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2019年6月7日金曜日

第一次世界大戦8 虚構の平和

第一次世界大戦は「塹壕戦」の様相を呈した事により泥沼化し、予想以上に長期化していました。
膠着する戦局に大きな変化をもたらしたのは、1917年に起きた「アメリカの参戦」と「ロシア革命」です。
あらゆる人員、物資をつぎ込む「国家総力戦」を展開したドイツでは、戦局の悪化に伴い軍部への反発や厭戦ムードが高まり、デモやストライキが頻発するようになります。
革命が起こったロシアがいち早く戦争から抜け出したした事も、そのような運動に大きく拍車をかけました。
ドイツの敗戦が濃厚になってくる中、1918年10月、ドイツ艦隊はイギリス艦隊へ最後の決戦を挑む事を決意します。
しかしこの「自殺行為」とも言える作戦にドイツ軍の兵士たちは反発し、1000名の水兵が出撃を拒みました。
ドイツ軍は作戦中止の原因となったこれらの兵士たちを逮捕し、「キール軍港」へと送り込みます。
仲間の釈放を訴える水兵たちはデモを起こし、労働者や兵士達の評議会「レーテ」が結成されました。
これはロシア革命でいう「ソヴィエト」と同義のものであります。
レーテの蜂起により広がった反乱はドイツ西部の都市を支配下におき、皇帝の退位を求める運動が広がります。
革命の鎮圧が不可能だと察したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命してドイツ帝国は崩壊、「ワイマール共和国」が誕生しました。
レーテ蜂起
この時期、ブルガリア、オスマン帝国、オーストリアなど同盟国側の国が次々と停戦協定を結んでおり、ドイツも11月11日に停戦協定を結ぶことになります。
こうして、両軍合わせて戦死者1000万人という悲惨な世界大戦は終息に向かいました。
ドイツ、ロシア、オーストリア、オスマンなど4つの帝国が崩壊したこの世界大戦は、かつて述懐したように彼ら自身が招いた「帝国主義の末路」だと言えます。
そして1919年1月、第一次世界大戦の講和会議がフランスで開かれました。(パリ講和会議)
ここでアメリカ大統領の「ウッドロウ・ウィルソン」は「十四カ条の平和原則」を提唱します。
これは「秘密外交の廃止」「海洋航海の自由」「民族自決」など、画期的で平和的な解決法として賞賛されました。
しかしその実態は「平和」という言葉を盾にしたウィルソンの野心の塊だったのです。
ウッドロウ・ウィルソン
民族の運命はその民族自らが決定するという「民族自決」の考えは、ヨーロッパ小国の独立を促した一面もありながら、少数民族の政治的運命を「国家」から切り離して民族自身に委ねようという、共産主義思想にありがちな「国家転覆」の意図も含んでいました。
後に支那で「五四運動」が活発に起こりますが、これは中華思想に基づいた日本民族への反発からくるものであり、「民族自決」の精神が大いに影響しています。
また、「民族自決はヨーロッパ内でのみ適用される」という詭弁によってアジアやアフリカの植民地の有色人種の自由は無視され、英米は植民地利権を変わらず貪り続けました。
現在の日本においても、アイヌなど「民族自決」による「国家分断戦略」が政治的な問題になっていますが、根本はここからきているのです。
実は「14カ条の平和原則」は、ロシアで共産主義革命を実現したボリシェビキが掲げた「平和に関する布告」という対外政策がモデルになっています。
ウィルソンは「平和に関する布告」を「世界に貴重な原則を示した」と絶賛していたのです。
ボリシェビキを支持するウィルソンは、平和原則の中に「ロシアへの不介入」を原則に盛り込見ました。
その為、打倒ボリシェビキの為にシベリアへ出兵し続けていた日本は一気に悪役に仕立て上げられて国際世論の非難を浴びてしまいます。
ウッドロウ・ウィルソンは第一次世界大戦後の「戦後秩序」に「共産主義」を混ぜ込んだのです。
その結果、世界は混沌とし、日本はその濁流の中でもがく事になっていくのでした。
さて、6月にはパリ講和会議に基づいた「ヴェルサイユ条約」が締結されます。
ウィルソンが「平和的解決」なんて言うものだから、ドイツはすっかり期待してしまっていましたが、ガッツリと賠償金を取られ、軍備を削減され、領土の10%と全ての植民地を失いました。
ドイツが賠償金を払い終えたのは、なんと2010年の事になります。
民族自決によってヨーロッパの小国が独立した事は先述いたしましたが、その独立はヴェルサイユ条約によって保証される事になります。
しかし結局はそれも戦勝国の思惑であり、ドイツやソヴィエトの国境付近に小国を林立させて「緩衝国」としての役割を果たさせるためのものでした。
このような、ヴェルサイユ条約で確定された第一次世界大戦の戦後秩序を「ヴェルサイユ体制」と呼びます。

