2021年5月29日土曜日

大東亜戦争41 フィリピンの戦い③レイテ沖海戦、最大にして最後の戦い






レイテ湾に現れた米軍艦隊を迎え撃つべく、日本海軍は総力をあげて最後の決戦を挑みます。

とはいえ、日本軍には、米軍の機動部隊に対抗できる空母も少なければ空母に乗せる飛行機も足りず、さらに飛行機に乗るパイロットも新米ばかりでした。

これまでのように、がっぷり四つに組み合うような艦隊決戦を行っても勝ち目はありません。

そこで、「連合艦隊の殲滅目標はレイテ湾に停泊する敵輸送船団」という、異例の作戦が立てられたのです。

しかし、日本海軍伝統の「艦隊決戦」に未練を残す者も多く、「計画通り、レイテ湾に停泊する輸送船団を目指して突入するが、もしも敵主力部隊を発見した際は、攻撃目標を敵艦隊に切り替える」という特例も付け加えられました。

日本軍の水上戦力は、
・栗田健男中将が率いる戦艦「大和」「武蔵」を擁する最強の艦隊、第一遊撃部隊第一部隊(栗田艦隊)
・第一遊撃部隊の中でも速度の遅い旧式軍艦を集めた第二部隊、司令官は西村祥治中将(西村艦隊)
・志摩清英中将を司令官とし、「那智」「足柄」2隻の重巡洋艦を中心とした第二遊撃部隊(志摩艦隊)
・正規空母「瑞鶴」、改装空母「瑞鳳」「千代田」「千歳」を中心とした小沢治三郎の機動部隊「小沢艦隊」
の4つの部隊が参戦しました。





この戦いの作戦は、なんと虎の子の機動部隊である小沢艦隊を日本から出撃させ、敵機動部隊を北上させて引きつける「囮」として利用する稀有な作戦でした。もはや空母が擁する航空部隊は戦力として期待できるものではなかったのです。

ブルネイから出撃する第一遊撃部隊は二手に分かれ、速度の速い栗田艦隊は東回りのルートを、速度の遅い西村艦隊は近道である南回りを通り、両部隊同時にレイテ湾に突入する事になっており、日本から出撃する志摩艦隊も、西村艦隊と同じルートを通る予定でした。


米軍は、正規空母17、護衛空母18、戦艦12、重巡洋艦11、軽巡洋艦15、駆逐艦141という大勢力で参戦します。

対する日本軍は、空母4、戦艦9、重巡洋艦13、軽巡洋艦6、駆逐艦34と、米軍の4分の1の戦力で、しかも制空権を失っている状態での苦しい戦いを強いられる事になりました。

しかしそれでも、これだけの数の艦船が会したこのレイテ沖海戦は、人類史上最大規模の海戦となったのです。


乏しい航空戦力で、護衛艦隊も持たない機動部隊の小沢艦隊、寄せ集めの老朽化した志摩艦隊、西村艦隊。

これらの部隊が、米軍の大艦隊が待ち構えるフィリピン近海へ出撃をすればどうなるかは想像するに易いことです。

彼らは最初から全滅覚悟で、精鋭の栗田艦隊がレイテ湾へ突入するための囮として、最後の出撃をするのでした。





10月22日、燃料補給を終えて準備が整った第一遊撃部隊主力(栗田艦隊・西村艦隊)が出撃します。

10月23日、パラワン水道に到達した栗田艦隊を、2隻の米軍潜水艦「ダーター」と「デイス」が発見、攻撃を仕掛けます。

これによって、日本は重巡洋艦「愛宕」「摩耶」が撃沈、さらに「高雄」が大破する大損害を被りました。

出撃して間もない序盤での、いきなりの大打撃にこの出来事は「パラワン水道の悲劇」と呼ばれる事になりました。


日本軍としては、主力艦隊のレイテ湾突撃を成功させるためには、まずは基地航空部隊が敵の航空戦力と交戦し、牽制しなければなりません。

栗田艦隊、西村艦隊、志摩艦隊は空母を持たないため、上空からの攻撃に晒されるとひとたまりもないからです。

10月24日午前6時30分、日本軍基地航空部隊は栗田艦隊がレイテ湾に到達する前に空母部隊を殲滅すべく、170機の攻撃隊、さらに単騎奇襲を目論む艦上爆撃機「彗星」を12機発進させました。

