2019年7月8日月曜日

支那事変3 政治家は命がけ

明治憲法第11条には、「天皇は陸海軍を統帥す」
そして第12条には「天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む」
と書かれています。

これは「統帥権」と呼ばれるもので、軍の編成、制度、規定、戦略の決定、作戦の立案 などの機能を統帥する権利は天皇にあると定めたもので、「天皇大権」の一つです。

とはいえ、実際に天皇が軍事作戦を考えたり指揮したりしていたわけではなく、軍政に関しては陸軍大臣、海軍大臣に、軍令に関しては参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)に委託されていました。
1930年、ロンドン海軍軍縮条約に調印した浜口雄幸内閣に対し、野党の犬養毅や鳩山一郎などから「天皇を差し置いて兵力数を決定してきた事は憲法違反である」との批判が出ました。

この「統帥権干犯問題」に対し、浜口首相は「天皇は最終的な権限を持っているけど、実際は責任内閣制に基づいて内閣が決定しても構わない」と主張して反論します。

この件で浜口首相は「天皇をないがしろにした」とみなされ、「海軍の軍縮に同意した事」などによって、海軍と右翼の両方から恨みを買う事になりました。
浜口雄幸
1930年11月14日、浜口首相は右翼思想家の佐郷屋留雄(さごうや とめお)に銃撃されます。

一命を取り留めた浜口首相でしたが、野党から執拗に議会への登壇要求をされ、容態が思わしくない中、衆議院や貴族院へ出席し、そのまま体調が良化することなく4月には再入院し、治療の甲斐もなく8月に死去しました。

浜口首相の死は、「軍に逆らうと命を狙われる」という強烈な印象を残す事になります。

また、野党・立憲政友会が統帥権干犯問題を党利党略の為に持ち出して激しく議論した為、既に空文化しつつあった「統帥権」が表面化し、「軍は政府の統制を受けない」という認識が定着してしまったのです。

「統帥権干犯問題」は、政党自身が「政党政治」を終焉させてしまった「自爆」とも言える出来事でした。


このような混乱は議会だけでなく、経済面でも起きていました。

1929年に起こった世界恐慌は日本にも波及し、「昭和恐慌」と呼ばれる深刻な経済危機を引き起こしていたのです。

農村部では欠食児童が増えて女児の身売りも横行し、中小企業が倒産した都市部では失業者が溢れかえっていました。

そんな中でソ連が「五カ年計画」によって工業化に成功していく様は、人々に「資本主義の限界」を感じさせました。

※五カ年計画の実態については前述した通りです。
支那事変1 共産主義は何人殺した?https://poshiken.blogspot.com/2019/06/blog-post_29.html

しかし共産主義は君主制を否定するものであり、「皇室の廃止」を主張していた為に国民に受け入れられるものではありませんでした。

そこで「天皇を中心とした新しい社会主義国家を作ろう」という「国家社会主義」が芽生える事になります。

この思想は軍隊内の青年将校や、学生などに広く浸透していきました。

皇室を重んじる尊皇の精神、格差社会への憤り、平等社会への憧れなど、若者の純粋で強い信念はコミンテルンに利用され、軍部に共産主義がじわじわと浸透していく事になります。
社会経験のない学生が知識をつけ、理想社会に傾倒していくのは今も昔も変わりない
そして昭和恐慌で混沌とし左傾化する社会の中、おぞましい事件が起きる事になりました。

「血盟団事件」です。

首謀者は日蓮宗の僧侶である井上日召(いのうえ にっしょう・本名 井上昭)で、彼は資本主義社会における政財界の指導者を暗殺すれば、それに同調する者が軍内部に現れ、クーデターを決行して天皇を中心とした国家ができるであろうと考えていました。
井上日召
井上日召は20名余の政治家・財閥を標的とし、彼の思想に共鳴した青年達によって組織された暗殺団に「一人一殺」の指示を出しました。

