2019年5月28日火曜日

明治維新17 松平容保の苦悩

「保科正之(ほしな まさゆき)」は、第二代将軍・徳川秀忠の妾の子として生まれました。

第三代将軍・徳川家光は、腹違いの弟である正之の器量を見抜き、大変可愛がりました。

そして保科正之は、会津23万石の大名に引き立てられ、稀代の名君とまで呼ばれるようになったのです。

妾の子から大名へと、異例の出世を遂げた保科正之は、徳川幕府に大きな恩義を感じていました。

そして次のような家訓を示します。

「もし二心を抱けば、我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」

これは、主君(幕府)に背くような心を持つような奴は私の子孫じゃないから、誰も従うなよ!という意味です。

この言葉が、のちの会津藩の運命を大きく左右する事になります。
保科正之
会津松平家は幕府へ忠誠を尽くす忠義の国として220年も続く事になるのですが、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。

不作が原因となって大規模な一揆が起こったり、財政破綻の危機を乗り越えたり、6代目、7代目が早死にした為に保科正之の血が途絶えたりと、様々な難局を乗り越えて会津藩を存続させてきました。
会津藩はこの辺
9代目会津藩主「松平容保(まつだいら かたもり)」は婿入り藩主で、水戸徳川家の血筋である美濃高須藩の出身です。
松平容保

会津松平家の家風である神道、儒教、そして家訓を叩き込まれた容保は、「尊皇の精神」と「幕府への忠誠」を合わせ持つようになるのでした。

松平容保が藩主になった1852年はペリーが来航する前年の事であり、時代は一気に幕末の動乱期を迎える事になります。

京都では、開国を受け入れて外国と条約を結んだ幕府に対し、それに反発する「尊王攘夷」を掲げた志士たちが続々と集まっており、過激派が強盗などを起こして治安が悪化していました。

もはや町奉行の手に負える事態ではないと判断した幕府は、「京都守護職」を設置し、京都市中の治安維持と二条城の警備を任せようと考えます。

本来ならば、京に近い彦根藩がこの任に就くはずだったのですが、彦根藩主である「井伊直弼」は桜田門外の変で殺されており、跡を継いでいた13歳の若い藩主には荷が重すぎると判断されたのです。

安政の大獄などによって人材不足に陥っていた江戸幕府が目をつけたのは、東日本で最も信頼の置ける会津藩でした。

しかし、当時の会津藩の財政は既に破綻状態。

容保も病に伏せっており、京都守護職という大任を何度も断りました。

会津藩を守護職に推薦していた政事総裁職の「松平春獄」は、とうとう会津藩の家訓を引き合いに出します。

「もし二心を抱けば、我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」

この言葉の前に容保は辞する言葉を失い、京都守護職を引き受ける決心をしました。
会津藩家訓
家臣たちは皆「薪を背負って火を消しに行くようなものだ」と反対しますが、容保の決意を知ると、肩を抱きあって涙し、京都を死に場所にする覚悟を決めます。

京都守護職に就けば会津藩は滅びる事になると、誰もがわかっていたのです。

実際、京都守護職の経済負担はとてつもなく大きく、会津藩は216000両の出費を余儀無くされました。

しかしその役職に対して支払われるのは、半分にも満たない96709両です。

年間11万9300両(30億円相当)の赤字になるのです。

当然、赤字を賄うために税を徴収せねばなりません。

結果、会津藩の農民達は、重税に苦しむ事になってしまいました。

さて、攘夷の嵐が吹き荒れる中、会津藩兵を率いて上洛した松平容保ですが、京都では神道を学んで培った尊皇の精神を遺憾なく発揮します。

戦国時代以降、武士達の台頭に伴い皇室を始め、公家・公卿達の生活は圧迫されていました。

皇室への支給は定額制だったのですが、幕末の動乱の中で物価が急騰してしまい、孝明天皇に出される魚は、とても食べられる品質のものではなくなっていたそうです。

内職で生計を立てる公卿もいたほどで、そこには裕福な幕府への妬みが少ならからず存在し、幕府に不満を持つ攘夷派の志士達に付け入る隙を与えてしまっており、幕府の唱える「公武合体」の妨げとなっていたのです。

