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2019年6月1日土曜日

明治維新20  武士の世の終焉

「明治6年の政変」というものがあります。
その事について、日本史Bの教科書において50%のシェアを誇る山川出版の「諸説 日本史」は、次のように説明しています。
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新政府は発足とともに朝鮮に国交樹立をもとめたが、当時鎖国政策をとっていた朝鮮は、日本の交渉態度を不満として拒絶したので、1873(明治6)年、西郷隆盛・板垣退助らが征韓論をとなえた。
中略西郷隆盛・板垣退助らは征韓論を唱えたが、大久保利通らの強い反対にあって挫折した。
(注)参議 西郷隆盛を朝鮮に派遣して開国をせまり、朝鮮政府が拒否した場合には武力行使をも辞さないという強硬論をとなえた。
しかし、岩倉使節に参加して帰国した大久保利通・木戸孝允らがこれに反対したので、西郷らの下野となった。 
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お読みいただければわかるように、あたかも西郷隆盛が朝鮮に対して一方的に、強引に軍事行動を起こそうとしているかのような説明が書かれています。
しかし、私にはこの内容が正確だとは思えません。
この明治6年の政変における「征韓論」は、後に日本が体験する日清戦争、日露戦争などをすべて「侵略戦争」に仕立てあげるための布石であり、自虐史観の形成に利用されているように感じます。
廃藩置県以降、明治新政府がどのような舵取りをしたのかを見直していく必要があると思います。
天地をひっくり返したとも言われる大改革「廃藩置県」を成功させ、中央集権化に目処をつけた明治政府は、外国へ目を向けました。
岩倉具視を団長とし、政府の要人を中心に留学生など107名で構成された「岩倉使節団」を結成し、明治4年から2年間に渡り欧米諸国を視察したのです。
岩倉使節団
新政権発足から間もないこの時期に政府の首脳が2年間も国を空けるという事は、常識では考えられません。
逆にいえば、そうしなければならないほど、当時の世界の潮流は激しかったのでしょう。

