2019年7月28日日曜日

支那事変5 文民統制、なぜできぬ







明治時代、日本政府の要職は、薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩など「薩長土肥」による「藩閥」によって占められていました。

初代総理大臣から第11代まで、すべてこの藩閥出身から就任していたのです。
藩閥内閣

しかし第12代総理大臣に西園寺公望(さいおんじ きんもち)が就任すると、今度は桂太郎と西園寺公望が交互に総理大臣を務める「桂園時代」が訪れます。

藩閥政治の桂内閣に対し、西園寺は政党政治を目指しました。

とはいえ、西園寺内閣は全て政党・立憲政友会のメンバーで固められたわけではなく、軍閥、官僚などに配慮した組閣しかできませんでした。
桂園時代
しかしこのような時代の流れは藩閥政治への批判の下地となり、大正デモクラシーへと繋がり、日本の政治は政党政治による「議院内閣制」へと変わって行きました。

選挙によって議員が選ばれ、議会の信任によって内閣が成立するという「下から突き上げる」形での政治が実現したのです。


ですが大日本帝国憲法では「議院内閣制」は採択されておらず、内閣が議会に対して責任を負うのではなく、各大臣がそれぞれ天皇に対して責任を負う事が定められていました。

その為、日本に芽生え始めた「民主主義」には後に綻びが生じることになります。

それでも欧米諸国から「200年はかかる」と言われていた民主主義を、明治維新以降のわずか数十年で形にした事は誇るべき事だと思います。

「戦争に負けた軍国主義の日本は、アメリカから民主主義をもらった」

などと教え込まれてきましたが、それが真っ赤な嘘である事がおわかりいただけると思います。

しかし、大日本帝国憲法下において、軍を抑制できなかった事も事実です。

国家は秩序を保つための最終的な強制力として「軍隊」を保有します。

政府と軍隊の関係によっては、しばしば軍の意向が政策に強く反映されたり、時としてクーデターの発生に繋がったりするのです。

今回は、戦前の日本の政治の裏で、軍部がどのように動いていたかを書いて行きたいと思います。
「天皇直属の軍隊」という意識が軍部の抑制を拒んだ

「かつては藩閥が牛耳っていた」という状況は、政治だけでなく陸軍でも見られました。

そもそも日本陸軍は薩摩藩、長州藩が築いたものですが、明治時代には「長州出身でないと出世できない」と言われるほど、長州藩閥の天下になっていました。

当然のように、それに反発して長州閥に対抗するための派閥を組む者も出てきます。

欧州へ出張していた「岡村寧次」、スイス駐在武官の「永田鉄山」、ロシア駐在武官の「小畑敏四郎」の3名は、ドイツの保養地バーデン=バーデンにて国防論に花を咲かせ、長州閥を打倒し軍部の人員を一新させ、国家総力戦が行える体制づくりを目指そうと誓い合いました。(バーデン=バーデンの密約)

彼らは日本へ帰国後、積極的に勉強会を開くようになります。

すると次第に賛同者が増えて「二葉会」「木曜会」といったグループが出来、それらは合流して「一夕会(いっせきかい)」という大きな派閥となります。

一夕会はやがて陸軍の重要ポストを占めるほどにもなりました。

その中には河本大作、石原莞爾、板垣征四郎なども名を連ねており、「満州事変」という構想は一夕会によって構想、実行された事が伺えます。

永田鉄山
岡村寧次

小畑敏四郎


少し話をさかのぼります。

第一次世界大戦の後、世界中が軍縮傾向にある中、日本では海軍のみならず、陸軍でも軍縮が行われていました。。

三回に渡る軍縮の結果、陸軍は常時兵力の三分の一に当たる10万人を削減し、浮いたお金で軍備の近代化を進める事ができました。

この軍縮は宇垣一也陸軍大臣によって決定された為「宇垣軍縮」と呼ばれ、陸軍省動員課長を任された「永田鉄山」によって推し進められました。

宇垣一成(うがき かずしげ)
永田鉄山は、第一次世界大戦の時には観戦武官として欧州各国の軍事力を目の当たりにし、日本の軍備の遅れを肌で感じ取っていたのです。

しかし一方で、軍縮などとんでもない、ソ連の軍備が整う前に撃退すべきだ、と主張する「荒木貞夫」のような対ソ戦論者も現れました。

荒木はシベリア出征に赴いた時に、共産主義者達の残虐さと脅威を目の当たりにしていたのです。
荒木貞夫

急激な軍縮が、このような意見の食い違いを浮き彫りにし、派閥抗争が激化する原因となってしまいました。

そのような状況の中、昭和恐慌が吹き荒れていた1930年9月、一つの派閥が結成されました。

橋本欣五郎中佐
坂田義郎中佐
樋口季一郎中佐
などの佐官級の将校10数名が発起人となり発足したその派閥は「桜会」と呼ばれました。

陸軍参謀本部や陸大出身などの「エリート」が集まったメンバーの中心には「橋本欣五郎」がいました。

彼はロシア革命やトルコ革命などに刺激され「趣味が革命」と言われるほどのヤンチャな(?)人物でした。
橋本欣五郎
そんな橋本欣五郎は、桜会の目的を「国家改造」と定めます。

