2019年6月1日土曜日

明治維新19 廃藩置県 廃仏毀釈


新政府は、抵抗勢力との戦い「戊辰戦争」の最中にも、改革を推し進めていきました
会津戦争がまだ終わらぬ7月17日、「江戸」は「東京」へと改名されます。
10月には明治天皇が、徳川家から明け渡された江戸城へ入城し、天皇の住まいは江戸城となりました。
現在の皇居です。

新政府が内政面での改革を本格的に開始したのは、箱館戦争終結後になります。
明治2年、明治政府は「版籍奉還」を行います。
大政奉還や王政復古により政権が朝廷へ返上された後も、各藩では江戸時代同様、大名による統治が行われていました。
全国で3000万石の石高のうち、新政府が税を取ることができたのは800万石にすぎませんでした。
地方分権はいまだ健在であり、日本として統一した軍隊を持つことすら不可能な状態だったのです。
そこで新政府は「版籍奉還」を行い、藩主が所有していた土地と人民を朝廷に返させ、藩主は非世襲の「知藩事」としました。
諸藩からの反発が起こりそうなこの改革ですが、意外にも大した暴動もなく、すんなりと実行されました。


・徳川幕府の消滅とともに、幕府に承認されていた領地の所有権の法的根拠がなくなってしまった事
・近代兵器を用いた戊辰戦争において、多くの藩主は指導力を発揮できずに権威を失墜させていた事
・戊辰戦争の戦場となった土地では年貢の徴収も滞っていた事
などがその背景として挙げられます。
土地と民を朝廷へ返上したとはいえ、新政府から知藩事に任命された藩主は引き続き領内の統治を委任される事になり、一見、何も変化がないように思われました。
しかし、新政府の藩政に対する指導力は強化され、中央集権化に向けて徐々に新政府の影響力は地方に浸透しいくのでした。
「版籍奉還」は、2年後に行われる「廃藩置県」の布石だったと言えます。
明治に行われた改革は他にも山とありますが、私が取り上げたいのは「神仏分離令」です。
これは、天皇を中心とした新しい時代を作るにあたって、それまで1000年以上も続いてきた「神仏習合」を禁止し、神道の国教化を目指したものです。
それまでは日本古来の神道と外来の仏教信仰はごちゃ混ぜになっていました。
当時の「神道」は、現在のように神社庁があったりせず、決して組織、教団としてまとまっていたわけではなかったのです。
神仏習合 神社?お寺?

神道国教化へのハードルは決して低いものではありませんでした。
神道から仏教を排除しようとした結果、この「神仏分離」は過剰なまでに仏教を弾圧する「廃仏毀釈」へとつながってしまいました。
廃物毀釈によって多くの仏教施設、仏像などが破壊されます。

全国に点在する首なし地蔵は、だいたい廃仏毀釈によるもの
私は、古来日本人に他国のように狂信的な宗教信仰があったようには考えられませんでしたので、神仏分離が破壊的な廃仏毀釈に至ってしまった背景が何かを調べたところ、2つの理由にたどり着きました。
1つは、江戸時代に優遇されていた仏教に対する反動、そしてもう1つは、「儒学の影響」です。
儒学は長らく仏教の僧侶が学ぶ学問として定着してきましたが、実は本質的に儒学と仏教は相容れないものでした。
儒学で重んじられる考えの1つに「孝」があります。
これは親を敬い、子を作るという血縁主義の考えです。
しかし仏教はそれらを「煩悩」として否定し、解脱する事で輪廻の苦しみから解放されようとするものでした。
古来より支那や朝鮮では儒教による仏教排除の動きが活発でした。
そして日本においても、江戸時代になると儒学思想を基にした「水戸学」が成立し、仏教軽視、仏教弾圧が始まりました。
「廃仏毀釈」を最初に始めたのは水戸藩だったと言えます。
そして、こうした儒学の考え方は「尊皇攘夷思想」として幕末の志士たちに強く影響を与えており、明治新政府に強く影響を与えていたと考えられます。
仏教を排除した理由の根本には、神道を純粋に重んじるというよりも、儒学の横槍が入っていたように思えます。
明治新政府が目指した神道国教化は、もしかすると、日本の神道、仏教両方の本質を見失わせてしまったのかもしれません。
明治政府による布告により、仏教の僧侶は肉食、妻帯を始めるようになり、僧侶は俗化していくことになりました。
さて、先述した通り、版籍奉還により藩主は土地と民を朝廷に返上し、知藩事となりましたが、これは「廃藩置県」の基礎工事にすぎませんでした。
「藩」がある限り、日本は小さな国の寄せ集めにすぎず、中央集権国家を目指す以上は藩制を廃止しなければならなかったのです。

明治四年、明治政府は知藩事たちを集めて「廃藩置県」を命じました。
これにより知藩事は失職し、東京に移住させられます。
そして各藩には政府から「県令」が派遣されました。
これは、領主が領地を支配する封建制度をひっくり返すものであり、明治維新における最大の改革とも言われています。
これだけの改革にも関わらず反乱が起きなかったのは奇跡に近い出来事でありました。
政府が反乱に備えて御親兵を結成していた事、藩の借金を棒引きにしてあげた事などが理由に挙げられますが、何よりも諸外国が驚嘆した事は、日本の中央集権化のために、最上級である武士がその身分をして平民に下った事でした。
唯一、廃藩置県に反対していた薩摩藩の島津久光は、抗議のために屋敷で一晩中花火を打ち上げました。
島津久光

諸外国の公使の中には、「この改革は、騒動や流血なしに実現する事は不可能なのでは」と口にする者もいたのですが、花火だけで済んだのです。
しかし、明治政府はさらに明治6年に「徴兵制」を開始します。
平民でも軍隊に入れるということは、士族の生存権に関わります。
士族は生活がままならなくなり、家財道具を売り払い、娘を売るものまで出てくる始末でした。
これは、後に士族の反乱につながっていくことになるのでした。