そしてそのヴェルサイユ体制を国際的に維持するために作られたのが「国際連盟」です。
国際連盟を作るための委員会がパリ講和会議中に開かれた時、その中で日本は「人種差別撤廃案」を提案します。
当時、アメリカやカナダで日本人移民に対する排日運動が起こっていたからです。
日本の提案は二度に及びます。
一度めは連盟規約の「宗教に関する規定」の最後に「人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」と言う条文を追加するように提案したものですが、結局「宗教に関する規定」そのものが削除されてしまいました。
しかしこの日本の提案は海外でも報道され、全権大使としてこの提案をした「牧野伸顕」の元に、各国から感謝の声が届きました。
牧野伸顕
世界で初めて「人種差別の撤廃」を国際的に訴えたのは、日本だったのです。
牧野大使は1度目の失敗にめげず、続いて日本連盟規約の前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」と言う一文を加えるように提案しました。
ウィルソンはその提案を取り下げるように勧告しますが、牧野大使は投票による採決を要求し、各国の代表による投票が行われました。
16名の投票者のうち「11人」が賛成票を投じたにもかかわらず、ウィルソンは「全会一致じゃないからダメ〜」と宣言し、不成立にしてしまいます。
ウィルソンの頭の中では、「民族自決」の実現には「人種差別の撤廃」は必要ないようです。
「国際連盟」はそもそもウィルソンの提案により作られたものなのですが、アメリカ議会は「孤立主義」を重んじ、国際連盟加盟に反対しました。
その結果、国際連盟は提唱者のアメリカが不参加というなんともチグハグな組織となってしまうのでした。
紛争解決能力のない国際連盟に幻想を抱き、民衆は戦争が終わった平和を盲目的に謳歌し、第二次世界大戦が忍び足で近づいてくる事に気づきもしませんでした。
そしてその足音はすぐに日本にも届くようになります。

第一次世界大戦7 シベリアで日本は何をしたのか、されたのか


第一次世界大戦は、ロシア・イギリス・フランスからなる協商国と、ドイツ・オーストリア・イタリアの同盟国との戦いでした。注(イタリアは最初の1年間HA参戦せず傍観、1年後にドイツとオーストリアを裏切り、協商国側に立って戦いました。)

