2019年8月25日日曜日

支那事変9 南京への道



前回、「第二次上海事変」が勃発したことによって、日本と国民党の衝突が北支だけでなく上海にまで広がり、全面戦争の様相を呈して「支那事変」へと突入した事までを書きました。

8月13日から始まった国民革命軍(国民党の正規軍)の攻撃に対し、日本政府は8月15日、遂に不拡大方針を撤回し、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」という声明を発表しました。

この声明によって「上海派遣軍」が結成され、「松井石根(まつい いわね)」大将が指揮を執ることになります。

奇しくも「8月15日」は、日本にとって「敗戦を受け入れた日」でもあり、「戦いを決意した日」でもあった、というわけであります。
松井石根

上海に租界を持つ列強各国は、日支両国に戦闘中止を要請しましたが、停戦協定違反をして明確に開戦意思を持つ国民革命軍を前に、日本は「戦う」以外の選択肢を持たなくなっていました。

上海の陣地を守る海軍陸戦隊は、10倍以上の兵力を持つ国民革命軍の攻撃に大損害を出しながらも耐え抜きました。

8月23日、上海派遣軍として編成された「第3師団」と「第11師団」の二個師団が上海北部の沿岸に上陸し、上海市を目指します。

しかし上海近郊には国民革命軍によって強固な陣地が構築されており、上海派遣軍は苦戦を強いられ、上海市内に入ることができず、市内で居留民を守る陸戦隊はなおも奮戦せねばなりませんでした。

一方、平津作戦によって日本軍が制圧していた北支方面でしたが、国民革命軍が40数個師団の大兵力を集結させており、不穏な動きを見せていました。

全面戦争となった今、日本軍が目指すべきは中華民国国民政府の首都・南京ですが、上海から南京へのルートは水田が入り組んでおり、進軍が困難でした。

そこで水田が乾く秋以降まで待ち、それまでの間に北支に集結する敵勢力の粉砕が陸軍の目標とされました。

近衛内閣はこの支那における全面戦争を「支那事変」と名付け、北支方面軍を編成します。

日本軍は9月半ばには河北省の「保定」までを占領する事に成功しました。

その後、北支方面軍の中から主力の「第6師団」「第18師団」「第114師団」を抽出して「第10軍」を編成し、戦線が膠着していた上海に送られることになります。


上海の南にある杭州湾
アドバルーン

第10軍は上海を包囲する国民革命軍の背後を衝くべく、「杭州湾」へと上陸し、
「日軍百万上陸杭州北岸」
と書かれたアドバルーンを揚げました。

このアドバルーンに国民革命軍は大きく動揺し、後方の撤退路の遮断を恐れて一斉に退却をはじめます。

そして日本軍は上海の制圧に成功、第二次上海事変は幕を閉じる事になったのです。

しかしこの時点で日本軍の戦死者は「9千名」にものぼっていました。

日本としては、全面戦争など想定していなかったものの、ここまでの損害を出した以上、もはや「引くに引けない状況」になってしまったのです。

日本軍はすぐさま「南京攻略戦」を展開すべく、南京へ向けて進軍を開始しました。

しかしこの動きに驚いたのは他でもない、第10軍と上海派遣軍を束ねる司令官・松井石根大将でした。

実はこの急進軍は、第10軍司令官「柳川平助」中将の独断による「暴走」だったのです。

松井大将は、実はしばらく兵を休息させるつもりでおり、一説には和平交渉が進むのを待つつもりだったのではないかとも言われています。


柳川平助

松井大将の制止も間に合わず、参謀本部は仕方なく南京攻略戦を追認したのでした。

インフラ整備の行き届いていない支那の広大な大陸においては、「現地軍の統制」は死活問題です。

情報伝達もままならず、兵站は伸びきり、掠奪が起こる原因となるのです。

このような事態が起こってしまった事は、日本軍がしっかりと反省すべき点なのですが、なかなか議論される事はありません。

この柳川平助ですが、実は「皇道派の重鎮」であり、政府や軍に大きな不満を持つ人物だったのです。

このような人物を司令官として起用したのは、まさに日本軍の人事のミスだったと言わざるを得ません。

(皇道派については以下を御参照ください)
支那事変5 文民統制、なぜできぬ

さて、日本軍の進撃に伴い国民革命軍は後退していくのですが、この時に大活躍(?)したのが「督戦隊」です。

督戦隊とは、自軍を後方から監視し、退却する部隊などがあればそれに攻撃を加えるという「強制的に戦闘をさせる部隊」の事です。

国民革命軍の部隊は、日本軍から逃げる為に必死で督戦隊と戦闘し、数千名の死傷者を出したと言われています。

逃げる為に仲間同士で殺し合うというのは、なんとも悲しく情けない話であります。
督戦隊のイメージ

さらに国民革命軍は退却の際、日本軍や共産党が使用できないように市街地に火を放って焦土化させる「堅壁清野」という焦土化作戦を行いました。

この焦土作戦によって、国民革命軍は膨大な数の自国民を巻き添えに殺してしまう事になります。

そしてあろうことか、現在では「三光作戦」という名前をつけられ、その所業は日本軍が行なったことになっています。
はいはい
南京へ向かう日本軍を最も苦しめたのは「便衣戦術」でした。