使節団の目的は、「現状視察」と「不平等条約の改正」が目的だったと言われています。
江戸末期に結ばれた通商条約によって日本は不利を被っており、「関税自主権の回復」「治外法権の撤廃」は明治政府にとっての悲願だったのです。
しかしこの「条約改正」ですが、彼らがどこまで本気だったのかは甚だ疑わしいものです。
彼らは行く先々で盛大な歓待を受けましたが、結局、欧米諸国は条約改正に関しては取り合ってくれませんでした。
何しろ条約改正に必要な「全権委任状」を持ってきていなかったのです。
大久保利通と伊東博文は慌てて日本に取りに帰りますが、そのために四ヶ月も費やしてしまいました。
治外法権に関しての欧米諸国の言い分としては、「近代化されていない野蛮な国に自国民を裁かせてなるものか」というところでしょう。
日本が平等条約を締結するには、憲法を制定し、法制度を確立させることが必須だったのです。
不平等条約の改正に関しては大した成果は得られませんでしたが、実際に他国との国力差を目の当たりにした事は大きな収穫でした。
天皇を君主とする日本国家は、共和制であるフランスやアメリカの国家体制よりも、立憲君主国家として力をつけていたドイツ帝国に共感できました。
これによって、日本の国づくりのイメージと具体的な方向性を打ち出す事ができたのです。
使節団が外遊する一方で、やはり国内では問題が起きていました。
岩倉や大久保利通は、日本を留守にする間は、西郷隆盛に政府を託しており、「留守の間は何もしないでくれ」と念をおしていたようですが、そんな事が可能であるほど時代の流れは甘くはありません。
国内から世界を見たときに、一番の脅威はロシア帝国の南下でした。
ロシアの日本に対する領土的野心は明らかで、実際にポサドニック号事件などを起こした過去があります。
朝鮮半島国家の近代化は、ロシアの南下を防ぐことになります。
日本にとって、朝鮮に開国させて国交を結ぶ事は、外交上のみならず、国防面でも重要課題だったのです。
そこで日本政府は、明治新政権の発足を通知し、改めて国交を結ぶために李氏朝鮮と交渉しますが、日本の国書は突き返されてしまいました。
長らく「清」の属国であった朝鮮にとって、清の皇帝しか使ってはいけない(と朝鮮が勝手に思い込んでる)「皇」「勅」などの文字が日本からの国書に使われていたことが問題とされています。
日本の「天皇」の権威を認める事は、支那王朝の「皇帝」に服属する朝鮮にとっては受け入れられない事だったのでしょう。
日本側は説明と国書の書き直しまでしましたが、「日本人と関わった者は死刑」というお触れを出すなど埒があきません。
これを無礼だと憤った国内では、板垣退助を中心に朝鮮への派兵が論じられました。
これがいわゆる「征韓論」ですが、西郷隆盛は派兵に反対し、自らが大使として赴くと主張しました。
西郷の「遣韓論」は政府の決定となり、上奏までされましたが、明治天皇は、「外遊組が帰国した後に再度上奏するように」と却下されました。
西郷隆盛
明治6年の9月に帰国した岩倉具視や大久保利通らは西郷の朝鮮派遣に反対。結局遣韓論は認められず、遣韓論賛成派は一斉に下野する事になりました。(明治6年の政変)
ところで、明治政府は薩摩、長州、土佐、肥前の四藩士によってサポートされていましたが、薩摩藩の大久保利通の権限が強くなると、佐賀からの反発の声が大きくなって行きました。
明治6年の政変によって下野した佐賀藩士・江藤新平は、これらの士族の反発を抑えるために佐賀へ帰郷しますが、大久保利通はこれを「江藤新平が佐賀の士族と共に反旗を翻す」と解釈し、江頭がまだ佐賀に帰っていないのに「佐賀追討令」を出してしまいました。
こうして反乱の首謀者に仕立て上げられた江藤新平はやむなく出兵し「佐賀戦争」が起きますが、政府軍の近代兵器の前に平定され、江藤新平は処刑され晒し首になりました。
江藤新平
大久保利通は江藤の首の写真を全国の県庁の壁に掛けさせたと言われています。
この佐賀戦争を皮切りに、全国で士族の反乱が起こり始めます。
「武士」は明治時代になると「士族」と呼ばれ、社会的な特権は剥奪されており、生活は困窮していました。
このような状況は新しい時代を築くために受け入れられ、士族はまだ武士としての誇りを捨ててはいませんでした。
しかし1876年に出された「廃刀令」「断髪令」によって士族は髷と刀を失い、武士としての魂を奪われる事になります。
「敬神党」は、幕末の思想家・林桜園の私塾「原道館」の門下生で作られた団体です。
林桜園
彼らは天皇中心の時代になった事で、神道に基づいた政治が行われると期待していましたが、外国に迎合する政府の姿勢に失望していました。
政府から派遣された熊本の県令、安岡良亮は彼らを手なずけようと士官を勧めましたが、彼らはそれを拒み、ただひたすら国の行く末を案じました。
熊本の神社のどこに行っても、神に祈っている彼らの姿があったそうです。
街には刀も刺さない丸坊主の男たちが行き交うようになり、敬神党は義挙を決意しました。刀や槍など日本古来の武器を持って立ち上がり、県庁などを襲撃しましたが、政府の鎮台軍によって鎮圧されました。
敬神党の戦い
この敬神党の戦いの三ヶ月後、呼応するかのように萩と秋月で士族が蜂起しましたが、いずれも鎮台軍によって制圧されます。
萩の戦い
秋月の戦い
西国で士族が動きが活発になる中、鹿児島に下野していた西郷隆盛は微動だにしませんでした。
西郷は私学校を設立し、職を失った士族が暮らしていけるように農業を行い、いざという時は日本のために戦える人材を育成しようと軍事教育をしていたのです。
この動きを警戒していた大久保利通は、私学校に二十三名の密偵を放ち、西郷と私学校の生徒との分断を図りました。
そして、鹿児島の弾薬庫から武器を大阪へ運び出してしまったのです。
私学校の生徒は密偵を捕らえ、西郷暗殺の指示が出ていたことを知ります。
流石に西郷も私学校の生徒たちを抑えられなくなり、挙兵を決意しました。
しかし疑問なのは、決して戦下手ではない西郷が、なぜ熊本城を突っ切ろうとしたのか、です。
熊本城は薩摩からの北上を阻止するために作られた難攻不落の城です。
旧式の装備で落とせるはずもありませんし、西郷はそのことはよくわかっていたはずです。
私が思うに、西郷は士族たちに「武士としてふさわしい死に場所」を与えたのではないでしょうか。
それとも本当に「第二の維新」を起こせると思って挙兵したのでしょうか。
いずれにせよ、西南戦争で西郷は自害し敗北します。
そして西郷の死より以降、日本国内では内戦が起きていません。
西郷の死を知った時、大久保利通は号泣しながら家の中をグルグル歩き回り「おはんの死とともに、新しか日本が生まれる」と呟いたと言います。
西南戦争の翌年に大久保利通は士族から暗殺されますが、その時も西郷からの手紙を離さずに持っていたと言われています。
西郷隆盛は自らの命を以て、士族の時代を終わらせたのです。
「明治維新」がいつからいつまでの出来事を指すのか、はっきりとした定義はありませんが、西南戦争の終わりを「明治維新」という一つの時代の区切りとさせていただきたいと思います。

明治維新19 廃藩置県 廃仏毀釈


新政府は、抵抗勢力との戦い「戊辰戦争」の最中にも、改革を推し進めていきました。
会津戦争がまだ終わらぬ7月17日、「江戸」は「東京」へと改名されます。
10月には明治天皇が、徳川家から明け渡された江戸城へ入城し、天皇の住まいは江戸城となりました。
現在の皇居です。

新政府が内政面での改革を本格的に開始したのは、箱館戦争終結後になります。
明治2年、明治政府は「版籍奉還」を行います。
大政奉還や王政復古により政権が朝廷へ返上された後も、各藩では江戸時代同様、大名による統治が行われていました。
全国で3000万石の石高のうち、新政府が税を取ることができたのは800万石にすぎませんでした。
地方分権はいまだ健在であり、日本として統一した軍隊を持つことすら不可能な状態だったのです。
そこで新政府は「版籍奉還」を行い、藩主が所有していた土地と人民を朝廷に返させ、藩主は非世襲の「知藩事」としました。
諸藩からの反発が起こりそうなこの改革ですが、意外にも大した暴動もなく、すんなりと実行されました。