しかし大戦中にロシアで革命が起こり、300年続いたロマノフ朝が滅んで共産主義国家「ソヴィエト共和国」が誕生します。
そしてソヴィエト共和國はなんと、ドイツとの間に「ブレスト=リトフスク条約」を締結して、いきなり第一次世界大戦をやめてしまいました。
ロシアが大戦から離脱した事で、東西に戦力を分散させていたドイツは西方へ集中できるようになってしまい、イギリス・フランスにしてみれば迷惑な話であります。
しかもソヴィエト共和國はロシア帝政時代の借金をチャラにしようとしたため、諸外国はロシア国内の様々な外資を保全する必要が出て来ました。
特にフランスは、露亜銀行の四分の三の資本を所有していたので必死です。
共産主義革命だからと言って、勝手に国有化されてはたまったものではありません。
しかも、共産主義思想の究極は「無政府社会」に行き着く事になるので、自国内に共産主義が蔓延する事は、国家の転覆、国の滅亡につながるのです。
列強各国は、軍事面、経済面、内政面などあらゆる面において「ソヴィエト共和国」を脅威として捉え、なんとかしてソヴィエト共和国に軍事介入をしようと目論むようになりました。
ソヴィエト共和国の共産主義政権「ボリシェビキ」は、「戦争の停止」という国民との約束を果たしはしたものの、そのために結んだブレスト=リトフスク条約はあまりにも過酷な内容となってしまいました。
これが原因で、ボリシェビキと、条約締結に反発する反ボリシェビキ勢力との間での内戦が激化します。
ロシア革命を起こしたボリシェビキの軍隊は、革命旗にも使われていたシンボルカラーから「赤軍」を名乗りました。
これに対抗するロシアの右派や君主主義者などは「白軍」と呼ばれましたが、白軍は複数の勢力が別個に組織されており、連携を取ることはありませんでした。
列強各国は共産主義の浸潤を阻止すべく「白軍」を支援しようと目論みます。
そんな列強各国には、ロシア内戦に介入するための口実がありました。
「チェコ軍団の救出」です。
当時、「チェコ」「スロバキア」はオーストリアの属領であり、第一次世界大戦は同盟国側として参戦していましたが、チェコ人とスロバキア人は「むしろ同盟国が負けたら、俺たち独立できるんじゃない?」と考えており、本来なら東進してロシア軍と戦うべきところを、連合国側について西進し、ドイツ軍やオーストリア軍と戦いました。
しかしロシアがドイツを講和を結んでしまったため、東部戦線は休戦状態となり、チェコ軍団はやる事がなくなってしまいます。
ロシアの新政府ボリシェビキはチェコ軍団に武装解除を要求しますが、チェコ軍団はこれに反抗してボリシェビキと戦闘を始めたのです。
「シベリアで孤立するチェコ軍団を救出する」という大義名分のもと、イギリス、フランス、アメリカ、カナダ、イタリア、中華民国、そして日本はシベリアに出兵しました。
その戦力は
日本軍  73000人
アメリカ  7950人
イタリア  2400人
イギリス  1500人
カナダ   4192人
フランス   200人
中華民国  2000人
です。

日本の派兵数が抜きん出ているため、「日本は大陸を侵略する気だったんだな」なんて言われたりしていますが、そもそも日本にしつこく「派兵しろ」と再三迫ってきたのはイギリスとフランスです。
そこへアメリカが共同出兵を持ちかけてようやく日本の派兵が実現したのです。
確かに日本にも領土的野心や、権益確保の下心が全くなかったとは言えませんが、他の列強国もそれは同じ事が言えるのでした。
「ロシア内戦の白軍勢力を応援する」とは言っても、英仏は第一次世界大戦の西部戦線で手一杯で、シベリアへ大兵力を派遣する余裕などありませんでした。
そこで、必然的に日本とアメリカがシベリア出兵の主力になるわけです。
日本からしてみればシベリアは国境を接するお隣さんです。
ソヴィエト共和国が力をつけて日本に共産主義が蔓延する事は、日本にとって死活問題でした。
シベリアを安定化させることが日本にとってどれほど重大なことだったのかを理解せねばなりません。
現在で言えば、「イスラム国」が朝鮮半島まで占領しちゃったような、そんな危機感があったのだと思います。

日本は海外へ派兵する以上、何らかの利権を得なければ国民の納得を得られません。
勝利していながら賠償金が得られず、暴動まで発生してしまった「日露戦争」が記憶に新しかった事でしょう。
日本はシベリアへ多大な経済援助を行い、現地住民との友好関係を築き、利権を開発しようと考えました。
「成人男性2万人が一年間生活するのに必要なカロリー」を賄えるほどの食糧を支援し、医療面では120万人以上を診察して7万人分のコレラの予防注射液を供与しました。
このような日本軍の行いに少なからず好感を持つ現地民はいたはずですが、全体的に現地民の反応は芳しくありませんでした。
日露戦争で敵国であったというイメージはまだ薄れておらず、さらにボリシェビキはそれを利用して反日感情を煽っていたのです。
そもそも「シベリア」はウラル山脈以東の極寒の地で、元々はロシア帝国時代の「流刑地」でした。