恐慌による貧困、学生の愛国心の欠如、不健全文化、左翼思想の蔓延などの社会現象は「政党政治の腐敗」が原因であるとし、軍主導の政治体系を築こうと考えたのです。

「秘密結社」として組織されていた桜会でしたが、その存在は軍の上層部にも薄々気づかれていました。

しかし上層部にも「一夕会」など軍部内で派閥を組んだ経験がある者が多く、黙認されるどころか軍務局長の小磯国昭のように、むしろ支援する者が現れるほどでした。
小磯国昭
1931年3月、桜会は一万人の民衆を扇動してデモを起こし、議会保護の名目で軍隊を動員して議会を包囲、現内閣に総辞職させて陸軍大臣「宇垣一也」を首班に据えた軍事政権の樹立を企てました。

しかしデモの予行演習で予想以上に人が集まらず、さらに宇垣一也や小磯国昭の心変わりなどもあってこの計画は頓挫してしまいます。(三月事件)

実はこの計画、陸軍内部だけでなく、「大川周明」という民間人も参加していました。

大川周明は山形県出身の思想家で日本主義、社会主義、アジア主義の観点から人材育成を行い、様々な政治家や活動家に影響を与えていました。

三月事件の際には、大川は宇垣一也に「混乱した日本を救うのはあなたしかいない」と焚きつけるような書簡を送っています。
大川周明の「日本二千六百年史」は後に大ベストセラーに
さて、計画が周囲にバレバレで中止に追い込まれた三月事件でしたが、陸軍は箝口令を敷いて首謀者に何の処罰も与えませんでした。

この為、「クーデター計画を立てても何の処罰もない」「陸軍首脳もクーデターを望んでいるのではないか」という誤った認識が軍内部で浸透してしまいます。

そこで「趣味が革命」橋本欣五郎は再び立ち上がります。

1931年9月、満州事変が勃発した時、政府は「事変不拡大」の方針を打ち立てました。

橋本欣五郎はこれを不服とし、満州事変をアシストする計画を立てます。

軍隊を動かして首相たちを暗殺し、「満州が日本から独立する」という電報を政府に送り、クーデターを誘発しようとしたのです。

この時に首相候補として担ぎ上げられたのは「荒木貞夫」です。

ちなみに大川周明は大蔵大臣になる予定でした。

この計画には、もう1人重要な人物が新たに参加していました。

「北一輝」です。

彼はよく「右翼思想家」と評されますが、彼の思想はマルクス主義に傾倒した社会主義であり、大日本帝国憲法を批判して著書が発禁処分になったりするほどでした。

北一輝は、日本で革命を起こすならば、皇室の存在のもとで合法的に行うことが望ましいと考え、数々の思想家、社会主義者たちと親交をもち、多くの人間に影響を与えていく事になります。

「国家観」と「社会主義」が融合した「国家社会主義」の重鎮であると言えます。
北一輝
そんな北一輝や海軍も巻き込んで進められたクーデター計画は、三月事件の反省も踏まえて秘匿的に進められました。

彼らにとって、満州事変を成功させることは、満州に居留する日本人を救うだけでなく、辛亥革命以降、支那人から差別されていた満州民族をも救い、さらには支那全土を救い、東洋平和の実現につながるはずだったのです。

結局、このクーデター計画も陸軍の中枢にバレてしまい、中心人物が一斉に検挙され、桜会は解散する事になりました。(10月事件)

とは言え、処分はまたも甘いものになり、事件の責任はうやむやになってしまいます。

「三月事件」「十月事件」この二つの国家転覆計画は失敗したものの、思想家・活動家たちに大きな影響を残しました。

翌年に起きた「血盟団事件」の、「政財界の要人を暗殺してクーデターを誘発させる」という発想は、まさに「十月事件」そのものです。

【血盟団事件についてはblog-post_8.html

実は血盟団事件の首謀者である井上日召は十月事件にも参加しており、その意思を受け継いでいたのでした。
井上日召
この事件で逮捕された血盟団の1人が、事件に使用された武器の供給先が「海軍」である事を供述しました。

彼らに武器を渡していたのは、海軍青年将校の「藤井斉(ふじい ひとし)」だったのです。

血盟団事件が起こった時、藤井は既に上海事変で戦死していましたが、藤井は死ぬ前に「後を頼む」とその無念を遺言として残し、それを知った海軍の同志によって、ある事件が引き起こされる事になります。

