2019年9月26日木曜日

支那事変14 大東亜の名の下に


八絋之基柱(あめつちのもとはしら)


明治維新以降の近代史において、日本が最も警戒していたのは一貫して「ロシアの南下政策」でした。

日清戦争、日露戦争もロシアの南下政策に対抗して起きた戦争です。

北方へ目を向けたこの国防方針を「北進論」と言います。

しかし、支那事変が長引くにつれて、南方へ進出して資源を確保するべきだという「南進論」の声も強まって行きました。

そして1939年のノモンハン事件におけるソ連軍との戦いによって一個師団を壊滅させられ、その戦果は適正に評価される事なく「日本軍の惨敗だった」「ソ連軍強し」という印象だけが強く残ってしまい、北進論は勢いを失ってしまいます。

そして南進政策は正式に国策として採用される事になり、その第一歩として「北部仏印進駐」が行われました。
(北部仏印進駐について)支那事変13 日本包囲網

1941年にドイツがソ連と戦争を始めると、再び北進論が息を吹き返し、ドイツと共にソ連を攻めるべきだという意見が出始めます。
ドイツのソ連侵攻

日ソ中立条約締結に尽力した外務大臣「松岡洋右」でさえ、条約を破棄してソ連に攻め込むべきだと主張し、首相の近衛文麿と対立するほどでした。
松岡洋右

これに対し、近衛首相は松岡外相を外して組閣をやり直し、第三次近衛内閣を発足させて「南進論」の姿勢を強めます。
大惨事近衛内閣

そして、日本とアメリカの関係を決定的に悪化させる行動に出てしまうのでした。

「南部仏印進駐」です。

支那事変が続く中で、日本とアメリカの関係は徐々に悪くなっていました。

1938年末に第一次近衛内閣が「東亜新秩序」という声明を発表し、これまでの、欧米が主導権を握っていた支那における秩序に啖呵を切った事によって、日米間の溝は深くなってしまい、アメリカは各国を巻き込んで対日経済制裁を実行していくようになります。

1939年の「日米通商航海条約の破棄」を皮切りに始まった貿易規制によって、1940年には航空用燃料と鉄くずが禁輸になり、他にも様々な輸出規制を受けました。
あまりにも一方的に破棄された日米通商航海条約

当然、日本は最大の貿易相手国だったアメリカとの関係を見直さざるを得なくなり、新しい資源の供給先を見つけねばなりません。

日本は石油産出国であるオランダ領インドネシアと交渉を続けましたが、アメリカの圧力によって決裂してしまいます。

すでに「北部仏印進駐」を果たしていた日本でしたが、これによってさらに「南部にも進駐し、オランダ領インドネシアに圧力をかけるべき」という強硬論が主張されるようになったのです。

この意見に当初は反対していたのが松岡外務大臣でしたが、先述したように近衛首相と対立した際に外務大臣を外されてしまい、7月28日に日本軍はフランス領インドシナ南部へと進駐を実行しました。(南部仏印進駐)

南部仏印進駐
南部仏印には、ゴムや鈴などの軍需物資となる天然資源の宝庫であり、そこへ日本が進出する事は、アメリカが一番恐れていた事でした。

東南アジアへの進出の意図が見え隠れするこの南部仏印進駐は、東南アジアに植民地を持つアメリカ、イギリス、オランダなどの国々の警戒心を一気に高める事になってしまいます。

アメリカは遂に、南部仏印進駐の二日後、日本の在米資産を凍結します。

これによって日本政府や日本の企業、個人が外国に持っている資産をアメリカが管理する事になり、通帳からお金を引き出したり送金したり、土地の名義を変えたりする事ができなくなりました。
資産凍結は本当にやばい

アメリカドルも使用できなくなり、当時日本の輸出量の40%を占めていたアメリカと貿易ができなくなってしまったのです。

そしてイギリス、オランダもこれに追従するように日本資産の凍結を決定しました。

この資産凍結は、日本を世界経済から締め出す厳しい制裁であり、宣戦布告にも等しいものであり、アメリカは、外貨を獲得できなくなった日本ならば、例え戦争になろうとも一年以内にケリがつくと踏んでいたのです。

アメリカはこの時期から最大限に日本を挑発していたのだと言えます。

しかし実は、資産凍結をあらかじめ予測していた日本政府は、貿易金融を担っていた横浜正金銀行から大量のドルを、ブラジル銀行に開いた講座へ移し替えていました。

さらには国債を発行して、それを日本銀行が引き受けて膨大な紙幣を発行し、軍事費を捻出し、国家総動員法による統制経済によって物価を固定し、インフレを力づくで押さえ込んだのです。

こうして日本は「3年は持つ」と言われた戦時体制を築き、アメリカに対抗しました。

しかしアメリカの制裁は、資産凍結だけではありません。

8月1日、追い打ちをかけるように、アメリカは「全侵略国に対する石油の輸出禁止」を発表したのです。

石油が一滴も入ってこなくなった日本の石油の備蓄量はすでに「一年半分」しか残っていませんでした。


アメリカ海軍のスターク提督は、
「石油禁輸の後は、日本はどこかへ進出して石油を取得する他なかったのであり、自分が日本人でもそうしたであろう」
と後に述べているように、石油を手に入れる事が出来なくなった日本が、アメリカに攻撃を仕掛けてくるであろう事を理解していました。