しかしその進路の途中で、150機の敵機と遭遇、激しい航空戦になって行く手を遮られてしまいました。

しかし単騎で進路をとっていた彗星12機の一部が、敵機動部隊の上空に到達し、雲に隠れて攻撃の機会を伺います。

9時38分、一機の彗星が軽空母プリンストンに向けて急降下爆撃を敢行、この機は直後に撃墜されますが、放たれた爆弾は船体中央に着弾し、船内の魚雷に引火して連鎖的に爆発を起こしました。

軽空母一隻を撃沈する大戦果をあげた航空機による攻撃でしたが、艦隊の援護としての役割を果たすには不十分なものに終わりました。



「シブヤン海海戦」

その頃、パラワン水道を超えてシブヤン海に到達していた栗田艦隊は敵の偵察機を発見してしまいました。

これは敵に居場所がバレてしまった事を意味します。。

米軍は栗田艦隊に向けて攻撃隊を出撃させ、10時26分には栗田艦隊上空に45機の米軍攻撃隊が到達しました。

栗田艦隊の各艦の高角砲や機銃による壮絶な一斉射撃をかいくぐり、爆弾や魚雷による攻撃が始まり、たちまち一帯は砲弾が飛び交う地獄と化します。

この攻撃によって戦艦武蔵が数発被弾し、作戦行動に影響はないものの、主砲を撃てなくなってしまいました。

その後も武蔵は執拗に攻撃を受け続けます。

米軍の狙いが連合艦隊の象徴である大和、武蔵である事は明白でした。

主砲を失った武蔵は、囮になって敵機の攻撃を一手に引き受ける事になります。

武蔵はこの日、魚雷20発、爆弾17発が命中し、19時35分、ついに沈没しました。


米軍は武蔵への攻撃に固執しすぎたため、250機以上による攻撃を仕掛けたにも関わらず、武蔵の沈没と、重巡洋艦一隻を大破させただけの戦果にとどまりました。

武蔵は出撃前に塗装を塗り替えられ、まるでピカピカの建造されたばかりの船であるかのようで、非常に目立っていたと言われています。

武蔵は最初から、敵の攻撃を引きつけるために犠牲になる予定だったのかもしれません。

この米軍機による一方的な戦闘は後に「シブヤン海海戦」と呼ばれる事になります。

5度にもわたる空襲で各艦ともに損害が出て傷だらけになった栗田艦隊は、15時30分、全艦に一斉回頭を命じました。

司令官の栗田中将は、敵機が次々とやってくるのに、味方の支援が一機もやってこない事に「作戦がうまくいっていないのでは」と疑問に思ったのです。

これを見ていた米軍の偵察機の報告を受け取った指揮官のハルゼー大将は、栗田艦隊がレイテ湾突入を諦めて引き返していくものだと判断しました。

栗田艦隊が反転してから一時間、栗田中将は敵の空襲がピタリと止んだ事を不思議に思いました。

「栗田艦隊はもはや脅威ではない」と判断したハルゼーは、4隻の空母を持つ小沢艦隊が接近している事を察知し、これを殲滅するために米軍の機動部隊を北上させていたのです。

ここにきて、日本軍の「囮作戦」がようやく奇跡的に成功したのです。

栗田艦隊は再反転を行い、再びレイテ湾に向かう事になりました。


「スリガオ海峡海戦」

栗田艦隊とは別の航路でレイテ湾へと向かっていた西村艦隊と志摩艦隊の役目は、「栗田艦隊と同時にレイテ湾へ突入する事」でした。

10月24日、南方からレイテ湾ににつながるスリガオ海峡を目指してスールー海を航行していた西村艦隊と後続の志摩艦隊は敵機からの空襲を受けます。

志摩艦隊の駆逐艦「若狭」が沈没、西村艦隊の戦艦「扶桑」が直撃弾を受けて損傷してしまいました。

しかしそれ以上の攻撃がなかったため、その後は両艦隊共にスリガオ海峡へと目指しました。

スールー海東端に到達してレイテ湾を目前にした西村・志摩両艦隊ですが、肝心の栗田艦隊は敵機の激しい攻撃に見舞われて一時反転していたため、時間差が生じて同時突入が不可能になっていました。