松平容保は皇室の待遇改善を幕府へ建白し、急いで大阪湾から新鮮な魚を取り寄せ、孝明天皇に食べさせました。

孝明天皇は「これは肥後の魚か!肥後の魚か!」と繰り返し喜んだそうです。
この肥後というのは、「肥後守」の官位をもつ松平容保の事を指しています。
孝明天皇
このような姿勢によって、容保は朝廷の厚い信頼を得る事になりました。

しかし「朝廷」と「幕府」の板挟みの中で、容保の運命は揺れ動く事になっていきます。

容保は京都の治安維持も徹底しました。

攘夷派の過激な志士達は幕府を批判するために毎日のように暗殺を行っており、京都の治安は最悪なものになっていました。

そこで容保は新撰組を支配下に置き、攘夷派、倒幕派の志士達を摘発し、「八月十八日の政変」では、攘夷派、倒幕派の公家や、長州藩士を京都から追放する事に成功します。

「禁門の変」においても長州藩を撃退しますが、これによって長州藩と会津藩の関係性は最悪なものになりました。

孝明天皇の信任を得た一橋慶喜や松平容保(会津)、松平定敬(桑名藩・容保の弟)らは幕府から距離を置き、ある意味独立した状態で幕政を指示し、後に「一会桑政権」と呼ばれるようになります。
こうした孝明天皇からの過度な優遇は、薩摩藩や幕府からの反感すら買うようになり、薩摩藩と長州藩が接近する原因を作る事にもなってしまいました。

容保が幕府の為、朝廷の為と思って行動していた事が、どんどん敵を増やすことになっていたのです。

松平容保に欠けていたのは、政治的な駆け引きのバランス感覚だったのかも知れません。

そのような状況の中、1866年に将軍家茂が亡くなると、1867年に孝明天皇も崩御します。

容保が最も頼りにしていた人、そして最も忠義を尽くしていた人を立て続けに失う事になりました。

そして新しい将軍、徳川慶喜が薩長に対して融和路線を取るようになると会津藩は立場がありません。

容保は京都守護職を辞任して会津藩へ帰る事を望みましたがそれも許されませんでした。

徳川慶喜は松平容保の反対をよそに、大政奉還をして政権を返上してしまいます。

慶喜は将軍を辞して、一大名として生き残る道を選んだのです。

しかし王政復古によって徳川家の処分が決まると、会津藩士達は憤慨し一触即発の状況になりました。

京都で戦闘を起こして朝敵になるわけにはいかないと考えた徳川慶喜は、松平容保を引き連れて二条城から大阪城へ移ります。

慶喜に戦う意図はありませんでしたが、憤慨した会津藩士達を止める術はなく、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発し、旧幕府軍は「朝敵」になってしまいました。

徳川慶喜は、松平容保を家臣達から引き離して事態を収拾すべく、容保に命じて開陽丸に乗り込み江戸へ下りました。

家臣を見捨てる形となってしまった容保は責任を取って会津藩主を辞任、養子の喜徳に家督を譲りました。
第十代会津藩主・松平喜徳。徳川慶喜の弟
江戸で謹慎していた徳川慶喜や会津藩、桑名藩を「朝敵」と定めて追討命令が下ると、新政府軍に対して抗戦を訴える松平容保は慶喜から江戸城登城の禁止と、江戸追放を言い渡されてしまいます。

今や松平容保は、政権を握る長州藩からは恨まれ、朝廷からは敵視され、幕府からも疎まれる存在になってしまったのです。

傷心の中、やっと故郷・会津に帰る事ができた容保は謹慎し、朝廷に対し恭順の姿勢を見せて処分を待ちました。

しかしその一方では、プロイセンなどを頼って武器を購入し、武装防衛の準備も進めます。
会津藩からしてみれば、幕府も朝廷も薩長中心の新政府も皆敵という状況の中で、あらゆる可能性を模索していたのではないでしょうか。

しかしこのような「武装恭順」の姿勢は評価されず、仙台藩、米沢藩、庄内藩などを通じて出された降伏嘆願書は奥羽鎮撫総督の参謀「世良修蔵」に悉く踏みにじられました。
世良修蔵
その横暴な態度に激昂した仙台藩士は世良を処刑し、新政府軍と東北諸藩との戦争は避けられないものになってしまいます。