石油の禁輸によって、日本とアメリカの開戦に「王手」がかけられたのです。

もう後戻りのできない、日米開戦の避けられない「手遅れ」の状況に追い込まれた日本で、衝撃的な事件が起こりました。

「ゾルゲ事件」です。

「リヒャルト・ゾルゲ」というソ連のスパイが、諜報団を組織して日本国内で諜報・謀略を行なっていた事が発覚し、構成員が次々と逮捕されたのです。
ゾルゲ事件

ドイツ人の父とロシア人の母の間に生まれたリヒャルト・ゾルゲはドイツ人として生まれ育ちました。

大叔父は、共産主義の生みの親であるカール・マルクスの秘書を務めていた人物であり、思想の根底にそういった環境が影響していたのかどうかは定かではありませんが、ゾルゲはロシア革命に大きな衝撃を受け、共産主義思想に染まり、共産党員として活動することになります。
リヒャルト・ゾルゲ

上海でスパイ活動をしていたゾルゲは、1933年にナチス党員に扮して日本に赴きました。

アジアの歴史や文化などを叩き込んでいたゾルゲは、駐日ドイツ大使館の要人達に重宝され、信頼を勝ち得て大使館情報員に任命されるほどになり、日本とドイツの機密情報はソ連に筒抜けになってしまうのです。

日本の軍事作戦などの公文書にも目を通せる立場になっていたゾルゲは、さらに日本政府の中枢の情報を入手すべく、上海時代からの知り合いであり、近衛内閣のブレーンとなっていた「尾崎秀実」と接触を図りました。
尾崎秀実(おざき ほつみ)

尾崎秀実は東京帝国大学出身のエリートで、在学中に読みあさった「資本論」などの書物により完全に共産主義者に染まっていました。

朝日新聞社に入社した尾崎は、上海支局に務めていた時期にゾルゲと知り合います。

ゾルゲを通じてモスクワへ送られたレポートが高く評価されたことがきっかけとなり、尾崎はコミンテルンに協力していくことになります。

そして尾崎は日本に帰国した後、正式に「ゾルゲ諜報団」の一員として活動していくことになり、評論家として各誌面で論陣を張り、世論を煽って支那事変拡大を主張していきました。
戦争を煽りまくった朝日新聞

尾崎は近衛文麿総理主催の勉強会「朝飯会」にも出席し、南進論を徹底的に主張するなどして、政策に大きく影響を与えました。

「南進論」とは、日本の矛先がソ連に向かないようにするための、コミンテルンの策略だったのです。

日本の目を北ではなく南に向けさせ、日本が南部仏印進駐に踏み切った時点で、尾崎秀実の謀略は成功したと言えるでしょう。

結果として日本国内の北進論は勢いを失い、ソ連は安泰、日本は英米と戦うハメになったのです。

1935年に行われた第7回コミンテルン大会での、スターリンの「砕氷船のテーゼ」が思い起こされます。


「ドイツと日本を暴走させよ。
しかしその矛先を祖国ロシアへ向けさせてはならぬ。
ドイツの矛先はフランスと英国へ。
日本の矛先は蒋介石の中華民国へ向けさせよ。
そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。
日独の敗北は必至である。
そこで、日本とドイツが荒らし回って荒廃した地域、つまり砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ」

スターリンの高笑いが聞こえて来るようです。

スターリンは、ゾルゲからの報告をもとに「日本が攻めて来ない」という確信の上で、ドイツ戦線に躊躇なく大兵力を投入し、撃退する事に成功したのです。
ヨシフ・スターリン
このような共産主義者の暗躍が発覚したきっかけは、1941年の9月元アメリカ共産党員「北林トモ」の逮捕でした。
今では左翼に大人気

これを皮切りに芋づる式に関係者が逮捕されていき、遂にはゾルゲや尾崎までもがスパイである事が判明したのです。

さらに、内閣の政策を立案する「企画院」にも、多数の共産主義者が紛れ込んでいるとして、1940年頃から多くの企画院職員が逮捕される「企画院事件」が起きていました。

要するに、日本の政府の中枢は共産主義に乗っ取られていたのです。

何しろ、内閣の勉強会「朝食会」から逮捕者が3名、内閣のブレーンである「昭和研究会」からも4名の逮捕者が出て、逮捕をまぬがれた者の中には、戦後に社会党などの左派勢力して活躍した人物もいたほどです。
近衛内閣は真っ赤っか

近衛文麿は、後に第一次、第二次内閣の時の事を振り返って
「何もかも自分の考えていた事とは逆の結果となってしまった。」
「何者か目に見えない力に操られていた気がする」
と語っており、近衛自身が共産主義者だったのか、それとも操られていただけなのかどうかは、未だに定かではありません。
近衛文麿


支那事変を拡大させ、南進を推し進めて英米との関係を決定的に悪化させた近衛内閣は、ゾルゲ事件が決定打となって総辞職に追い込まれる事になりました。

近衛内閣の後を継いだのは、陸軍大臣であった東條英機です。

東條内閣は日米開戦を避けるべく、最後の直接交渉を重ねる事になるのですが、それは次回書かせていただきます。
東條内閣

ここで話は変わりますが、日本には古来から「八絋一宇」の精神というものがあります。

「八絋」とは8つの方角、すなわち世界を表し、「一宇」とは1つの家の屋根を示しています。

八絋一宇という言葉は、大正時代の国体研究によって作られたものですが、もとは日本書紀に出てくる神武天皇の勅令の中の「掩八絋而為宇」に由来します。

「八絋(あめのした)を掩いて(おおいて)一宇(いえ)にせむ」
これはあらゆる方角が1つの屋根になるように、すなわち全世界が一軒の家に住むように、世界の平和を謳った神武天皇の教えなのです。

