平安京は現在の京都市街に位置する場所に作られた都市で、街を南北に貫く「朱雀大路」を境にして東側は「洛陽」、西側は「長安」と呼ばれていました。
平安京 |
その為、京都へ行く事を「上洛」と呼ぶようになったのです。
戦国時代のように、朝廷や室町幕府が存在していた京都へ軍勢を引き連れて上洛する事は、政治的に大きな影響力を持つ時代もありました。
しかし江戸時代においては、上洛した徳川家の将軍は三代目の家光までで、四代目以降、将軍が上洛する事などありませんでした。
盤石な江戸幕府が築かれた事によって、京都は政治の中心地ではなくなっていたのです。
しかし幕末、開国に伴い江戸幕府の権威が失墜して行く中で、朝廷は第十四代将軍「徳川家茂」に攘夷決行の約束をさせるべく、上洛を要請しました。
徳川家の将軍の上洛は、実に229年ぶりのことになります。
当時の京都といえば攘夷派の志士達が集結し、連日テロまがいの行為を行なっていて、治安が最悪でした。
そこで庄内藩出身の「清河八郎」は、「家茂上洛の警護をする為に『浪士組』を結成すべきだ」と幕府に訴え、その意見は採用される事になりました。
234名もの志士が集まった浪士組は、家茂に先立って2月8日に江戸を出発し、23日に京へ到着します。
しかし江戸時代においては、上洛した徳川家の将軍は三代目の家光までで、四代目以降、将軍が上洛する事などありませんでした。
盤石な江戸幕府が築かれた事によって、京都は政治の中心地ではなくなっていたのです。
しかし幕末、開国に伴い江戸幕府の権威が失墜して行く中で、朝廷は第十四代将軍「徳川家茂」に攘夷決行の約束をさせるべく、上洛を要請しました。
徳川家の将軍の上洛は、実に229年ぶりのことになります。
当時の京都といえば攘夷派の志士達が集結し、連日テロまがいの行為を行なっていて、治安が最悪でした。
そこで庄内藩出身の「清河八郎」は、「家茂上洛の警護をする為に『浪士組』を結成すべきだ」と幕府に訴え、その意見は採用される事になりました。
清河八郎 |
しかし清河八郎は強い「倒幕・攘夷思想」を抱く志士でありました。
幕府とは敵対関係にあったはずなのに、なぜ将軍の警護を提案したのでしょうか。
幕府とは敵対関係にあったはずなのに、なぜ将軍の警護を提案したのでしょうか。
清河は京都へ着くと、浪士達を集めてその真意を明らかにします。
実は浪士組の目的は、将軍の警護ではなく、朝廷の部隊となって尊皇攘夷運動の先鋒となる事なのだと。
清河の意見に賛同した者は200名と多かったもの、これに反発して「当初の目的通り将軍を警護すべきだ!!」と、袂を分かつ者もいました。
不穏な動きを見せる浪士組を警戒した幕府は、江戸への帰還要請を出し、浪士組は江戸へ引き返す事になりました。
そして清河八郎は江戸に戻ってすぐに暗殺されてしまうのでした。
清河八郎に反発して浪士組から離れ、京に残った浪士達は、京都守護職をしていた会津藩の下で「壬生浪士(みぶろうし)」を名乗る非正規組織となりました。
36名の集団となった壬生浪士は、会津藩主「松平容保」に市中警備を任され、過激な攘夷活動を行う不逞浪士を取り締まります。
壬生浪士は大阪の豪商から恫喝まがいの借金をして資金を作ったり、力士達と乱闘を起こしたり、金策を断った京都の問屋に放火して焼き尽くしたりと、中々の荒くれっぷりでしたが、彼らの転機となったのが「八月十八日の政変」です。
京都から長州藩士を追い出す事に貢献した壬生浪士たちは、幕府から「新撰組」の隊名を授かり、京都市中警護を正式に任される事になりました。
