2022年2月27日日曜日

大東亜戦争59 沖縄の戦い⑥シュガーローフ は甘くない

 



沖縄県那覇市安里には、すり鉢をひっくり返したような丘陵があり、日本軍はこれを「すり鉢丘」、米軍は菓子パンになぞらえて「シュガーローフ 」とそれぞれ呼びました。

ここは那覇市街を守るための最後の要衝であり、日本軍が予備兵力や砲兵をつぎ込んだ為に沖縄戦最大の激戦地となります。

現在でも掘り起こせば砲弾の破片や人骨が出てくるこの地は再開発が進み、配水池としてかろうじて丘の姿を残しているのみで、誰も気にとめる者はいません。



シュガーローフ の南側は「ホース・シュー」と呼ばれた馬蹄形の斜面になっており、ここに日本軍は迫撃砲陣地を構えました。

また、東側には「ハーフ・ムーン」と呼ばれた丘があり、古い沖縄式墓地を利用して豪が掘られ、いくつもの通路で連結させていました。

このようにしてできたハーフムーンの地下陣地は、地下通路を通じてシュガーローフと通じており、違いに連携して戦う事ができました。

5月12日、第22海兵連隊第2大隊がシュガーローフ付近へ到達、戦車小隊の支援の下、E中隊、G中隊が攻撃を開始します。

日本軍はこれに対し猛烈な射撃を加えたため、E中隊の進行は停滞しました。

予定通り進軍できたG中隊もこの日だけで2人の隊長が負傷後送される事になり、夜を迎える頃には3人目の隊長になっているという異常事態に陥っていました。

地雷により戦車2両が撃破され、第二大隊は撤退命令を出さざるを得ませんでした。

この日だけで、G中隊は戦力を75%にまで低下させてしまう事になります。


5月13日、米軍は艦砲射撃、地上砲火、航空爆撃などあらゆる火力を用いてシュガーローフ を攻撃、その支援下で戦車部隊による進撃が行われました。

日本軍の戦車殲滅隊は勇猛果敢に戦いますが全滅、陣地を突破されてしまいます。

しかしその戦車部隊も3方向からの攻撃に遭い、まったく身動きが取れなくなってしまいます。

2日前まで215名いたはずのG中隊はこの日の戦闘が終わる頃には50名にまで減っていました。

E中隊、F中隊は連隊本部でも状況が把握できなくなってしまい、米軍は混乱します。

この日の戦いを見ていた米兵は「刈り取られる草のように兵士が倒されていった」と証言しています。

5月14日、第22海兵連隊第2大隊は、残存兵力による総攻撃を行います。

日本軍の激しい反撃により兵力はみるみる減少していきましたが、なんとかシュガーローフに到達、稜線を挟んで手榴弾の投擲合戦が行われる壮絶な接近戦が展開されました。

5月15日、シュガーローフ稜線付近に張り付いている部隊を救援すべく、米軍第29海兵連隊D中隊が向かいます。

米軍はコックや会計担当の兵まで戦線に投入せねばならない程の状態であり、このままでは戦線崩壊する恐れもありました。

結局、稜線にたどり着いたD中隊第3小隊も日本軍との手榴弾合戦に巻き込まれ、350発あった手榴弾はあっという間になくなってしまいます。

この小隊は当初60名いたのですが、わずか1時間半で11人にまでになっていました。

この日の午後3時、米軍海兵連隊は撤退を完了、シュガーローフから姿を消しました。


日本軍は周囲の丘からシュガーローフ に張り付いている米軍に側方から射撃を浴びせていました。

そのことに気づいた米軍は「ハーフムーンを占領することが、シュガーローフ攻略の鍵になる」と考えたのです。

5月16日、米軍はシュガーローフ とハーフムーンの同時攻撃を行います。

鉄道の切り通しだけが、シュガーローフ とハーフムーンからの射撃を避けられる場所でした。

米軍はここを通って戦車大隊をハーフムーンの麓へ送り込みます。

しかしいざ掩体を掘ろうとすると、周囲の洞窟から手榴弾が投げ込まれ、大隊は生存者60名全てが負傷するという多大な損害を被り、日没前に撤退を開始しました。


ハーフムーンに友軍が到着したのを確認した米軍はシュガーローフへ同時攻撃を行いましたがこちらも結果は同じ、日本軍の反撃によって戦車は撃破され大打撃を受け撤退することになります。