明治維新を経て海外へ目を向けた日本人が目の当たりにしたのは、白人国家に蹂躙され続けるアジアでした。

唯一、白人国家に対抗しうる有色人種国家であった日本を盟主として、アジア諸国を連帯させて勢力圏を築こうとする「アジア主義思想」が広がり、日本人の思想家達は支那での革命家を後押ししていました。
アジアの独立国家は「タイ」以外に存在しない

このような「アジア解放」を願う日本人の精神でさえも、近衛内閣はしっかり利用しています。

第一次近衛内閣の時に出した声明「東亜新秩序」は、日本主導の新しいアジア構想を謳ったものであり、英米を大いに刺激しましたが、この中に「皇国の国是は八絋を一宇とする建国の大精神に基づく」と書かれており、これが初めて政府が公式に「八絋一宇」の言葉を使用した出来事になりました。

そして第二次近衛内閣の時に、外務大臣の松岡洋右が初めて「大東亜共栄圏」と言う言葉を用いました。

「八絋一宇」「大東亜共栄圏」などの言葉を用い、アジアの共存・共栄を目指すことを「国策」として定めた事により、南進政策に大義を与えたのです。
大東亜共栄圏構想

コミンテルンの「日本の目を南方に向けさせる事」という策略と、日本人の気高い「八絋一宇」の精神との利害関係が一致してしまったというのは、なんとも皮肉なことです。

大東亜の名の下に、日本は破滅に向かって突き進んでいくことになるのでした。





2019年9月18日水曜日

支那事変13 日本包囲網


1937年から始まった支那事変ですが、日本軍は損害を出しつつも連戦連勝の快進撃を続けました。

これに対し国民党の蒋介石は首都・南京を放棄して内陸部の重慶へと遷都させて事変の長期化を目論みます。

重慶まで陸軍の侵攻を進める事が困難であると考えた日本軍は、航空機による戦略爆撃を行いました。

戦争というものは「歩兵」が地面を踏まねば終わらないものです。

いくら爆撃を行っても、蒋介石が根をあげる事はありませんでした。
重慶爆撃


しかし、主要な商業都市を抑えられ、国民党は独力では戦闘の継続が不可能なほどに打撃を受けた国民党でしたが、なぜ戦闘を継続させる事ができたのでしょうか?

実は、蒋介石率いる国民政府は、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連などから多大な支援を得ていたのです。

イギリス・フランス・アメリカは、支那に「租借地」「租界」を持っていました。

租界や租借地を大雑把に説明するなれば「プチ植民地」とでも呼ぶべきでしょうか、列強国はとにかく支那市場の旨味を存分に味わっていました。

彼らにとって一番困るのは、日本軍の軍事行動が彼らの租界での経済活動に支障をきたすことです。

列強各国は、中華民国との関係が崩れないように、蒋介石を支援しました。

さらにソ連には、支那事変を長引かせて日本の国力を衰退させようという思惑もあったようです。

支那事変が起こった1937年の12月、中華民国と「ソ支不可侵条約」を結んだソ連は、国民革命軍に空軍支援を行いました。

当時、大阪毎日新聞はその事を「露国は支那を支持する事によって日本の国力を衰退せしめ・・・」と的確な記事を書いています。

これらの中華民国に対する様々な援助に必要だった輸送路は「援蒋ルート」と呼ばれました。

日本軍は、支那事変を終わらせる為にこの援蒋ルートを遮断する必要があり、戦線を拡大していかねばなりませんでした。

援蒋ルート
ところで、話は逸れますが、現在の日本の学校教育において「支那事変」という言葉は使われておらず、代わりに「日中戦争」という言葉が使われています。

この「日中戦争」という言葉は、「日本と中華人民共和国が戦争をした」という勘違いを意図的に狙った悪質な造語であります。

戦後、「日支事変」「日華事変」という言葉を用いて教科書などでも説明されていましたが、1970年代に入って急速に「日中戦争」という言葉が普及していきました。

日中国交正常化以降、明らかに日本の教育は中華人民共和国に忖度するようになり、外交的にも中華人民共和国があたかも「戦勝国」であるかのように振る舞うようになっていきました。

しかし、支那事変、日支事変、日華事変と呼び方は色々あれども、この戦いはあくまでも戦争ではなく「事変」でありました。

当時のアメリカは「中立法」というものがあり、「戦争している国に対しては、軍事物資を輸出してはいけない」という決まりがあったのです。

蒋介石を支援したかったアメリカをはじめとする諸外国は、日本と支那で起こった紛争を「戦争」として認めるわけにはいかなかったのです。

「日中戦争」という言葉は、そういった当時の状況を全く無視したものなのです。
「中立法」を風刺した絵
さて、支那事変が長引く中、日本が占領した地域では自治政府が発足し、治安を安定させていました。

それらの自治政府は集結し「中華民国臨時政府(後に汪兆銘の南京国民政府と合流)」を結成します。

1939年4月、中華民国臨時政府が任命した海関(港の税関)監督が、天津の英国租界で暗殺される事件が起こりました。

しかしイギリスは、租界の中に隠れる犯人を日本へ引き渡す事を拒否します。

かねてより日本軍は、「抗日ゲリラ」に苦しめられており、イギリスやフランスの租界はゲリラや共産党員の活動拠点となっていました。
天津租界

北支方面軍参謀長の「山下奉文」は最後通牒を突きつけ、イギリス租界を封鎖して厳しい検問を行います。

当然、イギリスは検問を中止するように要請し、有田八郎外相とクレーギー駐日大使による会談が行われる事になりました。

意外な事に、イギリスは日本の要求に対して大きく譲歩し、「租界内の抗日分子の取り締まり」「租界内に国民党が隠し持っている現金の引き渡し」などの条件を飲む事になりました。