西村艦隊は単独での突入を決意し、志摩艦隊もそれに続きます。

しかしレイテ湾への入り口、スリガオ海峡では敵の大艦隊が待ち構えていたのです。

その数、戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻の大勢力でした。



10月24日22時36分、西村艦隊は敵の魚雷艇を撃退しながら北上を開始、戦闘が始まります。

しかし敵の駆逐艦から放たれた魚雷が戦艦「扶桑」に命中、電気系統が破壊されて沈黙した後、大爆発を起こして船体が真っ二つに折れました。

敵駆逐艦の攻撃は更に続き、駆逐艦「山雲」「満潮」も撃沈されました。


駆逐艦による米軍の攻撃はまだほんの序の口でした。

米国の戦艦、巡洋艦が横一列に並んで西村艦隊を待ち受けていたのです。

10月25日3時51分、暗闇の中、米軍艦隊によるレーダー照射による射撃が開始されました。

西村艦隊も反撃するものの、敵の砲撃時の閃光を頼りに射撃をするしかなく、西村艦隊は一方的に4300発以上もの砲弾を浴びてしまいます。

戦艦「最上」が大破炎上、「山城」も沈没しました。

山城は旗艦であり、西村中将が乗船していたため、西村艦隊は司令官を失い壊滅しました。

後に続く志摩艦隊も突入を試みましたが、魚雷艇の攻撃で損害を出し、戦線を離脱する事になりました。

しかし志摩艦隊は敵の追撃をうけ、駆逐艦「朝霧」軽巡洋艦「阿武隈」が沈没しています。

こうして、西村艦隊、志摩艦隊の突入は失敗に終わりました。

「エンガノ岬沖海戦」

本来ならば小沢艦隊が敵機動部隊を引きつけて、敵の航空戦力を一手に引き受けている間に、他の3艦隊がレイテ湾へ突入をせねばなりませんでしたが、米軍が小沢艦隊という囮に食いついたのは、24日の夕刻以降、既に戦艦武蔵も撃破され、栗田艦隊が反転し西村艦隊との連携が崩れた後のことでした。