第22海兵連隊は戦闘能力を40%にまで低下させ、もはや作戦遂行能力を失っていました。

米軍第6海兵師団は「連隊は全力で攻撃したが失敗に帰した」とその失意を記しています。

5月16日は、沖縄作戦最悪の日として記録されたのです。


5月17日、第29海兵連隊はハーフムーンへの攻撃を開始します。

しかしこの日も変わらず日本軍の反撃は壮絶なもので、米兵達は立ち上がるだけで忽ち正確な狙撃を受けてしまい、全く身動きが取れなくなりました。

A中隊は「荒波の中で岩につかまっているような状態」となり、前進するどころか攻撃目標を指示する事すらできず、同士討ちも発生しました。

A中隊はパニックに陥り独断で撤退を開始、米軍の前線は後退を余儀なくされます。

シュガーローフ方面の攻撃においても戦果を残せず、ハーフムーン・シュガーローフの同時攻撃は挫折する事になりました。

5月18日、これまで米軍の猛攻を退けてきた日本軍も流石に戦力の低下が否めない状態になっていました。

対戦車網jは消耗し、正規兵ではなく義勇兵の姿が多く見られるようになりました。

米軍は、ハーフムーンに面してしないシュガーローフの「西側」から攻めるという、最後の賭けに出ます。

米兵達は前日までの戦闘でバラバラになった戦友達の遺体を踏みつけなければ前進できないほど、シュガーローフの斜面は遺体で埋まっていました。

この日、米軍は遂にシュガーローフの頂上に到達、ホースシューからの砲撃による反撃を受けながらも、反対側の斜面の陣地を破壊して南進していきます。

5月20日、米軍はホースシューの制圧に成功、シュガーローフを完全に攻略する事になります。


しかしハーフムーンは日本軍が首里から撤退する5月31日まで陥落する事はありませんでした。

海兵隊員達はここでようやく、この地区の防御機構の核がハーフムーンであった事に気付きます。

シュガーローフを最大の攻撃目標に定め、小兵力を逐次投入するというミスを海兵師団は犯していたのでした。

米軍海兵隊員の死傷者数は2662名、戦闘疲労患者は1289名にも達しました。






2022年2月23日水曜日

大東亜戦争58 沖縄の戦い⑤首里防衛線 

 



【130・140・150高地の戦い】

幸地の激戦から生き残って撤退した日本兵たちは、南方の弁ヶ丘北東地区を守備につきました。

しかし重火器は尽き、戦力実数は一個中隊ほどにまで低下していました。

弁ヶ丘の北方に位置する「130」「140」「150」の3つの高地は、首里まで直線距離にして約2km、150高地からは迫撃砲の射程距離にも入る位置で、首里防衛のための最後の要地と言えます。