しかしロシア革命の時に刑務所の囚人は解放され、共産主義者たちから武器などの支援を受けて非正規の武装ゲリラ集団「パルチザン」を形成していました。
「無法地帯」とも言えるシベリアに来た日本軍は、このパルチザンの便衣戦術に苦労する事になります。
どこで誰が襲ってくるのかわからない戦場では、暴徒と良民を区別する事は不可能です。
日本軍にできる事は、民間人の巻き添えも覚悟の上で村ごと焼き払う事でした。
その中でイワノフカ村の数百名の住民が日本軍や白軍兵士に銃殺、焼殺されてしまう「イワノフカ事件」という惨劇が起こってしまいました。
「居留民保護のため」「共産主義を食い止めるため」どのような大義名分を掲げても、シベリアに進出してきた他国の軍隊の姿は、現地の民衆の目には「侵略者」として映ってしまった事でしょう。
シベリア出兵の主力を任された日本軍は、列強各国にしてみれば、言わば都合の良い「汚れ役」だったのです。
イワノフカ事件の慰霊碑
やがて1919年頃になると、ロシア内戦は「赤軍優勢」で大勢を決しており、列強各国のシベリア派兵の意味も薄れていきました。
赤軍に殺されたチェコ軍団

イギリスやフランスなど各国の軍隊はさっさとシベリアから引き上げてしまい、今度はシベリアに駐留し続ける日本を非難し始めました。
日本は「梯子を外された」状態になり、完全に悪役に仕立て上げられてしまったのです。

そんな中、シベリアに駐留する日本人に悲劇が襲います。
「尼港事件」です。
広大なシベリアに唯一残った日本軍は、戦力を分散させて駐留し、白軍を支援し続けました。
その中で、ニコライフスク(尼港)にはわずか260名の日本軍が駐屯します。
ここには
日本人居留民   700名(二個中隊260名含む)
白軍ロシア兵 15000名
支那人     1000名
朝鮮人      500名
が住んでいました。

ニコライフスクには日本企業の「島田商会」が1890年代から進出しており、ロシア革命による経済混乱期には、島田商会の小切手が紙幣がわりに使用されるほどの信頼を築いていました。

そんなニコライフスクを、1920年1月29日、4000名の赤軍パルチザンが包囲します。
すでに三ヶ月前から電線はパルチザンによって切断されており、外部との交信は無線に頼るしかない状態であった日本軍は完全に孤立しました。
パルチザン達は、町の引き渡しを要求し、受け入れられなければ「砲撃して街を破壊する」と脅します。
日本軍は平和と治安の維持を条件に、パルチザン達を街へ受け入れました。
しかし2月28日、パルチザン達は白軍の将兵や町の富裕層、聖職者などの知識層を、女子供の区別なく400名を投獄し、その多くを拷問の末に処刑してしまいます。
パルチザンの主要メンバー

さらに個人宅に押し入って強盗も働いたため、日本軍はパルチザンに抗議しましたが、逆に日本軍は「武装解除」を要求されてしまいました。その期限は3月12日までです。もし武装解除をしたら、パルチザンが牙を剥くのは明らかでした。
しかし救援を頼もうにも海路は凍結しており、陸路からの救援は40日かかります。
日本軍は、座して死を待つよりも戦って死ぬことを選びました。
3月12日未明、水上大尉率いる90名の日本軍がニコライフスクに居座る赤軍本部を襲撃します。
石川陸軍少佐は60名を率いて監獄を襲い、投獄されていたロシア白軍兵士や市民を救おうとしました。
しかし数で劣る日本軍は半数の兵を失い、二日間に渡って市街戦を繰り広げます。日本兵は家屋に立てこもって凄惨な戦いを続けました。
3月13日、なぜか支那軍の砲艦が日本軍の兵舎を砲撃し、多くの日本兵が戦死します。
それでも生き残った20名の日本兵は日本領事館を目指しました。
軍人以外の日本人居留民もまた、日本領事館を目指しましたが、たどり着いたのは250名のみでした。
逃げ切れなかった者はパルチザンに捕まり、子供は壁に叩きつけられ、女は犯されて殺されてしまったのです。

3月14日早朝、パルチザンは日本領事館を包囲すると火を放ち、支那軍から借りた艦載砲とガトリング砲で攻撃しました。
これによって、領事館にいた日本人は全員死亡しました。

