2019年7月14日日曜日

支那事変4 日本経済近代史

純金くまモン

古代より「金」は、
・光沢のある美しさ
・精錬する必要がなく、単体で使える便利さ
・腐食しにくく、展延性があり、分割できる事
・限られた産出量
などから、人類にとって共通の価値のある「貴重品」として認識されて来ました。

そして金は歴史的に「富」の象徴となり、貨幣制度に利用されてきました。

当然ながら、王様や貴族、大商人などの大金持ちは大量に金を所有する事になりますが、大量の金貨は保管する事も運搬する事も困難です。

中世の頃、金を保管するために厳重な金庫を持っていのは「金細工職人」でした。
中世の宝飾工房

彼らは大金持ちから金を預かって預かり賃を取り、「預かり証」を発行しました。

その預かり証を持っていれば、金庫の中の金と交換できるのです。

「金と交換できる紙」は「金と同等の価値を持つ紙」として認識されます。

とはいえ、わざわざ紙を持って金庫まで行き、金と交換するのも面倒なので、人々の間では「紙」だけで商売が成り立つようになります。

これが「紙幣」の原型だと言われています。

そして、このような貨幣交換価値の基準を「金」に委ねる事を「金本位制」と呼び、金との交換が保証された紙幣の事を「兌換紙幣(だかんしへい)」と言います。
兌換紙幣

兌換紙幣に対し、金貨や銀貨と交換できず、紙幣価値の基礎が「政府の信用」である紙幣を「不換紙幣」と言います。
現在私たちが使っているのは不換紙幣

兌換紙幣と不換紙幣、それぞれにメリット・デメリットがあります。

正貨と交換できる兌換紙幣は信用を生みやすく、価値も安定します。

しかし兌換紙幣は金や銀など、国内で正貨として使用されている金属の量によって発行数が制限されるというデメリットがあり、さらに貿易で赤字になると、海外へ金銀が流出するため、一度国内で不景気に陥ると通貨量を増やすことができず、経済が停滞してしまうのです。

一方で不換紙幣は、政府が発行量をコントロールする事ができますが、社会情勢によって価値の変動が激しく、国家の信用がなければ国際的な取引が行われにくくなるデメリットを抱えています。

さて、このように経済活動においてなくてはならない紙幣ですが、明治維新を終えて世界経済の荒波に放り込まれた日本の経済がどのような歴史をたどったのか、簡単にまとめてみたいと思います。
1881年に発行された紙幣(肖像は)

日本においては、明治政府が発足した1871年当初は「金本位制」による兌換紙幣を採用していましたが、西南戦争などによる財政出動に耐えられなくなり不換紙幣への変更を余儀無くされています。

しかし紙幣の価値が低くなって物価が上昇した事により大規模な「インフレ」が発生してしまいました。

1881年、大蔵卿に就任した松方正義は、タバコや酒などに増税したり、新税を設けて歳入を増やし、予算を削減して歳出を減らす、いわゆる「緊縮財政」を展開して財政を健全化させました。
松方正義

そして日本銀行を設立し、銀貨を裏付けとした兌換紙幣を発行する「銀本位制」の確立に成功したのです。

しかし不換紙幣を回収し、兌換紙幣を流通させた事により、紙幣の流通量は減少してしまいました。

要するに庶民にまでお金が回らない世の中になってしまい、物価が下落する「デフレ」が起こります。

税は定額なのに、米価が下がった事によって農業が続けられなくなって農地を売り、自作農から小作農となってしまう農民が大量に発生する一方で、政府と結びつきの強い実業家たちは力をつけ、三井・三菱などの「財閥」が成長しました。

こうして日本にも資本家と労働者という二極化した「資本主義」の下地ができたのです。

そして1897年、日清戦争に勝利して賠償金を手に入れた日本は「金本位制」に復帰する事になりました。

しかし1914年に始まった第一次世界大戦によって、各国ともに戦費を捻出するために金を政府に集中させる必要が出て来たため、金の海外流出を懸念して金本位制による兌換紙幣を中断します。

ヨーロッパが主戦場になった事で、日本の製品が飛ぶ様に売れた事により大戦中の日本は「大戦景気」を迎えますが、戦争が終わるとその反動で「戦後恐慌」が起こり、さらに追い打ちをかけるように「震災恐慌」に見舞われる事になりました。

銀行が倒産していく「金融恐慌」にまで発展していた日本では、片面印刷の不換紙幣を増刷して現金の供給量を増やし、国民に行き渡らせました。(金融緩和)

しかしその様にバンバンお金を発行していくと、紙幣の価値はドンドン下がっていきます。

「円」の国際的信用は皆無に等しくなってしまい、戦争が終わって諸外国が次々と「金本位制」に復帰していく中で、日本は完全に取り残されてしまったのです。

「金本位制」への復帰を実現して経済的な国際競争力をつけようという声が財界から出るのも当然の事でした。

1929年7月に総理大臣に就任した浜口雄幸首相が組閣した浜口内閣において、大蔵大臣を務めることになった「井上準之助」は、国家予算の5%をカットする緊縮財政を行うなどして為替相場を安定化させる事に成功します。
井上準之助
これによって浜口内閣は1930年1月から「金本位制」の復帰を決定しました。(金解禁)