「五・一五事件」です。

藤井斉

五・一五事件は、その名が示すように1932年の5月15日に起こりました。

海軍の青年将校4名、陸軍士官候補生5名が首相公邸に突入、首相の犬養毅を銃殺したのです。

首相公邸の他にも内大臣官邸、警視庁、変電所などが襲撃されますが、被害は軽微なもので済みました。

そしてこれらの襲撃に参加した者の中には、血盟団の残党が含まれていました。
首相公邸に突入した青年将校・三上卓
当時の海軍といえば、1930年に行われたロンドン軍縮会議などによって軍縮が進められていました。

それに伴って、海軍兵学校は入学者を減らし、兵士達は休暇を与えられるようになりました。

まるで「お払い箱」になったかのような扱いを受ける中で、彼らの不満は政府に向けられる事になります。

国防を軽んじ、自己の利益ばかりを追求する政財界の連中を一掃し、日本を改造すべきなのだ、という信念が彼らを突き動かしたのでしょうか?

しかし、金解禁を行なって日本を「昭和恐慌」へと引きずりこんだ浜口内閣、恐慌に対して成すすべもなく、満州事変の収集をつける事もできなかった弱腰外交の「若槻内閣」は終わり、時代は「犬養内閣」の時代に移っていました。
犬養毅
犬養内閣の時代には「第一次上海事変」が勃発した為、海軍にもしっかりと活躍の機会が与えられましたし、高橋是清蔵相によって的確な経済政策が施され、経済的混乱は終息へ向かっていました。

つまり、海軍青年将校達が犬養内閣を攻撃する理由などなかったはずなのです。

彼らに政局、政情を冷静に判断する能力がなかったのか、国家社会主義というイデオロギーに取り憑かれてしまっていたのかどうかは定かではありませんが、五・一五事件は間違いなく日本を戦争へのレールに乗せることになりました。

実行犯や関係者は実刑を受ける事になりましたが、それでも処分は軽く、誰1人死刑にならない甘い判決が下されます。

この時、大川周平も5年の有罪判決を受けて服役しています。

「政治家が軍に命を奪われたのに死刑にならなかった」という事実によって、日本の政党政治は終わりを告げる事になりました。

犬養首相の死後、政党から総理大臣を選ぶことができず、それ以に政党党首から総理大臣が任命される事はありませんでした。

これまで軍部や民間団体による国家転覆計画を書いてきました。

それぞれは一つの連続した流れのように見えますが、実は出来事の「系譜」に差があります。

三月事件、十月事件などは「陸軍」によるクーデター未遂でしたが、血盟団事件や五一五事件は「海軍」によるものなのです。

つまり、未遂に終わり続けていた陸軍には革命の機運がまだくすぶり続けている状況でした。

当時の日本には、「天皇機関説」という考え方が浸透していました。

1900年頃から、「国を法人とするならば、天皇は会社を治めるための最高機関である」という考え方が唱えられ始めたのです。

日本が政党政治への歩みを進める中で、ある意味では理にかない、時代の変化にそぐうものであったのかも知れません。

しかし「天皇は国家を超越した存在である」という大日本帝国憲法本来の考え方と、「天皇は社長みたいなもんだよ」という天皇機関説の考え方は大きく乖離しており、政党政治を打倒しようとする軍内部の急進派達にとっては、到底受け入れられるものではありませんでした。

景気が悪く、国民が貧しくなると「政治家が悪い、金持ちが悪い」という考え方が広がるのは今も昔も変わりません。

昭和恐慌の中、「政党政治は腐敗している!」という考え方が軍内部の青年将校達を中心に増えていきます。

政治が腐敗した現状を打破するには、天皇のそばにいる悪い奴等「君側の奸」を討ち、天皇親政による、天皇を中心とした社会を取り戻すことが大切だと唱え、青年将校達から熱狂的に支持されたのは「荒木貞夫」です。

犬養内閣において陸軍大臣となった荒木貞夫は、自分の派閥で要職を固め「皇道派」と呼ばれる事になります。

そして永田鉄山など、「軍縮して軍備の近代化を図る」と考えていた一派は荒木人事に追いやられてしまい、皇道派に対抗する「統制派」になりました。

「驕る平家も久しからず」と陰口を叩かれるほど勢力を伸張させた皇道派の中心であった荒木は、犬養内閣に続いて、斎藤内閣においても陸軍大臣を務めましたが、決して政治手腕に長けていたわけでもなく、大臣の任期末期には陸軍省からの信用を失っていました。