ニコライフスクで生き残っている日本人は、兵営にいた80名の日本兵と、兵営に逃げ込んできた民間人13名、陸軍病院に26名のみとなりました。
3月18日、残った全ての日本人は衣服を奪われ監獄へ入れられます。
そして4月になると、ニコライフスクには「雪解けと共に日本軍の救援が来る」との噂が広がった為、
パルチザンは監禁していた日本人に土嚢を運ばせ、防御陣地を構築させました。
そして5月24日、ニコライフスクで監禁されていた日本人全員が虐殺されました。
6月3日、日本の救援部隊がたどり着いた時には、既に街は焦土と化し、遺体が散乱していたと言われています。

監獄の壁に書かれた文字
大正九年五月24日12時 忘るな
最終的にパルチザン達は町の人口の半分に当たる6000名を殺害し、首謀者のトリャピーツィン達は裁判にかけられて処刑されました。(日本人に対する虐殺は罪になっていません)
この凄惨な「尼港事件」の詳細が明らかになると、日本国内では政府批判が沸き起こり、その矛先はシベリア出兵そのものにも向けられました。
しかし同時に「共産主義者の残虐性」も明らかになったわけで、日本軍としては余計にシベリアの共産主義者を排除せねばならない事態に追い込まれました。
結局、第一次世界大戦が終わった後も日本軍はシベリアに駐留しましたが、事態は一向に好転する事なく、1922年に撤兵が決まりました。
何一つ国益にならなかったシベリア出兵でしたが、明るいニュースがなかったわけではありません。
「ポーランド」という国は、ドイツやオーストリア、ロシアなどの強国に囲まれていたため、しばしば国土を分割され、国家が消滅してしまう事がありました。
もちろんポーランドの人々の中には、分割されて国を失っても、独立のために活動をする者が多くいました。
しかしロシア領内ではそのような活動家は逮捕され次々にシベリアへ流刑された為、シベリアには15万人ものポーランド人が住んでいたのです。
彼らは飢えと寒さに苦しみ、親は少ない食料を子供に与えて息を引き取り、子供はそんな親に泣きながらすがって死んで行きました。
その悲惨な状況を、シベリアにいた日本兵は目の当たりにしていたのです。
ウラジボストーク在住のポーランド人達は「ポーランド救済委員会」を立ち上げますが、欧米諸国は救済の依頼をことごとく断りました。
救済委員会が最後にすがりついたのは日本です。
日本は救済要請からわずか17日後にポーランド孤児の救出を決定します。
そして700名以上の孤児達が日本へ来る事になりました。
弱り切った子供達はみるみるうちに元気を取り戻し、第一次世界大戦が終わって独立する事ができた祖国ポーランドへと帰国して行きました。
ポーランドの子供達

この時の孤児達はいつの日かまた日本に行くために少しずつ積み立てをし、そのお金で1995年に起きた阪神淡路大震災の被災児童達をポーランドへ招待してくれたのです。
他にも、内戦により親と離れ離れになった800名のロシアの子供達を、機雷をくぐり抜けて命がけで親元へ帰してあげた「陽明丸」など、極寒の地で奮闘した彼ら日本人の人道的な行いは、現在も私たちの「民族の誇り」として気高く輝いています。
陽明丸に乗ったロシアの子供達

