2019年9月18日水曜日

支那事変13 日本包囲網


1937年から始まった支那事変ですが、日本軍は損害を出しつつも連戦連勝の快進撃を続けました。

これに対し国民党の蒋介石は首都・南京を放棄して内陸部の重慶へと遷都させて事変の長期化を目論みます。

重慶まで陸軍の侵攻を進める事が困難であると考えた日本軍は、航空機による戦略爆撃を行いました。

戦争というものは「歩兵」が地面を踏まねば終わらないものです。

いくら爆撃を行っても、蒋介石が根をあげる事はありませんでした。
重慶爆撃


しかし、主要な商業都市を抑えられ、国民党は独力では戦闘の継続が不可能なほどに打撃を受けた国民党でしたが、なぜ戦闘を継続させる事ができたのでしょうか?

実は、蒋介石率いる国民政府は、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連などから多大な支援を得ていたのです。

イギリス・フランス・アメリカは、支那に「租借地」「租界」を持っていました。

租界や租借地を大雑把に説明するなれば「プチ植民地」とでも呼ぶべきでしょうか、列強国はとにかく支那市場の旨味を存分に味わっていました。

彼らにとって一番困るのは、日本軍の軍事行動が彼らの租界での経済活動に支障をきたすことです。

列強各国は、中華民国との関係が崩れないように、蒋介石を支援しました。

さらにソ連には、支那事変を長引かせて日本の国力を衰退させようという思惑もあったようです。

支那事変が起こった1937年の12月、中華民国と「ソ支不可侵条約」を結んだソ連は、国民革命軍に空軍支援を行いました。

当時、大阪毎日新聞はその事を「露国は支那を支持する事によって日本の国力を衰退せしめ・・・」と的確な記事を書いています。

これらの中華民国に対する様々な援助に必要だった輸送路は「援蒋ルート」と呼ばれました。

日本軍は、支那事変を終わらせる為にこの援蒋ルートを遮断する必要があり、戦線を拡大していかねばなりませんでした。

援蒋ルート
ところで、話は逸れますが、現在の日本の学校教育において「支那事変」という言葉は使われておらず、代わりに「日中戦争」という言葉が使われています。

この「日中戦争」という言葉は、「日本と中華人民共和国が戦争をした」という勘違いを意図的に狙った悪質な造語であります。

戦後、「日支事変」「日華事変」という言葉を用いて教科書などでも説明されていましたが、1970年代に入って急速に「日中戦争」という言葉が普及していきました。

日中国交正常化以降、明らかに日本の教育は中華人民共和国に忖度するようになり、外交的にも中華人民共和国があたかも「戦勝国」であるかのように振る舞うようになっていきました。

しかし、支那事変、日支事変、日華事変と呼び方は色々あれども、この戦いはあくまでも戦争ではなく「事変」でありました。

当時のアメリカは「中立法」というものがあり、「戦争している国に対しては、軍事物資を輸出してはいけない」という決まりがあったのです。

蒋介石を支援したかったアメリカをはじめとする諸外国は、日本と支那で起こった紛争を「戦争」として認めるわけにはいかなかったのです。

「日中戦争」という言葉は、そういった当時の状況を全く無視したものなのです。
「中立法」を風刺した絵
さて、支那事変が長引く中、日本が占領した地域では自治政府が発足し、治安を安定させていました。

それらの自治政府は集結し「中華民国臨時政府(後に汪兆銘の南京国民政府と合流)」を結成します。

1939年4月、中華民国臨時政府が任命した海関(港の税関)監督が、天津の英国租界で暗殺される事件が起こりました。

しかしイギリスは、租界の中に隠れる犯人を日本へ引き渡す事を拒否します。

かねてより日本軍は、「抗日ゲリラ」に苦しめられており、イギリスやフランスの租界はゲリラや共産党員の活動拠点となっていました。
天津租界

北支方面軍参謀長の「山下奉文」は最後通牒を突きつけ、イギリス租界を封鎖して厳しい検問を行います。

当然、イギリスは検問を中止するように要請し、有田八郎外相とクレーギー駐日大使による会談が行われる事になりました。

意外な事に、イギリスは日本の要求に対して大きく譲歩し、「租界内の抗日分子の取り締まり」「租界内に国民党が隠し持っている現金の引き渡し」などの条件を飲む事になりました。

