2019年5月18日土曜日

明治維新15 仙人になりたいなぁと思ってたら大砲ができた

古来より支那では、不老不死の「仙人」の存在を信じる「神仙思想」が根付いており、仙人に近づくために様々な物質を混ぜ合わせて霊薬を配合する「錬丹術」が盛んに行われてきました。

その過程において、古代支那では「特定の物質を混ぜると化学反応を起こす」という事を理解していきました。
7〜9世紀頃になると、木炭と硫黄と硝石を混ぜ合わせると燃焼・爆発を起こす事がわかります。
これが「火薬」の誕生であります。
人類の歴史は常に戦争と隣り合わせでした。
武器・兵器の進化に伴い戦争の在り方も変化し、それは外交や内政にも影響を及ぼすのです。
そして「火薬」の兵器利用は、間違いなく人類の戦い方を一変させるものでありました。
火薬を使った武器の進化は、大きく2つの道に分かれていきます。「銃」と「大砲」です。
古代・中世ヨーロッパの戦争においては、「攻城戦」が国の存亡を左右してきました。
そのため、堅固な城壁をいかに早く攻略できるのかが重要でありました。
そこで従来の攻城兵器に取って代わるべく考え出された、
火薬を使った攻城兵器が「大砲」です。
15世紀に登場した大砲「ボンバード」は、鉄の筒に石球を装填し、火薬を爆発させて飛ばすものでした。
しかし使用される弾丸は所詮、石の塊でしたので、城壁に当たっても石球の方が砕けてしまうという致命的な欠点がありました。
射石砲・ボンバード
この欠点を補うために「もっとでっかいの作ろう」と考え出されたのが「ウルバン砲」です。
ウルバン砲は砲身が8mもある巨大な大砲です。移動するにも弾丸の調達にも不便なウルバン砲でしたが、オスマン帝国はこれを必要としていました。
オスマン帝国と敵対する東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルには、1000年以上も難攻不落であった大城壁「テオドシウスの城壁」があったのです。
テオドシウスの城壁

1453年、ウルバン砲を12門も携えたオスマン帝国は、コンスタンティノープルを攻めました。
ウルバン砲は544kgもの石弾を1.6km先まで飛ばすという凄まじい威力を持っていましたが、
「コンスタンティノープルのどこかに当たれば御の字」
という程、命中率は低かったようです。
さらに石弾の調達も困難で、一度発射すれば摩擦熱により三時間は使用不能となるウルバン砲の戦果は微妙だったようです。
ウルバン砲
そんな欠点だらけの「大砲」でしたが、鉄製の弾丸が開発されたりするなど進化を続け、野戦、攻城戦、海戦などに欠かせないものになって行きました。
日本に大砲が伝わったのは1576年。
「国崩し」と名付けられた石火矢(いしびや)、「大鉄砲」と呼ばれた大筒(おおづつ)
などが有名です。江戸時代には大砲の国産化に成功し和製大砲の製造が可能になりますが、江戸時代は「ミラクルピース」と呼ばれた戦乱のない時代。
大砲の製造は細々と行われる程度にとどまりました。

国崩し
大筒


そんな中、1854年になるとイギリスで革新的な大砲が発明されます。
「アームストロング砲」です。
アームストロング砲の特徴は「後装式ライフル砲」だということです。
大砲はそれまで砲身の前方から弾丸を装填する「前込め式」で、多大な労力と時間を必要とするばかりでなく、装填作業中に敵弾に晒されかねないという致命的な欠陥がありました。
しかし後装式、つまり砲身の後ろから弾を込めることができるようになると、一度射った後に砲身の向きを変える事なく次の弾を込めることができるため、発射速度が非常に改善されました。
また、砲身の内面に螺旋条を入れることによって砲弾にジャイロ回転を加えることができ、それまで無回転の弾丸「滑空砲」に比べて飛距離も精度も向上しました。
このように画期的な大砲である「アームストロング砲」は、産業革命のトップを走るイギリスの最先端の技術をもってして、製作が可能なものでした。
言ってしまえば「イギリスにしか作れない」代物だったのです。
アームストロング砲
アームストロング砲が初めて実戦投入されたのは、清との戦争「アロー戦争」でした。
この戦いで清国海軍の木造船は木っ端微塵に壊滅させられたそうです。
そしてこのアームストロング砲ですが、徐々に日本にも関わってくることになります。
「薩英戦争」では、21門のアームストロング砲が投入されました。しかしここで大きな欠陥が見つかってしまいます。
この戦いにおいてアームストロング砲から発射された砲弾は365発でしたが、その間に28回も故障が発生し、さらに1門が暴発する大事故が起きてしまったのです。
この事故によって「暴発しやすい欠陥品」のレッテルを貼られ、イギリス軍はアームストロング砲の配備を中止、余剰在庫は海外へ売りつけることにしたのです。
イギリスは、南北戦争中だったアメリカや、幕末の動乱で武器の需要の多かった日本に輸出しました。
1867年に佐賀藩は10門のアームストロング砲を購入しています。
佐賀藩は、長崎警備の任に就いていたことから「フェートン号事件」などを経験し、外国の脅威を肌で感じていたために、独自に西洋の軍事・科学技術の導入を図っていたのです。
それまでの国産の大砲といえば「青銅製」だったのですが、
佐賀藩では「反射炉」の建造により、強力な鉄製な大砲を製造することが可能になりました。そしてアームストロング砲の情報はかねてより把握しており、上海まで藩士を送り込んで入念にスケッチを取らせたりするなど、研究を怠りませんでした。
佐賀・築地反射炉
その結果、佐賀藩は「佐賀施條砲」とも言うべき国産アームストロング砲を生み出すことに成功したようです。
しかしこれがオリジナルのアームストロング砲と同等の能力を持っていたかどうかは甚だ疑問が残ります。
アームストロング砲の製造に必要な最新鋭の設備が佐賀藩にはなかったのです。
しかしこうして培った技術を、佐賀藩主・鍋島直正は薩摩藩に提供していきました。
薩摩藩主の島津斉彬は鍋島直正の従兄弟だったのです。
島津斉彬
鍋島直正