イギリスは、国民党に対して多大な支援をしつつ、日本とも歩調を合わせようとしていました。

実はイギリスが最も警戒していたのは、支那利権に進出し始めたアメリカだったのかもしれません。

日本がもし日米開戦を避けようとするのであれば、イギリスを利用するべきだったのですが、日本はあえてそれをしませんでした。

イギリスと手を組む事は、ヴェルサイユ体制の維持を意味し、アジアは欧米列強に今後100年は貪り続けられる事になるからです。

イギリスの、このような対日宥和政策をアメリカは当然面白く思いませんでした。

有田・クレーギー会談の4日後、アメリカは日本に対して一方的に「日米通商航海条約」の破棄を通告してきたのです。

これは、日本に対し甘い対応を取り続けるイギリスへの牽制でもありました。

そしていよいよ、日本は経済的にも世界から孤立していく事になるのです。


アメリカは国民党に対して多大な軍事支援を行っていました。

それはもはや、「支那事変はアメリカとの戦い」とも言えるほどのものでした。

1940年以降、アメリカは「アメリカ義勇部隊America Volunteer Group」、通称「フライングタイガース」と呼ばれる部隊で日本軍への攻撃を仕掛けていました。

飽くまでも「退役軍人が」「個人の意思で」「傭兵として」国民革命軍に参加したものとされていますが、実際に戦闘に参加した機体は最新式のものであり、米国内の陸軍航空隊内部でリクルートが行われていました。

さらに、フライングタイガースの投入は大統領の承認を得た秘密作戦であり、日本機を一機撃ち落とすと500ドルのボーナスが支給されていたのです。

つまり、日本とアメリカは真珠湾攻撃の前から戦闘状態にあったと言えるのです。

アメリカのルーズヴェルト大統領は、支那大陸からフライングタイガースを利用して日本を爆撃する作戦を承認していました。

真珠湾攻撃の半年前の事です。




真珠湾攻撃前にサインされた対日攻撃計画書「JB355」

さて、国民党を支援していたのはアメリカ・イギリスだけではありません。

フランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)にも重慶へ通じる援蒋ルートがありました。

日本は何度もフランス政府へ国民党への援助をやめるように訴えましたが聞き入れられませんでした。

しかし第二次世界大戦の勃発に伴い、1940年6月にフランスがドイツに降伏すると、ようやくフランスは援蒋物資の輸送を停止します。

ドイツに占領されたフランスは、国家存続と引き換えにナチスの傀儡政権「ヴィシー政府」を発足させました。
親ナチス派のヴィシー政権では、ユダヤ人の迫害も行われました。

ヴィシー政権は、ドイツと同盟締結の話が進んでいた日本に対して友好的で、松岡洋佑外務大臣とアルセーヌ=アンリ大使との間で「松岡=アンリ協定」が結ばれる事になりました。

この協定は
「フランス領インドシナ北部への日本軍の進駐を認める事」
「日本はインドシナにおけるフランスの主権を認め、領土保全を尊重する」
という、日本とフランス両国の利益を尊重するものでした。

1940年9月23日、正式に進駐が開始されます。

日本の進駐に反対する一部のフランス軍との間に戦闘が起こるなどの問題が起こりましたが、25日には停戦が実現し、日本軍はインドシナ北部の飛行場や港の使用権を獲得しました。

フランスの植民地支配に虐げられていた現地のベトナム人達は、フランス軍を蹴散らして進駐してきた日本軍を見て「解放軍だ!」と歓喜しました。

何しろ、8万のフランス軍が守る要塞を、わずか3000人の日本軍が陥落させたのです。

日本軍と共闘できる事に期待したベトナム人達は、独立をかけて武装蜂起を起こしますが、ヴィシー政権を尊重しなければならない日本軍はそれを支援するわけにはいきませんでした。

ベトナムの「復国同盟軍」を率いたチャン・チュン・ラップ将軍はフランス軍に捕らえられて銃殺されてしまいますが、その後もベトナム人達の独立の火は消えませんでした。

日本軍の「北部仏印進駐」は、期せずしてアジア独立の導火線になったのです。
仏印進駐(北部)


このように、中華民国の背後にはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の影が隠れていて、支那事変はもはや日本と中華民国の紛争を隠れ蓑にした「代理戦争」の様相を呈していました。

そんな中でも、「ヴェルサイユ体制の打破」「防共」などの点で日本と利害が共通し、歩調を合わせようという国も存在していました。

1936年に「日独防共協定」を結び、ソ連のコミンテルンに対抗しようとしていた日本とドイツですが、この協定には後にイタリア、満州、ハンガリー、スペインが参加したことによって6カ国協定になりました。

日本政府は、この多国間協定が国際社会に置いて無視できない存在になれば、英米にも影響を与えて支那事変解決の糸口になるのではないかと考えていました。

しかし1939年、ノモンハン事件の最中にドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」を結んだ事によって日本は失望し、防共協定は事実上、空文化してしまいました。