・徳川幕府の消滅とともに、幕府に承認されていた領地の所有権の法的根拠がなくなってしまった事
・近代兵器を用いた戊辰戦争において、多くの藩主は指導力を発揮できずに権威を失墜させていた事
・戊辰戦争の戦場となった土地では年貢の徴収も滞っていた事
などがその背景として挙げられます。
土地と民を朝廷へ返上したとはいえ、新政府から知藩事に任命された藩主は引き続き領内の統治を委任される事になり、一見、何も変化がないように思われました。
しかし、新政府の藩政に対する指導力は強化され、中央集権化に向けて徐々に新政府の影響力は地方に浸透しいくのでした。
「版籍奉還」は、2年後に行われる「廃藩置県」の布石だったと言えます。
明治に行われた改革は他にも山とありますが、私が取り上げたいのは「神仏分離令」です。
これは、天皇を中心とした新しい時代を作るにあたって、それまで1000年以上も続いてきた「神仏習合」を禁止し、神道の国教化を目指したものです。
それまでは日本古来の神道と外来の仏教信仰はごちゃ混ぜになっていました。
当時の「神道」は、現在のように神社庁があったりせず、決して組織、教団としてまとまっていたわけではなかったのです。
神仏習合 神社?お寺?

神道国教化へのハードルは決して低いものではありませんでした。
神道から仏教を排除しようとした結果、この「神仏分離」は過剰なまでに仏教を弾圧する「廃仏毀釈」へとつながってしまいました。
廃物毀釈によって多くの仏教施設、仏像などが破壊されます。

全国に点在する首なし地蔵は、だいたい廃仏毀釈によるもの
私は、古来日本人に他国のように狂信的な宗教信仰があったようには考えられませんでしたので、神仏分離が破壊的な廃仏毀釈に至ってしまった背景が何かを調べたところ、2つの理由にたどり着きました。
1つは、江戸時代に優遇されていた仏教に対する反動、そしてもう1つは、「儒学の影響」です。
儒学は長らく仏教の僧侶が学ぶ学問として定着してきましたが、実は本質的に儒学と仏教は相容れないものでした。
儒学で重んじられる考えの1つに「孝」があります。
これは親を敬い、子を作るという血縁主義の考えです。
しかし仏教はそれらを「煩悩」として否定し、解脱する事で輪廻の苦しみから解放されようとするものでした。
古来より支那や朝鮮では儒教による仏教排除の動きが活発でした。
そして日本においても、江戸時代になると儒学思想を基にした「水戸学」が成立し、仏教軽視、仏教弾圧が始まりました。
「廃仏毀釈」を最初に始めたのは水戸藩だったと言えます。
そして、こうした儒学の考え方は「尊皇攘夷思想」として幕末の志士たちに強く影響を与えており、明治新政府に強く影響を与えていたと考えられます。
仏教を排除した理由の根本には、神道を純粋に重んじるというよりも、儒学の横槍が入っていたように思えます。
明治新政府が目指した神道国教化は、もしかすると、日本の神道、仏教両方の本質を見失わせてしまったのかもしれません。
明治政府による布告により、仏教の僧侶は肉食、妻帯を始めるようになり、僧侶は俗化していくことになりました。
さて、先述した通り、版籍奉還により藩主は土地と民を朝廷に返上し、知藩事となりましたが、これは「廃藩置県」の基礎工事にすぎませんでした。
「藩」がある限り、日本は小さな国の寄せ集めにすぎず、中央集権国家を目指す以上は藩制を廃止しなければならなかったのです。

明治四年、明治政府は知藩事たちを集めて「廃藩置県」を命じました。
これにより知藩事は失職し、東京に移住させられます。
そして各藩には政府から「県令」が派遣されました。
これは、領主が領地を支配する封建制度をひっくり返すものであり、明治維新における最大の改革とも言われています。
これだけの改革にも関わらず反乱が起きなかったのは奇跡に近い出来事でありました。
政府が反乱に備えて御親兵を結成していた事、藩の借金を棒引きにしてあげた事などが理由に挙げられますが、何よりも諸外国が驚嘆した事は、日本の中央集権化のために、最上級である武士がその身分をして平民に下った事でした。
唯一、廃藩置県に反対していた薩摩藩の島津久光は、抗議のために屋敷で一晩中花火を打ち上げました。
島津久光

諸外国の公使の中には、「この改革は、騒動や流血なしに実現する事は不可能なのでは」と口にする者もいたのですが、花火だけで済んだのです。
しかし、明治政府はさらに明治6年に「徴兵制」を開始します。
平民でも軍隊に入れるということは、士族の生存権に関わります。
士族は生活がままならなくなり、家財道具を売り払い、娘を売るものまで出てくる始末でした。
これは、後に士族の反乱につながっていくことになるのでした。

明治維新18 新撰組の見た「夢」

言わずもがな、平安時代の日本の首都は「平安京」です。

平安京は現在の京都市街に位置する場所に作られた都市で、街を南北に貫く「朱雀大路」を境にして東側は「洛陽」、西側は「長安」と呼ばれていました。
平安京
湿地の多かった西側は徐々に廃れていきましたが、都市として発展した「洛陽」は京都の代名詞となりました。