これを「池田屋事件」と言いますが、一説によると、長州藩士達は御所へ放火し、松平容保を殺害、天皇を長州へ連れ去ろうと計画していたとも言われています。
実際、その直後に起きた「禁門の変」では御所に向けて発砲しているわけですから、その過激さを見ると、あながち嘘でもなさそうです。
池田屋事件、禁門の変などの一連の活躍は、朝廷・幕府・会津藩などから高く評価され、隊員も200名を越す大所帯となりました。
こうなると新撰組も、もはや軍隊です。
軍組織として成り立っていくためには、厳しい規律が必要となりました。
鳥羽・伏見の戦いが始まる前までの新撰組の死者は45人、そのうちの34人は、内部抗争で斬られたり、規律違反で切腹した者だった、と言われています。
その後、幕府直属の臣下、つまり「幕臣」に取り立てられた新撰組は、幕府に忠義を尽くす会津藩と運命を共にしていく事になりました。
戊辰戦争では旧幕府側について参戦し、以降は敗戦を続ける事になります。
鳥羽・伏見の戦いでは隊員の三分の一が戦死したり、脱走する隊士などもいたりして、新撰組の戦力は大きく低下してしまいます。
この時、新撰組の残党は幕府海軍の副総裁「榎本武揚」と共に、蒸気船「富士山丸」に乗って大阪を脱出し、江戸へ帰還しました。
その後、新撰組は「甲陽鎮撫隊」を名乗って甲府を目指しますが、江戸へ向かって進軍していた新政府軍との間で「甲州勝沼の戦い」が起きてしまいます。
この戦いで甲陽鎮撫隊は敗北、その後、新撰組の局長を務めていた「近藤勇」が新政府軍に捕縛され、処刑されて晒し首になりました。
近藤勇の最期 |
新撰組は宇都宮、会津と、戦いの場を変えながらも敗戦を重ねていきます。
新撰組のナンバー2「土方歳三(ひじがた としぞう)」は、激化する会津戦争の中、庄内藩へ援軍を求めますが、すでに幕府へ恭順していた庄内藩には入れず、仙台藩へ向かう事になりました。
そして仙台の地で、土方歳三は「榎本武揚」と出会うのでした。
土方歳三 |
榎本武揚 |
無血開城の条件であった「艦隊の引き渡し」を拒否し、艦隊を引き連れて脱走したのです。
勝海舟の説得もあって引き返し、4隻を新政府へ引き渡しましたが、開陽丸など主力艦を温存する事に成功します。
榎本はその後も新政府に対して反抗を続け、奥羽越列藩同盟の盟主となる輪王寺宮を東北へ運ぶなど、旧幕府軍の残存勢力を支援し続けました。
やがて奥羽越列藩同盟の密使から救援の要請が来ると、榎本は抗戦派の旧幕臣とともに8隻の軍艦を率いて江戸を脱出します。
品川沖を脱走する艦隊 |
この艦隊には、上野戦争で敗走した彰義隊の生き残りや、旧幕府に解雇されたフランス軍事顧問団の一部も乗り込んでいました。
幕府伝習隊を指導していたフランス軍事顧問団のうち数名は、旧幕府との信頼関係が厚く、フランス本国の命令に背きフランス陸軍を退職してまで、一個人として旧幕府軍と共に戦う事を選んだのです。
その中の一人、「ジュール・ブリュネ」は顧問団の副隊長であり、その上司のシャルル・シャノワーヌはかつてアロー戦争に従軍して清を植民地化した張本人でした。
ブリュネはどのような思いで榎本武揚に同行したのでしょうか?
得する事など何一つないのに、己を慕ってくれた人の力になりたい、という侍のような忠義の心が芽生えていたのでしょうか?
それとも、できるだけ戦火を拡大させて本国・フランスの利権が介入できる隙を広げようと企んだのでしょうか?