さらに、青年将校達の「君側の奸を廃して天皇親政の社会主義国家を作る」という動きは、当然ながら政財界から「危険思想」とみなされており、荒木貞夫は青年将校達に自重するように求め続け、青年将校達を失望させました。

四面楚歌になった荒木貞夫は1934年に陸軍大臣を辞任します。

同じく皇道派の中心人物であった「真崎甚三郎」を後任に推薦しますが、強い反対にあって断念、「林銑十郎」が陸軍大臣に就任する事になりました。

それどころか真崎甚三郎はその翌年、軍事務局長に就任していた永田鉄山によって悪評を流布され、更迭されていましました。
真崎甚三郎
荒木貞夫の辞職、真崎甚三郎の更迭によって皇道派は政治基盤を失い窮地に立たされます。

しかしここで衝撃的な事件が起こります。

皇道派の「相沢三郎」が、真崎の不当な更迭に憤慨し、永田鉄山を惨殺したのです。

陸軍省内部という、政治の中心で起こった惨殺事件に世間は騒然としました。
永田鉄山の遺体
相沢三郎














この事件は皇道派の青年将校達を大いに刺激しました。

相沢三郎の公判は、彼を支持する者達の独演会と化し、その翌日に「二・二六事件」が発生したのです。

1936年2月26日、1400名の将兵が首相官邸や警視庁などを襲撃し、内大臣の斉藤実、大蔵大臣の高橋是清などを殺害し、侍従長の鈴木貫太郎に重傷を負わせました。

総理大臣の岡田啓介は脱出に成功し事なきを得ましたが、秘書が身代わりに殺され、さらに銃撃戦によって数名の警官が殉職する事になりました。
岡田啓介首相
この事件は皇道派の青年将校達による「クーデター」であり、彼らによって永田町は占拠されてしまいました。

彼らの目的は
「国が滅びゆく元凶である政財界の要人を排除し、天皇親政の政権を樹立する事」
ですが、クーデター決起のタイミングや、襲撃されて殺された者の中に統制派の陸軍大将、渡辺錠太郎が含まれていた所をみると、この事件の真の目的は「皇道派が勢力を挽回する為」とも考えられます。

要するに、二・二六事件は「陸軍の内部抗争」が飛び火しただけなのです。

結局、決起した青年将校達には、要人達を襲撃したその後のビジョンが全くありませんでした。

「自分たちを支持する上層部が動いてくれる」という淡い期待を抱いていました。

当初は陸軍上層部の中でも彼らに同情的な声もあり、事態が収拾する気配は一向にありませんでしたが、その煮え切らない陸軍を動かしたのは他でもない、「昭和天皇」でした。
反乱軍の青年将校達
昭和天皇は事件に激怒し「朕自ら近衛師団を率いて此れが鎮圧に当たらん。馬を引け」とまで発言すると、陸軍上層部も掌を返します。

青年将校達を「決起部隊」と呼んでいたのに、いきなり「反乱軍」と呼ぶようになり、戦車をも出動させて大軍で彼らを包囲します。

ちなみに海軍は、いち早く出動して動向を伺っていました。

総理大臣の岡田啓介、内大臣の斉藤実、侍従長の鈴木貫太郎らは全て「海軍出身の政治家」だったので、この事件は海軍に対するクーデターだと捉えられていたのです。

お台場沖に40隻もの軍艦を展開し、国会議事堂に主砲の照準を定めていたと言われています。

そして包囲された反乱軍には、ビラやアドバルーン、ラジオ放送などあらゆる手を使って投降を呼びかけられました。
ビラとアドバルーン「今カラデモ遅クナイ」は後に流行語に。

投稿し、原隊に戻る反乱軍兵士

これによって続々と投降者が出た為、反乱はわずか4日間で終息することになります。

大多数の将兵が「何も知らされずに集まり、反乱に加わった」者達でした。

二・二六事件の中心人物たちは自決せず、裁判で自分たちの正義を世に知らしめるつもりでした。

しかし裁判は「一審制」「上告なし」「弁護人なし」「非公開」という残酷なもので、17人の将校全てに死刑判決が下りました。

彼らは「天皇陛下万歳」と叫びながら銃殺されたと言われています。

皇道派の思想の柱となっていた「北一輝」ら民間人も一年後に処刑される事になり、皇道派は事実上消滅します。

・高橋是清がいなくなった事で、軍事費の膨張を抑え込める人物がいなくなった
・ただでさえ悪くなった陸海軍の仲が、決定的に悪化した
・陸軍内での自浄作用が働かないことが露呈した