それでも第二次世界大戦でドイツが快進撃を見せると、日本国内では再び「ドイツと組むべし」という声が起こり始めます。

異様な世論の盛り上がりによって「バスに乗り遅れるな」という流行語もできたほどでした。
領土拡大を続けていたドイツ

ところで、「独ソ不可侵条約」は、内閣を総辞職に追い込むほど日本に衝撃を与えましたが、実際はドイツとソ連が軍事同盟を結んだわけでもなんでもなく、ドイツからしてみれば「フランス・イギリスと戦う時に、東のソ連に挟み撃ちにされないように」と保険をかけたに過ぎません。
「欧州情勢、複雑怪奇なり」と言い残して総辞職した平沼内閣

ドイツはソ連と軍事的に手を組んだわけではないのです。

「独ソ不可侵条約の解釈の違い」という、噛み合わない歯車はそのままに、日本とドイツは同盟を結ぶことになってしまいました。

近衛文麿首相による第二次近衛内閣によって、1940年9月27日、「日独伊三国同盟」が結ばれました。

外務大臣・松岡洋右は、三国同盟にソ連を加えた「4カ国同盟」に発展させる構想を練っていました。

防共協定の時と同じように、国際的に無視できない勢力を築いて圧力をかけ、支那事変の終息を目論んだのです。

スターリンはこの構想に乗る構えを見せましたが、同盟締結の見返りにドイツの領土を求めたりと厳しい条件を突きつけたために、ドイツとソ連の関係は悪化し、交渉は困難になってしまいました。

日本はなんとか単独で「日ソ中立条約」を結ぶことに成功しましたが、この条約によって日本とドイツの同盟は意味をなさなくなってしまいます。
日ソ中立条約に調印する松岡洋右

ドイツにしてみれば、日本と同盟を結ぶ最大のメリットは「ソ連を挟み撃ちにできる事」だったのです。

明治維新以降、日本の国防上の最大の課題は「ロシア・ソ連にどう対抗するか」でした。

しかしこの頃の日本は、その本分を見失い、ソ連と歩調を合わせて英米に喧嘩を売るような外交しかしていません。

日本の中枢がおかしくなっていたとしか言いようがないのです。

そして1941年6月、イギリスを攻めあぐねていたドイツはソ連と戦争を始めてしまいました。

これによって「4カ国同盟によってアメリカに対抗する」という構想は完全に消え去り、かといってソ連を挟み撃ちにしてドイツを援護する事もできず、日本の立ち位置は完全に宙ぶらりんになりました。

1つ確かなのは、ドイツと同盟を結んだ事により、日本は完全にイギリスの敵に回ったという事です。

「連合国VS枢軸国」という、第二次世界大戦の構図はこうして出来上がり、アメリカとの開戦までのカウントダウンが始まりました。




2019年9月10日火曜日

支那事変12 第二次ノモンハン事件「夏が来れば思い出す。炎天下の大草原とサイダー瓶、そして戦車」



(前回からの続き)
支那事変11 第一次ノモンハン事件 「太陽の先生」

1939年6月18日、第一次ノモンハン事件が沈静化して二週間ほどがたった頃、再びソ連軍の動きが活発になってきます。

ソ連軍の爆撃機が突如、越境して各地を爆撃し、多数の死傷者を出した上に燃料500缶を消失する事件が起きたのです。

20日には、ソ連軍は戦車や装甲車による砲撃で日本軍の野営地を攻撃、兵舎などが炎上しますが、日本兵は対戦車砲などで反撃し、撃退しました。

関東軍はノモンハン事件の拡大に消極的でしたが、さすがにこのような軍事衝突が度重なると、再びノモンハンへ出撃し、敵勢力を殲滅すべしという考えが出てきます。

関東軍参謀の「辻政信」は、第23師団に加えて北方の守りの要である「第7師団」も投入して戦力を強化しようと計画しました。

しかし関東軍司令部が第23師団の「小松原道太郎」のプライドに配慮し、「小松原師団長の担当正面を、他の師団に任せるわけにはいかない」として、第7師団の参加は否決されてしまいます。

なんとか第7師団から4個大隊を引き抜いて第23師団に編入させることにはなりましたが、ソ連との戦力差を考えると十分な補強とは決して言えませんでした。

関東軍参謀・辻政信
6月22日にはソ連軍戦闘機150機が越境し、ノモンハン空域で日本軍戦闘機との空戦が起こります。

日本軍はソ連軍機を56機も撃墜しつつも、自軍の損失は「4機だけ」という大戦果をあげました。

その後も連日に渡ってソ連軍との空戦が起こったため、事態を憂慮した関東軍は、内地の参謀本部に無断で越境爆撃を行い、あくまでも「事件不拡大」の方針をとる参謀本部と関東軍の間に大きな溝ができてしまいます。

日本国内の軍中枢では「ソ連に事件拡大の意思はない」という誤った見解が浸透しており、関東軍との間にかなりの温度差ができてしまっていたようです。

ノモンハンの空の覇者・九七式戦闘機

ソ連軍・モンゴル軍との決着をつけるべく集結した日本軍の戦力は、第7師団から4大隊を引き抜いて第23師団に編入させた「21953名」に、満州軍の「2000名」を加えたもので、戦車を73両も投入した大規模な機械化部隊でした。

これに対するソ連軍は歩兵の数こそ12000名と少ないものの、戦車186両、装甲車266両と日本軍を圧倒し、後に増援も到着して兵数でも日本を上回る事になります。
ジューコフとソ連兵