その為、京都へ行く事を「上洛」と呼ぶようになったのです。

戦国時代のように、朝廷や室町幕府が存在していた京都へ軍勢を引き連れて上洛する事は、政治的に大きな影響力を持つ時代もありました。

しかし江戸時代においては、上洛した徳川家の将軍は三代目の家光までで、四代目以降、将軍が上洛する事などありませんでした。

盤石な江戸幕府が築かれた事によって、京都は政治の中心地ではなくなっていたのです。

しかし幕末、開国に伴い江戸幕府の権威が失墜して行く中で、朝廷は第十四代将軍「徳川家茂」に攘夷決行の約束をさせるべく、上洛を要請しました。

徳川家の将軍の上洛は、実に229年ぶりのことになります。

当時の京都といえば攘夷派の志士達が集結し、連日テロまがいの行為を行なっていて、治安が最悪でした。

そこで庄内藩出身の「清河八郎」は、「家茂上洛の警護をする為に『浪士組』を結成すべきだ」と幕府に訴え、その意見は採用される事になりました。
清河八郎
234名もの志士が集まった浪士組は、家茂に先立って2月8日に江戸を出発し、23日に京へ到着します。

しかし清河八郎は強い「倒幕・攘夷思想」を抱く志士でありました。

幕府とは敵対関係にあったはずなのに、なぜ将軍の警護を提案したのでしょうか。

清河は京都へ着くと、浪士達を集めてその真意を明らかにします。

実は浪士組の目的は、将軍の警護ではなく、朝廷の部隊となって尊皇攘夷運動の先鋒となる事なのだと。

清河の意見に賛同した者は200名と多かったもの、これに反発して「当初の目的通り将軍を警護すべきだ!!」と、袂を分かつ者もいました。

不穏な動きを見せる浪士組を警戒した幕府は、江戸への帰還要請を出し、浪士組は江戸へ引き返す事になりました。

そして清河八郎は江戸に戻ってすぐに暗殺されてしまうのでした。

清河八郎に反発して浪士組から離れ、京に残った浪士達は、京都守護職をしていた会津藩の下で「壬生浪士(みぶろうし)」を名乗る非正規組織となりました。

その中に名を連ねていたのが「近藤勇(こんどう いさみ)」「土方歳三(ひじかた としぞう)」「沖田総司(おきた そうじ)」などです。
近藤勇・土方歳三・沖田総司

36名の集団となった壬生浪士は、会津藩主「松平容保」に市中警備を任され、過激な攘夷活動を行う不逞浪士を取り締まります。

壬生浪士は大阪の豪商から恫喝まがいの借金をして資金を作ったり、力士達と乱闘を起こしたり、金策を断った京都の問屋に放火して焼き尽くしたりと、中々の荒くれっぷりでしたが、彼らの転機となったのが「八月十八日の政変」です。

京都から長州藩士を追い出す事に貢献した壬生浪士たちは、幕府から「新撰組」の隊名を授かり、京都市中警護を正式に任される事になりました。

翌年には、挽回を図る長州藩士達が武力蜂起を起こすべく集結した所を襲撃して阻止し、新撰組は一躍有名になりました。
池田屋があった場所は今は居酒屋になっている

これを「池田屋事件」と言いますが、一説によると、長州藩士達は御所へ放火し、松平容保を殺害、天皇を長州へ連れ去ろうと計画していたとも言われています。

実際、その直後に起きた「禁門の変」では御所に向けて発砲しているわけですから、その過激さを見ると、あながち嘘でもなさそうです。

池田屋事件、禁門の変などの一連の活躍は、朝廷・幕府・会津藩などから高く評価され、隊員も200名を越す大所帯となりました。

こうなると新撰組も、もはや軍隊です。

軍組織として成り立っていくためには、厳しい規律が必要となりました。

鳥羽・伏見の戦いが始まる前までの新撰組の死者は45人、そのうちの34人は、内部抗争で斬られたり、規律違反で切腹した者だった、と言われています。

その後、幕府直属の臣下、つまり「幕臣」に取り立てられた新撰組は、幕府に忠義を尽くす会津藩と運命を共にしていく事になりました。

戊辰戦争では旧幕府側について参戦し、以降は敗戦を続ける事になります。

鳥羽・伏見の戦いでは隊員の三分の一が戦死したり、脱走する隊士などもいたりして、新撰組の戦力は大きく低下してしまいます。

この時、新撰組の残党は幕府海軍の副総裁「榎本武揚」と共に、蒸気船「富士山丸」に乗って大阪を脱出し、江戸へ帰還しました。
その後、新撰組は「甲陽鎮撫隊」を名乗って甲府を目指しますが、江戸へ向かって進軍していた新政府軍との間で「甲州勝沼の戦い」が起きてしまいます。

この戦いで甲陽鎮撫隊は敗北、その後、新撰組の局長を務めていた「近藤勇」が新政府軍に捕縛され、処刑されて晒し首になりました。
近藤勇の最期
新撰組で最強と呼ばれた沖田総司が肺結核により病死したのは、近藤勇の処刑から二ヶ月後の事だそうです。

新撰組は宇都宮、会津と、戦いの場を変えながらも敗戦を重ねていきます。

新撰組のナンバー2「土方歳三(ひじがた としぞう)」は、激化する会津戦争の中、庄内藩へ援軍を求めますが、すでに幕府へ恭順していた庄内藩には入れず、仙台藩へ向かう事になりました。

