府ができたのは1935年11月の事ですが、文字通り「共産主義への防波堤」ができたことにより、蒋介石は国共内戦に集中する事ができていました。

日本に対しては妥協の姿勢を取り続けていた蒋介石が一転「抗日」に変わったのは、「西安事件」がきっかけであるという事は以前書いた通りです。
(参考)支那事変6 上海の女狐

1936年12月に、西安事件から釈放された蒋介石は、国共内戦を放棄して「第二次国共合作」を成立させました。

国民党と共産党が手を組んだ以上、中華民国の敵は「日本」しかいなくなってしまいました。

さて、1936年と言えば日本では「二・二六事件」が起こった年です。

二・二六事件の結果、陸軍内の「皇道派」は著しく勢力を衰退させ、その結果として対抗派閥の「統制派」の天下となります。

(参考)支那事変5 文民統制、なぜできぬ

クーデターによる国家転覆を図った皇道派と違って、統制派は合法的に政権を掌握しようとします。

広田弘毅を総理大臣に据えた「広田内閣」に対し、統制派は人事や政策などに干渉し「退役させられた皇道派の人物が陸軍大臣にならないように」という名目で「軍部大臣現役武官制」を復活させました。

軍部大臣現役武官制とは、軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)への就任資格を現役の大将・中将に限定する法律の事です。

例えば陸軍大臣が辞任して、後任の大臣を陸軍が選ばなければ、陸軍大臣のポストが空いてしまう事になり、内閣は解散を強いられてしまいます。

これによって軍の意向にそぐわない内閣は倒閣させられる事になり、現に広田内閣は陸軍大臣の寺内寿一が辞任をチラつかせた事が原因で解散してしまいました。

要するに、日本政府は「軍を止める力」を失ってしまったのです。
広田内閣

「1936年」は国内外問わず「戦争を始めるための準備期間」とでも言うような、そんな不穏な空気が世界中で漂っていました。

広田内閣の後を継いで組閣されたのは、近衛文麿を首相に据えた「近衛内閣」です。

緊迫した状況の中、日本の舵取りは近衛内閣に委ねられる事になりました。
近衛文麿

そのような状況の中、ついに日本を戦争へと引きずりこむ第一歩となる事件が発生しました。

1900年の「義和団事件」の時に締結された「北京議定書」によって、居留民保護のために列強国が支那に兵を駐留される事が認められていました。

日本はそれに基づいて「支那駐屯軍」を北京と天津に配備していましたが、兵は2000人にすぎませんでした。

しかし国共内戦に伴う「長征」によって共産党軍が北京近くの山西省に侵入すると、日本軍はこれを警戒して支那駐屯軍の増派を行い、1936年6月の時点で5774名に増員されていました。
盧溝橋

1937年7月7日、日本軍は北京郊外の「盧溝橋」で夜間演習を行なっていました。


盧溝橋を渡った先には国民党第二十九軍が駐屯する「宛平県城(えんへいけんじょう)」があります。

午後10時40分頃、日本軍が実弾を使わない演習を行っていると突然、堤防沿いにいた支那人兵士が日本軍に向かって実弾を数発発射してきました。

さらに10時50分、翌日午前3時25分と、三度にわたり実弾射撃を受けた日本軍は、敵の正体を確認すべく前進します。

すると永定河の左岸に布陣していた国民党第二十九軍が日本軍に対して一斉射撃を開始、日本軍もやむなくこれに応戦する事になりました。

この戦闘で両軍ともに数十名の死傷者を出すことになりました。

支那側から要求により両軍は停戦状態になりますが、9日、10日と国民党軍は現地停戦協定を無視し、日本軍に対して散発的な攻撃を仕掛けてきました。

この事態に日本では「三個師団の派兵」が閣議決定されますが、11日に正式に停戦協定が成立したため、見送られる事になりました。

この「盧溝橋事件」は、「大陸へ進出を目論む日本の侵略戦争の始まり」として教えられる事がしばしばあります。

しかし当時支那に駐屯していた日本軍は5000名、それに対して北支に配備されていた国民党第二十九軍はの兵力は10万であり、とても日本側から戦闘を仕掛けれらるような状態ではないのです。