ノモンハンにおける地上戦は、ハルハ河をまたいだ戦闘になりました。

関東軍参謀・辻政信の作戦はこうです。

・主力部隊がハルハ河東岸の敵軍に正面攻撃を仕掛けて釘付けにする
・戦車部隊を主力とする突撃部隊はハルハ河を渡河し西岸から敵の後方に回り込む

しかしここで問題が発覚します。

ハルハ河を渡河する為に橋を作る資材が十分ではなく、戦車を通す事ができなかったのです。

戦車が自力で渡河しようにも水深が深く、川底の形状なども調査不足でした。

そこで協議の結果、主力の歩兵団が西岸へ渡ってソ連軍の退路を断ち、東岸の戦車団は南下してソ連軍を殲滅するという作戦に変更となったのです。




まずは東岸の戦況を見ていきたいと思います。

6月30日、日本軍の九五式軽戦車部隊がソ連軍と交戦を開始しました。

しかしソ連軍の対戦車砲の弾速の速さや、日本兵の動きを封じ込める機関銃による阻止射撃などによって、日本軍は反撃する機会すらありませんでした。

ソ連軍の兵器の威力は、日本軍が支那事変で体験した事のない激しいものでした。
日本軍戦車
さらにソ連軍はピアノ線を張り巡らせて日本軍の戦車や装甲車を苦しめました。

ピアノ線で動きを封じ込められた九七式装甲車に乗っていた古賀康夫少尉は、包囲するソ連兵を相手に1時間半も奮戦し、壮絶な戦死を遂げています。

ノモンハン事件は、日本陸軍史上でかつてない規模で戦車を集結させた作戦でしたが、致命的な欠陥がありました。

「陸の王者」とも呼ばれる戦車ですが、実際は非常に死角が多く、単独で行動するのは非常に危険なのです。

戦車には死角を補う為に歩兵を随伴させて援護してもらう必要があります。

戦車の上に歩兵を乗っけて移動する「タンクデサント」という戦法もあるほど、戦車には随伴歩兵が不可欠なのです。
タンクデサント
しかし日本軍には、戦車の数の割りには自動車が少なく、歩兵や砲兵が自動車について行く事ができなかった為、せっかく戦車が敵を倒しても陣地を確保する事ができず、後退するしかなかったのです。

そんな調子でソ連軍の猛攻に対応できなかった日本軍の「戦車第4連隊」でしたが、7月2日に戦車部隊による「夜襲」を行い、大戦果をあげて反撃の糸口を掴みます。

7月3日、日本軍の「戦車第3連隊」は、夜襲で成功した第4連隊とは対称的に、日中にソ連軍陣地へ正面攻撃を仕掛け、戦車同士の戦いを展開しました。

ソ連軍の「BT-5」は、射程距離も威力も日本軍の「九七式中戦車」よりも優れており、日本軍を苦戦させました。

それでも日本軍は奮闘し、ソ連軍の戦車32両と装甲車を35両も撃破します。

実は日本軍の戦車はディーゼルエンジンを積んでいて燃えにくかった為、命中弾を食らっても持ちこたえる事ができ、予想以上に打たれ強かったのです。

しかしソ連軍陣地の前に張り巡らされたピアノ線によって13両の戦車と5両の装甲車を失う大損害を被り、戦車第3連隊は撤退することになりました。

この戦いは後に「ピアノ線の悪夢」と呼ばれることになります。

九七式中戦車

BT-5










翌日4日、戦力を喪失した戦車第3連隊に追い打ちをかけるように、増援によってさらに戦力を充実させたソ連軍の反撃が開始します。

兵器の質も量もソ連軍が圧倒的に上でしたが、日本軍が勝るものが1つだけありました。

兵の「練度」です。

戦車第4連隊は戦車の性能差を考慮し、戦車を丘陵に隠して砲塔だけが見えるように配置させ、まるで砲台のように運用しました。

そして鍛え上げられた技術で次々と命中弾を浴びせ、ソ連軍の戦車、装甲車、対戦車砲などを撃破したのです。

しかしソ連軍の猛攻は5日、6日とさらに数を増して断続的に続けられ、日本軍はその度に撃退するものの、損害は大きくなるばかりでした。

ついに6日の午後4時に戦車第4連隊に対して後退命令が出されます。

戦車を30両失った事によって戦車部隊は解散となり、以降日本軍はソ連軍の装甲部隊に「歩兵のみ」で挑んでゆく事になりました。

さらば戦車部隊
このように、ハルハ河東岸では両軍の激しい戦車戦が展開されたわけですが、西岸でも同時進行で激しい戦いが繰り広げられました。

小林恒一少将が率いる歩兵団「小林兵団」は、7月2日に渡河を開始し西岸へ渡ります。

ソ連軍の司令官ジューコフは、この動きを全く予想しておらず、ハルハ河東岸で日本軍戦車部隊との戦闘に集中していたため、小林兵団はほとんど抵抗を受けることなく渡河に成功しました。

ハルハ河を渡河
渡河を完了した小林兵団はモンゴル軍を打破しながら進軍を進めますが、ここにはすでにソ連軍の増援部隊の戦車・装甲車部隊が到着しており、不意に遭遇してしまった両部隊は戦闘になりました。

戦車を持たない小林兵団は速射砲(対戦車砲)や火炎瓶で応戦します。

火炎瓶とは言っても、サイダー瓶をかき集めて作った急造の火炎瓶です。

炎天下の中で連続走行を続けていたソ連軍の戦車は高温になっており、火炎瓶を投げるとよく燃えました。

この戦いで16両もの戦車を破壊された事を知ったジューコフは、まだ歩兵や砲兵が追いついていない増援部隊に「戦車・装甲車だけ」で出撃させるように命じました。

しかし先述したように、随伴歩兵を伴わない戦車は危険に晒される事になります。

結局、小林兵団に襲い掛かった133両の戦車と59両の装甲車のうち、77両の戦車と36両の装甲車を一日で失う事になりました。

ソ連軍の戦車が至る所で炎上し黒煙を吹き上げる様は「八幡工業地帯」と比喩されるほどでしたが、それでもソ連軍のさらなる猛攻は続き、小林兵団は防戦一方になっていきます。