江戸薩摩藩邸焼き討ち事件に関わった庄内藩も、会津藩と同様に新政府軍の討伐対象とされていたため、会津藩と庄内藩は「会庄同盟」を結びます。

この同盟を起点として、世良修蔵を斬ってしまった仙台藩、保科正之時代の会津藩に返しきれない恩義を持つ米沢藩、中立姿勢が認められず新政府との交渉が結れるした長岡藩などが集まり、計31藩による「奥羽越列藩同盟」が結成されました。
奥羽越列藩同盟旗
松平容保に使えていた家老に「西郷頼母(さいごう たのも)」という人物がいました。

彼は、政局の争いに巻き込まれて大変な目にあうからと、最後まで会津藩が京都守護職に就く事を反対し続け、家老職を解任させられていましたが、戊辰戦争の勃発と共に呼び戻されて復帰しました。
西郷頼母
西郷頼母は、主君である松平容保と同様、新政府に対して恭順の姿勢をとっていましたが、新政府が遣わした奥羽鎮撫総督の世良修蔵が「松平容保の斬首」を要求してきた事により、態度を一変させ、白河口の総督として出兵する事になります。

白河口は、「東北の入り口」であり、交通の要衝でした。

会津藩と新撰組は、新政府のものになっていた白河小峰城へ侵攻し、占領します。
消失した白河小峰城
白河小峰城











しかしその10日後に白河小峰城は新政府軍に奪回され、その後も城を巡っての攻防戦は3ヶ月間に渡って繰り広げられました。

白河口で粘る会津藩兵を尻目に新政府軍は北上を開始、二本松藩の居城、二本松城を攻めます。
二本松藩には、有事の際には年齢を2歳加算できるという独自の制度があったため、最少年齢が「12歳」と言う少年兵部隊ができてしまいました。

これは藩の上層部が勝手に決めた事ではなく、白河口の戦いに兵力を割かれている現状を案じた少年達が出陣の嘆願を繰り返した結果です。

後に「二本松少年隊」と呼ばれる事になるこの少年達は、大人達に混じって勇敢に戦いました。

13歳の岡山篤次郎は、出陣の前に、母親に頼んで身につけている物全てに名前を描いてもらいました。

母が理由を尋ねると、
「私の屍だとすぐにわかりますから」
と答えたそうです。
岡山篤次郎の墓
二本松領を占領した新政府軍の次の目標は「会津藩」でした。

会津藩では鳥羽・伏見の戦い以降、年齢別に部隊を構成する組織づくりを進めていました。

18歳から35歳までの「朱雀隊」
36歳から49歳までの「青龍隊」
50歳以上の「玄武隊」
そして16歳、17歳の「白虎隊」です。

会津藩は国境付近に主力軍を送り出していましたが、新政府軍の北上を止める事はできず、いよいよ会津松平家の居城、若松城にまで新政府軍が迫って来ていました。

白河口から若松城へ帰ってきた西郷頼母が再び恭順する事を進めますが、もはや耳を貸すものは誰もいませんでした。

会津城下を守るべく、予備兵力だったはずの白虎隊も出陣しますがあえなく敗走し、生き残った7人は、敵に捕まり生き恥を晒すよりは、死んで武士の本分を示そうと自刃しました。
(喉を突いた飯沼貞吉のみが生存)
飯沼貞吉
迫り来る新政府軍に対し、会津藩は籠城戦の構えを取り、最後まで戦おうとします。

武家屋敷では、籠城戦の足手まといにならないようにと、婦女子は城に入らず自決を選びました。

その数、西郷頼母の家族・親戚21名を筆頭に、200名以上と言われています。
西郷頼母の妻の辞世の句が刻まれた「なよたけの碑」
会津若松城での籠城戦では、老若男女5000人が一丸となって戦い、一ヶ月もの間持ちこたえました。

しかしその頃、列藩同盟の東北諸藩はほとんどが降伏しており、頼りにしていた米沢藩が降伏した事によって、松平容保は降伏を決意します。
会津若松城(鶴ヶ城)
松平容保は養子の松平喜徳とともに東京の久留米藩邸へ送られ、処分を待ちました。

