グアム島はそもそもアメリカ領でしたが、1941年12月10日、開戦早々に日本軍に占領されていました。
米軍は、サイパン島に次ぐ重要拠点として、グアム島にも上陸作戦を決行することにします。
7月8〜20日までの間、米軍は事前攻撃としてグアム島に28000発の艦砲射撃を加え、さらに航空機で1300トンの爆弾を投下しました。
この事前砲撃は日本軍の予想をはるかに超えた規模で、海岸線の陣地や砲台の多くが破壊されてしまいました。
7月21日7時、さらなる艦砲射撃と空爆のもと、米軍の上陸部隊がアサン海岸に殺到します。
日本軍守備隊はこれに対し山砲、速射砲で攻撃を加えますが、圧倒的な火力の差を前に沈黙するしかありませんでした。
しかしそれでも、島内に進出しようとする米軍に対し、砂浜から200mの位置にある小高い山から日本軍は猛反撃を仕掛けます。
米軍は進軍するどころか撤退を余儀なくされ、多くの死傷者が取り残されました。
日本軍はその後も夜襲などを仕掛けて一進一退の攻防を繰り広げますが、橋頭堡の壊滅までには至りませんでした。
アサン海岸からオロテ岬を挟んで南方に位置するアガット湾にも、米軍上陸部隊が接近します。
この地を守る日本軍守備隊1000名は、十数隻の上陸用船艇を破壊しますが、艦砲射撃を浴びて壊滅しました。
残存兵力による夜襲も実行されましたが、米軍は常に照明弾を打ち上げて警戒を怠ってはいませんでした。
日本軍はそれでも強引に夜襲を仕掛け、軽戦車5両を先頭に米軍陣地に突撃します。
戦車は集中砲火を浴びて全滅しますが、第一線、第二線と陣地を突き破り、日本軍は遂に米軍上陸地点まで突き進むことに成功しましたが、反撃はそこまででした。
日本軍の攻撃は米軍に多くの死傷者を出し、損害を与えたものの、結局最後は米軍の圧倒的な火力に晒されるだけでした。
米軍は26日にマンガン山の日本軍に攻撃を仕掛け、壊滅します。
日本軍はもはや組織的な戦闘ができる状態ではありませんでしたが、8月まで粘り強く戦いました。
8月11日、司令官小畑中将の決断により、日本軍残存兵力300名による最後の総攻撃が行われます。
10両の戦車は忽ちにして全滅し、ほとんど武器を持たない日本兵は銃剣による突撃を行いましたが全滅、日本軍の抵抗は終わりました。
日本軍の戦死者は18500人、米軍は2124人でした。
日本軍が設営していた飛行場は米軍が使用し、日本本土への爆撃拠点とされました。
また、グアムにはチャモロ人という先住民がいましたが、アメリカの領地だったという事もあり親米派が多くいました。
日本軍占領下において、アメリカによってキリスト教に改宗させられていたチャモロ人は宗教の自由と住居を与えられ、日本語による教育が行われたりしましたが、戦局の悪化にしたがって生活は困窮していき、対日感情は悪化してしまいました。
日米の戦闘が始まると、チャモロ人達はグアム島南東部の収容所に移動させられましたが、これが結果的に激戦地区から隔離する事になり、多くのチャモロ人たちの命を守りました。
しかしその中で、スパイ容疑をかけられたチャモロ人が日本兵によって殺されるなどの事件も発生したようです。
サイパン、グアムに次いで三番目に標的となっていたのは「テニアン島」です。
ここには南洋諸島最大の飛行場「ハゴイ飛行場」がありました。
1944年7月24日、米軍は上陸用船艇100隻以上をテニアン島に向かわせますが、日本軍の砲撃によって撤退を余儀なくされ、さらに戦艦コロラドも命中弾を浴びるなどの損害を受けました。
しかしこれは米軍による陽動作戦であり、本隊は島の真逆のチューロ海岸から上陸を行いました。
日本軍は夜襲を仕掛けて反撃に出ますが、8月3日には組織的な抵抗が終了します。
日本軍の戦死者は8100名にものぼりました。
米軍に占領されたハゴイ飛行場からは、原爆を乗せたB-29が広島、長崎へ向かって発進しています。
テニアン島は、日本を破滅させる拠点「原爆の島」になってしまいました。
今でも「原爆搭載地点」は保存されています。
0 件のコメント:
コメントを投稿