そして仙台の地で、土方歳三は「榎本武揚」と出会うのでした。

土方歳三
榎本武揚


 「江戸城無血開城」で完全に新政府に恭順していた旧幕府軍でしたが、榎本武揚はそうではありませんでした。

無血開城の条件であった「艦隊の引き渡し」を拒否し、艦隊を引き連れて脱走したのです。

勝海舟の説得もあって引き返し、4隻を新政府へ引き渡しましたが、開陽丸など主力艦を温存する事に成功します。

榎本はその後も新政府に対して反抗を続け、奥羽越列藩同盟の盟主となる輪王寺宮を東北へ運ぶなど、旧幕府軍の残存勢力を支援し続けました。

やがて奥羽越列藩同盟の密使から救援の要請が来ると、榎本は抗戦派の旧幕臣とともに8隻の軍艦を率いて江戸を脱出します。
品川沖を脱走する艦隊

この艦隊には、上野戦争で敗走した彰義隊の生き残りや、旧幕府に解雇されたフランス軍事顧問団の一部も乗り込んでいました。

幕府伝習隊を指導していたフランス軍事顧問団のうち数名は、旧幕府との信頼関係が厚く、フランス本国の命令に背きフランス陸軍を退職してまで、一個人として旧幕府軍と共に戦う事を選んだのです。

その中の一人、「ジュール・ブリュネ」は顧問団の副隊長であり、その上司のシャルル・シャノワーヌはかつてアロー戦争に従軍して清を植民地化した張本人でした。

ブリュネはどのような思いで榎本武揚に同行したのでしょうか?

得する事など何一つないのに、己を慕ってくれた人の力になりたい、という侍のような忠義の心が芽生えていたのでしょうか?

それとも、できるだけ戦火を拡大させて本国・フランスの利権が介入できる隙を広げようと企んだのでしょうか?

その点に関しては今後も調べた上で、冷静に見極めて行きたいと思います。
フランス軍事顧問団
中央がシャルル・シャノワーヌ前列右から二番目はジュール・ブリュネ
さて、総勢2000名を乗せた榎本武揚の艦隊は、奥羽越列藩同盟を救援するために仙台へ寄港しますが、この時すでに奥羽越列藩同盟は崩壊状態となっていました。

ここで、桑名藩主「松平定敬(容保の弟)」や、土方歳三らと合流し、さらに3000名の残存兵力を収容して蝦夷へ向かいます。

蝦夷地へ着いた榎本らは、函館の北方から上陸し、わずかな防備しか準備していなかった新政府軍を撃破して五稜郭を占領しました。

五稜郭は1866年に作られたばかりの新しい城で、開国後に外国からの防御を考えて作られた最新式の城でした。
こうして順調に蝦夷地を平定した旧幕府軍でしたが、台風に見舞われて最強の軍艦「開陽丸」を座礁・沈没させてしまい、大きく戦力を低下させてしまいました。

これまで榎本達が好き勝手に移動できていたのは、この開陽丸に対抗しうる軍艦を新政府軍が保有していなかったからです。

この出来事が、後に戦局に大いに影響を与える事となるのは、想像に容易い事でした。

1868年12月15日、榎本武揚は軍事政権を樹立します。
この政府を運営するにあたって、日本で初めての「選挙」が行われます。

その結果、榎本武揚が総裁を務める事になり、土方歳三が陸軍奉行並に選ばれる事になりました。

榎本と会見した英国公使館書記官のアダムズは、函館政庁を「republic」と記した為、この政権は外国から「蝦夷共和国」と呼ばれるようになります。
蝦夷共和国の要人達

軍事政権の樹立からわずか3日後、蝦夷共和国の存亡に関わる出来事が起こります。
中立宣言をしていたアメリカが、突如として新政府支持を表明したのです。

これにはアメリカの強かな事情がありました。

南北戦争の時、南軍はフランスへ最新鋭の「甲鉄艦」を発注しました。

「ストーンウォール号」の名前を持つその甲鉄艦は、南軍の海軍戦力として期待されていましたが、届く前に南北戦争が集結してしまいました。

紆余曲折あったの地、結局アメリカが買い取る事になったものの、戦争が終わったばかりなので持て余す事になります。

アメリカはこの船を日本に売りつけようと考え、星条旗を掲げて江戸湾に係留し、戊辰戦争の戦局を見計らっていました。

そこで入って来たのが「開陽丸沈没」のニュースです。

ここで新政府軍が甲鉄船を手に入れたら、海軍力は逆転します。

アメリカは、新政府軍にストーンウォール号を売却する事に決定したワケなのです。

1869年2月、ストーンウォール号を手に入れた新政府軍は艦隊を編成し、品川を出港しました。

「東艦(あずまかん)」と改名されたストーンウォール号は、砲弾の貫通を許さず、さらにアームストロング砲を装備しており、衝角で体当たりする事もできる最強の軍艦でした。
東艦(ストーンウォール号)
蝦夷共和国を上回る海軍力を手に入れた新政府軍は4月、箱館の北西「乙部」から上陸します。

蝦夷共和国は新政府軍を食い止めることができずにジリジリと後退し、5月11日の総攻撃で箱館市街も制圧されてしまい、五稜郭に立てこもることになりました。

土方歳三も奮戦しますが、孤立していた弁天砲台へ救援に向かう途中、腹部に銃弾を受けて戦死します。

新政府軍の参謀「黒田清隆」は榎本に降伏勧告書を送りますが、榎本はこれを拒否し、自らが肌身離さず所持していた「万国海律全書(海の国際法と外交)」を取り出し「この本はこれからの日本に必要なものだから、灰にするには惜しい。新政府軍参謀に寄贈したい」と言う書状を添えて使者に渡しました。

この返事に感動した黒田清隆は、五稜郭に酒5樽を届けさせたと言われています。
黒田清隆
5月16日、榎本は自刃を試みますが、介錯を頼むために呼び止めた大塚霍之丞(おおつか かくのじょう)に止められてしまいます。