話を明治維新に戻します。
「江戸城無血開城」によって徳川慶喜が水戸で謹慎することが決まると、徳川慶喜を警護していた「彰義隊」は、慶喜が水戸へ移っても解散せずに上野の寛永寺に留まり続けました。
寛永寺
幕府の解体により江戸の経済は停滞しており、新政府に不満を持つ民衆も多かったようです。
そんな中で新政府に反旗を翻した彰義隊はなかなか民衆の支持を得ていたようです。各地から脱藩浪士などが集まり、その勢力は3〜4000人程度に膨れ上がっていました。
この事態に手をこまねいていた西郷隆盛の代わりに新政府が送り込んできたのは「大村益次郎」でした。その風貌から「火吹き達磨」と呼ばれた彼は超合理主義で、「暑いですねぇ」と挨拶されれば「夏ですから」と答えるほどであったと言われています。
新政府に不満を持つ民衆のヒーロー彰義隊を、感情的でなく合理的にぶっ潰せるのはこの人しかいない、とでも言うような人選でした。
大村益次郎
大村益次郎はまず、江戸中の揚札場に彰義隊殲滅の総攻撃の日付、場所を示しました。これは市民を避難させ、戦火を最小限に食い止めるためのものでしたが、これを見た彰義隊の多くは上野の山を降りて逃げ去ったと言います。
さらに大村益次郎は、敵正面で主戦場となる広小路黒門前に薩摩藩兵を配置しました。この布陣に対して西郷隆盛は「薩摩兵を皆殺しにするおつもりか」と問いましたが、それに対し大村益次郎は「その通り」と答えたと言われています。
「薩長同盟」とは言うものの、長州藩はすでに薩摩藩を潰すべき相手だと認識していたのかも知れません。
慶応四年5月15日、上野寛永寺に陣取る彰義隊に対し、新政府軍の攻撃が開始されました。
彰義隊の正面である黒門前に配置された西郷隆盛の隊は一進一退の攻防を繰り広げました。序盤はやや彰義隊の優勢であったとも言われています。
 
彰義隊は山砲による正確な射撃を行い、新政府軍はこれに苦戦しましたが、新政府軍も四斤山砲で応戦します。
四斤山砲(フランス式)
しかし寛永寺の裏門の先鋒部隊、長州藩兵から銃声が聞こえて来ません。長州藩兵に配備された最新式の銃、「スナイドル銃」の使い方がわからなかったのです。
スナイドル銃は、それまでの前込め式の銃とは異なり、アームストロング砲のような「後装式」でした。
スナイドル銃
それまでの銃とは全く使用法が異なっていたのに、一丁につき50発しか弾丸がついていなかったため、大村益次郎は試射を一発しか許さず、兵達は使用法を理解できなかったのだと言われています。
益次郎の合理主義が裏目に出たのでした。
長州藩兵はその場を佐土原藩兵に任せて退却し、銃の使い方を教えてもらいに一旦参謀の元へ帰らざるをえませんでした。
しかし、使用法を心得たその後の長州藩兵の働きぶりは凄まじかったと言います。
その頃、勇猛な薩摩藩兵は激戦を続け、彰義隊を押し返して遂に黒門を突破しました。
その知らせを聞いた大村益次郎はいよいよアームストロング砲を登場させます。
アームストロング砲の破壊力は「同族同士の争いに使ってはいけない」と佐賀藩邸に封印されていたほどであり、大村益次郎はなるべく人を殺傷しないように使用すると言う条件でこれを借り入れたのでした。

アームストロング砲は不忍池を飛び越えて寛永寺にまで着弾しました。
この砲撃で彰義隊は散り散りになります。
午前七時に始まった上野戦争も、午後五時頃には決着がつきました。
彰義隊はほぼ全滅、残党達は北東方向へ逃走して行きました。
この戦いの結果、新政府は江戸以西を完全に掌握したものの、旧幕府勢力の抵抗は続き、戊辰戦争は北陸、東方へと舞台を移して行くのでした。