幸地の戦いが集結した5月10日の翌日には、米軍の130・140・150高地への侵攻が始まります。

平地から突き出た岩だらけの130高地を、その姿から米軍は「チョコレートドロップ」と呼んでいました。

この付近は沖縄では最大の地雷原となっており、米軍の戦車を悩ませました。


貧弱な武器と少ない兵力であるにも関わらず、日本兵達は果敢に戦いました。

わずかな兵力ながらも反斜面陣地を生かして戦い、正確な射撃は米兵たちを震え上がらせました。

とある小隊では、その狙撃で全ての下士官と一等兵を1日で失ったほどです。

地雷と対戦車砲によって米軍の戦車は次々と撃破され、戦車に随伴していた米兵達は機銃掃射を浴びせられて全滅していきます。

前線に陣地を構えようとするものなら忽ち夜襲をかけられて撤退せざるを得ない有様で、米軍の侵攻は思うように進みませんでした。


しかし圧倒的な兵力差を前に、徐々に日本軍は包囲されていき、3つの高地は占領されてしまう事になります。

米兵達は日本軍の地下壕を発見しては次々と爆破していき、日本軍の各隊には無線で撤退命令がくだされました。

150高地を守備していた伊東大隊は、爆破された地下壕の中で生き埋めになっていましたが、5月21日未明になんとか這い出して脱出する事に成功しました。

300名以上いたはずの大隊も生存者は残り25名、それでも次の戦場へ向かって撤退を開始するのでした。



【阿波茶(あはちゃ)・沢岻(たくし)・50m閉鎖曲線高地の戦い】

伊祖高地を突破され、城間、宮城と、抵抗を続けるつつもじりじりと後退していた沖縄西岸戦線でしたが、その最後の砦となるのは沢岻高地でした。

ここには大きな渓谷があり、その奥に位置するのが阿波茶です。

そして沢岻の北西に位置するのが、50m閉鎖曲線高地です。

米軍がここを通過すれば、その先には、米軍を食い止めるために有利な地形はありませんでした。

しかしこれらを守備するのは、伊祖高地などの前線から撤退してきて、すでに戦力を3分の1程度にまで低下させていた部隊ばかりでした。

一方、ここを攻める米軍は、北部戦線から転進してきたほとんど無傷の海兵隊を中心とした部隊で構成されており、日本軍との戦力差は圧倒的なものでした。



5月6日、米軍の猛攻が始まります。

日本軍は反斜面陣地を活用して反撃を繰り返し、米軍の進行を食い止めました。

50m閉鎖曲線高地の頂上では、手榴弾も使えないほど至近距離で対峙した日米両軍による壮絶な白兵戦が繰り広げられるほどでした。

米軍の海兵師団はこの戦いを楽観ししていた為、「日本軍強し」の印象は彼らの頭に強く刻まれる事になります。

しかし米軍の連日不断の攻撃に押された日本軍は、5月14日に撤退する事になりました。

第5海兵連隊第3大隊K中隊のスレッジ伍長は、瓦礫の中を退却している日本兵を見てこう書き綴っています。

「雨あられと降り注ぐ鉄の暴風に見舞われ、こちらに背を向けて走っているときでも、私たちは彼らの背中に何かしらの自信に満ちた一種の威厳を感じ取った。彼らは命からがら逃げているのではない。堅固に築城された後方の防御陣地に単に移動しているだけに過ぎないのだ。そしてそこでまた戦う。もし後退の命令が出ていないのなら、彼らはその場に留まって熾烈な反撃を行う。いずれにしろ日本兵は死ぬまで戦うつもりなのだ。」



【安謝川渡河・天久台の戦い】


5月6日、沖縄西岸の海岸線沿いを南下していた米軍は安謝川河口にさしかかりました。

この川の河口は狭いものの、非常にぬかるんでいて、橋はすでに日本軍によって破壊されています。

米軍は9日に17名の偵察部隊を渡河させて様子を伺います。

対岸の稜線の低い部分には大きな洞窟の開口部があり、内部には狭い通路があって線路が敷かれていました。

このような洞窟は他にいくつもあり、偵察隊が爆雷攻撃によって破壊しようと斜面を登り始めた時、突如として日本兵があらゆる方向から攻撃を仕掛けてきました。

第22海兵連隊K中隊のポール・ダンフェイ中尉は「この地獄から抜け出すんだ!」と叫んで撤退を指示します。

ダンフェイ中尉はマーシャル諸島やグアム島でも戦闘を経験していますが、このような洞窟陣地を経験した事はありませんでした。

撤退して数時間後の作戦会議にて、どんな砲撃にも耐えられ、銃眼があちこちに向けられている優れた防御陣地に対し、正攻法で攻撃する事に意味はあるのか、とダンフェイ中尉は発言しています。

ダンフェイ中尉はその翌日の戦闘で腹部に銃弾を受けて戦死しました。

5月10日、米軍は安謝川に人員用の橋を構築して渡河を開始しますが、そこに2名の日本兵が爆雷を持って飛びこみ橋を爆破、米軍の攻撃計画を頓挫させます。

しかし米軍は水陸両用戦車を用いて対岸へ物資や人員を増派しました。



安謝川を渡河した海兵隊員たちは地獄に引き込まれる事になります。

第22連隊C中隊の海兵隊員は、まるでハリネズミが作ったかのように張り巡らされた日本軍のトンネルを見て「奴らは簡単には引き下がらない」と覚悟を決めるのでした。

分隊以上の人数で移動すれば忽ち日本軍はどこからともなく射撃を加えてきます。

とある分隊は少し前進しただけで4名の兵士を失いました。

彼らにとって、目標である首里に到達する事など、夢物語に思えてしまうのでした。

それでも米軍にとって、安謝川から数十メートル先にある安謝南東稜線、通称「チャーリー・ヒル」は、安謝川渡河の確保と、進軍する米軍の支援に重要な拠点であるため、必ず制圧せねばならない場所でした。