二・二六事件はその後の日本の運命を決定づける事件となりました。

今回まとめた「三月事件」から「二・二六事件」までの一連の事件は、日本に生まれた政党政治の芽を完全に摘み取ってしまいました。

私は、時代にそぐわなくなった憲法を変えなかった事も、政治が混乱した原因の一つではないかと考えます。

1890年に施行された大日本帝国憲法は、1930年の日本の政情とはあまりにもかけ離れていたのです。

さて、現在の我々も70年以上変化のない憲法を抱えていますが、1930年代の動乱に思いを馳せて、現在の我々に照らし合わせてみる事が必要かとも思います。




2019年7月14日日曜日

支那事変4 日本経済近代史

純金くまモン

古代より「金」は、
・光沢のある美しさ
・精錬する必要がなく、単体で使える便利さ
・腐食しにくく、展延性があり、分割できる事
・限られた産出量
などから、人類にとって共通の価値のある「貴重品」として認識されて来ました。

そして金は歴史的に「富」の象徴となり、貨幣制度に利用されてきました。

当然ながら、王様や貴族、大商人などの大金持ちは大量に金を所有する事になりますが、大量の金貨は保管する事も運搬する事も困難です。

中世の頃、金を保管するために厳重な金庫を持っていのは「金細工職人」でした。
中世の宝飾工房

彼らは大金持ちから金を預かって預かり賃を取り、「預かり証」を発行しました。

その預かり証を持っていれば、金庫の中の金と交換できるのです。

「金と交換できる紙」は「金と同等の価値を持つ紙」として認識されます。

とはいえ、わざわざ紙を持って金庫まで行き、金と交換するのも面倒なので、人々の間では「紙」だけで商売が成り立つようになります。

これが「紙幣」の原型だと言われています。

そして、このような貨幣交換価値の基準を「金」に委ねる事を「金本位制」と呼び、金との交換が保証された紙幣の事を「兌換紙幣(だかんしへい)」と言います。
兌換紙幣

兌換紙幣に対し、金貨や銀貨と交換できず、紙幣価値の基礎が「政府の信用」である紙幣を「不換紙幣」と言います。
現在私たちが使っているのは不換紙幣

兌換紙幣と不換紙幣、それぞれにメリット・デメリットがあります。

正貨と交換できる兌換紙幣は信用を生みやすく、価値も安定します。

しかし兌換紙幣は金や銀など、国内で正貨として使用されている金属の量によって発行数が制限されるというデメリットがあり、さらに貿易で赤字になると、海外へ金銀が流出するため、一度国内で不景気に陥ると通貨量を増やすことができず、経済が停滞してしまうのです。

一方で不換紙幣は、政府が発行量をコントロールする事ができますが、社会情勢によって価値の変動が激しく、国家の信用がなければ国際的な取引が行われにくくなるデメリットを抱えています。

さて、このように経済活動においてなくてはならない紙幣ですが、明治維新を終えて世界経済の荒波に放り込まれた日本の経済がどのような歴史をたどったのか、簡単にまとめてみたいと思います。
1881年に発行された紙幣(肖像は)

日本においては、明治政府が発足した1871年当初は「金本位制」による兌換紙幣を採用していましたが、西南戦争などによる財政出動に耐えられなくなり不換紙幣への変更を余儀無くされています。

しかし紙幣の価値が低くなって物価が上昇した事により大規模な「インフレ」が発生してしまいました。

1881年、大蔵卿に就任した松方正義は、タバコや酒などに増税したり、新税を設けて歳入を増やし、予算を削減して歳出を減らす、いわゆる「緊縮財政」を展開して財政を健全化させました。
松方正義

そして日本銀行を設立し、銀貨を裏付けとした兌換紙幣を発行する「銀本位制」の確立に成功したのです。

しかし不換紙幣を回収し、兌換紙幣を流通させた事により、紙幣の流通量は減少してしまいました。

要するに庶民にまでお金が回らない世の中になってしまい、物価が下落する「デフレ」が起こります。

税は定額なのに、米価が下がった事によって農業が続けられなくなって農地を売り、自作農から小作農となってしまう農民が大量に発生する一方で、政府と結びつきの強い実業家たちは力をつけ、三井・三菱などの「財閥」が成長しました。

こうして日本にも資本家と労働者という二極化した「資本主義」の下地ができたのです。

そして1897年、日清戦争に勝利して賠償金を手に入れた日本は「金本位制」に復帰する事になりました。

しかし1914年に始まった第一次世界大戦によって、各国ともに戦費を捻出するために金を政府に集中させる必要が出て来たため、金の海外流出を懸念して金本位制による兌換紙幣を中断します。

ヨーロッパが主戦場になった事で、日本の製品が飛ぶ様に売れた事により大戦中の日本は「大戦景気」を迎えますが、戦争が終わるとその反動で「戦後恐慌」が起こり、さらに追い打ちをかけるように「震災恐慌」に見舞われる事になりました。

銀行が倒産していく「金融恐慌」にまで発展していた日本では、片面印刷の不換紙幣を増刷して現金の供給量を増やし、国民に行き渡らせました。(金融緩和)