この事件の勃発によって、にわかに慌ただしくなったのが支那共産党です。

事件直後の7月8日には全国に「局地解決反対」を主張し、さらに抗日組織を結成して日本軍と衝突する事を呼びかけ、日本との戦争を支那全土で煽ったのです。


そもそもこの盧溝橋事件、最初に発砲したのは国民党軍に入り込んだ共産党員の仕業であるという説が有力です。

事件当時、北京大学構内から延安の共産党司令部に「成功した」という無線通信が繰り返されていたのを、日本軍の通信手が傍受していました。

これは、「(日本軍と国民党軍を衝突させる事に)成功した」という意味なのです。

この時から日本軍にとって、執拗に繰り返される挑発に必死で耐え抜かなければならない地獄が始まりました。

盧溝橋
盧溝橋事件の停戦協定が結ばれたにも関わらず、増派の構えを見せていた蒋介石に対抗するかのように、近衛首相は「北支派兵声明」を発表します。

これは政府が打ち出した「事変不拡大方針」に矛盾する行為であります。

近衛首相はその後も北支における軍事予算を拡大するなど不拡大とは真逆の政策を取り続け、現地での和平は困難なものになってしまいました。

そのような状況の中、7月13日、北京市内の大紅門で日本兵が国民党軍に襲撃を受けました。

大紅門を通過中の日本軍のトラックが爆破され、4名の日本兵が死亡したのです。
大紅門って多分これの事だと思います
さらに14日、天津から豊台へと向かう日本軍騎兵隊の近藤二等兵が、落鉄で遅れを取っている隙に襲撃を受け、6発の銃弾を受け死亡、青龍刀で頭を割られ、右足を切り落とされるという残虐な遺体損壊を加えられました。
日本軍に対する挑発行為が北支で繰り広げられました。
そして20日には、盧溝橋事件の停戦協定によって撤退するはずだった宛平県城の国民党軍から日本軍に対して一斉射撃や砲撃が加えられます。

この事態に日本政府は再び三個師団の派兵を検討し始めますが、事態が沈静化したため今回も見送られる事になります。

『盧溝橋事件をきっかけに日本は戦争へと突き進んでいった』と教えられてきましたが、実際は陸軍内部もかなり慎重に事を進めようとしていた事が伺えます。

しかし国民党軍からの軍事的挑発は続きます。

盧溝橋事件以来、日本軍の軍用電線が何者かによって切断される事件がしばしば起きており、7月25日にも電線を修理するために北京近郊の「廊坊」へ護衛隊と共に通信部隊が向かいました。

修理を開始した日本兵に対し、国民党軍は機銃掃射と砲撃を加え、日本軍がこれに応戦する形となりました。(廊坊事件)

とは言え、日本兵はわずかに100名、それを襲う支那第38師団は6000名と、余りにも多勢に無勢で、日本側は死者4名を含む15名の死傷者を出しながらもなんとか援軍が到着するまで持ちこたえるのが精一杯でした。

増援の到着によって支那軍は散り散りになって退散し事態は収束しましたが、この事態を重く捉えた支那駐屯軍は陸軍参謀長から「武力行使容認」の許可を得ます。
支那側の主張では「日本軍が一方的に廊坊駅を占拠した」となっています。


さらに「廊坊事件」の翌日の事です。

北京の日本人居留民を保護するため、日本軍は26台のトラックで移動中でした。

しかし北京市内の広安門を通過する際、途中で門を閉められてしまい、日本軍は門の内と外とで分断されてしまいました。

国民党軍は城壁や城門の上から手榴弾や機関銃で攻撃を仕掛け、日本軍は死者2名を含む19名の死傷者を出しましたが、今回も援軍が駆けつけた事によって事態は収束しました。

広安門
これらの度重なる襲撃により、在留日本人の安全を確保できなくなったため、日本政府は遂に三個師団の派兵を決定します。

7月28日から北京、天津を二日で制圧し、国民党軍を掃討しました。(平津作戦)

そしてこれ以上事態が悪化しないよう、日本はすぐさま和平交渉へと動きます。

支那から信頼を得ている元外交官、「船津辰一郎」を通して国民党に働きかける「船津和平工作」が勧められました。

これは、日本が有利な条件で進めてきた協定の解消や、冀東防共自治政府の解消など、要するに「満州事変直後の状態に戻そう」という非常に譲歩した破格の和平交渉でした。

交渉予定びは8月9日だったのですが、実は平津作戦が展開されていた7月29日、日本国内を震撼させる凄惨な事件が起きていました。「通州事件」です。
船津辰一郎
1937年7月29日、冀東防共自治政府内の日本人居留民を保護するはずだった保安隊3000名が通州日本軍110名を襲撃しました。