5月11日、C中隊は256名の隊員のうち戦死35名、戦傷者68名、後世に「チャーリーヒルの試練」と呼ばれた40%の損耗率を叩き出す激戦を耐え抜き、ついにチャーリーヒルの頂上を確保することに成功します。


その後、米軍は天久台に到達。

天久台は那覇市街を見渡せる高台になっており、ここを制圧すれば那覇市街を砲撃の射程圏に収めることができる、米軍にとって重要な場所でした。

ここでも日本兵による夜襲切り込みなどの激しい抵抗が行われましたが、5月15日には守備隊のほとんどが戦死し、天久台での戦闘が終結します。


【大名高地の戦い】
大名渓谷には、地形を考慮した非常に優秀な日本軍陣地が張り巡らされていました。

米軍はここを突破しなければ、首里に直接攻撃を仕掛けることができません。

仮にここを避けて南進したとしても、側方や背後からの砲撃を受けて重大な損失を被る事は必至でした。




沢岻高地を制覇した米軍は、5月14日、立て続けに大名高地への攻撃を開始します。

これに対する日本軍の反撃は壮絶で、第5海兵連隊第三大隊は、激しい砲撃によって、隠れていた溝や穴から一歩も出られないどころか、立ち上がる事すらできず、自分たちの現在位置すら把握できない有様でした。

米軍は砲兵による砲撃、艦砲射撃や航空攻撃によって大名高地の陣地を無力化しようとしますが効果はなく、戦車十数両による攻撃を仕掛けても撃退されてしまいます。

数日経っても、米兵が移動すると格好の的になり、忽ち気重傷者の餌食になってしまうため、米軍の補給はもっぱら戦車が使用しなければならないほどでした。

しかし圧倒的な物量差にものを言わせる米軍の攻撃に、日本軍はじりじりと劣勢に立たされていきます。

5月21日深夜、大名高地を占領しつつあった米軍に対し、日本軍は大規模な逆襲を行います。

バケツをひっくり返したかのような豪雨の中、暗闇の大名高地を静かに駆け上がり、日本軍は米軍に夜間攻撃をしかけました。

4時間にもわたる手榴弾戦が繰り広げられ、日が昇るまで何度も日本軍は稜線を超えて米軍陣地に突撃してきます。

結局、日本軍は180名もの戦死者を出し、逆襲は失敗に終わりました。

これによって大名高地はほぼ全域が米軍の制圧下におかれる事になりましたが、その後は豪雨などで戦線は停滞し、大名高地が完全に制圧されるのは5月30日になりました。










2022年2月15日火曜日

沖縄の戦い④第二防衛線 反斜面地獄

 


【伊祖高地の戦い】

嘉数高地で大激戦が展開されていた4月18日、米軍は第一防衛線西端の攻略を開始します。

米軍は煙幕に紛れて牧港河口を渡河する事に成功、伊祖高地の崖下に集結します。

米軍は日本軍の文書を手に入れており、そこには「米軍は夜間は射撃はするけど夜襲は行わない」と書かれていました。

米軍はこれを逆手にとって闇夜に紛れて崖を登って夜襲をかけ、日本の警備兵を一掃します。

19日、米軍は伊祖付近の日本軍守備隊に対し攻撃を仕掛けます。これは日本軍にとって奇襲となり、伊祖高地より北側の稜線は米軍に占領される事になりました。


20日夜間、日本軍は伊祖高地を奪還すべく3つの小隊による夜間攻撃を行います。

しかし第一小隊は「ほぼ全滅」、第二小隊は「生存者なし」と高地へたどり着くことはできませんでしたが、第三小隊伊祖北側高地へとたどり着く事ができ、独立臼砲第一連隊と合流する事に成功します。