しかしその様にバンバンお金を発行していくと、紙幣の価値はドンドン下がっていきます。

「円」の国際的信用は皆無に等しくなってしまい、戦争が終わって諸外国が次々と「金本位制」に復帰していく中で、日本は完全に取り残されてしまったのです。

「金本位制」への復帰を実現して経済的な国際競争力をつけようという声が財界から出るのも当然の事でした。

1929年7月に総理大臣に就任した浜口雄幸首相が組閣した浜口内閣において、大蔵大臣を務めることになった「井上準之助」は、国家予算の5%をカットする緊縮財政を行うなどして為替相場を安定化させる事に成功します。
井上準之助
これによって浜口内閣は1930年1月から「金本位制」の復帰を決定しました。(金解禁)

しかし実はこの数ヶ月前の事、1929年10月に起こった株価の大暴落によってアメリカ経済は大混乱に陥っており、それはそのまま世界恐慌へと繋がっていきました。

この様な状況下で金解禁に踏み切る事に対しては国内でも意見が別れていましたが、「これ以上の金解禁への遅れは許されない」という、三井財閥をはじめとする金融界の声に押されて政府は金解禁を断行してしまいます。

金解禁、つまり金本位制に戻すという事は、金貨と紙幣を交換できる様にする事であり、日本の紙幣に対する国際的な信用に繋がります。

こうして金の裏打ちができた紙幣によって貿易がし易くなるのですが、問題は「紙幣と交換できる金貨の価値」、つまり「一円につき金何gと交換できるのか?」を定める事でした。

浜口内閣発足当時の国際水準は、「100円=40ドル前後」(新弊価)でしたが、これに対して三十年以上前(1897年)に定められた貨幣法では、「一円=金0.75g」「100円=49,845ドル」と言うことが決められていました。(旧弊価)

当時の国際情勢を反映するならば新弊価の採用が妥当なのですが、その為には法改正が必要でした。

もし旧弊価を採用するならば、必然的に「円高・金安」になってしまい、輸出が減って貿易赤字になってしまいます。

しかし浜口内閣はあえて「旧弊価」の採用に踏み切りました。

その背景として、第一次世界大戦中の「作ればなんでも売れちゃう」という大戦景気によって過度に経営を拡大させた企業が蔓延っており、それらの企業の経営健全化を図る事が非常に困難であった事が日本経済の国際競争力の低下を招き、不況の原因となっていたという実情がありました。

旧弊価の採用には、
・貨幣法の改正議論が紛糾するのを避けたかった
・貿易収支をあえて悪化させる事によって質の悪い中小企業を切り捨て、経済界の整理を行いたかった
などの理由が背景にあったのだと考えられます。

さて、金解禁の結果でどうなったかというと、金の量以上の紙幣が流通しないので、国民にお金が行き渡らなくなり、必然的に不況に見舞われます。

そこで緊縮財政を行なって産業の合理化を促し、日本経済の健全化を図ったわけですが
、浜口内閣は大きなミスを犯していました。

世界恐慌を甘く見ていたのです。

世界中が恐慌に喘いでいる中に「円高・金安」の状況を作り出した事によって、各国は日本の金に群がり、たちまちにして日本の金が大量流出してしまいます。

輸出が伸びなかった事もあいまって、13億円分以上あった日本の金は、たったの2年間で4億円にまで減ってしまいました。

金本位制で金が流出する事はまさに危機的状況であり、日本中が「お金がない」状態になってしまったのです。

最悪のタイミングで行われた金解禁は、「暴風雨の中で雨戸を開け放した様なものだ」と例えられました。

こうして、日本も世界恐慌の波に飲み込まれる様にして「昭和恐慌」が始まります。

1930年の一年間で倒産した会社は823社にものぼり、街は失業者で溢れかえりました。
大学を出ても仕事がない

生糸の輸出が激減し、豊作や朝鮮半島からの米の流入によって米価が暴落し、農業は壊滅的な打撃を受け、農村部では人身売買が横行する様になりました。

浜口内閣はなんとか対策を練りますが、金が減少したため紙幣を流通させる事もできず、不十分な対応しかできませんでした。

日本中に広がる貧困の中で労働運動も激化し、民衆の中で社会主義への憧れも強くなって行きます。

この様な政情不安定の中、野党である立憲政友会が仕掛けてきたのが「統帥権干犯問題」であり、その結果、浜口雄幸首相は銃撃されて倒閣してしまいます。

混沌とする日本社会はそのまま「血盟団事件」「満州事変」へと突き進んで行く事になりました。
銃撃された浜口首相(真ん中の白髭)
浜口内閣の後を継いだ若槻禮次郎首相も、満州事変の対応に追われるなどして昭和恐慌への対策を講じる事ができず、事態の収集をつける事ができずにわずか8ヶ月で総辞職します。