会津藩家老「萱野長修(かやの ながはる)」は「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」とその責任を一身に背負って処刑されました。

容保は死罪を免れ、会津藩の領土は明治政府の直轄となります。

会津藩士やその家族17000人は青森県下北半島の「斗南藩」へ移住することになりました。
斗南藩
極寒の地で、農業の専門家でも苦労する程なのに、農業はおろか他の職業の経験もない会津藩士達にとって、ここは「格子なき牢獄」と呼ぶにふさわしい場所であり、多くの者が餓死したと言います。

老若男女が一丸となって戦った会津藩ですが、それはあくまでも「武士」だけの話であって、会津藩の農民達の反応は至って冷たいものでした。

会津藩では、ただでさえ苦しい財政の中、京都守護職を引き受けた事でさらに重い税を課さなければならず、さらに戦争が始まるという事で厳しい徴発を受けていたのです。

農民達は、会津若松城が落城すると、一斉に蜂起し、各地で一揆が起こりました。
会津世直し一揆
さて、この戦争には、後世に禍根を残す厄介な出来事が起こっており、今尚、会津と長州の関係を悪くしています。

「遺体埋葬論争」です。

新政府軍が、亡くなった会津藩士達の埋葬を許さず、野ざらしにしたという話があるのです。

実際に、会津藩士の遺族の手記には、城下町で腐った家族の死体を探し歩いたという話が多く残されています。

しかし近年、戦争終結の直後から、明治新政府の民政局から埋葬の指示が出されていた事がわかっています。

それでも全てがきちんと埋葬されたというわけではないようで、若松城内には、井戸に投げ込まれただけだったり、埋葬の仕方が甘くて地表に出てしまう遺体もあったようです。

このような劣悪な埋葬の仕方が、現在にも残る禍根の原因になっているのだと考えられます。

これらの遺体は、半年後に改葬される事になりました。
阿弥陀寺に巨大な穴を掘り、1281人の遺体を埋めて土をかぶせると、塚の高さは1、2mにもなったそうです。
石垣の高さまで遺体が積み上がった
松平容保が忠義を尽くしたが為に起こった会津戦争は、明治維新を経てまさにこれから世界の列強国と渡り合って行こうという「新しい日本」に訪れた一つの変化なのではないでしょうか。

なぜ、同じ日本人同士、両者ともに最後まで徹底的に戦い抜かねばならなかったのでしょうか。
会津戦争とは、「『サムライの国』との決別」だったのではないかと考える次第であります。