大塚は自分の指を負傷してまで、榎本から刀を取り上げたそうです。

翌日、ついに榎本は出頭し降伏します。

18日には五稜郭が開場し、これによって箱館戦争、並びに戊辰戦争が集結しました。

土方歳三がどこに埋葬されたかはわかっていませんが、銃弾に倒れた場所には石碑が立っています。
戊辰戦争の終結によって、明治新政府が日本を統治する正式なものだと海外に認知される事になりました。

榎本武揚はその後、黒田清隆の助命嘆願によって厳罰をまぬがれ、北海道の開拓に携わった後、通信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任する、明治政府には欠かせない人材として根強く生き続け、1908年に73歳で死去しました。
晩年の榎本武揚
果たして、榎本が作った蝦夷共和国とは一体、何だったのでしょうか。

日本にとって一刻の猶予もない世界情勢の中、内戦などしている暇はなかったはずです。

しかしそれでも「武士の世の中」のままでは日本は滅びてしまう、と言う危機感の中、新しい時代を築こうとする「侍」と、最後まで忠義を守ろうとした「侍」は最後まで徹底的に戦い抜きました。

戊辰戦争は「武士が武士の世を終わらせる為の戦い」であったと言えます。

北海道という新天地に築かれた蝦夷共和国は、新撰組や榎本が夢に思い描いた「武士が生き残れる最後の土地」だったのかも知れません






2019年5月28日火曜日

明治維新17 松平容保の苦悩

「保科正之(ほしな まさゆき)」は、第二代将軍・徳川秀忠の妾の子として生まれました。

第三代将軍・徳川家光は、腹違いの弟である正之の器量を見抜き、大変可愛がりました。

そして保科正之は、会津23万石の大名に引き立てられ、稀代の名君とまで呼ばれるようになったのです。

妾の子から大名へと、異例の出世を遂げた保科正之は、徳川幕府に大きな恩義を感じていました。

そして次のような家訓を示します。

「もし二心を抱けば、我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」

これは、主君(幕府)に背くような心を持つような奴は私の子孫じゃないから、誰も従うなよ!という意味です。

この言葉が、のちの会津藩の運命を大きく左右する事になります。
保科正之
会津松平家は幕府へ忠誠を尽くす忠義の国として220年も続く事になるのですが、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。

不作が原因となって大規模な一揆が起こったり、財政破綻の危機を乗り越えたり、6代目、7代目が早死にした為に保科正之の血が途絶えたりと、様々な難局を乗り越えて会津藩を存続させてきました。
会津藩はこの辺
9代目会津藩主「松平容保(まつだいら かたもり)」は婿入り藩主で、水戸徳川家の血筋である美濃高須藩の出身です。
松平容保

会津松平家の家風である神道、儒教、そして家訓を叩き込まれた容保は、「尊皇の精神」と「幕府への忠誠」を合わせ持つようになるのでした。

松平容保が藩主になった1852年はペリーが来航する前年の事であり、時代は一気に幕末の動乱期を迎える事になります。

京都では、開国を受け入れて外国と条約を結んだ幕府に対し、それに反発する「尊王攘夷」を掲げた志士たちが続々と集まっており、過激派が強盗などを起こして治安が悪化していました。

もはや町奉行の手に負える事態ではないと判断した幕府は、「京都守護職」を設置し、京都市中の治安維持と二条城の警備を任せようと考えます。

本来ならば、京に近い彦根藩がこの任に就くはずだったのですが、彦根藩主である「井伊直弼」は桜田門外の変で殺されており、跡を継いでいた13歳の若い藩主には荷が重すぎると判断されたのです。

安政の大獄などによって人材不足に陥っていた江戸幕府が目をつけたのは、東日本で最も信頼の置ける会津藩でした。

しかし、当時の会津藩の財政は既に破綻状態。

容保も病に伏せっており、京都守護職という大任を何度も断りました。

会津藩を守護職に推薦していた政事総裁職の「松平春獄」は、とうとう会津藩の家訓を引き合いに出します。

「もし二心を抱けば、我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」

この言葉の前に容保は辞する言葉を失い、京都守護職を引き受ける決心をしました。
会津藩家訓
家臣たちは皆「薪を背負って火を消しに行くようなものだ」と反対しますが、容保の決意を知ると、肩を抱きあって涙し、京都を死に場所にする覚悟を決めます。

京都守護職に就けば会津藩は滅びる事になると、誰もがわかっていたのです。

実際、京都守護職の経済負担はとてつもなく大きく、会津藩は216000両の出費を余儀無くされました。

しかしその役職に対して支払われるのは、半分にも満たない96709両です。

年間11万9300両(30億円相当)の赤字になるのです。

当然、赤字を賄うために税を徴収せねばなりません。

結果、会津藩の農民達は、重税に苦しむ事になってしまいました。

さて、攘夷の嵐が吹き荒れる中、会津藩兵を率いて上洛した松平容保ですが、京都では神道を学んで培った尊皇の精神を遺憾なく発揮します。

戦国時代以降、武士達の台頭に伴い皇室を始め、公家・公卿達の生活は圧迫されていました。

皇室への支給は定額制だったのですが、幕末の動乱の中で物価が急騰してしまい、孝明天皇に出される魚は、とても食べられる品質のものではなくなっていたそうです。

内職で生計を立てる公卿もいたほどで、そこには裕福な幕府への妬みが少ならからず存在し、幕府に不満を持つ攘夷派の志士達に付け入る隙を与えてしまっており、幕府の唱える「公武合体」の妨げとなっていたのです。