21日から22日にかけて両軍の死闘が繰り広げられ、日本軍はなんとか米軍の進出を阻止する事ができていました。

23日には激しい白兵戦となり、30分の戦闘で100名以上の日本兵が戦死します。

その夜、日本軍は30名の残存兵力で敵前線へ突撃して全滅。

伊祖高地での戦闘が終了し、米軍は戦力を激戦地区の「嘉数」へ集中させる事ができるようになりました。

沖縄第一防衛線はこれによって完全に崩壊する事になり、沖縄戦は「第二防衛線」を守る戦いへと移行していく事になります。


【城間の戦い】

19日に牧港河口の渡河に成功していた米軍の中には、伊祖高地攻略とは別に、そのまま西進して「城間」の攻略に取り掛かった部隊もありました。

城間には米軍に「アイテムポケット」と呼ばれた強固な地下要塞があり、米軍は城間北部の高地にたどり着くことができずにいました。

アイテムポケットは激しい砲爆撃にも耐え、米軍が接近すると機関銃、迫撃砲、手榴弾が雨あられのように降り注ぎ戦車すら忽ちにして破壊される地獄と化すのです。

米軍は多数の死傷者を出しながらも、四方八方から包囲して攻撃を加えることによって27日にようやく攻略に成功します。

陸軍のあまりにも遅い侵攻速度によって連隊長が解任されるなど、米軍にも焦りが見え始めてきました。


【宮城・仲西の戦い】

このような状況の中、当初は沖縄本島北部を担当していた米軍海兵隊も、陸軍の負担軽減のため西海岸へ投入される事になります。

日本軍は戦力の充実した新たな部隊の遭遇に、更なる苦戦を強いられるのでした。

4月30日、城間を少し南下した場所にある、宮城地区以西の陸軍南飛行場へ米軍海兵隊が進出してきましたが、日本軍はこれに激しい砲撃を加えて撃退します。

5月1日、今度は米軍は戦車を伴って攻撃を加えてきます。

米軍は宮城地区の民家を徹底的に破壊し占領しますが、日本軍の抵抗は執拗で、この日も結局撤退せざるをえませんでした。

しかし2日以降、米軍の激しい攻撃によって数日間に渡る一進一退の激戦が続いた末、5月6日には安謝川北岸までの一帯は完全に米軍の手に堕ちる事になったのです。


【前田高地の戦い】

前田高地は第二防衛線の中央部にあたる要衝でしたが、新鋭の部隊が配備されておらず、第一防衛線の嘉数や西原から後退してきた部隊が守備についていました。

さらに前田高地は後方兵站部隊や司令部が置かれていたため、戦闘のための防御機能を有した陣地が構築されていませんでした。

しかし米軍にしてみれば、そびえ立つ前田高地の岸壁「為朝岩(ニードル・ロック)」を制覇する事こそが、沖縄攻略、日本本土攻略への第一歩であると象徴づけられており、前田高地の戦いこそが沖縄戦の勝敗を決定づける大事な一戦であると位置付けられていました。


4月26日、周到な事前砲撃を終えた米軍は、前田高地に対し正面から攻撃を仕掛けます。

米軍の歩兵隊は無傷で前進する事ができましたが、岸壁を登り終えた直後に猛攻撃を受けて一気に18名が戦死する事になります。

日本軍は防御機能の未熟な前田高地を、反斜面陣地として活用したのです。

米兵が崖を登り終えて稜線に辿り着くたびに戦死者が出るため、米軍は思うように侵攻する事ができなくなってしまいました。



翌27日、米軍は戦車による火炎放射で地下壕に潜む日本兵を厄払いながら前進しますが、日本軍の反撃も凄まじく、全線にわたりほとんど進軍する事ができませんでした。


前田高地の頂上をめぐる戦闘はその後も数日に渡って行われ、両軍とも大きな損害を被りました。

米軍の第381連隊は戦闘能力が40%にまで低下、1000名を越える死傷者のうち半分はこの前田高地の戦闘によるものでした。

米軍の砲爆撃が行われている間は南側の斜面の陣地に隠れてやりすごし、北側斜面を登ってきた米兵が頂上に現れると壕から出て攻撃を仕掛ける、という戦法をとってきた日本軍でしたが、5月4日、日本軍は総攻撃を行い600名が戦死するという大損害を受けてしまいます。

米軍は日本軍の地下陣地を爆破しながら南下を開始、前田高地の戦闘は6日に集結します。

この戦いの最前線で活躍した衛生兵のデズモント・T・ドスは名誉勲章を授かる事になり、2016年には彼を題材にした映画「ハクソー・リッジ」が製作されています。



【小波津・幸地の戦い】

前田高地の東側にある「小波津」「幸地」の守備に当たった日本軍は、第24師団です。
第24師団は沖縄南方からの上陸に対処するために展開されていたため、ほとんど無傷でした。