2019年5月19日日曜日

明治維新16 北海道のジャガイモが美味しい理由

「ドイツ料理」と聞いてもあまり食す機会が少なく、すぐにピンとは来ませんが、どんな食材が思い浮かぶでしょうか??私の頭に浮かぶのは・ジャガイモ・ソーセージ ・チーズ・パン等です。
トウモロコシもよく使用されるみたいですね。
そしてこれらの食物を思い浮かべた時、日本のとある場所が連想されてこないでしょうか?
北の大地「北海道」です。
北海道の農産物は、ドイツ人が喜びそうなものばかりなのであります。
実は、これは偶然ではなく、ドイツと北海道の歴史的な繋がりによる必然なのでした。
そして、それは明治維新に大きく関わっているのです。
話は変わりますが、「戊辰戦争」と言えば、「薩摩藩・長州藩を中核とする新政府軍と、旧幕府勢力の戦い」という認識を私はしておりました。
新しい時代を作る新政府軍に対し、旧体制に固執する旧幕府勢力の戦い。
まるで「善と悪」の二元論で片付けられてしまいそうな、そんなイメージを与えられていたような気がします。
しかし調べていくと、戊辰戦争において新政府と旧幕府が直接戦ったのは、初戦の「鳥羽・伏見の戦い」くらいで、「江戸無血開城」の後のに起こった「東北戦争」は、新政府の強硬姿勢が生み出してしまった「第三勢力」との戦いなのだということがわかりました。
幕末の動乱期において、会津藩は「京都守護職」庄内藩は「江戸市中取締」として、治安維持に当たっていました。
要するに反幕府勢力を取り締まっていたでのす。
その経緯から、会津藩、庄内藩と新政府は、非常に仲が悪かったと言えます。
そして、鳥羽・伏見の戦いが起こった事により徳川慶喜に次いで会津・庄内両藩も「朝敵」に認定されてしまったのです。
新政府は仙台藩に対し、会津藩を討伐するよう命令を出しましたが、会津藩に出兵する理由も特にない仙台藩は兵を出しませんでした。
会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)は謹慎し、謝罪状を提出して恭順の姿勢を示す一方、新政府への降伏は拒み、庄内藩と「会庄同盟」を結んで最新式の「スナイドル銃」などを購入して軍備を整えました。
会津藩は防衛と和平の二方向の体制を整えたのです。
しかしこのような会津と庄内の動きは、新政府の態度を硬化させた一因であったかもしれません。
新政府は会津、庄内両藩を討伐すべく、奥羽鎮撫総督府を仙台に置き、東北諸藩に会津討伐を命じました。
この時はまだ江戸城無血開城は為されておらず、江戸城総攻撃のために兵力を集中していたために、東北へ兵力を割く余裕がありませんでした。
奥羽鎮撫総督府の兵力はわずか570名。
これでは東北同士の戦争を避けたい東北諸藩を従わせる為の圧力とはなり得ません。
仙台藩、米沢藩を中心とする東北諸藩は会津、庄内藩へ寛大な処置を求める嘆願書を奥羽鎮撫総督府に提出しましたが、却下されて逆に再度討伐命令を下される有様でした。
しかし東北諸藩としては、いきなりやって来た新政府軍に「会津を討て」と言われても、従う道理がないのです。
さらに、奥羽鎮撫使達は東北に来てからかなり横暴な行動をとっており、東北諸藩の反発を買っていました。
奥羽鎮撫総督府の参謀「世良修蔵」は、東北諸藩からの和平の斡旋をことごとく蹴りました。
世良修蔵
その強硬な態度を不審に感じた仙台藩が、彼の周囲に探りを入れてみると、一通の密書を手にすることができました。
その密書は、兵力不足によって奥羽鎮撫がうまく進展しない為、増援を願い出る内容のものだったのですが、その中に「奥羽皆敵」という言葉が含まれていたのです。
この言葉を、「世良修蔵は奥羽全土を武力討伐しようと画策している」と捉えて激昂した仙台藩は、藩士を送り込んで世良を捕獲し、処刑してしまいました。
・奥羽鎮撫使の横暴、執拗な会津討伐命令などに対する不満
・奥羽鎮撫総督の強硬姿勢によって、東北諸藩は会津・庄内藩に着くか、新政府に着くかの二者択一を迫られていた事
・奥羽鎮撫総督府参謀・世良修蔵の斬首
これらの理由により、東北諸藩と新政府との対立は不可避になりました。
その頃、江戸では無血開城が実現し、徳川幕府は完全に解体されました。
しかしそれに納得しない徹底抗戦派の旧幕臣達により、2000名の旧幕臣が船橋大神宮に陣を張って新政府軍と戦った「船橋の戦い」や、徳川家の聖地である「日光廟」で決戦を行うべく北上した旧幕府軍勢力と新政府軍との間で繰り広げられた「宇都宮城攻防戦」、上野寛永寺に立てこもる彰義隊との「上野戦争」などの争いが起き、その戦いの結果、新政府は江戸における反乱分子の制圧を完了しました。
新政府軍の勢力が東北へ迫る中、東北諸藩は結束し、団結することになります。
奥州、羽州、越州などの31藩による「奥羽越列藩同盟」の誕生です。