1932年2月9日、浜口内閣時代の大蔵大臣であった井上準之助が、暗殺団の一員である小沼正によって5発の弾を撃ち込まれ死亡します。

井上準之助の堅持した「緊縮財政」と「金解禁」などの政策によって「昭和恐慌」を招いてしまったが故に、暗殺の第一標的にされていたのです。
井上準之助
さらに3月5日、三井財閥総帥「團琢磨(だん たくま)」が暗殺団の菱沼五郎によって射殺されました。

團が暗殺対象になったのは、昭和恐慌の中でドルを買い占めて利益をあげていた事や、労働組合法を阻止した事などが理由だとされています。

「労働者の敵」として認識されてしまった団ですが、彼は「労働者VS経営者」という図式を生み出す労働組合は日本の家族主義にはそぐわないと考えており、「共愛組合」という構想を練っていました。

また、團琢磨は当時国際問題となっていた「満州事変」について調査するために来日した「リットン調査団」の接待役として日本の立場を説く重要な役目を果たしていました。

リットン卿はつい先日まで会談していた團の死に衝撃を受け「團さんにには親しく会談の機会を持っただけに、哀惜の念に絶えません」とコメントし、穏健派である団が射殺されるという日本国内の異様な空気を肌で感じ取りました。

三井財閥による「ドル買い」も、金解禁政策に失敗した批判の矛先を三井財閥に向けさせるために政府が批判したのがきっかけだという説もあります。

何はともあれ、團は「特権階級の象徴」としてその命を奪われることになってしまったのです。
團琢磨
この2件の暗殺事件で逮捕されていた「小沼正」と「菱沼五郎」は黙秘を貫いていましたが、両者が同郷である事を頼りに警察が聞き込みを行った事で、井上日召を中心とした暗殺団の存在が浮かび上がり、関係者14名が一斉に逮捕される事になりました。
血盟団
検事が「血盟団」と名付けたこの暗殺集団は、ある意味では「特異」な組織でした。

そのメンバーは、東大・京大などの帝国大学の「エリート学生」と、東北の「農村の青年達」によって構成されていたのです。

一見、交わることのなさそうなこの二つのグループがなぜ一つの暗殺団として行動したのでしょうか。

昭和恐慌当時の農村の荒廃は凄まじい有様であり、農村出身の青年達は資本主義社会において破綻に追い込められる弱者の現状を目の当たりにしてき。

彼らは権力によって自分たちの将来が閉塞されている事に気付き、苛立ちと不安を抱え、精神的な救いを求めていたのです。

茨城県の大洗で住職をしていた井上日召は、彼らに「宗教的な救い」を与えました。

一方で、貧困とは無縁のエリート学生達もまた、エリート学生であるが故に「国家の行き詰まり」に気づく事になり、国家の変革を望むようになります。

格差社会の底辺層が求めた「精神的な救い」と格差社会のトップが求めた「国家主義」は、引き寄せられるように井上日召のもとに集まったのでした。

井上日召は、かつて南満州鉄道に入社し陸軍の諜報員として過ごし、満州や支那での「大陸の生活」を経験していました。

そこで芽生えた「祖国愛」を胸に日本に帰国するのですが、彼が目の当たりにしたのは、極左の暴虐ぶり・労働者の左傾化・指導者たちの狂暴無自覚・足を引っ張り合うだけの政党政治、といった悲惨な祖国の現状でした。

煩悩に苦しみ、日蓮宗の僧侶として修行を重ねた井上日召がたどり着いた結論は、「国家改造を成し遂げなければ国民を救えない」という信念だったのです。

国家転覆にも繋がるテロ行為を計画していた血盟団は死刑を求刑されますが、井上日召と、実行犯の2名に無期懲役、他のメンバーには三年〜十五年の実刑判決が下されるだけという、甘い処分となりました。

彼らの行動の根底にある「特権階級に対する不満」「憂国の情に基づく国体護持」の信念が好意的に解釈された結果でした。
血盟団の被告達
血盟団事件は昭和のターニングポイントになりました。

後に起こった「五・一五事件」「二・二六事件」は確実にこの事件の影響を受けており、日本が歩む道は険しいものになって行くのでした。