2019年5月18日土曜日

明治維新14 泥の舟・鉄の舟・海の舟

明治維新において、「世界史上の奇跡」とさえ呼ばれる出来事があります。
「江戸城無血開城」です。
江戸の民150万人を戦火から守ったと言われるこの出来事ですが、ドラマなどでは西郷隆盛と勝海舟が話し合うシーンだけが切り取られ、「感動した!はい終わり!」というあっさりした扱いをされる事が多く、十分に語られる事は少ないように思えます。
江戸城無血開城は、あらゆる視点と様々な思惑が交差した非常に複雑な出来事であり、非常にまとめるのが困難な話であります。
ひとまず鳥羽・伏見の戦いの後あたりから話を進めたいと思います。

「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が大敗した後、近畿を掌握した新政府軍はいよいよ全国平定に乗り出します。
西国では長州・薩摩が睨みを利かせているせいか、福山藩で銃撃戦などの抵抗を受けた以外、ほとんどの藩が新政府へ恭順を示しました。
新政府軍が頭を抱えたのは東日本であります。
東海から関東まで旧幕府の直轄地が続きます。
ここで旧幕府軍の抵抗にあえば、新政府軍としてもひとたまりもありません。
しかし朝命により尾張藩の徳川慶勝は朝廷へ恭順する事を決意、これによって小田原より以西の全ての藩も足並みを揃え、新政府軍は抵抗なく関東へ向かうことができたのです。
一方、旧幕府軍の徳川慶喜は、鳥羽・伏見の戦いで大敗した後は江戸へ退却し、上野の寛永寺に謹慎して明治天皇への恭順を示しました。
フランスからの軍事支援を断り、無抵抗の姿勢をとったのです。
この慶喜の恭順姿勢には、槍術の達人であり伊勢守(いせのかみ)を称していた「高橋泥舟」の進言の影響が非常に大きかったと言われています。
高橋泥舟
徹底抗戦派も多く残る江戸において、高橋泥舟の警護に守られる事によって慶喜は最後まで恭順姿勢を貫くことができました。
自ら謹慎した慶喜の全面恭順の意を継いで全権を任されたのは「勝海舟」です。
勝海舟
 彼は自らフランス公使レオン・ロッシュのところへ出向き、旧幕府に対するフランスの軍事顧問団の解雇を言い渡しました。
もうフランスの後ろ盾はいらないと、関係を清算したのです。
勝海舟の狙いは、「新政府+イギリス」VS「旧幕府+フランス」という構図を崩し、旧幕府はイギリスにとっての脅威では無くなったのだと示す事でした。
イギリス公使・ハリー・パークスにとって、旧幕府軍が脅威でなくなった今、内戦状態に陥った日本においてやるべき事は自国居留民達を守る事です。
実際、鳥羽・伏見の戦いの直後から、備前藩と諸外国が交戦した「神戸事件」、フランスと土佐藩が殺傷事件を起こした「堺事件」が相次いで起き、さらにハリー・パークス自身も襲撃を受けていたのです。

江戸に近い築地と横浜には外国人居留地区があり、もし江戸で戦火が起これば外国人居留民達にも危害が及びます。
横浜に戻ったハリー・パークスは、イギリスやフランスの駐屯兵を挙げて横浜全域を実質的に占領しました。
ハリー・パークス