このタイミングがもう少し早ければ、武蔵を健在の栗田艦隊と、西村艦隊、志摩艦隊の同時突入が成功し、レイテ沖海戦の結果も変わっていたのかもしれません。


10月25日8時15分、米軍の空母から出撃した攻撃隊が小沢艦隊の上空に到達します。

小沢艦隊を守る護衛機はわずか18機でしたが、彼らは17機を撃墜するなど健闘しました。

しかしこの戦闘で多くの艦が被弾し、空母「千歳」が撃沈します。



そして9時58分、2度目の空襲が始まり、空母「千代田」が大破炎上、航行不能に陥りました。

護衛機の零戦は燃料を全て使い切ってしまい着水、小沢艦隊の上空を守る航空機は皆無となってしまいます。


13時5分、100機の攻撃隊による3度目の攻撃は、残る空母「瑞鶴」「瑞鳳」に集中しました。

無数の直撃弾、至近弾を食らった両空母は撃沈。

沈みゆく瑞鶴では、甲板上に総員が集合、軍艦旗の降下に敬礼し、万歳三唱を行い、艦と運命を共にしました。

17時26分、更に85機の攻撃隊が戦艦「伊勢」軽巡洋艦「大淀」を襲います。

この攻撃は巧みな操艦で直撃弾を避けるも、序盤の戦闘で損傷し、単独で退避していた軽巡洋艦「多摩」に潜水艦が攻撃を仕掛け、撃沈していました。

度重なる攻撃を受けて瀕死の小沢艦隊は、新たな敵艦隊と交戦すべく索敵を続けますが、結局見つけることができずに帰路につくのでした。



「サマール沖海戦」

10月25日
西村艦隊、小沢艦隊の壊滅、志摩艦隊の脱落という状況下であっても、なんとか奇跡的に栗田艦隊はレイテ湾へ向かって突き進んでいました。

4隻の戦艦を擁する総勢23隻の満身創痍の栗田艦隊は防空体制をとりながら進行します。

しかし戦艦「大和」のレーダーが、フィリピン上陸部隊を支援する護衛空母群第3集団「タフィ3」を捕捉しました。

この時タフィ3は栗田艦隊に対する警戒を解除したばかりで、突然の遭遇にパニックになりました。

なにしろ、タフィ3を率いるクリフトン・スプレーグ提督は、「栗田艦隊は反転して戦場から離脱した」と聞かされていたのです。

しかし目の前に現れたのは、今までに見た事もない大きさの戦艦・大和を従えた強力な水上部隊、そして米軍の主力艦隊は、ハルゼーに連れられて小沢艦隊殲滅のために北上していました。

スプレーグは思わず「あの糞ハルゼーめ!我々を丸腰で置いてけぼりにしやがったな!」と悪態を突いたと言われています。

タフィ3はすぐさま退避行動をとり、艦載機を発進させます。




タフィ3は護衛空母6隻、3隻の駆逐艦、4隻の護衛駆逐艦から成る脆弱な艦隊であり、戦力的にはとても栗田艦隊に太刀打ちできるものではありません。


午前6時58分、戦艦「大和」「長門」の主砲が敵に向けて砲撃を開始します。

最強の戦艦「大和」が本格的に参戦した、最初で最後の艦隊決戦です。




しかしタフィ3は運良くスコールに隠れてしまい、なかなか命中弾を浴びせることができませんでした。

敵機に対し対空戦闘、駆逐艦による魚雷攻撃を回避しながら、栗田艦隊は敵艦を撃退しつつ進行します。

被弾した重巡洋艦「熊野」「鈴谷」が隊列から脱落する中、戦艦「榛名」の砲弾が護衛空母「カリニン・ベイ」を捉えました。

カリニン・ベイは大破炎上、同じく護衛空母の「ガンビア・ベイ」も撃沈、タフィ3の駆逐艦は魚雷をほとんど撃ち尽くしました。

栗田艦隊はタフィ3を壊滅寸前にまで追い詰めたのです。





しかし執拗な魚雷攻撃によって、栗田艦隊の隊列はバラバラ、大和は回避行動のため戦列から大きく離れてしまいます。


艦隊が大きく散らばって統制が取れなくなったため、栗田司令官はここままではいたずらに燃料を消費するだけだと判断、タフィ3への追撃をあきらめてレイテ湾へ突入する事を優先、各艦に集結を命じます。


しかしその頃、タフィ3からの救援要請をうけていた護衛空母群の同僚「タフィ1」と「タフィ2」からも攻撃隊が発進しつつありました。

重巡洋艦を3隻喪失した栗田艦隊は急いで態勢と整えねばなりません。

その時、タフィ1、タフィ3に襲いかかる日本軍の航空隊が現れます。

マバラカット基地から飛び立ち、栗田艦隊のレイテ湾突入を支援するために出撃した「神風特別攻撃隊」です。


タフィ1を発見した「菊水隊」は、1機ずつ空母「サンティー」「サンガモン」「ペトロフ・ベイ」「スワニー」に突撃し、そのうち「サンティー」の飛行甲板と「スワニー」の後部エレベーター部に命中、損害を与えました。