日本軍を壊滅させた保安隊は、日本人居留民380名の家を残らず襲撃し、略奪、暴行、強姦を行いました。

犠牲者数は223名、260名と諸説ありますが、その遺体はどれも過度に損壊が加えられており、目・鼻・口などの顔立ちもわからず、性器もえぐり取られて身体的特徴の判別もつかない「性別不明」の遺体は34名にものぼりました。

7月30日、日本軍が通州へ向かっているという情報を得た保安隊は即座に逃亡し、日本軍が到着した時にはすでに彼らの姿はありませんでした。
通州は、冀東防共自治政府内の北平(北京)に近いところにあります
通州事件が起きた背景として、支那国内における民衆の過度な反日感情が原因として挙げられます。

日本の影響下にあった冀東防共自治政府や、日本人居留民を保護する保安隊に対する支那人の風当たりは強く、軽蔑の眼差しが向けられていました。

彼らは敵国人の見方をする同胞の事を「漢奸(かんかん)」と呼び、敵よりも憎むのです。

保安隊隊長の「張慶余」は、息子から『親子の縁を切る』と新聞で大々的に宣伝されてしまいました。

張慶余が再び支那人として認めてもらい生きていくには、日本人への残虐行為を行うことによって国民党への忠誠を示すより他なかったのでしょうか。

張慶余は通州事件を起こした後、国民党軍に合流し、中将の地位にまで登り詰めました。

「漢奸」から「抗日の英雄」になったのです。
張慶余とされている写真
日本軍の救援は間に合いませんでした
国内では通州事件の報道を受けて「暴支膺懲(暴虐な支那を懲らしめろ)」という国内世論が湧き起こりましたが、それでも日本政府は和平の道を探っていました。

1937年8月9日には「船津和平工作」の交渉が進むはずでした。

しかし同日、日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉、斎藤與蔵一等水兵が上海にて惨殺されます。

大山大尉は身ぐるみを剥がされ、数十発の銃弾を受けて蜂の巣にされ、青龍刀で頭をかち割られて顔が半分なくなっており、心臓にはこぶし大の穴が空いていました。

支那側は「大山大尉が支那人を射殺したので正当防衛だ」と主張したので、大山大尉に殺されたとされる支那人の遺体を解剖すると確かに「小銃」の銃弾が出てきました。

しかし大山大尉が持っていたのは「拳銃」であり、銃弾の種類が違いました。

船津辰一郎が交渉のために上海入りした翌日に、同じ上海でこの様な虐殺事件を起こすのは妨害工作に他ならず、当然ながら船津和平工作が身を結ぶ事はありませんでした。
殺害現場
大山勇夫大尉
斎藤與蔵一等水兵
ところで上海では、1932年に起きた「上海事変」によって、「上海停戦協定」が結ばれていました。

しかし国民党軍は1935年頃から、ドイツ人軍事顧問のファンケルハウゼンの指示に従い、停戦協定を違反して非武装地帯に陣地を構築しており、北支で盧溝橋事件などが起こる中、上海付近の兵力を増強させて日本軍との戦闘に備えていました。
国民革命軍の円形陣地

その様な状況で8月9日に「大山事件」が起こり、日支両軍は一触触発の緊迫した状態となりました。

そして8月12日、国民党の正規軍3万名が日本人居留区域を包囲します。

8月13日、国民党軍が日本軍陣地へ機銃掃射と砲撃を開始、「第二次上海事変」が始まります。

4千名の兵力しかない日本軍は防衛に徹する事になりました。

8月14日、国民党軍は上海のフランス租界、共同租界を爆撃し、一般市民を含む3600名が死亡します。

この爆撃は、上海に租界を持つフランス・イギリス・アメリカを巻き込んで、その怒りを日本軍に向けさせる事が目的だったと言われています。
国民党軍の爆撃によって犠牲になった市民
第二次上海事変で捕虜になった日本兵は首を切り落とされ、フットボールの球にされました。
1937年7月7日の盧溝橋事件の段階では戦局は「北支」に限定されていましたが、8月13日に起きた第二次上海事変によって戦地は広がり、事態は「全面戦争」の様相を呈し、ずるずると「支那事変」が始まる事になりました。

こうして日本は、底のない泥沼に足を突っ込んでしまったのです。