第一次世界大戦6 ロシア革命

第一次世界大戦中に起こったロシア革命によって共産主義国家が誕生し、世界中を混乱に陥れる事になるのですが、今回はその過程を書いてみたいと思います。
日本でも「格差社会」という言葉を耳にするようになって久しいですが、そもそも「貧富の差」なんてものは大昔から存在しているものであります。
一目でわかる「貧富の差」
封建社会において、ほんの一握りの支配者層を除くほとんどの人間が貧困層であったため、民衆の間には「貧しいのが当たり前」と受け止められていたように思えます。
しかし18世紀後半に「産業革命」が起こると、貴族などの「支配階級」とそれ以外の「労働者階級」の他に、第三身分である「中産階級(ブルジョワジー)」が現れました。
同じ「支配される側」の人間なのに、資産を持つ「中産階級」が、生産手段を持たない「賃金労働者(プロレタリアート)」から搾取するという構図が浮き彫りになると、人々は「貧富の差」を強く意識するようになります。
まさに「搾取」
こうした状況で、「格差」と「独占」を生み出す資本主義社会に異を唱えたのがドイツ出身の「カール・マルクス」でした。
マルクスは、個人の「資本」を社会の共有財産に変える事で富の集中を防ぎ、さらに均等に分配する事で階級のない平等社会を目指そうとしました。
マルクスのこの考え方は「共産主義」と呼ばれるようになります。
カール・マルクス
この考えは貧困にあえぐ当時の労働者達の間に受け入れられ、熱烈に支持されていきました。
しかし実は、マルクスの正体は現代で言うところの「ニート」でした。
マルクスの考えの根拠は「あんまり働きたくないなぁ」という思想からくるものであります。(個人の感想)
資本主義を否定しておきながら、資本家の息子の「フリードリヒ・エンゲルス」を金づるにしており、さらに父親が嘆くほどの浪費家でパーティ三昧。
挙句の果てにはメイドに手を出してフレディという名の子供を作り、認知もせずにエンゲルスに押し付けました。
周囲は「フレディはエンゲルスの子供」だと思い込んでいたようで、結局フレディは誰にも認知されずに里子に出され、工場で働きながら本当の父親を知ることもなく人生を終えてしまいました。
フリードリヒ・エンゲルス
さて、マルクス個人に対する悪口で話が逸れてしまいましたが、彼の思想に決定的に欠落していたのは「資本家の努力」です。
資本家達は常にリスクを背負い、会社経営などの重要な役割を担って利益を出し、それを労働者達に分配しているのです。
それを考慮せずに「労働者から搾取する事で、資本家達は楽に儲けている」というマルクスの主張に囚われ、「資本家達を追い出そう」という労働者達の考えは暴走していきます。
ところで、共産主義のような「身分階級のない、平等な世界」という理想は、1516年にトマス・モアの著書「ユートピア」から影響を受けたものであります。
「ユートピア」とは、「実現や到達が不可能な夢や願望」を意味しており、トマス・モアの作中では「どこにも存在しない、貧富の差のない理想郷」として登場します。
日本で言うなれば「極楽浄土」のようなものでしょうか?
ユートピア
キーテジ
ロシアにはこのユートピアを信仰する土壌が整っていました。
言葉は違えども、ロシア正教にも古くから「キーテジ」と呼ばれる理想郷があったのです。
そのユートピア思想を土台として共産主義が浸透したロシアでは、マルクスの考えを推進すべく革命家達が1898年に「ロシア社会民主労働党」を結成します。
しかしやがて党の規約を巡って対立が発生し、党は「ボリシェビキ」「メンシェビキ」に分裂してしまいました。
ボリシェビキを率いたのは、あの有名な「ウラジーミル・レーニン」です。
ウラジーミル・レーニン