タフィ3には、「敷島隊」が攻撃を仕掛け、一機が空母「セント・ロー」に突入、飛行甲板を貫通し大火災を発生させ、撃沈に成功します。


マバラカット基地にあった可動機数はわずかに30機、「体当たり」は、その少ない戦力でなんとしても栗田艦隊を援護しようと考え抜いた末の作戦でした。

この日だけでも護衛空母1隻を撃沈、3隻に損害を与え、久しく見ない大戦果をあげたこの攻撃法は、今後も日本の正規戦術として終戦まで展開されます。

「人一人の命」を「一発の弾」として扱う、地獄の作戦「特攻」の始まりです。



米兵達は、今まで見たことのない信じられない戦法に、ただ怯えながら空を見上げるだけでした。



特攻隊が護衛空母群を攻撃している間に、栗田艦隊は再結集を終え、再びレイテ湾へと進路をとります。


しかしここで不可解な出来事が起こります。

栗田艦隊は、レイテ湾を目前にしながら、突入せずに反転したのです。

今もなお、日米双方の戦史家たちの首をひねらせる「栗田ターン」です。

「敵機動部隊発見」の報告が入ったため、北上して機動部隊との決戦に挑もうとしたが、そこに機動部隊の姿がなかったため帰路についた、という流れのようですが、この行動についての賛否は分かれ、反転に至った経緯についても謎が多く、今もなお論争の種となっています。

・レイテ湾に至るまでの戦闘で、通常なら既に撤退しているほどの損害を被っていたから
・レイテ湾に突入しても、戦果を挙げる事が困難で、全滅する運命だったから
・輸送部隊を叩くよりも機動部隊に挑み、海軍として華々しく散る事を選んだから

栗田艦隊の反転の理由は様々な説が推測されていますが、今となっては真相は闇の中です。

作戦を成功させるためには、たとえ全滅しようとも、栗田艦隊はレイテ湾突入を遂行させるべきでした。
栗田艦隊の支援の為に、小沢艦隊の全滅を始め、多くの犠牲を払ったのですから。

しかし、理由はなんであれ、栗田艦長の判断によって栗田艦隊に属する1万名の人命が救われ、この時生き残った乗組員の子孫達が今も生きているという事もまた、事実です。




なにはともあれ、28日に栗田艦隊はブルネイへ帰投し、レイテ沖海戦は幕を閉じました。

連合艦隊はあまりにも多くの艦船を失い、燃料も尽き、海軍としての作戦行動をとる事ができなくなってしまいました。

日本海軍の事実上の終戦です。

日本軍の損害は、空母4隻 戦艦3隻 重巡6隻 軽巡4隻 駆逐艦9隻が沈没
戦死者 一万人

米軍は 空母1隻 護衛空母2隻 駆逐艦2隻が沈没

人類史上最大の海戦は、あまりにも一方的な結果となってしまいました。

日本兵4000名が海の底で眠るスリガオ海峡では、慰霊碑が建てられ、毎年地元のフィリピンの人々によって慰霊式典が開かれています。





2021年5月20日木曜日

大東亜戦争40 フィリピンの戦い② マッカーサーの逆襲


 マリアナ沖海戦、サイパン島陥落によって既に大勢は決しており、東條内閣に変わる小磯内閣では、「どうやって戦争を続けるのか、終わらせるのか」という議論がなされました。

日本軍の戦力は限界に達してはいたものの、未だ占領地は広大であり、本土上陸も許していません。

ズルズルと敗戦を繰り返すよりも、ある程度戦力を集中させて次に起こる大きな会戦に勝利すれば、アメリカに対しできるだけ有利な条件で和平交渉をできるし、国民を納得させる事ができるだろうという「一撃講和」という考えが支持されるようになります。

この考えに基づいて大本営は新たな防衛計画「捷号作戦(しょうごうさくせん)」を策定し、まずはフィリピンを死守するべきだと決定しました。

日本にとって、フィリピンを奪われてしまうと、インドネシア などの南方資源の輸送が断たれてしまう事になってしまうのです。


一方アメリカ軍では、日本への侵攻ルートについて意見が別れていました。

フィリピンを攻めるのか、素通りするのかで混乱していた米軍の方針に収拾をつけたのは、終始フィリピン奪還に固執していたマッカーサーの執念でした。

そしてフィリピン侵攻のための足がかりとして、パラオのペリリュー島や、インドネシア東部のモロタイ島が攻撃される事になったです。


モロタイ島の日本軍守備隊はわずかに500名足らずでしたが、米軍は57000名もの大兵力を注ぎ込みます。
1944年9月15日から始まった米軍の攻撃に対し、圧倒的な兵力差の前に日本軍の抵抗もむなしく、10月はじめには島内の制圧はほぼ完了、フィリピン攻略のための拠点ができあがってしまいました。




