2021年5月10日月曜日

大東亜戦争39 パラオ諸島の戦い②桜は誰の為に散る

 


ペリリュー島に上陸した最前線の米兵たちは、衣料品、食料、飲料水の不足に悩まされていました。

日本軍の激しい砲撃により多数のアムトラックが破壊され、物資の輸送ができなかったのです。

苦しい状況の中でも、夜になると米兵たちは日本軍の夜襲を警戒して神経をすり減らさなければなりません。

しかし日本軍はあえて夜襲を行わず、拡声器を使って罵詈雑言を浴びせたと言われています。

この挑発行為に対して米兵たちは罵り返し、冷静を保てなくなった隙に日本兵による陣地奪還など破壊工作が行われたそうです。



9月16日、戦闘も二日目になるとようやく米軍の前線にも水が届けられるようになりますが、届いたのは錆と油にまみれたドラム缶に入った水でした。

そのような過酷な状況の中でも、米軍海兵師団の上層部は現場に罵声を飛ばし、現状の打破を命じます。

海岸線付近の日本軍陣地は、おおかた米軍によって制圧されていましたが、「イシマツ陣地」はなおも頑強な抵抗を続けていました。


イシマツ陣地の後方には砲兵が陣取る山岳地帯があり、そこからの砲撃支援は米軍を手こずらせました。

しかし米軍も海上からの容赦ない艦砲射撃を行い、山岳地帯の砲兵陣地を沈黙させ、戦車10両を先頭にイシマツ陣地へ突撃を仕掛けました。

戦車を撃破する火力のないイシマツ陣地の日本兵たちはなす術を失いますが、連隊長の中島正中尉は爆薬を抱えて走り出し、先頭の戦車を破壊してしまいます。

この戦法に恐れおののいた米軍は戦車による突撃を中止、遠距離からの射撃を加えながらじわじわを接近する戦法をとりました。

その後、健闘するも、ついに持ちこたえられなくなったイシマツ陣地は撤退することになりましたが、負傷兵達が足手纏いになるのを避ける為に「殺してくれ」と戦友たちに頼んだため、生き残った日本兵たちは涙を流しながら壕の中に週榴弾を投げ入れ、撤退していきました。

イシマツ陣地は米兵たちから恐れられ「The Point」と呼ばれていたそうです。


こうして海岸線を完全に制圧した米軍は飛行場への攻略へと進みます。

しかし飛行場周辺は開けた平坦地であり、米兵たちは身を隠す場所がありません。

そしてこの飛行場を見下ろすことのできる「ブラッディノーズ・リッジ」と呼ばれる丘からは、容姿なく日本軍の砲撃が行われます。

この攻撃で米軍第一海兵連隊は先日と同じく500名の死傷者を出し、早くも損耗率は33%にも達しました。

しかし米軍は援軍の到着まで持ちこたえてなんとか飛行場を制圧することに成功します。

海岸線、飛行場を手中に収めた米軍は4日間で島の南部を制圧し、日本軍の死者は2609名にも達しました。

投降した日本兵も容赦なく撃ち殺され、捕虜は一人も出ませんでした。

島の南部と飛行場を奪われた状況を見て、ペリリュー島守備体調・中川州男大佐は持久戦術を展開します。

500以上もある山岳地帯の洞窟に身を隠し、少しでも長く生きて多くの敵を倒すのです。

これまで米兵たちが他の戦地で見てきた「バンザイ突撃」は行われませんでした。

洞窟を利用した陣地は内部で連結され、米軍は日本兵がどこから攻撃してくるのか全くわからなかったと言います。




米軍はその山岳地帯の一つ「ブラッディノーズ・リッジ」の攻略するためにM4中戦車を使って、洞窟を見つけ次第片っ端から砲撃を加えて潰していきました。

しかし戦車のハッチから身を乗り出して指示をする戦車将校はことごとく日本兵に狙撃され、31名中、無事だったのは8名しかいませんでした。

米軍はその後、島南部の掃討を終えた戦力を加えてブラッディノーズを攻撃します。

崖をよじ登ってくる米兵を銃剣で突き刺す者、米兵に洞窟から引き摺り出され崖から落とされる者、壮絶な近接戦闘が繰り広げられる中、米軍は少しずつ山岳地帯を攻略していきました。

