2021年4月10日土曜日

大東亜戦争38 パラオ諸島の戦い① 兄弟の島

         

パラオ諸島は、西カロリン諸島に属し、マリアナ諸島の南方に位置しています。



パラオには4000年前には人が住んでいたと推測されていますが、16世紀にもなると、ヨーロッパからも人が訪れるようになり、1885年にはスペイン領に組み込まれてしまいます。

15年続いたスペインによる統治期間に、ヨーロッパから持ち込まれた天然痘と搾取のせいでパラオの人口は90%減少したとも言われています。

スペイン人に改宗させられたこの頃の名残として、今でもパラオの半分以上がキリスト教徒です。

1899年、国力の衰退していたスペインはパラオをドイツに売却します。

ドイツはパラオにココナッツなどの農作物の栽培、鉱石採掘などの産業を興しますが、その利益は一握りのドイツ人が独占し、道路、水道などのインフラ整備や、現地人への教育などはほとんど行いませんでした。

その証拠に、パラオにはドイツ統治時代の遺構はほとんど存在していません。


第一次世界大戦後、ドイツが敗北し、日本が戦勝国となった事で、パラオは日本の委任統治となります。

パラオには多くの日本人が移住し、パラオ先住民よりも日本人の方が4倍も多いほどになりました。

日本はパラオ先住民に対し平等な扱いをする事に努め、道路、橋、電気、病院などのインフラ整備や、貨幣経済の確立などを行います。

子供達には日本語による教育も行われ、島民達の間では「ヤキュウ」が流行りました。

冒頭の野球チームの画像は1926年頃の「パラオ・オールスターチーム」です。



さらにパイナップルやサトウキビ、野菜などの農業を持ち込み、マグロやカツオの缶詰工場などを設立して雇用を生み出しました。

今でも日本が建てたパイナップル缶詰工場の看板や跡地が残っています。


しかし日本が国際連盟から脱退した後は、パラオは軍事拠点とされ、海軍の施設ができたり、ペリリュー島に飛行場が建設されたりしました。

大東亜戦争開戦後は、パラオはソロモン諸島やニューギニアへの中継地点としてのみならず、マリアナ諸島の後方支援基地としても戦略的価値が上昇し、また、アメリカにとっても「フィリピン奪還」に向けての重要拠点となるのでした。

つまり、パラオがいずれ戦火に飲み込まれるのは日の目を見るより明らかだったのです。

1944年4月、日本は関東軍最強と謳われていた第14師団(照兵団)をパラオに送り込みます。


これまでの日本軍の島嶼防衛は、海岸線に砲台などの水際陣地を構築し、上陸しようとする敵軍の船艇に砲撃を加え、敵兵が上陸してきたら歩兵の突撃で撃退するという「水際作戦」が採用されてきました。

しかしこれに対して米軍は、上陸前に徹底して艦砲射撃、空爆を行い、上陸地点付近の防衛設備を壊滅させる戦法をとりました。

絶対国防圏であったマリアナ諸島が早期に陥落してしまったのは、水際作戦が原因であったと考えた大本営は、サイパンからの情報を元に戦訓を全軍に通知します。

そしてこれ以降の日本軍の島嶼防衛は、「1日でも長く戦い続ける」地獄の内陸持久作戦へと変化していきます。

そしてペリリュー島では、500近い数があるサンゴ礁の洞窟を坑道で結び、要塞化する工事が行われました。


陣地構築に関わったペリリューの島民達は、日本兵達と意気投合し「自分たちも戦わせてほしい」との申し出をしますが、ペリリュー島守備隊長・中川州男大佐はこれを退けて全島民を避難させます。

日本軍の戦力は、3000名の軍属労働者を入れても1万900名、目前に迫る米軍は5万以上です。

少しでも戦力を増やしたい状況でしたが、この中川大佐の判断によって、ペリリュー島の島民の戦闘による犠牲者は一人もでませんでした。

25年間の統治期間を経て、パラオの人々は、日本人にとってもかけがえのない存在になっていたのでしょう。

パラオの第7代、第9代大統領トニー・レメンゲサウは、2015年に「日本とパラオは兄弟関係、日本が兄で、パラオが弟です」と語っています。


パラオに迫る米軍の主力は、最強と呼ばれた「第一海兵師団」です。

第一海兵師団長のウィリアム・リュターパス少将は「こんな小さな島、2、3日で片付く」と豪語します。

米軍は爆撃機、艦載機などによる空爆を入念に行い、9月12日からは6894トンにも及ぶ艦砲射撃を3日間に渡りペリリュー島に浴びせました。


ペリリュー島は、目に見える範囲は全て吹き飛ばされ、地上の防御施設は全て消滅しました。

しかしこれらの防御施設はダミーであり、洞窟にひそむ日本軍の主力陣地はほとんど無傷でした。

9月15日、さらなる艦砲射撃と50機の艦載機による爆撃が行われ、遂に上陸作戦が開始されます。


4500名の第一波を皮切りに、12000名が上陸地点の海岸に殺到します。

中川大佐は徹底的に海岸線に米軍を引きつけ、米軍が100mにまで接近した時に射撃命令を下します。

日本軍による「スコールのような」砲撃が収まると、砂浜にいた米兵はほとんどが死傷していました。


上陸部隊の第一波は煙幕をたいて一時退却しますが、その1時間後には第二波が再び上陸を試みます。

日本軍は再び砲弾の雨を降らせ、上陸用の、水陸両用トラクター「アムトラック」を初日だけで60両も破壊しました。

通信兵の乗ったアムトラックも撃破されてしまい、第一海兵師団は8時間にわたって戦況を把握する事ができない状況に陥ってしまいます。

さらにM4中戦車も3両が破壊され、この時の有様は「太平洋戦争で最も激しく、最も混乱した戦闘」と後に評されました。


米軍に与えられた安全地帯は、皮肉にも日本軍張り巡らせた「対戦車壕」でした。

対戦車壕に身を隠し態勢を整えていた米軍に対し、日本軍は激しい砲撃を加えます。

身を隠す場所を失った米兵達は無我夢中で島内に突進するしかなくなり、陣地を守る日本兵との激しい白兵戦が繰り広げられました。

この時点ですでに米軍の死傷者は400名に達し、すぐにでも予備兵力の投入が必要な状況でしたが、指揮系統の乱れた第一海兵師団は孤立した状態での戦闘を強いられ続けます。

ここで中川大佐は満を持して95式軽戦車部隊による突撃を行いました。

猛訓練により「百発百中」の精度を誇る戦車隊の攻撃は、待ち構えていた米軍のM4中戦車に命中弾を浴びせ続けますが、装甲の固いM4中戦車には全くダメージを与えることができず、逆に次々と返り討ちにあってしまいます。

出撃した16両のうち、海岸にまでたどりつけたのはわずか6両のみ、その6両も集中攻撃を受けて、生き残った2両を除いて全て破壊されてしまいました。

この戦車戦の米軍の損害は、M4中戦車の履帯が一本切れただけ、というものに終わりました。


初日の米軍の損害は1111名、これは予想していた数の倍以上にも達しました。

この後、日本兵も米兵も、ペリリュー島を巡る70日間に渡る戦いで地獄を見ることになるのでした。


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