フィリピン侵攻のための米軍の次なる狙いは、フィリピン沖での制空権を得る事です。
米軍は10月10日に沖縄大空襲、12日に台湾への大空襲を行いました。

台湾大空襲では、米軍は12日に述べ1370機、13日には述べ947機の航空戦力を投入し、これを迎撃しようと出撃した日本軍基地航空部隊との間で「台湾沖航空戦」が繰り広げられました。

10月14日、米軍は大破した重巡洋艦キャンベラを退避させますが、これを日本軍は「前日までの攻撃で米軍艦隊が戦力を喪失した」と誤認し、380機を出撃させて総攻撃を仕掛けます。

当然ながら強烈な対空砲火を浴びて返り討ちに遭い、244機が未帰還となりました。

日本軍は戦果を誤認したまま翌日以降も総攻撃を繰り返し、その度に損害が増えていくのでした。

最終的には「敵空母19隻、戦艦4隻を撃破した」というほどまで戦果の誤認は膨れ上がり、その知らせは日本国民を沸き立たせます。

10月19日に索敵機によって、空母7隻を含む米軍の機動部隊が発見された事により、海軍は戦果の誤認に気づいたのですが、海軍はその事を陸軍には知らせませんでした。

当時の日本軍のパイロットは総じて練度が低く、直撃せずに敵艦近くで爆発した魚雷の水柱を見て「撃破」と認定していたのです。

台湾沖航空戦での日本軍の損害は航空機300機以上、対する米軍は89機でした。


フィリピン侵攻への足がかりの拠点もでき、制空権も手に入れた米軍はいよいよフィリピン奪還へと動き出します。

日本陸軍は、当初はフィリピン北部の「ルソン島」に限局して迎撃決戦を行う予定でした。

しかし事実を知らされず台湾沖航空戦の戦果に浮足立っていた陸軍は、「レイテ島決戦」へと方針を転換し、レイテ島へ大増援部隊を送り込みます。

このためルソン島の兵力が不足し、それを補うために台湾の第10師団をルソン島へ移動させるのですが、これによって後に沖縄戦での兵力不足を招く事になってしまいました。

海軍の戦果報告に疑念を抱いていた陸軍大将・山下泰文は、制海権、制空権のない中でマニラからレイテ島までの730kmを移動するのは不可能だと主張しますが、陸軍上層部の南方軍総司令官、寺内寿一に叱責され、何も言えなくなってしまうのでした。


10月20日午前10時、ついに米軍はレイテ島へと上陸を開始します。

日本陸軍が目にしたのは、話に聞いていた「台湾沖航空戦での敗残部隊」などではなく、10万人以上の大部隊でした。

日本軍は米軍の上陸に対する水際での抵抗もそこそこに、ジャングルの奥へと退避し持久戦の構えを見せます。


そして日本海軍は、17日にレイテ湾に姿を現した米軍艦隊を殲滅すべく、総力を結集して連合艦隊をレイテ湾に向けて出撃させました。

連合艦隊、最後の決戦「レイテ沖海戦」のはじまりです。













2021年5月10日月曜日

大東亜戦争39 パラオ諸島の戦い②桜は誰の為に散る

 