便衣兵とは「隠れ戦闘員」の事で、軍服を着ず、民間人に紛れ込んで攻撃を仕掛けてくる軍人です。

当時の戦時国際法である「ハーグ陸戦条約」においては、「民兵」「義勇兵」についての交戦資格は認めていたものの、その条件として「公然として武器を携帯している事」と定められており、支那事変における便衣兵は「国際法違反」であると言えました。

すなわち便衣兵は交戦資格を認められておらず、戦闘によって捕まった場合、「捕虜」としてではなく「犯罪者」として裁かれる事になるのです。

日本軍がとある村に立ち寄った時、日章旗を振る女性達の歓迎を受けたものの、その背後には便衣兵が潜んでおり、突然、日本軍に対して銃撃を加えてきた事もありました。

または、日本兵が国民革命軍の兵士を追いかけて、一寸の差で入城すると、そこには敵兵の影も形もなく、大勢の市民がいるだけだったというような事が、しばしば起こっていたのです。

さらに厄介な事には、支那事変において、日本軍の敵は国民革命軍だけではありませんでした。

その敵とは、共産党の軍隊「八路軍」です。
八路軍

前線で日本軍と戦う国民革命軍とは違い、八路軍は便衣戦術を展開し、農村部などで小部隊を襲撃しました。

クワを手に取り農作業をする農民たちの脇を日本兵が通りすぎると、地面に埋めてあった銃を掘り出して後ろから攻撃して来る、そんな光景がしばしば見られたといいます。

日本軍は連戦連勝の快進撃を続けてはいたものの、農村部ではゲリラ戦の様相を呈しており、補給路の確保に精一杯な状況でした。

日本軍は占領した地域を全て制圧できていたわけではなく、「点と点を線で繋いだ」範囲しか確保できていなかったのです。

日本兵にしてみれば、一体どこで何と戦っているのかわからないような、恐ろしい戦場であったと言えます。

この戦いにおいて、しばしば日本兵の遺体は激しい損壊が加えられていました。

同胞の惨たらしい様を目の当たりにし、さらに誰が敵だかわからない混沌とした戦場において、日本軍にもっとも必要だったのは厳しい「統制」だったはずなのです。

しかし先述したように、南京への急進軍は現地軍の「暴走」で行われていました。

その為、非戦闘員と戦闘員の区別がつかない状況で、過度に神経質な掃討戦が行われた可能性は否めないと思います。

そしてその様を、あたかも「日本軍が非戦闘員である民間人を殺傷している」ように見せかける事はさぞかし容易だった事でしょう。

それが、後に「南京大虐殺」という「虚構」を生み出す隙を作り、現在の日本人を苦悩させているのです。
虚構の世界遺産
しかし、日本軍にとって便衣兵と戦う事はこれが初めてではなかったはずです。

日清戦争の時も、清軍の敗残兵は軍服を脱ぎ捨てて便衣となりゲリラ戦を展開したため、民間人が巻き添えとなる「旅順事件」が起こりました。
旅順事件

シベリア出兵の際も、共産主義勢力の遊撃部隊「パルチザン」を掃討するために村を焼き払う「イワノフカ事件」が起きています。
イワノフカ事件の慰霊碑

どちらの事件も、国際的な問題としては取り上げられておりませんが、日本軍はこれらの事件から、「支那で戦うという事はどういう事なのか」という事を考え、便衣戦術に対して対策を立てるべきだったのではないでしょうか。

もっとも、ゲリラ戦の1つの真理として「皆殺しにしないと終わらない」という残酷な事実があります。

大東亜戦争での沖縄戦においては、日本兵と民間人が同じ地域に混在してしまっただけで、米軍は民間人の行列に機銃掃射を加えました。

ベトナム戦争でも米軍は、北ベトナム軍がゲリラ戦を展開してきた為、躊躇する事なく村々を焼き払っています。
ベトナムにおける米軍の蛮行
結論を申し上げますと、戦闘員と非戦闘員の区別が困難な状況、つまり「便衣戦術」を採る以上、「女子供もろとも攻撃の対象になる」と言う事は世界的な共通認識なのです。

なぜ現在において日本が責められているのかと言うと、理由はただ1つ「敗戦国」だからに過ぎません。

我々はその事を把握しておくべきだと思います。

何はともあれ、1937年12月12日、南京は陥落しました。

南京国民政府の首都を落としたのです。

日本兵は皆、これで蒋介石との講話が進められ、戦争は終わるだろうと信じていました。

しかしその期待はもろくも崩れ去ることになります。

南京国民政府は11月には既に、首都を重慶へ移すことを決定していたのです。

しかし蒋介石は南京での徹底抗戦に最後までこだわっていた為、日本軍が南京にまで侵攻した時には多くの一般市民が南京に取り残されており、戦闘に巻き込まれる事になってしまいました。

国民革命軍の指揮官であり、南京防衛の要であった「唐生智(とう せいち)」は、南京の市民が逃げ出さないように渡し船を破壊しており、多くの民間人に犠牲が出てしまったのです。

「南京大虐殺」なんてとんでもない、非難されるべきは蒋介石の決断の遅さ、指揮官の無責任さでありましょう。

支那事変において揺るぎようのない事実があります。

「支那事変において、支那人を一番多く殺したのは日本人ではなく、支那人である」

という事実です。

蒋介石が首都を重慶へ移して以降、日本軍は広大な支那の内陸部へと誘い込まれ、出口の見えない泥沼にはまっていく事になりました。