その点に関しては今後も調べた上で、冷静に見極めて行きたいと思います。
フランス軍事顧問団 中央がシャルル・シャノワーヌ前列右から二番目はジュール・ブリュネ |
ここで、桑名藩主「松平定敬(容保の弟)」や、土方歳三らと合流し、さらに3000名の残存兵力を収容して蝦夷へ向かいます。
蝦夷地へ着いた榎本らは、函館の北方から上陸し、わずかな防備しか準備していなかった新政府軍を撃破して五稜郭を占領しました。
五稜郭は1866年に作られたばかりの新しい城で、開国後に外国からの防御を考えて作られた最新式の城でした。
こうして順調に蝦夷地を平定した旧幕府軍でしたが、台風に見舞われて最強の軍艦「開陽丸」を座礁・沈没させてしまい、大きく戦力を低下させてしまいました。
これまで榎本達が好き勝手に移動できていたのは、この開陽丸に対抗しうる軍艦を新政府軍が保有していなかったからです。
この出来事が、後に戦局に大いに影響を与える事となるのは、想像に容易い事でした。
1868年12月15日、榎本武揚は軍事政権を樹立します。
この政府を運営するにあたって、日本で初めての「選挙」が行われます。
その結果、榎本武揚が総裁を務める事になり、土方歳三が陸軍奉行並に選ばれる事になりました。
榎本と会見した英国公使館書記官のアダムズは、函館政庁を「republic」と記した為、この政権は外国から「蝦夷共和国」と呼ばれるようになります。
軍事政権の樹立からわずか3日後、蝦夷共和国の存亡に関わる出来事が起こります。
中立宣言をしていたアメリカが、突如として新政府支持を表明したのです。
これにはアメリカの強かな事情がありました。
南北戦争の時、南軍はフランスへ最新鋭の「甲鉄艦」を発注しました。
「ストーンウォール号」の名前を持つその甲鉄艦は、南軍の海軍戦力として期待されていましたが、届く前に南北戦争が集結してしまいました。
紆余曲折あったの地、結局アメリカが買い取る事になったものの、戦争が終わったばかりなので持て余す事になります。
アメリカはこの船を日本に売りつけようと考え、星条旗を掲げて江戸湾に係留し、戊辰戦争の戦局を見計らっていました。
そこで入って来たのが「開陽丸沈没」のニュースです。
ここで新政府軍が甲鉄船を手に入れたら、海軍力は逆転します。
アメリカは、新政府軍にストーンウォール号を売却する事に決定したワケなのです。
1869年2月、ストーンウォール号を手に入れた新政府軍は艦隊を編成し、品川を出港しました。
「東艦(あずまかん)」と改名されたストーンウォール号は、砲弾の貫通を許さず、さらにアームストロング砲を装備しており、衝角で体当たりする事もできる最強の軍艦でした。
蝦夷共和国を上回る海軍力を手に入れた新政府軍は4月、箱館の北西「乙部」から上陸します。
蝦夷地へ着いた榎本らは、函館の北方から上陸し、わずかな防備しか準備していなかった新政府軍を撃破して五稜郭を占領しました。
五稜郭は1866年に作られたばかりの新しい城で、開国後に外国からの防御を考えて作られた最新式の城でした。
こうして順調に蝦夷地を平定した旧幕府軍でしたが、台風に見舞われて最強の軍艦「開陽丸」を座礁・沈没させてしまい、大きく戦力を低下させてしまいました。
これまで榎本達が好き勝手に移動できていたのは、この開陽丸に対抗しうる軍艦を新政府軍が保有していなかったからです。
この出来事が、後に戦局に大いに影響を与える事となるのは、想像に容易い事でした。
1868年12月15日、榎本武揚は軍事政権を樹立します。
この政府を運営するにあたって、日本で初めての「選挙」が行われます。
その結果、榎本武揚が総裁を務める事になり、土方歳三が陸軍奉行並に選ばれる事になりました。
榎本と会見した英国公使館書記官のアダムズは、函館政庁を「republic」と記した為、この政権は外国から「蝦夷共和国」と呼ばれるようになります。
蝦夷共和国の要人達 |