ロシア政府は彼らの政治活動を弾圧し、レーニンらは国外へ亡命する事を余儀無くされてしまいました。
1905年、日露戦争でロシア軍の敗走が続くと、首都サンクトペテルブルグでは6万人の労働者によるデモ行進が行われ、数千名の死者が出る「血の日曜日事件」が起こります。
これによってロシア帝政の権威は地に堕ち、反政府運動は活発化して行きました。
「ロシア革命」の第一歩が踏み出されたのです。
血の日曜日事件
その中でいつしか、労働者や農民、兵士などの無党派層のための代表機関が結成されます。
彼らは「ソヴィエト」と呼ばれました。
1914年、第一次世界大戦が勃発します。
予想外に長期化した戦争によって、農業生産の低下、生活物資の不足などが起こり、労働者達はストライキを起こしました。
しかしロシア皇帝・ニコライ二世は内政に見向きもせず、最高司令官として戦地へ赴いてしまいます。
内政を任されていたアレクサンドラ皇后でしたが、相談役であったラスプーチンとの愛人関係が取り沙汰されたり、「皇后がドイツと講和を結ぼうとしている」という噂が立つと、国民の不満はさらに高まって行きました。
皇帝夫妻に取り入って権力を握理、皇族から反感を買っていたラスプーチンは1916年に暗殺されてしまいます。
ラスプーチン
その余波として政権は不安定になり、さらに翌年には食糧難が原因で大規模なデモが発生します。
ニコライ二世はデモの鎮圧を命じますが、兵士たちは続々とデモ隊に寝返り、臨時政府が発足してしまいました。
臨時政府から退位を要求されたニコライ二世は、これを受け入れるしかありません。
しかしニコライ二世の子供は女児のみで後継者がおらず、他に帝位に就く者がいなかったために300年続いたロマノフ朝は崩壊する事になりました。(2月革命)
ニコライ2世の家族には悲劇が待っていました
ロシア帝政が転覆した後は、貴族議会が設立した「臨時政府」と、民衆の代表機関である「ソヴィエト」の二重権力状態が続くことになります。
臨時政府は第一次世界大戦の継続を主張したため、同盟国であるイギリスやフランスの支持を得ました。
しかしロシア帝政を転覆させるデモを起こした民衆が望んでいたのは「戦争を終わらせる事」でした。
「二月革命」の事を亡命先のスイスで知ったレーニンはロシアへ帰国し、戦争停止を主張します。
そして臨時政府を支持しない事、ロシアの全権力をソヴィエトへ移行する事などを謳った「4月のテーゼ」を発表しました。
これによってソヴィエトの支持を得たボリシェビキは、さらにユダヤ人革命家の「レフ・トロツキー」を迎え入れ、勢力を拡大していきます。
レフ・トロツキー
ボリシェビキは武装蜂起を起こし、臨時政府を打倒、レーニンを首相とする社会主義政権を樹立させました。
(十月革命)レーニンは武力で議会を閉鎖して「一党独裁体制」を築き、ボリシェビキは「共産党」へと改名されました。
ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国の誕生です。
平等社会を目指しておきながら独裁体制を築くという、なんとも滑稽な革命ですが、共産主義においては「プロレタリアト独裁」として正当化されていました。
そしてドイツと講和条約「ブレスト=リトフスク条約」を締結、ロシアは第一次世界大戦から1抜けする事になります。
しかしこの条約によってロシアは、ウクライナやバルト三国の領土を失い、さらに多額の賠償金が課せらてしまいました。
あまりにも過酷な内容であったため、条約締結を国民に対する裏切りだと感じた連立与党の「社会革命党」はボリシェビキと決裂します。
そしてロシア国内では反ボリシェビキ運動が活発化し、日本を含む諸外国を巻き込む凄惨な内戦へと突入するのでした。