さらに幸地には強固な反斜面陣地が構築されており、15日間にも及ぶ壮絶な肉弾戦が繰り広げられる事になります。


4月26日、米軍は幸地、小波津地区への進出を開始します。

日本軍は周囲の高地から事前照準を完了していた為、米軍はその正確な砲撃の餌食になります。

激しい砲撃下では米軍の大隊はそれぞれ連携を取り合うこともできずに単独で戦闘を行い、目標の稜線にたどり着けた者は誰1人いませんでした。

翌日には米軍は戦車を伴い攻撃を仕掛けてきます。

この日も日米双方に多大な死傷者が出たものの、米軍は一歩も前進する事ができません。

その後も日本軍は善戦を繰り返し、陣地を確保し続けますが、徐々に米軍に押され始めてきます。

日本兵は火炎放射器や戦車の攻撃を凌ぎつつも、不眠不休で疲れ切っていました。

部隊交代している米兵達を見た日本兵は、それを羨ましがる事しかできません。自分たちには補給も交代要員もないのです。



【総攻撃】

第32軍参謀長、長勇少将は、日本軍がまだ攻撃能力を有しているうちに攻勢に転じ、戦局を変えるべきだと主張しました。

持久戦を展開し、米軍の侵攻を少しでも遅らせていた今までの方針とは全く異なる案でした。

寝技作戦の提唱者である高級参謀・八原大佐は激しく反対しましたが、司令官である牛島満中将が賛成にまわった事により、日本軍による総攻撃が決定されてしまいます。

日本軍の統帥機関である大本営や、第32軍を管轄する第10方面軍や、海軍などから「消極的すぎる」と沖縄での第32軍の戦いぶりは猛批判を受けていたのです。

昭和天皇ですら「現地軍はなぜ攻勢に出ないのか?」と下問されるほどで、上からの圧力に屈した形で沖縄の第32軍は無謀な総攻撃を行う事になったのです。

八原は、「米軍は、日本軍の事を『兵は優秀、下級幹部は良好、中級将校は凡庸、上級幹部は愚劣』と評しているようだが、実際は上から下まで多くの指揮官が本質的な知識と能力に欠けているのではないか」と嘆きました。




5月3日夜、日本軍は反転攻勢に打って出ます。

米軍が太平洋戦線で経験した事のない程の大規模な砲撃を浴びせ、虎の子の戦車部隊を送り出して普天間付近までの戦線回復を目論みます。

大本営はこの総攻撃に乗じて九州・台湾の航空戦力を集結させて大規模な特攻作戦を行い、さらに沖縄の残存兵力を上陸用船艇などで海上から迂回させ、米軍の背後への逆上陸を試みました。

この日本軍の攻勢に、米軍は一時的に混乱に陥ったものの、圧倒的な火力兵器を使って反撃を行い砲撃を封じ込め、日本軍の侵攻を食い止めます。

逆上陸部隊も壊滅し、戦車部隊はほぼ全滅。

日本軍の総攻撃はわずかな戦果を挙げる事しかできませんでした。

この戦闘における日本軍の戦死者は6000名、米軍の死傷者は1000名となり、戦闘前に「日本軍は米軍の5倍の損害を被る」と言った八原の進言通りの結果になったのです。

第32軍の首脳陣はうなだれてショックを隠せず、牛島司令官は八原大佐に謝罪、以降の戦略を八原に一任する事を伝えます。

長勇参謀長もまた、八原に従うようになりました。



しぶとい抵抗を続けていた幸地・小波津地区の部隊もこの総攻撃に駆り出され、小波津の守備隊は全壊的損害を出して撤退しました。

しかし幸地の守備隊はなんとか残存兵力を立て直し、抵抗を続けます。

ナパーム弾、ガソリン、火炎放射により陣地を焼き尽くされる中で日本兵たちは散発的に抵抗を行います。

5月10日、2900名いた幸地の連隊の残存兵力は250名にまで激減していました。

彼らは後方へ撤退、15日間続いた幸地の戦いは終わりを告げます。

日本兵達は撤退した翌日には後方の高地に陣を構え、再び戦闘に備えるのでした。


5月8日、日本の同盟国であるドイツが無条件降伏します。

しかしそのニュースをラジオで知った沖縄の米兵達は関心を示しませんでした。

日本兵はこれまで通り、全滅するまで戦い続け、自分たちに向かってくることを確信していたからです。