軍事政権の樹立からわずか3日後、蝦夷共和国の存亡に関わる出来事が起こります。
中立宣言をしていたアメリカが、突如として新政府支持を表明したのです。
これにはアメリカの強かな事情がありました。
南北戦争の時、南軍はフランスへ最新鋭の「甲鉄艦」を発注しました。
「ストーンウォール号」の名前を持つその甲鉄艦は、南軍の海軍戦力として期待されていましたが、届く前に南北戦争が集結してしまいました。
紆余曲折あったの地、結局アメリカが買い取る事になったものの、戦争が終わったばかりなので持て余す事になります。
アメリカはこの船を日本に売りつけようと考え、星条旗を掲げて江戸湾に係留し、戊辰戦争の戦局を見計らっていました。
そこで入って来たのが「開陽丸沈没」のニュースです。
ここで新政府軍が甲鉄船を手に入れたら、海軍力は逆転します。
アメリカは、新政府軍にストーンウォール号を売却する事に決定したワケなのです。
1869年2月、ストーンウォール号を手に入れた新政府軍は艦隊を編成し、品川を出港しました。
「東艦(あずまかん)」と改名されたストーンウォール号は、砲弾の貫通を許さず、さらにアームストロング砲を装備しており、衝角で体当たりする事もできる最強の軍艦でした。
東艦(ストーンウォール号) |
蝦夷共和国は新政府軍を食い止めることができずにジリジリと後退し、5月11日の総攻撃で箱館市街も制圧されてしまい、五稜郭に立てこもることになりました。
土方歳三も奮戦しますが、孤立していた弁天砲台へ救援に向かう途中、腹部に銃弾を受けて戦死します。
新政府軍の参謀「黒田清隆」は榎本に降伏勧告書を送りますが、榎本はこれを拒否し、自らが肌身離さず所持していた「万国海律全書(海の国際法と外交)」を取り出し「この本はこれからの日本に必要なものだから、灰にするには惜しい。新政府軍参謀に寄贈したい」と言う書状を添えて使者に渡しました。
この返事に感動した黒田清隆は、五稜郭に酒5樽を届けさせたと言われています。
5月16日、榎本は自刃を試みますが、介錯を頼むために呼び止めた大塚霍之丞(おおつか かくのじょう)に止められてしまいます。
土方歳三も奮戦しますが、孤立していた弁天砲台へ救援に向かう途中、腹部に銃弾を受けて戦死します。
新政府軍の参謀「黒田清隆」は榎本に降伏勧告書を送りますが、榎本はこれを拒否し、自らが肌身離さず所持していた「万国海律全書(海の国際法と外交)」を取り出し「この本はこれからの日本に必要なものだから、灰にするには惜しい。新政府軍参謀に寄贈したい」と言う書状を添えて使者に渡しました。
この返事に感動した黒田清隆は、五稜郭に酒5樽を届けさせたと言われています。
黒田清隆 |
大塚は自分の指を負傷してまで、榎本から刀を取り上げたそうです。
翌日、ついに榎本は出頭し降伏します。
18日には五稜郭が開場し、これによって箱館戦争、並びに戊辰戦争が集結しました。
戊辰戦争の終結によって、明治新政府が日本を統治する正式なものだと海外に認知される事になりました。
榎本武揚はその後、黒田清隆の助命嘆願によって厳罰をまぬがれ、北海道の開拓に携わった後、通信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任する、明治政府には欠かせない人材として根強く生き続け、1908年に73歳で死去しました。
果たして、榎本が作った蝦夷共和国とは一体、何だったのでしょうか。
晩年の榎本武揚 |
日本にとって一刻の猶予もない世界情勢の中、内戦などしている暇はなかったはずです。
しかしそれでも「武士の世の中」のままでは日本は滅びてしまう、と言う危機感の中、新しい時代を築こうとする「侍」と、最後まで忠義を守ろうとした「侍」は最後まで徹底的に戦い抜きました。
戊辰戦争は「武士が武士の世を終わらせる為の戦い」であったと言えます。
北海道という新天地に築かれた蝦夷共和国は、新撰組や榎本が夢に思い描いた「武士が生き残れる最後の土地」だったのかも知れません