イギリスは、国民党に対して多大な支援をしつつ、日本とも歩調を合わせようとしていました。

実はイギリスが最も警戒していたのは、支那利権に進出し始めたアメリカだったのかもしれません。

日本がもし日米開戦を避けようとするのであれば、イギリスを利用するべきだったのですが、日本はあえてそれをしませんでした。

イギリスと手を組む事は、ヴェルサイユ体制の維持を意味し、アジアは欧米列強に今後100年は貪り続けられる事になるからです。

イギリスの、このような対日宥和政策をアメリカは当然面白く思いませんでした。

有田・クレーギー会談の4日後、アメリカは日本に対して一方的に「日米通商航海条約」の破棄を通告してきたのです。

これは、日本に対し甘い対応を取り続けるイギリスへの牽制でもありました。

そしていよいよ、日本は経済的にも世界から孤立していく事になるのです。


アメリカは国民党に対して多大な軍事支援を行っていました。

それはもはや、「支那事変はアメリカとの戦い」とも言えるほどのものでした。

1940年以降、アメリカは「アメリカ義勇部隊America Volunteer Group」、通称「フライングタイガース」と呼ばれる部隊で日本軍への攻撃を仕掛けていました。

飽くまでも「退役軍人が」「個人の意思で」「傭兵として」国民革命軍に参加したものとされていますが、実際に戦闘に参加した機体は最新式のものであり、米国内の陸軍航空隊内部でリクルートが行われていました。

さらに、フライングタイガースの投入は大統領の承認を得た秘密作戦であり、日本機を一機撃ち落とすと500ドルのボーナスが支給されていたのです。

つまり、日本とアメリカは真珠湾攻撃の前から戦闘状態にあったと言えるのです。

アメリカのルーズヴェルト大統領は、支那大陸からフライングタイガースを利用して日本を爆撃する作戦を承認していました。

真珠湾攻撃の半年前の事です。




真珠湾攻撃前にサインされた対日攻撃計画書「JB355」

さて、国民党を支援していたのはアメリカ・イギリスだけではありません。

フランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)にも重慶へ通じる援蒋ルートがありました。

日本は何度もフランス政府へ国民党への援助をやめるように訴えましたが聞き入れられませんでした。

しかし第二次世界大戦の勃発に伴い、1940年6月にフランスがドイツに降伏すると、ようやくフランスは援蒋物資の輸送を停止します。

ドイツに占領されたフランスは、国家存続と引き換えにナチスの傀儡政権「ヴィシー政府」を発足させました。
親ナチス派のヴィシー政権では、ユダヤ人の迫害も行われました。

ヴィシー政権は、ドイツと同盟締結の話が進んでいた日本に対して友好的で、松岡洋佑外務大臣とアルセーヌ=アンリ大使との間で「松岡=アンリ協定」が結ばれる事になりました。

この協定は
「フランス領インドシナ北部への日本軍の進駐を認める事」
「日本はインドシナにおけるフランスの主権を認め、領土保全を尊重する」
という、日本とフランス両国の利益を尊重するものでした。

1940年9月23日、正式に進駐が開始されます。

日本の進駐に反対する一部のフランス軍との間に戦闘が起こるなどの問題が起こりましたが、25日には停戦が実現し、日本軍はインドシナ北部の飛行場や港の使用権を獲得しました。

フランスの植民地支配に虐げられていた現地のベトナム人達は、フランス軍を蹴散らして進駐してきた日本軍を見て「解放軍だ!」と歓喜しました。

何しろ、8万のフランス軍が守る要塞を、わずか3000人の日本軍が陥落させたのです。

日本軍と共闘できる事に期待したベトナム人達は、独立をかけて武装蜂起を起こしますが、ヴィシー政権を尊重しなければならない日本軍はそれを支援するわけにはいきませんでした。