火炎瓶が尽きて壊滅する部隊なども出てき始め、日本軍は後退して態勢を立て直さざるを得なくなってしまいました。
八幡工業地帯

敵戦車もなんのその

7月4日、小林兵団は西岸からの撤退を開始します。

ソ連軍にそれを追う力は残されておらず、小林兵団は7月5日に東岸の日本軍と合流することができました。

しかし合流できたはいえ、ハルハ河東岸で戦っていた戦車団は引き上げてしまい、日本軍には味方の戦車が一両もいなくなってしまいました。

第23師団長の「小松原道太郎」は、歩兵による大規模な「夜襲」を行い、敵陣地を1つずつ潰しては戻り、潰しては戻りを繰り返してゆく消耗戦を挑みます

7月7日から開始された夜襲によってソ連軍は大混乱に陥り、同士討ちする部隊まで出てくる始末で大損害を被りました。
日本軍の戦争に「夜」などない

ジューコフは東岸に増援を差し向けましたが、その部隊は寄せ集めで練度が低く、日本軍の銃声を聞いただけで逃げ出す有様でした。

ジューコフは増援部隊を呼び戻し、軍紀を乱した者を銃殺刑に処して再訓練を行い、さらに「督戦隊」を設置しました。

督戦隊とは、支那事変においては国民革命軍も設置していた「自軍で逃げ出す者を銃殺する部隊」の事です。
こんなイメージ
ソ連軍がどれほど厳しい処罰を与えようとも、日本軍の夜襲には敵わなかったようで、ソ連軍の混乱は収まりませんでした。

しかし日本軍にとっても、一進一退の夜襲作戦ではなかなか進軍がはかどらず、徐々に損耗も大きくなっていくばかりでした。

そこで、日本国内からの増援と満州の砲兵戦力を呼び集めて砲兵団を結成し、砲撃戦にて敵砲兵を殲滅する計画が立案されたため、増援の到着を待つ間は日本軍は前線から後退し、夜襲作戦は終了しました。

かき集められた砲兵団は82門の大砲を擁する大規模なものになり、「内山英太郎」少将が団長となりました。

しかし肝心の砲弾が3万発足らずしか用意されておらず、これはソ連軍と打ち合えば半日でなくなってしまう量でした。

7月23日、日本軍は歩兵団の支援として、砲撃を開始します。

この砲撃によってソ連軍は数十門の砲を破壊されたものの、砲兵同士の打ち合いに固執した日本軍に対し、ソ連軍は進軍してくる歩兵に目標を定めて攻撃をした事によって、日本軍の進行を効果的に食い止めました。

3日間に渡る砲撃戦で日本の砲兵団は砲弾を使い果たしましたが、ソ連軍の砲弾が止む事はありませんでした。

物量の差が、両軍の戦局を大きく動かすことになるのでした。
九二式10センチ加農砲
ソ連軍には続々と援軍が届いているのに対し、日本軍に補充兵が来るのはまだまだ先のことでした。

日本軍はこれまでの攻勢から一転し、陣地を構築して防衛体制に入ります。

しかし、ハルハ河西岸から降り注ぐソ連軍の砲弾をかわしつつ、歩兵の襲撃を撃退しながらの陣地構築が捗るはずもなく、予定の三分の一しか完成していないまま、ソ連軍の総攻撃を迎える事になってしまいました。

日本軍の攻撃によって多大な損害を出していたソ連軍は、膨大な軍需物資をノモンハンへ輸送し、さらに三万名以上の兵員を増強させました。

ソ連軍は総攻撃の準備を悟られないようにあらゆる欺瞞工作を行い、日本軍司令部に緊張感を与えませんでした。

ソ連軍が総攻撃を行う二日前まで、第23師団の司令部の情報日誌には「平穏なり」と書かれていたほどです。

しかし前線の部隊はソ連軍の動きを察知しており、不眠不休で警戒体制を敷いていましたが、楽観視していた司令部はその報告を受け入れませんでした。

この時点でソ連軍は5万人以上の兵員、戦車438両、装甲車385両、野砲・重砲292門、高射砲87門、対戦車砲130門と、日本軍の何倍もの戦力を揃えていました。

これまでに敵兵力の過小評価・現状とかけ離れた情報分析を繰り返してきた日本軍でしたが、そのツケが最悪の形で回ってきたのです。

8月20日早朝、激しい爆撃と砲撃の後、ソ連軍の進撃が始まりました。

北部を守る満州国軍は忽ちにして潰走し、フイ高地を防衛していた「井置捜索隊」は孤立してしまいます。

「フイ高地」というのは、日本軍が作戦の便宜上名付けた721mの「21」の部分をもじってつけられた地名です。


「井置栄一中佐」が率いる井置捜索隊800名は、6000名のソ連軍を相手に奮闘します。

塹壕が張り巡らされた陣地ではソ連軍の戦車も役に立たず、井置捜索隊は白兵戦に持ち込んでソ連軍を撃退して行きました。

フイ高地を攻略できないと知ったジューコフは、予備兵力の全てをフイ高地へ投入します。

井岡捜索隊は10倍以上の戦力差があるとは思えないほど頑強に戦いますが、24日には食料・水・弾薬が尽き果て、部隊の半分が戦傷死して壊滅状態になってしまいました。

井置中佐は拳銃自殺を試みようとしますが部下に制止され、撤退を決断します。

わずかに生き延びていた部下達が脱水症状に苦しむ姿を見ていられなかったが故の判断でしたが、上層部からの命令がない「独断撤退」は後に強く責められる事になり、ノモンハン事件の後、井置中佐は自殺してしまいます。