こうして、戊辰戦争の後半戦は、新政府軍VS奥羽越列藩同盟という構図が完成します。
ところで、江戸で起こった「上野戦争」の舞台となった寛永寺ですが、この寺の住職は代々、皇族が務めることになっていました。
上野戦争の際、彰義隊の有志により保護された寛永寺の住職、「輪王寺宮」は、旧幕府海軍の指揮官、「榎本武揚」の助力によって東北へ移ることになり、奥羽越列藩同盟の盟主となりました。
輪王寺宮(北白川宮能久親王)
一説によると、それだけでなく「東武帝」として、東北朝廷の天皇に即位したという話もあります。
この時のことを、海外では「日本には二人のミカドがいる」と報じられています。
奥羽越列藩同盟は、「新しい国」を作ろうとしていたのかも知れません。
これまで、新政府をイギリス、旧幕府をフランスが支援していた事は既に書いて来た通りですが、奥羽越列藩同盟もまた、独自に支援先を探していたようです。
その支援先とは、「プロイセン(後のドイツ)」です。
奥羽越列藩同盟に最新の武器を送り込んでいたのは、プロイセン出身の「スネル兄弟」でした。
兄・ジョン・ヘンリー・スネル
弟・エドワルド・スネル
スネル兄弟の武器商売は、プロイセンと列藩同盟を結びつけるルートとなりました。
そして、プロイセンは北海道に目をつけたのです。
プロイセン公使のマックス・フォン・ブラントは、母国の首相ビスマルクに「プロイセンは、北海道に基地の獲得を目指すべきである」「北海道は気候が北欧に似ており、農業牧畜に適し、5000名ほどの海兵隊で手に入れることができる」という手紙を送っています。
マックス・フォン・ブラント
当時、北海道は「蝦夷」と呼ばれ、東北の諸藩が警備を行っていました。
会津藩、庄内藩はなんと、蝦夷の領地を売却する事でプロイセンとの外交ルートを築こうとしたのでした。
蝦夷
しかしこの案は、イギリス、フランスとの関係を重視したビスマルク宰相によって却下されました。
ラントは以前から北海道に目をつけており、二度に渡って調査を行っています。
そこに同行していたのが、ラインハルト・ガルトネルという商人です。
ラインハルト・ガルトネル
北海道の植民地化案を本国から却下されても、ガルトネルは諦めずに日本で初めて西洋式の農業を持ち込み、開墾して行きました。
これは土地の実効支配とも言えるものでした。
ガルトネルの行った農業は、現在の北海道の農業の原点となりました。
北海道の農産物にドイツ人が好んで食べそうなものが多い理由は、「ドイツ人が住むつもりだったから」だったのです。

結局、新政府が東北戦争・箱館戦争に勝利する事でプロイセンが介入する隙はなくなりました。
そしてガルトネルの報告書を手に入れたアメリカが日本に送り込んだのが「クラーク博士」だと言われています。

2019年5月18日土曜日

明治維新15 仙人になりたいなぁと思ってたら大砲ができた

古来より支那では、不老不死の「仙人」の存在を信じる「神仙思想」が根付いており、仙人に近づくために様々な物質を混ぜ合わせて霊薬を配合する「錬丹術」が盛んに行われてきました。

その過程において、古代支那では「特定の物質を混ぜると化学反応を起こす」という事を理解していきました。
7〜9世紀頃になると、木炭と硫黄と硝石を混ぜ合わせると燃焼・爆発を起こす事がわかります。
これが「火薬」の誕生であります。
人類の歴史は常に戦争と隣り合わせでした。
武器・兵器の進化に伴い戦争の在り方も変化し、それは外交や内政にも影響を及ぼすのです。
そして「火薬」の兵器利用は、間違いなく人類の戦い方を一変させるものでありました。
火薬を使った武器の進化は、大きく2つの道に分かれていきます。「銃」と「大砲」です。
古代・中世ヨーロッパの戦争においては、「攻城戦」が国の存亡を左右してきました。
そのため、堅固な城壁をいかに早く攻略できるのかが重要でありました。
そこで従来の攻城兵器に取って代わるべく考え出された、
火薬を使った攻城兵器が「大砲」です。
15世紀に登場した大砲「ボンバード」は、鉄の筒に石球を装填し、火薬を爆発させて飛ばすものでした。
しかし使用される弾丸は所詮、石の塊でしたので、城壁に当たっても石球の方が砕けてしまうという致命的な欠点がありました。
射石砲・ボンバード
この欠点を補うために「もっとでっかいの作ろう」と考え出されたのが「ウルバン砲」です。
ウルバン砲は砲身が8mもある巨大な大砲です。移動するにも弾丸の調達にも不便なウルバン砲でしたが、オスマン帝国はこれを必要としていました。
オスマン帝国と敵対する東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルには、1000年以上も難攻不落であった大城壁「テオドシウスの城壁」があったのです。
テオドシウスの城壁