松平容保は皇室の待遇改善を幕府へ建白し、急いで大阪湾から新鮮な魚を取り寄せ、孝明天皇に食べさせました。

孝明天皇は「これは肥後の魚か!肥後の魚か!」と繰り返し喜んだそうです。
この肥後というのは、「肥後守」の官位をもつ松平容保の事を指しています。
孝明天皇
このような姿勢によって、容保は朝廷の厚い信頼を得る事になりました。

しかし「朝廷」と「幕府」の板挟みの中で、容保の運命は揺れ動く事になっていきます。

容保は京都の治安維持も徹底しました。

攘夷派の過激な志士達は幕府を批判するために毎日のように暗殺を行っており、京都の治安は最悪なものになっていました。

そこで容保は新撰組を支配下に置き、攘夷派、倒幕派の志士達を摘発し、「八月十八日の政変」では、攘夷派、倒幕派の公家や、長州藩士を京都から追放する事に成功します。

「禁門の変」においても長州藩を撃退しますが、これによって長州藩と会津藩の関係性は最悪なものになりました。

孝明天皇の信任を得た一橋慶喜や松平容保(会津)、松平定敬(桑名藩・容保の弟)らは幕府から距離を置き、ある意味独立した状態で幕政を指示し、後に「一会桑政権」と呼ばれるようになります。
こうした孝明天皇からの過度な優遇は、薩摩藩や幕府からの反感すら買うようになり、薩摩藩と長州藩が接近する原因を作る事にもなってしまいました。

容保が幕府の為、朝廷の為と思って行動していた事が、どんどん敵を増やすことになっていたのです。

松平容保に欠けていたのは、政治的な駆け引きのバランス感覚だったのかも知れません。

そのような状況の中、1866年に将軍家茂が亡くなると、1867年に孝明天皇も崩御します。

容保が最も頼りにしていた人、そして最も忠義を尽くしていた人を立て続けに失う事になりました。

そして新しい将軍、徳川慶喜が薩長に対して融和路線を取るようになると会津藩は立場がありません。

容保は京都守護職を辞任して会津藩へ帰る事を望みましたがそれも許されませんでした。

徳川慶喜は松平容保の反対をよそに、大政奉還をして政権を返上してしまいます。

慶喜は将軍を辞して、一大名として生き残る道を選んだのです。

しかし王政復古によって徳川家の処分が決まると、会津藩士達は憤慨し一触即発の状況になりました。

京都で戦闘を起こして朝敵になるわけにはいかないと考えた徳川慶喜は、松平容保を引き連れて二条城から大阪城へ移ります。

慶喜に戦う意図はありませんでしたが、憤慨した会津藩士達を止める術はなく、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発し、旧幕府軍は「朝敵」になってしまいました。

徳川慶喜は、松平容保を家臣達から引き離して事態を収拾すべく、容保に命じて開陽丸に乗り込み江戸へ下りました。

家臣を見捨てる形となってしまった容保は責任を取って会津藩主を辞任、養子の喜徳に家督を譲りました。
第十代会津藩主・松平喜徳。徳川慶喜の弟
江戸で謹慎していた徳川慶喜や会津藩、桑名藩を「朝敵」と定めて追討命令が下ると、新政府軍に対して抗戦を訴える松平容保は慶喜から江戸城登城の禁止と、江戸追放を言い渡されてしまいます。

今や松平容保は、政権を握る長州藩からは恨まれ、朝廷からは敵視され、幕府からも疎まれる存在になってしまったのです。

傷心の中、やっと故郷・会津に帰る事ができた容保は謹慎し、朝廷に対し恭順の姿勢を見せて処分を待ちました。

しかしその一方では、プロイセンなどを頼って武器を購入し、武装防衛の準備も進めます。
会津藩からしてみれば、幕府も朝廷も薩長中心の新政府も皆敵という状況の中で、あらゆる可能性を模索していたのではないでしょうか。

しかしこのような「武装恭順」の姿勢は評価されず、仙台藩、米沢藩、庄内藩などを通じて出された降伏嘆願書は奥羽鎮撫総督の参謀「世良修蔵」に悉く踏みにじられました。
世良修蔵
その横暴な態度に激昂した仙台藩士は世良を処刑し、新政府軍と東北諸藩との戦争は避けられないものになってしまいます。

江戸薩摩藩邸焼き討ち事件に関わった庄内藩も、会津藩と同様に新政府軍の討伐対象とされていたため、会津藩と庄内藩は「会庄同盟」を結びます。

この同盟を起点として、世良修蔵を斬ってしまった仙台藩、保科正之時代の会津藩に返しきれない恩義を持つ米沢藩、中立姿勢が認められず新政府との交渉が結れるした長岡藩などが集まり、計31藩による「奥羽越列藩同盟」が結成されました。
奥羽越列藩同盟旗
松平容保に使えていた家老に「西郷頼母(さいごう たのも)」という人物がいました。

彼は、政局の争いに巻き込まれて大変な目にあうからと、最後まで会津藩が京都守護職に就く事を反対し続け、家老職を解任させられていましたが、戊辰戦争の勃発と共に呼び戻されて復帰しました。
西郷頼母
西郷頼母は、主君である松平容保と同様、新政府に対して恭順の姿勢をとっていましたが、新政府が遣わした奥羽鎮撫総督の世良修蔵が「松平容保の斬首」を要求してきた事により、態度を一変させ、白河口の総督として出兵する事になります。