ペリリュー島に上陸した最前線の米兵たちは、衣料品、食料、飲料水の不足に悩まされていました。

日本軍の激しい砲撃により多数のアムトラックが破壊され、物資の輸送ができなかったのです。

苦しい状況の中でも、夜になると米兵たちは日本軍の夜襲を警戒して神経をすり減らさなければなりません。

しかし日本軍はあえて夜襲を行わず、拡声器を使って罵詈雑言を浴びせたと言われています。

この挑発行為に対して米兵たちは罵り返し、冷静を保てなくなった隙に日本兵による陣地奪還など破壊工作が行われたそうです。



9月16日、戦闘も二日目になるとようやく米軍の前線にも水が届けられるようになりますが、届いたのは錆と油にまみれたドラム缶に入った水でした。

そのような過酷な状況の中でも、米軍海兵師団の上層部は現場に罵声を飛ばし、現状の打破を命じます。

海岸線付近の日本軍陣地は、おおかた米軍によって制圧されていましたが、「イシマツ陣地」はなおも頑強な抵抗を続けていました。


イシマツ陣地の後方には砲兵が陣取る山岳地帯があり、そこからの砲撃支援は米軍を手こずらせました。

しかし米軍も海上からの容赦ない艦砲射撃を行い、山岳地帯の砲兵陣地を沈黙させ、戦車10両を先頭にイシマツ陣地へ突撃を仕掛けました。

戦車を撃破する火力のないイシマツ陣地の日本兵たちはなす術を失いますが、連隊長の中島正中尉は爆薬を抱えて走り出し、先頭の戦車を破壊してしまいます。

この戦法に恐れおののいた米軍は戦車による突撃を中止、遠距離からの射撃を加えながらじわじわを接近する戦法をとりました。

その後、健闘するも、ついに持ちこたえられなくなったイシマツ陣地は撤退することになりましたが、負傷兵達が足手纏いになるのを避ける為に「殺してくれ」と戦友たちに頼んだため、生き残った日本兵たちは涙を流しながら壕の中に週榴弾を投げ入れ、撤退していきました。

イシマツ陣地は米兵たちから恐れられ「The Point」と呼ばれていたそうです。


こうして海岸線を完全に制圧した米軍は飛行場への攻略へと進みます。

しかし飛行場周辺は開けた平坦地であり、米兵たちは身を隠す場所がありません。

そしてこの飛行場を見下ろすことのできる「ブラッディノーズ・リッジ」と呼ばれる丘からは、容姿なく日本軍の砲撃が行われます。

この攻撃で米軍第一海兵連隊は先日と同じく500名の死傷者を出し、早くも損耗率は33%にも達しました。

しかし米軍は援軍の到着まで持ちこたえてなんとか飛行場を制圧することに成功します。

海岸線、飛行場を手中に収めた米軍は4日間で島の南部を制圧し、日本軍の死者は2609名にも達しました。

投降した日本兵も容赦なく撃ち殺され、捕虜は一人も出ませんでした。

島の南部と飛行場を奪われた状況を見て、ペリリュー島守備体調・中川州男大佐は持久戦術を展開します。

500以上もある山岳地帯の洞窟に身を隠し、少しでも長く生きて多くの敵を倒すのです。

これまで米兵たちが他の戦地で見てきた「バンザイ突撃」は行われませんでした。

洞窟を利用した陣地は内部で連結され、米軍は日本兵がどこから攻撃してくるのか全くわからなかったと言います。




米軍はその山岳地帯の一つ「ブラッディノーズ・リッジ」の攻略するためにM4中戦車を使って、洞窟を見つけ次第片っ端から砲撃を加えて潰していきました。

しかし戦車のハッチから身を乗り出して指示をする戦車将校はことごとく日本兵に狙撃され、31名中、無事だったのは8名しかいませんでした。

米軍はその後、島南部の掃討を終えた戦力を加えてブラッディノーズを攻撃します。

崖をよじ登ってくる米兵を銃剣で突き刺す者、米兵に洞窟から引き摺り出され崖から落とされる者、壮絶な近接戦闘が繰り広げられる中、米軍は少しずつ山岳地帯を攻略していきました。

一進一退の攻防を繰り広げ、戦闘の長期化が予想される中、日本軍の健闘を受けてペリリュー島へ増援が送られる事がきまりました。


9月22日、増援部隊の先遣隊215名は14名の死傷者を出しながらもペリリュー島に到着、ペリリュー島守備隊の本隊に合流します。

この報告に日本軍司令部は沸き立ち、続く23日にはさらに1000名の増援部隊を送り込みます。

しかし警戒を強めていた米軍の攻撃を受けてこの増援部隊は散り散りになり、指揮官である飯田義栄少佐が掌握可能な兵力は400名になってしまいました。

飯田少佐は、これ以上の増援は兵力を損耗するだけだと考え、その事をパラオ本島の司令部に伝えようとしました。

無線が失われていたため、泳ぎが達者な17名がパラオの司令部まで泳いで、生き残った4名により戦況報告書を届ける事ができたため、これ以上増援が送られる事はありませんでした。