当時は「内閣が行き詰まって政権を投げ出した時は、野党第一党に政権を譲る」というルールがありました。

そこで発足したのが野党・立憲政友会の犬養毅を首相とする犬養内閣です。
高橋是清

蔵相に就任した高橋是清は直ちに金解禁を停止しました。

金本位制から再び離脱する事で円相場を引き下げて輸出を伸ばし、金利を引き下げて赤字公債を発行します。

この様な徹底された財政出動によって、日本の景気は急速に回復し、世界で最も早く恐慌前の経済水準にまで回復することができたのです。

しかしこの様な高橋の財政は、各国から「ソーシャル・ダンピング(社会的な不当廉売)」だと批判され、その対抗措置としてアメリカ・イギリス・フランスなどの植民地を有する国は「ブロック経済」を展開します。

これによって日本は「満州国」を生命線とし、支那に対する影響力を国策として重視せざるを得なくなります。

また、ドイツやイタリアなどの植民地を持たない国は、自国の領土を増やすべく膨張政策へと転じ、第二次世界大戦の引き金となってしまうのでした。

日本を世界恐慌から世界最速で脱出させた犬養内閣ですが、首相の犬養毅と蔵相の高橋是清の2人が暗殺される事件が起きてしまいます。

「五・一五事件」と「二・二六事件」です。

2019年7月8日月曜日

支那事変3 政治家は命がけ

明治憲法第11条には、「天皇は陸海軍を統帥す」
そして第12条には「天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む」
と書かれています。

これは「統帥権」と呼ばれるもので、軍の編成、制度、規定、戦略の決定、作戦の立案 などの機能を統帥する権利は天皇にあると定めたもので、「天皇大権」の一つです。

とはいえ、実際に天皇が軍事作戦を考えたり指揮したりしていたわけではなく、軍政に関しては陸軍大臣、海軍大臣に、軍令に関しては参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)に委託されていました。
1930年、ロンドン海軍軍縮条約に調印した浜口雄幸内閣に対し、野党の犬養毅や鳩山一郎などから「天皇を差し置いて兵力数を決定してきた事は憲法違反である」との批判が出ました。

この「統帥権干犯問題」に対し、浜口首相は「天皇は最終的な権限を持っているけど、実際は責任内閣制に基づいて内閣が決定しても構わない」と主張して反論します。

この件で浜口首相は「天皇をないがしろにした」とみなされ、「海軍の軍縮に同意した事」などによって、海軍と右翼の両方から恨みを買う事になりました。
浜口雄幸
1930年11月14日、浜口首相は右翼思想家の佐郷屋留雄(さごうや とめお)に銃撃されます。

一命を取り留めた浜口首相でしたが、野党から執拗に議会への登壇要求をされ、容態が思わしくない中、衆議院や貴族院へ出席し、そのまま体調が良化することなく4月には再入院し、治療の甲斐もなく8月に死去しました。

浜口首相の死は、「軍に逆らうと命を狙われる」という強烈な印象を残す事になります。

また、野党・立憲政友会が統帥権干犯問題を党利党略の為に持ち出して激しく議論した為、既に空文化しつつあった「統帥権」が表面化し、「軍は政府の統制を受けない」という認識が定着してしまったのです。

「統帥権干犯問題」は、政党自身が「政党政治」を終焉させてしまった「自爆」とも言える出来事でした。


このような混乱は議会だけでなく、経済面でも起きていました。

1929年に起こった世界恐慌は日本にも波及し、「昭和恐慌」と呼ばれる深刻な経済危機を引き起こしていたのです。

農村部では欠食児童が増えて女児の身売りも横行し、中小企業が倒産した都市部では失業者が溢れかえっていました。

そんな中でソ連が「五カ年計画」によって工業化に成功していく様は、人々に「資本主義の限界」を感じさせました。

※五カ年計画の実態については前述した通りです。
支那事変1 共産主義は何人殺した?https://poshiken.blogspot.com/2019/06/blog-post_29.html

しかし共産主義は君主制を否定するものであり、「皇室の廃止」を主張していた為に国民に受け入れられるものではありませんでした。

そこで「天皇を中心とした新しい社会主義国家を作ろう」という「国家社会主義」が芽生える事になります。

この思想は軍隊内の青年将校や、学生などに広く浸透していきました。

皇室を重んじる尊皇の精神、格差社会への憤り、平等社会への憧れなど、若者の純粋で強い信念はコミンテルンに利用され、軍部に共産主義がじわじわと浸透していく事になります。
社会経験のない学生が知識をつけ、理想社会に傾倒していくのは今も昔も変わりない
そして昭和恐慌で混沌とし左傾化する社会の中、おぞましい事件が起きる事になりました。