1453年、ウルバン砲を12門も携えたオスマン帝国は、コンスタンティノープルを攻めました。
ウルバン砲は544kgもの石弾を1.6km先まで飛ばすという凄まじい威力を持っていましたが、
「コンスタンティノープルのどこかに当たれば御の字」
という程、命中率は低かったようです。
さらに石弾の調達も困難で、一度発射すれば摩擦熱により三時間は使用不能となるウルバン砲の戦果は微妙だったようです。
ウルバン砲
そんな欠点だらけの「大砲」でしたが、鉄製の弾丸が開発されたりするなど進化を続け、野戦、攻城戦、海戦などに欠かせないものになって行きました。
日本に大砲が伝わったのは1576年。
「国崩し」と名付けられた石火矢(いしびや)、「大鉄砲」と呼ばれた大筒(おおづつ)
などが有名です。江戸時代には大砲の国産化に成功し和製大砲の製造が可能になりますが、江戸時代は「ミラクルピース」と呼ばれた戦乱のない時代。
大砲の製造は細々と行われる程度にとどまりました。

国崩し
大筒


そんな中、1854年になるとイギリスで革新的な大砲が発明されます。
「アームストロング砲」です。
アームストロング砲の特徴は「後装式ライフル砲」だということです。
大砲はそれまで砲身の前方から弾丸を装填する「前込め式」で、多大な労力と時間を必要とするばかりでなく、装填作業中に敵弾に晒されかねないという致命的な欠陥がありました。
しかし後装式、つまり砲身の後ろから弾を込めることができるようになると、一度射った後に砲身の向きを変える事なく次の弾を込めることができるため、発射速度が非常に改善されました。
また、砲身の内面に螺旋条を入れることによって砲弾にジャイロ回転を加えることができ、それまで無回転の弾丸「滑空砲」に比べて飛距離も精度も向上しました。
このように画期的な大砲である「アームストロング砲」は、産業革命のトップを走るイギリスの最先端の技術をもってして、製作が可能なものでした。
言ってしまえば「イギリスにしか作れない」代物だったのです。
アームストロング砲
アームストロング砲が初めて実戦投入されたのは、清との戦争「アロー戦争」でした。
この戦いで清国海軍の木造船は木っ端微塵に壊滅させられたそうです。
そしてこのアームストロング砲ですが、徐々に日本にも関わってくることになります。
「薩英戦争」では、21門のアームストロング砲が投入されました。しかしここで大きな欠陥が見つかってしまいます。
この戦いにおいてアームストロング砲から発射された砲弾は365発でしたが、その間に28回も故障が発生し、さらに1門が暴発する大事故が起きてしまったのです。
この事故によって「暴発しやすい欠陥品」のレッテルを貼られ、イギリス軍はアームストロング砲の配備を中止、余剰在庫は海外へ売りつけることにしたのです。
イギリスは、南北戦争中だったアメリカや、幕末の動乱で武器の需要の多かった日本に輸出しました。
1867年に佐賀藩は10門のアームストロング砲を購入しています。
佐賀藩は、長崎警備の任に就いていたことから「フェートン号事件」などを経験し、外国の脅威を肌で感じていたために、独自に西洋の軍事・科学技術の導入を図っていたのです。
それまでの国産の大砲といえば「青銅製」だったのですが、
佐賀藩では「反射炉」の建造により、強力な鉄製な大砲を製造することが可能になりました。そしてアームストロング砲の情報はかねてより把握しており、上海まで藩士を送り込んで入念にスケッチを取らせたりするなど、研究を怠りませんでした。
佐賀・築地反射炉
その結果、佐賀藩は「佐賀施條砲」とも言うべき国産アームストロング砲を生み出すことに成功したようです。
しかしこれがオリジナルのアームストロング砲と同等の能力を持っていたかどうかは甚だ疑問が残ります。
アームストロング砲の製造に必要な最新鋭の設備が佐賀藩にはなかったのです。
しかしこうして培った技術を、佐賀藩主・鍋島直正は薩摩藩に提供していきました。
薩摩藩主の島津斉彬は鍋島直正の従兄弟だったのです。
島津斉彬
鍋島直正