ソ連の歴史家「アルヴィン・クックス」は、「ジューコフが井置の上司だったら、井置はは勲章をもらえていただろう」と、井置中佐の事を優秀な指揮官だと評価しています。
井置栄一中佐

その後、フイ高地を失った日本軍は反転攻勢を仕掛けようとするも、ソ連軍の圧倒的な火力の前に兵は倒れていくのみでした。

ソ連軍の総攻撃が行われている最中でも、関東軍司令官「荻洲立兵」は、前線司令部でワインを飲んで酔っ払っていました。

ジューコフはノモンハンで戦った日本軍の事を「兵は優秀だが将軍は愚劣」だと評しましたが、まさにその通りだったと言えるでしょう。
荻洲立兵(おぎすりっぺい)
8月31日、最後に残された日本軍の陣地「バルシャガル高地」の陥落によってソ連軍の大規模な「総攻撃」が終了し、ノモンハン事件はひと段落つきます。

第23師団の損耗率は78%となり、文字通り「壊滅」しました。

日本兵の遺体


実はソ連軍の総攻撃のさなか、日本政府を揺るがす大事件が起こっていました。

日本と「防共協定」を結んで、共にソ連に対抗しようと約束を交わしていたドイツが、「独ソ不可侵条約」を結んだのです。

日本とドイツの軍事同盟を模索していた平沼内閣は直ちに交渉を取りやめ、平沼騏一郎首相は「欧州の天地は、複雑怪奇なり」との声明を残して総辞職してしまいました。

独ソ不可侵条約
この独ソ不可侵条約によって、ソ連は西の脅威であるドイツへの警戒を薄める事が出来、東への軍事行動を強める事ができるはずなのです。

7月末頃からソ連との停戦を模索し始め、困難ながらも交渉の糸口を掴み始めていた日本政府でしたが、ソ連の総攻撃で戦況が一気に悪化し、さらに独ソ不可侵条約が締結された事によって日本の置かれた立場は圧倒的に不利になってしまいました。

しかし、このような状況におかれても、日本政府と関東軍は飽くまでも強気でした。

関東軍はノモンハンに第2師団、第7師団を投入し、ソ連軍に一撃を与える計画を立てていましたし、日本の駐ソ大使「東郷茂徳」は、ソ連の外相代理のロゾフスキーと面会し、
「日本は、満州国軍に配慮して大兵力を投入しなかっただけの事。もし必要なら大部隊を北上させる事もできる。しかしそれでは日本とソ連は本格的に戦争をすることになるので、和平交渉は望むところです。」
と強硬な姿勢を見せました。
東郷茂徳
現状としては日本軍が劣勢であったとは言え、ノモンハン事件で投入された戦力比は10倍とも言える差がありました。

ソ連軍の大兵力は、「第23師団」という訓練不足のたった一個師団に大苦戦を強いられたのです。

「日本軍が大部隊を北上させる」この言葉に震え上がったのは他でもない、スターリンでした。

さらにソ連は、独ソ不可侵条約の際に、ポーランドをドイツとソ連で軍事侵攻し、分割する密約を交わしており、そのためにノモンハンにこれ以上軍事力を費やす余裕がありませんでした。
(この「ポーランド分割」は第二次世界大戦の大きな原因となりました。)

ノモンハンではいまだに散発的な戦闘が続いており、関東軍も総反撃を計画していましたが、日本とソ連は9月15日に停戦合意に至り、ノモンハン事件は終わりました。

停戦時の占領地を国境線とし、賠償金もない協定は、日本にとって五分五分とも言えるもので、戦況を考慮すると破格の内容だったと言えます。

このノモンハン事件の両軍の損害は

死傷者   
日本 17405名
ソ連 25655名以上

航空機損害
日本 179機
ソ連 1673機

戦車損害
日本 29両
ソ連 800両以上

となっており、ソ連軍の損害は日本よりも多いものでした。

日本兵の勇猛さに逃亡を企てるソ連兵が多かったため、ソ連兵は戦車の操縦桿に鎖で縛り付けられ、ハッチを溶接された状態で戦地へ送り出されたと言われています。

鹵獲品で記念撮影

「なんの資源もない草原を取り合いっこした、全く無益な国境紛争」
「日本軍はボロ負けだった」
という論調で語られがちなノモンハン事件です。

そかしその本質を紐解くと、
「支那事変で日本が国力を疲弊した隙を狙い、傀儡国家同士の国境紛争に乗じて太平洋進出を目論んだソ連の侵略戦争」
という、とても重要な出来事だったのだとわかります。

一個師団に苦戦を強いられたソ連軍は、その後、太平洋進出を諦めざるを得ませんでした。

そして1945年の8月、大東亜戦争で日本が壊滅した後に、ソ連軍は再び動き出す事になるのです。


ドラム缶見張り台

ヤギと日の丸
負傷したソ連兵を治療する日本兵

ソ連兵捕虜とタバコの火を分け合う日本兵