マリアナ沖海戦、サイパン島陥落によって既に大勢は決しており、東條内閣に変わる小磯内閣では、「どうやって戦争を続けるのか、終わらせるのか」という議論がなされました。
日本軍の戦力は限界に達してはいたものの、未だ占領地は広大であり、本土上陸も許していません。
ズルズルと敗戦を繰り返すよりも、ある程度戦力を集中させて次に起こる大きな会戦に勝利すれば、アメリカに対しできるだけ有利な条件で和平交渉をできるし、国民を納得させる事ができるだろうという「一撃講和」という考えが支持されるようになります。
この考えに基づいて大本営は新たな防衛計画「捷号作戦(しょうごうさくせん)」を策定し、まずはフィリピンを死守するべきだと決定しました。
日本にとって、フィリピンを奪われてしまうと、インドネシア などの南方資源の輸送が断たれてしまう事になってしまうのです。
一方アメリカ軍では、日本への侵攻ルートについて意見が別れていました。
フィリピンを攻めるのか、素通りするのかで混乱していた米軍の方針に収拾をつけたのは、終始フィリピン奪還に固執していたマッカーサーの執念でした。
そしてフィリピン侵攻のための足がかりとして、パラオのペリリュー島や、インドネシア東部のモロタイ島が攻撃される事になったです。
モロタイ島の日本軍守備隊はわずかに500名足らずでしたが、米軍は57000名もの大兵力を注ぎ込みます。
1944年9月15日から始まった米軍の攻撃に対し、圧倒的な兵力差の前に日本軍の抵抗もむなしく、10月はじめには島内の制圧はほぼ完了、フィリピン攻略のための拠点ができあがってしまいました。
フィリピン侵攻のための米軍の次なる狙いは、フィリピン沖での制空権を得る事です。
米軍は10月10日に沖縄大空襲、12日に台湾への大空襲を行いました。
台湾大空襲では、米軍は12日に述べ1370機、13日には述べ947機の航空戦力を投入し、これを迎撃しようと出撃した日本軍基地航空部隊との間で「台湾沖航空戦」が繰り広げられました。
10月14日、米軍は大破した重巡洋艦キャンベラを退避させますが、これを日本軍は「前日までの攻撃で米軍艦隊が戦力を喪失した」と誤認し、380機を出撃させて総攻撃を仕掛けます。
当然ながら強烈な対空砲火を浴びて返り討ちに遭い、244機が未帰還となりました。
日本軍は戦果を誤認したまま翌日以降も総攻撃を繰り返し、その度に損害が増えていくのでした。
最終的には「敵空母19隻、戦艦4隻を撃破した」というほどまで戦果の誤認は膨れ上がり、その知らせは日本国民を沸き立たせます。
10月19日に索敵機によって、空母7隻を含む米軍の機動部隊が発見された事により、海軍は戦果の誤認に気づいたのですが、海軍はその事を陸軍には知らせませんでした。
当時の日本軍のパイロットは総じて練度が低く、直撃せずに敵艦近くで爆発した魚雷の水柱を見て「撃破」と認定していたのです。
台湾沖航空戦での日本軍の損害は航空機300機以上、対する米軍は89機でした。
フィリピン侵攻への足がかりの拠点もでき、制空権も手に入れた米軍はいよいよフィリピン奪還へと動き出します。
日本陸軍は、当初はフィリピン北部の「ルソン島」に限局して迎撃決戦を行う予定でした。
しかし事実を知らされず台湾沖航空戦の戦果に浮足立っていた陸軍は、「レイテ島決戦」へと方針を転換し、レイテ島へ大増援部隊を送り込みます。
このためルソン島の兵力が不足し、それを補うために台湾の第10師団をルソン島へ移動させるのですが、これによって後に沖縄戦での兵力不足を招く事になってしまいました。
海軍の戦果報告に疑念を抱いていた陸軍大将・山下泰文は、制海権、制空権のない中でマニラからレイテ島までの730kmを移動するのは不可能だと主張しますが、陸軍上層部の南方軍総司令官、寺内寿一に叱責され、何も言えなくなってしまうのでした。
10月20日午前10時、ついに米軍はレイテ島へと上陸を開始します。
日本陸軍が目にしたのは、話に聞いていた「台湾沖航空戦での敗残部隊」などではなく、10万人以上の大部隊でした。
日本軍は米軍の上陸に対する水際での抵抗もそこそこに、ジャングルの奥へと退避し持久戦の構えを見せます。
そして日本海軍は、17日にレイテ湾に姿を現した米軍艦隊を殲滅すべく、総力を結集して連合艦隊をレイテ湾に向けて出撃させました。
連合艦隊、最後の決戦「レイテ沖海戦」のはじまりです。
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