話を明治維新に戻します。
「江戸城無血開城」によって徳川慶喜が水戸で謹慎することが決まると、徳川慶喜を警護していた「彰義隊」は、慶喜が水戸へ移っても解散せずに上野の寛永寺に留まり続けました。
寛永寺
幕府の解体により江戸の経済は停滞しており、新政府に不満を持つ民衆も多かったようです。
そんな中で新政府に反旗を翻した彰義隊はなかなか民衆の支持を得ていたようです。各地から脱藩浪士などが集まり、その勢力は3〜4000人程度に膨れ上がっていました。
この事態に手をこまねいていた西郷隆盛の代わりに新政府が送り込んできたのは「大村益次郎」でした。その風貌から「火吹き達磨」と呼ばれた彼は超合理主義で、「暑いですねぇ」と挨拶されれば「夏ですから」と答えるほどであったと言われています。
新政府に不満を持つ民衆のヒーロー彰義隊を、感情的でなく合理的にぶっ潰せるのはこの人しかいない、とでも言うような人選でした。
大村益次郎
大村益次郎はまず、江戸中の揚札場に彰義隊殲滅の総攻撃の日付、場所を示しました。これは市民を避難させ、戦火を最小限に食い止めるためのものでしたが、これを見た彰義隊の多くは上野の山を降りて逃げ去ったと言います。
さらに大村益次郎は、敵正面で主戦場となる広小路黒門前に薩摩藩兵を配置しました。この布陣に対して西郷隆盛は「薩摩兵を皆殺しにするおつもりか」と問いましたが、それに対し大村益次郎は「その通り」と答えたと言われています。
「薩長同盟」とは言うものの、長州藩はすでに薩摩藩を潰すべき相手だと認識していたのかも知れません。
慶応四年5月15日、上野寛永寺に陣取る彰義隊に対し、新政府軍の攻撃が開始されました。
彰義隊の正面である黒門前に配置された西郷隆盛の隊は一進一退の攻防を繰り広げました。序盤はやや彰義隊の優勢であったとも言われています。
 
彰義隊は山砲による正確な射撃を行い、新政府軍はこれに苦戦しましたが、新政府軍も四斤山砲で応戦します。
四斤山砲(フランス式)
しかし寛永寺の裏門の先鋒部隊、長州藩兵から銃声が聞こえて来ません。長州藩兵に配備された最新式の銃、「スナイドル銃」の使い方がわからなかったのです。
スナイドル銃は、それまでの前込め式の銃とは異なり、アームストロング砲のような「後装式」でした。
スナイドル銃
それまでの銃とは全く使用法が異なっていたのに、一丁につき50発しか弾丸がついていなかったため、大村益次郎は試射を一発しか許さず、兵達は使用法を理解できなかったのだと言われています。
益次郎の合理主義が裏目に出たのでした。
長州藩兵はその場を佐土原藩兵に任せて退却し、銃の使い方を教えてもらいに一旦参謀の元へ帰らざるをえませんでした。
しかし、使用法を心得たその後の長州藩兵の働きぶりは凄まじかったと言います。
その頃、勇猛な薩摩藩兵は激戦を続け、彰義隊を押し返して遂に黒門を突破しました。
その知らせを聞いた大村益次郎はいよいよアームストロング砲を登場させます。
アームストロング砲の破壊力は「同族同士の争いに使ってはいけない」と佐賀藩邸に封印されていたほどであり、大村益次郎はなるべく人を殺傷しないように使用すると言う条件でこれを借り入れたのでした。

アームストロング砲は不忍池を飛び越えて寛永寺にまで着弾しました。
この砲撃で彰義隊は散り散りになります。
午前七時に始まった上野戦争も、午後五時頃には決着がつきました。
彰義隊はほぼ全滅、残党達は北東方向へ逃走して行きました。
この戦いの結果、新政府は江戸以西を完全に掌握したものの、旧幕府勢力の抵抗は続き、戊辰戦争は北陸、東方へと舞台を移して行くのでした。