♪~~そうだ 恐れないで皆のために 愛と 勇気だけが 友達さ~~♪
あんなに仲間が多いのに、アンパンマンの友達が愛と勇気「だけ」ってのはおかしくはないでしょうか?
しかし戦争が終わって帰ってくると、GHQによって今まで信じてきたものが完全に否定される社会が出来上がっていました。
戦争に負けた途端に、日本が掲げてきた「正義」が打ち崩されたのです。
やなせさんはこう語っています。
「正義は不安定なもので、ある日突然逆転する」「逆転しない正義は献身と愛だ」
つまり、政情、戦局などによって変化する「正義」はあてにならない。
信じるべきものは、不変であり普遍の「愛と勇気」だけなのだ、という意味がアンパンマンの歌には込められているのではないでしょうか。
正義という概念は時代によってもコロコロ変わるものです。
私が明治維新をまとめるにあたって心がけていることは、江戸末期を生きた彼らの行為を安易に「善か悪か」に振り分けないようする、という事であります。
さて、明治維新においてもその「正義の逆転」に振り回された人は数多くいました。
慶喜は幕府の衰退と幕府打倒の気運という荒波の中で、第15代将軍徳川慶喜は改革を推し進め、幕府の再興を図りました。
しかし徳川慶喜が最後に選んだ道は、幕府打倒の荒波に「あえて乗る」という事でした。
「大政奉還」を行い政権を朝廷に返上しつつも、政権運営能力のない朝廷に変わって最大勢力として徳川家を残し、新政府内で実権を握ろうと画策したのです。
しかし薩摩・長州などの倒幕派は当然これを許さず、「王政復古の大号令」を行い、徳川家の権力を剥奪しました。
それでも慶喜は、領地の返納を先延ばしにしつつ、未だ実権が自らにある事を対外的にアピールしながら、朝廷に王政復古の撤回をほぼ認めさせたのです。
これによって逆に窮地に立たされた倒幕派の薩摩・長州でしたが、西郷隆盛が打っておいた布石がここにきて効いてきます。
江戸での陽動作戦によって「江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」が起こり、旧幕府側は憤慨、強硬派を抑えられなくなってしまいます。
徳川慶喜は薩摩藩の罪状を朝廷に訴えるべく挙兵上洛を試みたものの、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発してしまいます。
その戦いの途中、新政府軍に「錦の御旗」が掲げられ、旧幕府軍は「朝敵」となってしまいました。
ほんの数年前まで、徳川慶喜は孝明天皇を後ろ盾とする「最も天皇に近い将軍」であったのに、いきなり「朝廷の敵」「国賊」となってしまったのです。
今まで御所を警備していた桑名藩や会津藩までもが朝敵になってしまいました。
そのとき、徳川慶喜はどうしたでしょうか?旧幕府軍が敗走し大阪へ戻ってくる中、徳川慶喜は軍艦・開陽丸に乗って江戸へ退却したのです。
総大将を失った事により、旧幕府軍は継戦意欲を失い、各自、江戸や自領へ帰還する事になりました。
この行為は、「無責任な敵前逃亡」として語られています。
確かに、自軍が戦っていたにも関わらず退却した事は褒められる事ではありません。
卑怯な行為だと捉えられて当然だと思います。
慶喜は晩年、この時のことを「ああするしかなかった」と語っています。
前回、「徳川慶喜はまだ戦うつもりではなかったのではないか」という事を書かせていただきました。
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件の報が伝わった時、慶喜は「しまった!」と叫んだと言われています。
大坂城内は異常な興奮状態になってしまい、出兵を止める事はできませんでした。
慶喜が「戦う意思がない」事を示すためには、もはやこっそり退却する以外に術がなかったのかもしれません。主君を失った幕府軍の中には、最後まで徹底抗戦を貫き通し、大阪城に火を放って自刃した者たちも多くいました。
大阪城に火を放ち自刃した兵達を埋葬した石碑 |
江戸に退却した後の慶喜は、旧幕府内の抗戦派を抑えて朝廷への恭順を主張し、勝海舟に事態収拾を任せて自らは謹慎生活に入ります。
新政府に抵抗する事なく、全て従う姿勢をとったのです。
全面的に支援するから、戦えと。
しかし慶喜はこれをきっぱりと断り、勝海舟はフランスと旧幕府との関係を精算しました。
徳川慶喜が最も恐れていた事は、旧幕府軍と新政府軍の戦いに諸外国が介入してくる事だったのだと考えられます。旧幕府軍が本気で新政府軍と戦おうとすれば、まだ勝てる可能性すらあったかもしれません。
しかし全国に戦火が広がり、日本の国力が落ちれば、日本が植民地化される恐れすらありました。
慶喜のこうした判断は、のちの「江戸城無血開城」につながっていきます。最初にアンパンマンの話をしたおかげで、長文になってしまったため次回に・・・・