「血盟団事件」です。

首謀者は日蓮宗の僧侶である井上日召(いのうえ にっしょう・本名 井上昭)で、彼は資本主義社会における政財界の指導者を暗殺すれば、それに同調する者が軍内部に現れ、クーデターを決行して天皇を中心とした国家ができるであろうと考えていました。
井上日召
井上日召は20名余の政治家・財閥を標的とし、彼の思想に共鳴した青年達によって組織された暗殺団に「一人一殺」の指示を出しました。

1932年2月9日、浜口内閣時代の大蔵大臣であった井上準之助が、暗殺団の一員である小沼正によって5発の弾を撃ち込まれ死亡します。

井上準之助の堅持した「緊縮財政」と「金解禁」などの政策によって「昭和恐慌」を招いてしまったが故に、暗殺の第一標的にされていたのです。
井上準之助
さらに3月5日、三井財閥総帥「團琢磨(だん たくま)」が暗殺団の菱沼五郎によって射殺されました。

團が暗殺対象になったのは、昭和恐慌の中でドルを買い占めて利益をあげていた事や、労働組合法を阻止した事などが理由だとされています。

「労働者の敵」として認識されてしまった団ですが、彼は「労働者VS経営者」という図式を生み出す労働組合は日本の家族主義にはそぐわないと考えており、「共愛組合」という構想を練っていました。

また、團琢磨は当時国際問題となっていた「満州事変」について調査するために来日した「リットン調査団」の接待役として日本の立場を説く重要な役目を果たしていました。

リットン卿はつい先日まで会談していた團の死に衝撃を受け「團さんにには親しく会談の機会を持っただけに、哀惜の念に絶えません」とコメントし、穏健派である団が射殺されるという日本国内の異様な空気を肌で感じ取りました。

三井財閥による「ドル買い」も、金解禁政策に失敗した批判の矛先を三井財閥に向けさせるために政府が批判したのがきっかけだという説もあります。

何はともあれ、團は「特権階級の象徴」としてその命を奪われることになってしまったのです。
團琢磨
この2件の暗殺事件で逮捕されていた「小沼正」と「菱沼五郎」は黙秘を貫いていましたが、両者が同郷である事を頼りに警察が聞き込みを行った事で、井上日召を中心とした暗殺団の存在が浮かび上がり、関係者14名が一斉に逮捕される事になりました。
血盟団
検事が「血盟団」と名付けたこの暗殺集団は、ある意味では「特異」な組織でした。

そのメンバーは、東大・京大などの帝国大学の「エリート学生」と、東北の「農村の青年達」によって構成されていたのです。

一見、交わることのなさそうなこの二つのグループがなぜ一つの暗殺団として行動したのでしょうか。

昭和恐慌当時の農村の荒廃は凄まじい有様であり、農村出身の青年達は資本主義社会において破綻に追い込められる弱者の現状を目の当たりにしてき。

彼らは権力によって自分たちの将来が閉塞されている事に気付き、苛立ちと不安を抱え、精神的な救いを求めていたのです。

茨城県の大洗で住職をしていた井上日召は、彼らに「宗教的な救い」を与えました。

一方で、貧困とは無縁のエリート学生達もまた、エリート学生であるが故に「国家の行き詰まり」に気づく事になり、国家の変革を望むようになります。

格差社会の底辺層が求めた「精神的な救い」と格差社会のトップが求めた「国家主義」は、引き寄せられるように井上日召のもとに集まったのでした。

井上日召は、かつて南満州鉄道に入社し陸軍の諜報員として過ごし、満州や支那での「大陸の生活」を経験していました。

そこで芽生えた「祖国愛」を胸に日本に帰国するのですが、彼が目の当たりにしたのは、極左の暴虐ぶり・労働者の左傾化・指導者たちの狂暴無自覚・足を引っ張り合うだけの政党政治、といった悲惨な祖国の現状でした。

煩悩に苦しみ、日蓮宗の僧侶として修行を重ねた井上日召がたどり着いた結論は、「国家改造を成し遂げなければ国民を救えない」という信念だったのです。

国家転覆にも繋がるテロ行為を計画していた血盟団は死刑を求刑されますが、井上日召と、実行犯の2名に無期懲役、他のメンバーには三年〜十五年の実刑判決が下されるだけという、甘い処分となりました。

彼らの行動の根底にある「特権階級に対する不満」「憂国の情に基づく国体護持」の信念が好意的に解釈された結果でした。
血盟団の被告達
血盟団事件は昭和のターニングポイントになりました。

後に起こった「五・一五事件」「二・二六事件」は確実にこの事件の影響を受けており、日本が歩む道は険しいものになって行くのでした。