飯田少佐たちは28日に本体と合流、飯田少佐と中川大佐は涙を流しながら手を取り合い喜び、兵たちの士気はあがりました。



健闘をつづける日本軍守備隊でしたが、占領された飛行場を米軍が運用し、航空機による攻撃を仕掛けてきます。

飛行場から飛び立った米軍の航空機はわずか15秒で反転し、ペリリュー島の日本兵に攻撃を開始するのです。

飯田少佐はこの飛行場を攻撃するために夜間切り込み部隊を結成します。

銃剣と手榴弾だけを持ち、音もなくアメリカ軍陣地を襲撃するこの戦法は効果的で、100名以上の死傷者が出た米軍はスピーカーで
「日本兵の皆さん、夜間の切り込みはやめてください、我々も艦砲射撃と爆撃を中止します」と放送するほどでした。



ペリリュー島中部の山岳地帯には5つの低い尾根が連なっており、米軍はこれを「ファイブ・シスターズ」と呼んでいます。

ここには地形を利用した日本軍陣地が張り巡らされており、米軍にとって過酷な戦闘が繰り広げられていました。

米軍海兵第一連隊のC中隊が、日本軍との死闘の末に残存兵力がわずか9名になってしまい、撤退を余儀なくされるほどの壮絶な戦場でした。

第一海兵連隊は3000名の定員のうち1749名が死傷し壊滅、米軍史上最も損害を受けた連隊になりました。

他にも第5、7連隊の損害も大きく、第一海兵師団全体の死傷者が4000名近くにも達したため、第一海兵師団は撤退する事になり、代わりに第81師団が投入されることになります。


米軍最強の一個師団を壊滅させるほど頑強な抵抗を続けてきた日本軍でしたが、10月になると、ペリリュー島の山岳地帯以外の地域はほとんど米軍に制圧されており、「ファイブシスターズ包囲戦」の様相を呈していました。

日本軍の狙撃は正確であり、さらに音もなく忍び寄る夜襲に米兵たちは震えあがりましたが、この頃になると日本軍にも限界がきており、弾薬不足からか銃撃も散発的なものになってきていました。

日本軍はこの時点で既に9000名が戦死しており、水源地を奪われ水不足が深刻化していたのです。

水を求めて水源地に現れた日本人は悉く射殺され、その数は100名を越えました。

日本軍陣地は火炎放射器によって遠距離から焼き尽くされ、日本軍守備隊は遂に追い詰められてしまいます。

11月24日、弾薬がほとんど底をつき、守備隊司令部「ラスト・コマンド・ポスト」の10数メートル先に米軍が迫り来ると、中川大佐は玉砕を決意します。

通信兵は最後の電文「サクラサクラ」を打電し、中川大佐は司令部地下壕内で自決を遂げました。

残存兵力55名はバンザイ突撃を敢行、全員玉砕し、日本軍の組織的な抵抗は終了しましたが、その後も遊撃戦を展開した部隊もあり、最後まで生き残った34名が
1947年に米軍に帰順しました。


日本軍に死者は1万人超、米軍は戦死者2336名、戦傷者8450名でした。

制海権、制空権を掌握し、豊富な弾薬と4倍もの兵力を有していた米軍でしたが、一人の日本兵を殺すために一人の米兵の死傷と1500発の弾薬を消費したことになります。

「長くて4日で済む」と言われたペリリュー島の攻略に、結局73日間も要したのです。

米軍の首脳は、「小さな島を攻略するのにこれだけの損害が出るのならば、日本本土に上陸する時はどれほどの死者が出るのであろうか」と考え、パラオの戦いは米軍の日本本土上陸を躊躇させる一因になりました。

中川大佐をはじめペリリュー島守備隊1万人が、日本本土を守る盾となって散ったのです。

米軍の指揮官であったニミッツ提督が提文したとされるペリリュー神社の石碑には、こう書かれてあります。

「旅人たちよ、この島を守るために日本人がいかに勇敢な愛国心を持って戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」