ベトナムの「復国同盟軍」を率いたチャン・チュン・ラップ将軍はフランス軍に捕らえられて銃殺されてしまいますが、その後もベトナム人達の独立の火は消えませんでした。

日本軍の「北部仏印進駐」は、期せずしてアジア独立の導火線になったのです。
仏印進駐(北部)


このように、中華民国の背後にはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の影が隠れていて、支那事変はもはや日本と中華民国の紛争を隠れ蓑にした「代理戦争」の様相を呈していました。

そんな中でも、「ヴェルサイユ体制の打破」「防共」などの点で日本と利害が共通し、歩調を合わせようという国も存在していました。

1936年に「日独防共協定」を結び、ソ連のコミンテルンに対抗しようとしていた日本とドイツですが、この協定には後にイタリア、満州、ハンガリー、スペインが参加したことによって6カ国協定になりました。

日本政府は、この多国間協定が国際社会に置いて無視できない存在になれば、英米にも影響を与えて支那事変解決の糸口になるのではないかと考えていました。

しかし1939年、ノモンハン事件の最中にドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」を結んだ事によって日本は失望し、防共協定は事実上、空文化してしまいました。

それでも第二次世界大戦でドイツが快進撃を見せると、日本国内では再び「ドイツと組むべし」という声が起こり始めます。

異様な世論の盛り上がりによって「バスに乗り遅れるな」という流行語もできたほどでした。
領土拡大を続けていたドイツ

ところで、「独ソ不可侵条約」は、内閣を総辞職に追い込むほど日本に衝撃を与えましたが、実際はドイツとソ連が軍事同盟を結んだわけでもなんでもなく、ドイツからしてみれば「フランス・イギリスと戦う時に、東のソ連に挟み撃ちにされないように」と保険をかけたに過ぎません。
「欧州情勢、複雑怪奇なり」と言い残して総辞職した平沼内閣

ドイツはソ連と軍事的に手を組んだわけではないのです。

「独ソ不可侵条約の解釈の違い」という、噛み合わない歯車はそのままに、日本とドイツは同盟を結ぶことになってしまいました。

近衛文麿首相による第二次近衛内閣によって、1940年9月27日、「日独伊三国同盟」が結ばれました。

外務大臣・松岡洋右は、三国同盟にソ連を加えた「4カ国同盟」に発展させる構想を練っていました。

防共協定の時と同じように、国際的に無視できない勢力を築いて圧力をかけ、支那事変の終息を目論んだのです。

スターリンはこの構想に乗る構えを見せましたが、同盟締結の見返りにドイツの領土を求めたりと厳しい条件を突きつけたために、ドイツとソ連の関係は悪化し、交渉は困難になってしまいました。

日本はなんとか単独で「日ソ中立条約」を結ぶことに成功しましたが、この条約によって日本とドイツの同盟は意味をなさなくなってしまいます。
日ソ中立条約に調印する松岡洋右

ドイツにしてみれば、日本と同盟を結ぶ最大のメリットは「ソ連を挟み撃ちにできる事」だったのです。

明治維新以降、日本の国防上の最大の課題は「ロシア・ソ連にどう対抗するか」でした。

しかしこの頃の日本は、その本分を見失い、ソ連と歩調を合わせて英米に喧嘩を売るような外交しかしていません。

日本の中枢がおかしくなっていたとしか言いようがないのです。

そして1941年6月、イギリスを攻めあぐねていたドイツはソ連と戦争を始めてしまいました。

これによって「4カ国同盟によってアメリカに対抗する」という構想は完全に消え去り、かといってソ連を挟み撃ちにしてドイツを援護する事もできず、日本の立ち位置は完全に宙ぶらりんになりました。

1つ確かなのは、ドイツと同盟を結んだ事により、日本は完全にイギリスの敵に回ったという事です。

「連合国VS枢軸国」という、第二次世界大戦の構図はこうして出来上がり、アメリカとの開戦までのカウントダウンが始まりました。