しかし実はこの数ヶ月前の事、1929年10月に起こった株価の大暴落によってアメリカ経済は大混乱に陥っており、それはそのまま世界恐慌へと繋がっていきました。

この様な状況下で金解禁に踏み切る事に対しては国内でも意見が別れていましたが、「これ以上の金解禁への遅れは許されない」という、三井財閥をはじめとする金融界の声に押されて政府は金解禁を断行してしまいます。

金解禁、つまり金本位制に戻すという事は、金貨と紙幣を交換できる様にする事であり、日本の紙幣に対する国際的な信用に繋がります。

こうして金の裏打ちができた紙幣によって貿易がし易くなるのですが、問題は「紙幣と交換できる金貨の価値」、つまり「一円につき金何gと交換できるのか?」を定める事でした。

浜口内閣発足当時の国際水準は、「100円=40ドル前後」(新弊価)でしたが、これに対して三十年以上前(1897年)に定められた貨幣法では、「一円=金0.75g」「100円=49,845ドル」と言うことが決められていました。(旧弊価)

当時の国際情勢を反映するならば新弊価の採用が妥当なのですが、その為には法改正が必要でした。

もし旧弊価を採用するならば、必然的に「円高・金安」になってしまい、輸出が減って貿易赤字になってしまいます。

しかし浜口内閣はあえて「旧弊価」の採用に踏み切りました。

その背景として、第一次世界大戦中の「作ればなんでも売れちゃう」という大戦景気によって過度に経営を拡大させた企業が蔓延っており、それらの企業の経営健全化を図る事が非常に困難であった事が日本経済の国際競争力の低下を招き、不況の原因となっていたという実情がありました。

旧弊価の採用には、
・貨幣法の改正議論が紛糾するのを避けたかった
・貿易収支をあえて悪化させる事によって質の悪い中小企業を切り捨て、経済界の整理を行いたかった
などの理由が背景にあったのだと考えられます。

さて、金解禁の結果でどうなったかというと、金の量以上の紙幣が流通しないので、国民にお金が行き渡らなくなり、必然的に不況に見舞われます。

そこで緊縮財政を行なって産業の合理化を促し、日本経済の健全化を図ったわけですが
、浜口内閣は大きなミスを犯していました。

世界恐慌を甘く見ていたのです。

世界中が恐慌に喘いでいる中に「円高・金安」の状況を作り出した事によって、各国は日本の金に群がり、たちまちにして日本の金が大量流出してしまいます。

輸出が伸びなかった事もあいまって、13億円分以上あった日本の金は、たったの2年間で4億円にまで減ってしまいました。

金本位制で金が流出する事はまさに危機的状況であり、日本中が「お金がない」状態になってしまったのです。

最悪のタイミングで行われた金解禁は、「暴風雨の中で雨戸を開け放した様なものだ」と例えられました。

こうして、日本も世界恐慌の波に飲み込まれる様にして「昭和恐慌」が始まります。

1930年の一年間で倒産した会社は823社にものぼり、街は失業者で溢れかえりました。
大学を出ても仕事がない

生糸の輸出が激減し、豊作や朝鮮半島からの米の流入によって米価が暴落し、農業は壊滅的な打撃を受け、農村部では人身売買が横行する様になりました。

浜口内閣はなんとか対策を練りますが、金が減少したため紙幣を流通させる事もできず、不十分な対応しかできませんでした。

日本中に広がる貧困の中で労働運動も激化し、民衆の中で社会主義への憧れも強くなって行きます。

この様な政情不安定の中、野党である立憲政友会が仕掛けてきたのが「統帥権干犯問題」であり、その結果、浜口雄幸首相は銃撃されて倒閣してしまいます。

混沌とする日本社会はそのまま「血盟団事件」「満州事変」へと突き進んで行く事になりました。
銃撃された浜口首相(真ん中の白髭)
浜口内閣の後を継いだ若槻禮次郎首相も、満州事変の対応に追われるなどして昭和恐慌への対策を講じる事ができず、事態の収集をつける事ができずにわずか8ヶ月で総辞職します。

当時は「内閣が行き詰まって政権を投げ出した時は、野党第一党に政権を譲る」というルールがありました。

そこで発足したのが野党・立憲政友会の犬養毅を首相とする犬養内閣です。
高橋是清

蔵相に就任した高橋是清は直ちに金解禁を停止しました。

金本位制から再び離脱する事で円相場を引き下げて輸出を伸ばし、金利を引き下げて赤字公債を発行します。

この様な徹底された財政出動によって、日本の景気は急速に回復し、世界で最も早く恐慌前の経済水準にまで回復することができたのです。

しかしこの様な高橋の財政は、各国から「ソーシャル・ダンピング(社会的な不当廉売)」だと批判され、その対抗措置としてアメリカ・イギリス・フランスなどの植民地を有する国は「ブロック経済」を展開します。

これによって日本は「満州国」を生命線とし、支那に対する影響力を国策として重視せざるを得なくなります。

また、ドイツやイタリアなどの植民地を持たない国は、自国の領土を増やすべく膨張政策へと転じ、第二次世界大戦の引き金となってしまうのでした。

日本を世界恐慌から世界最速で脱出させた犬養内閣ですが、首相の犬養毅と蔵相の高橋是清の2人が暗殺される事件が起きてしまいます。

「五・一五事件」と「二・二六事件」です。