都市部で戦火が広がり、自国の権益を損ねたくない列強国と、慶喜の首を守るために恭順を示す勝海舟の両者の思惑は「戦火を避けたい」という思いで共通するようになりました。
これにより、江戸城無血開城への歯車が噛み合い始めたのです。
しかしここで問題が発生します。
抗戦派を抑えて恭順姿勢を守り、戦闘を起こさないように心がけて来た旧幕府側でしたが、ここに来て争いが起こってしまったのです。
「甲州勝沼の戦い」です。
甲州勝沼の戦い
「薩長側と停戦交渉をしようとしている勝海舟は、抗戦派の新選組が邪魔だった。新選組を甲陽鎮撫隊という名前に改編し、甲州街道を東進する新政府軍を阻止させる為に甲府城へ向かわせる事によって江戸から排除させた。甲陽鎮撫隊を率いる近藤勇は宴会をしながらダラダラと進軍したため甲府城は既に新政府軍が入城しており、あっという間に敗戦してしまった。」
と説明されることの多いこの戦ですが、この説には疑問点が残ります。
・将軍に忠義を尽くす新撰組が、慶喜公の恭順姿勢に反する行為をするのか
・甲府城へ軍を差し向ければ、新政府軍は旧幕府の恭順姿勢に疑問を持ち、無血開城の実現が不可能になるのではないか
・少ない兵力にしては軍資金が大金(5000両)
・「鎮撫」という言葉は、反乱を鎮めて民を安心させることであり、軍隊同士の戦いを目的とした名称ではないという事
・甲陽鎮撫隊の進軍速度が遅すぎる事
当時、幕臣の中にも、鳥羽・伏見の戦いから逃げ帰って来て、恭順姿勢をとる慶喜を殺してでも新政府軍と戦おうとした者は確かにいました。
そういった者達が脱藩浪士となって集まり、不穏な動きを見せていたのです。
甲陽鎮撫隊は江戸から甲府までの反乱分子を鎮撫しつつ進軍し、甲府城で新政府軍を出迎え、恭順の意思を伝えるのが目的だったのではないかという説も出てきています。
結局、甲州街道を東進する新政府軍の方が先に甲府城へたどり着いてしまい、「勝沼の戦い」が勃発し、甲陽鎮撫隊はわずか二時間で敗走しました。
この戦の原因も諸説あり、正直なところ私にはどれが正解なのかわかりません。
なんにせよ、この戦いが勃発した事によって旧幕府側は窮地に立たされました。
勝沼の戦いが起こった3月6日は、駿府(静岡県)にまで進軍していた新政府軍に、輪王寺宮が会談する予定の前日だったのです。
輪王寺宮
輪王寺宮は、慶喜公の謝罪状を渡し、慶喜の助命と東征の中止を嘆願しましたが、「勝沼の戦い」が起こったせいで恭順姿勢が疑われてしまい、却下されてしまいました。
3月15日に江戸総攻撃が予定される中、駿府に陣取る西郷の元にさらなる使者が送られました。
「高橋泥舟」の義弟、「山岡鉄舟」です。
山岡鉄舟
3月7日に行われた駿府城会談では、敵陣に単身で乗り込んだ山岡鉄舟の決死の覚悟により、初めて新政府軍から旧幕府側に対して、開戦回避のための条件が提示される事になりました。
・江戸城を明け渡す
・城中の兵を向島に移す
・兵器を全て差し出す
・軍艦を全て引き渡す
・将軍慶喜は備前藩に預かる
西郷隆盛と山岡鉄舟
3月14日、新政府軍は江戸付近(品川らへん)にまで到達していました。
総攻撃予定の前日です。
勝海舟は、いざ交渉が決裂した時のために、江戸を焦土化する作戦すら練っていました。
その覚悟を持って勝海舟は西郷隆盛との交渉に臨みます。
ここで勝海舟は、なんと西郷隆盛が山岡鉄舟に提示した条件を全面的に拒否してしまいます。
普通なら江戸総攻撃は免れず、徳川慶喜の命もなくなってしまうような話です。
しかし西郷隆盛はなぜか勝海舟の提案を飲み、江戸の総攻撃を中止し、「江戸城無血開城」が成し遂げられました。
実は西郷隆盛は、江戸に進軍する際、横浜を実質的に占領していた英仏軍が邪魔をしないようにお願いをするため、さらに傷病者の手当の為に病院室を貸してもらうようハリー・パークスに依頼するため、イギリス公使館に使者を送っていたのです。
しかしハリー・パークスは、「恭順・謹慎を示している無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは万国公法に反する」と激昂したのです。
この報告を受けた西郷隆盛は愕然としました。
イギリスを敵に回すわけにはいかないからです。
この出来事を勝海舟が知っていたのかどうかはわかりませんが、パークスからの圧力は、江戸を戦火から守るには十分でした。
こうして、徳川家の存続は保証され、慶喜は水戸で謹慎する事が決まり、江戸城は戦闘が起こる事なく明け渡されました。
「高橋泥舟」「山岡鉄舟」「勝海舟」という「三つの舟」の活躍があった事は忘れてはなりません・・・