一進一退の攻防を繰り広げ、戦闘の長期化が予想される中、日本軍の健闘を受けてペリリュー島へ増援が送られる事がきまりました。


9月22日、増援部隊の先遣隊215名は14名の死傷者を出しながらもペリリュー島に到着、ペリリュー島守備隊の本隊に合流します。

この報告に日本軍司令部は沸き立ち、続く23日にはさらに1000名の増援部隊を送り込みます。

しかし警戒を強めていた米軍の攻撃を受けてこの増援部隊は散り散りになり、指揮官である飯田義栄少佐が掌握可能な兵力は400名になってしまいました。

飯田少佐は、これ以上の増援は兵力を損耗するだけだと考え、その事をパラオ本島の司令部に伝えようとしました。

無線が失われていたため、泳ぎが達者な17名がパラオの司令部まで泳いで、生き残った4名により戦況報告書を届ける事ができたため、これ以上増援が送られる事はありませんでした。

飯田少佐たちは28日に本体と合流、飯田少佐と中川大佐は涙を流しながら手を取り合い喜び、兵たちの士気はあがりました。



健闘をつづける日本軍守備隊でしたが、占領された飛行場を米軍が運用し、航空機による攻撃を仕掛けてきます。

飛行場から飛び立った米軍の航空機はわずか15秒で反転し、ペリリュー島の日本兵に攻撃を開始するのです。

飯田少佐はこの飛行場を攻撃するために夜間切り込み部隊を結成します。

銃剣と手榴弾だけを持ち、音もなくアメリカ軍陣地を襲撃するこの戦法は効果的で、100名以上の死傷者が出た米軍はスピーカーで
「日本兵の皆さん、夜間の切り込みはやめてください、我々も艦砲射撃と爆撃を中止します」と放送するほどでした。



ペリリュー島中部の山岳地帯には5つの低い尾根が連なっており、米軍はこれを「ファイブ・シスターズ」と呼んでいます。

ここには地形を利用した日本軍陣地が張り巡らされており、米軍にとって過酷な戦闘が繰り広げられていました。

米軍海兵第一連隊のC中隊が、日本軍との死闘の末に残存兵力がわずか9名になってしまい、撤退を余儀なくされるほどの壮絶な戦場でした。

第一海兵連隊は3000名の定員のうち1749名が死傷し壊滅、米軍史上最も損害を受けた連隊になりました。

他にも第5、7連隊の損害も大きく、第一海兵師団全体の死傷者が4000名近くにも達したため、第一海兵師団は撤退する事になり、代わりに第81師団が投入されることになります。


米軍最強の一個師団を壊滅させるほど頑強な抵抗を続けてきた日本軍でしたが、10月になると、ペリリュー島の山岳地帯以外の地域はほとんど米軍に制圧されており、「ファイブシスターズ包囲戦」の様相を呈していました。

日本軍の狙撃は正確であり、さらに音もなく忍び寄る夜襲に米兵たちは震えあがりましたが、この頃になると日本軍にも限界がきており、弾薬不足からか銃撃も散発的なものになってきていました。

日本軍はこの時点で既に9000名が戦死しており、水源地を奪われ水不足が深刻化していたのです。

水を求めて水源地に現れた日本人は悉く射殺され、その数は100名を越えました。

日本軍陣地は火炎放射器によって遠距離から焼き尽くされ、日本軍守備隊は遂に追い詰められてしまいます。

11月24日、弾薬がほとんど底をつき、守備隊司令部「ラスト・コマンド・ポスト」の10数メートル先に米軍が迫り来ると、中川大佐は玉砕を決意します。

通信兵は最後の電文「サクラサクラ」を打電し、中川大佐は司令部地下壕内で自決を遂げました。

残存兵力55名はバンザイ突撃を敢行、全員玉砕し、日本軍の組織的な抵抗は終了しましたが、その後も遊撃戦を展開した部隊もあり、最後まで生き残った34名が
1947年に米軍に帰順しました。


日本軍に死者は1万人超、米軍は戦死者2336名、戦傷者8450名でした。

制海権、制空権を掌握し、豊富な弾薬と4倍もの兵力を有していた米軍でしたが、一人の日本兵を殺すために一人の米兵の死傷と1500発の弾薬を消費したことになります。

「長くて4日で済む」と言われたペリリュー島の攻略に、結局73日間も要したのです。

米軍の首脳は、「小さな島を攻略するのにこれだけの損害が出るのならば、日本本土に上陸する時はどれほどの死者が出るのであろうか」と考え、パラオの戦いは米軍の日本本土上陸を躊躇させる一因になりました。

中川大佐をはじめペリリュー島守備隊1万人が、日本本土を守る盾となって散ったのです。

米軍の指揮官であったニミッツ提督が提文したとされるペリリュー神社の石碑には、こう書かれてあります。

「旅人たちよ、この島を守るために日本人がいかに勇敢な愛国心を持って戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」








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