白河口は、「東北の入り口」であり、交通の要衝でした。

会津藩と新撰組は、新政府のものになっていた白河小峰城へ侵攻し、占領します。
消失した白河小峰城
白河小峰城











しかしその10日後に白河小峰城は新政府軍に奪回され、その後も城を巡っての攻防戦は3ヶ月間に渡って繰り広げられました。

白河口で粘る会津藩兵を尻目に新政府軍は北上を開始、二本松藩の居城、二本松城を攻めます。
二本松藩には、有事の際には年齢を2歳加算できるという独自の制度があったため、最少年齢が「12歳」と言う少年兵部隊ができてしまいました。

これは藩の上層部が勝手に決めた事ではなく、白河口の戦いに兵力を割かれている現状を案じた少年達が出陣の嘆願を繰り返した結果です。

後に「二本松少年隊」と呼ばれる事になるこの少年達は、大人達に混じって勇敢に戦いました。

13歳の岡山篤次郎は、出陣の前に、母親に頼んで身につけている物全てに名前を描いてもらいました。

母が理由を尋ねると、
「私の屍だとすぐにわかりますから」
と答えたそうです。
岡山篤次郎の墓
二本松領を占領した新政府軍の次の目標は「会津藩」でした。

会津藩では鳥羽・伏見の戦い以降、年齢別に部隊を構成する組織づくりを進めていました。

18歳から35歳までの「朱雀隊」
36歳から49歳までの「青龍隊」
50歳以上の「玄武隊」
そして16歳、17歳の「白虎隊」です。

会津藩は国境付近に主力軍を送り出していましたが、新政府軍の北上を止める事はできず、いよいよ会津松平家の居城、若松城にまで新政府軍が迫って来ていました。

白河口から若松城へ帰ってきた西郷頼母が再び恭順する事を進めますが、もはや耳を貸すものは誰もいませんでした。

会津城下を守るべく、予備兵力だったはずの白虎隊も出陣しますがあえなく敗走し、生き残った7人は、敵に捕まり生き恥を晒すよりは、死んで武士の本分を示そうと自刃しました。
(喉を突いた飯沼貞吉のみが生存)
飯沼貞吉
迫り来る新政府軍に対し、会津藩は籠城戦の構えを取り、最後まで戦おうとします。

武家屋敷では、籠城戦の足手まといにならないようにと、婦女子は城に入らず自決を選びました。

その数、西郷頼母の家族・親戚21名を筆頭に、200名以上と言われています。
西郷頼母の妻の辞世の句が刻まれた「なよたけの碑」
会津若松城での籠城戦では、老若男女5000人が一丸となって戦い、一ヶ月もの間持ちこたえました。

しかしその頃、列藩同盟の東北諸藩はほとんどが降伏しており、頼りにしていた米沢藩が降伏した事によって、松平容保は降伏を決意します。
会津若松城(鶴ヶ城)
松平容保は養子の松平喜徳とともに東京の久留米藩邸へ送られ、処分を待ちました。

会津藩家老「萱野長修(かやの ながはる)」は「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」とその責任を一身に背負って処刑されました。

容保は死罪を免れ、会津藩の領土は明治政府の直轄となります。

会津藩士やその家族17000人は青森県下北半島の「斗南藩」へ移住することになりました。
斗南藩
極寒の地で、農業の専門家でも苦労する程なのに、農業はおろか他の職業の経験もない会津藩士達にとって、ここは「格子なき牢獄」と呼ぶにふさわしい場所であり、多くの者が餓死したと言います。

老若男女が一丸となって戦った会津藩ですが、それはあくまでも「武士」だけの話であって、会津藩の農民達の反応は至って冷たいものでした。

会津藩では、ただでさえ苦しい財政の中、京都守護職を引き受けた事でさらに重い税を課さなければならず、さらに戦争が始まるという事で厳しい徴発を受けていたのです。

農民達は、会津若松城が落城すると、一斉に蜂起し、各地で一揆が起こりました。
会津世直し一揆
さて、この戦争には、後世に禍根を残す厄介な出来事が起こっており、今尚、会津と長州の関係を悪くしています。

「遺体埋葬論争」です。

新政府軍が、亡くなった会津藩士達の埋葬を許さず、野ざらしにしたという話があるのです。

実際に、会津藩士の遺族の手記には、城下町で腐った家族の死体を探し歩いたという話が多く残されています。

しかし近年、戦争終結の直後から、明治新政府の民政局から埋葬の指示が出されていた事がわかっています。

それでも全てがきちんと埋葬されたというわけではないようで、若松城内には、井戸に投げ込まれただけだったり、埋葬の仕方が甘くて地表に出てしまう遺体もあったようです。

このような劣悪な埋葬の仕方が、現在にも残る禍根の原因になっているのだと考えられます。

これらの遺体は、半年後に改葬される事になりました。
阿弥陀寺に巨大な穴を掘り、1281人の遺体を埋めて土をかぶせると、塚の高さは1、2mにもなったそうです。
石垣の高さまで遺体が積み上がった
松平容保が忠義を尽くしたが為に起こった会津戦争は、明治維新を経てまさにこれから世界の列強国と渡り合って行こうという「新しい日本」に訪れた一つの変化なのではないでしょうか。

なぜ、同じ日本人同士、両者ともに最後まで徹底的に戦い抜かねばならなかったのでしょうか。
会津戦争とは、「『サムライの国』との決別」だったのではないかと考える次第であります。