第一次世界大戦5 ニッポンの出番!

大東亜戦争の敗因の一つとして、「陸軍と海軍の仲の悪さ」が挙げられると思います。
長州藩閥が作った「帝国陸軍」
幕府海軍と薩摩藩閥が元になった「帝国海軍」
その2つのルーツを見ただけで、陸軍と海軍は相入れない関係であることが伺えます。
日露戦争でも色々ありましたが、日露戦争が終結した後の両者は、政治の世界で予算争いを繰り広げるようになります。
1905年に日露戦争が終わり、ポーツマス条約で賠償金が取れなかった事で日本政府は財政難に陥り、経済成長がストップしてしまいました。
日露戦争直後、日本の実質・名目GDPは横ばいに。
そうした状況の中で、陸軍は19個師団体制から、さらなる軍拡を訴えます。
日露戦争に勝利し日露両国の関係は好転しつつあるとは言っても、陸軍は「ロシアの報復に備えるべき」だと考えていました。
一方、ロシアのバルチック艦隊を殲滅させ、太平洋の覇者となった帝国海軍には、倒すべき敵がいなくなってしまいました。
そこで、仮想敵国を新たに「アメリカ」に設定し、「建造8年未満」「戦艦8隻」「巡洋艦8隻」を中核とする「八八艦隊」構想をぶち上げます。
このような「陸海軍の予算争い」の結果として、陸軍と海軍との間での国防方針に大きなズレが出てしまいました。
陸軍はロシア、海軍はアメリカ。
同じ国の軍隊なのに、仮想敵国が全然違うのです。
これは大東亜戦争の敗北への第一歩となったと言えるでしょう。
そして1912年、明治天皇が崩御し、時代は大正へと移り、世界情勢は一層不安定になって行きます。
まず、単線だったシベリア鉄道が複線化された事により、ロシアは軍隊を東アジアへ大量派兵する事ができるようになりました。
もし日露戦争当時にシベリア鉄道が複線だったら、日本は負けていたと思われます。
さらに支那では辛亥革命が起こって清が滅び、政情が不安定になりました。
陸軍にとって、併合したばかりの朝鮮を守るために軍拡が必須だったのです。
陸軍大臣・上原勇作は、二個師団の増設を強く訴えましたが、内閣は「財政難」と「海軍の軍拡」を理由にこの訴えを閣議で否決してしまいます。
陸軍と内閣の対立が深まる中、陸軍は伝家の宝刀を抜く事にしました。
上原陸軍大臣が辞任したのです。
上原勇作陸軍大臣は、長州藩閥が重要ポストを占める陸軍の中で、唯一の薩摩藩出身でした
当時、内閣において陸軍・海軍など軍部の大臣は「現役の軍人(大将・中将)」しか就任できない決まりになっていました。
これを「軍部大臣現役武官制」と言います。
つまり、上原陸軍大臣が辞任し、陸軍が後任を出さなければ、陸軍大臣のポストが空いたままになってしまい、内閣は総辞職に追い込まれてしまうのです。
そしてその通り、西園寺内閣は総辞職を行い、陸軍出身の「桂太郎」が総理大臣となって場を収め、「第三次桂内閣」が組閣されました。
桂太郎
しかしこうした陸軍のやり方に世論は反発し、「憲政擁護運動」が国内で過激化していき、桂内閣はわずか53日間で解散する事になりました。
護憲運動
桂内閣の後を継いだのは海軍出身の山本権兵衛による「第一次山本内閣」です。
しかしその翌年には海軍とドイツの総合商社「シーメンス」との間に贈賄事件が発覚し、海軍出身である山本総理もその責任を取って内閣を総辞職する事になりました。
山本権兵衛
民衆の反発を受けた陸軍、汚職事件を起こした海軍。
ともに政治を混乱させる原因になってしまい、軍部は国民の信用を失ってしまうのでした。
そのような状況の中、1914年、イギリスがドイツへ宣戦布告し第一次世界大戦が勃発します。
よく言われいるのが、「日本は日英同盟を理由に無理やり第一次世界大戦に参加した」という説ですが、これは自虐史観に基づいたデマです。
日英同盟には自動参戦条項など付与されておらず、しかも同盟の適用範囲はアジア限定でした。
日本政府は、第一次世界大戦における中立宣言をしているほどです。
日本が参戦するきっかけを作ったのは、他ならぬイギリスだったのです。
イギリスもドイツも、支那における権益を有しており、イギリスは支那利権を守る為にドイツの東洋艦隊を攻撃するように日本へ要請してきたのです。
しかし一方で、日本がこれ以上支那で影響力を伸ばすのも、イギリスにとっては懸念すべき事でした。
イギリスは日本に「参戦地域の限定」を要請しますが、日本はこれを突っぱねます。
「日本は参戦するけど、領土的野心はないよ〜」という了承を各国から得た上で、日本は第一次世界大戦に参戦する事になりました。
ここから、第一次世界大戦において日本がどのような役割を果たしたのかを書いていきたいと思います。
支那の山東省は、ドイツの租借地です。
その南部には膠州湾があり、ドイツはここに軍港を築き、「青島(チンタオ)」をアジアの根拠地としました。
1914年10月末、日本はイギリスの要請通りに青島を攻撃します。
この「青島攻略戦」は、日本の戦いで初めて飛行機が導入された戦いとなりました。
航空機同士の空中戦、航空機に対する対空砲火、都市への爆撃など、最新兵器の導入によって戦争の形はこれまでとは大きく変わりました。
日本軍は、日露戦争で多くの犠牲者を出した経験を基に、これでもかと言うくらいに慎重に慎重に、戦いを進めていきます。
何しろ準備期間に2ヶ月以上もかけて、ドイツ軍の要塞の火力以上の火砲や弾薬を確保したのです。
その結果、戦闘自体は一週間でケリがついたのですが、国内メディアは「弱い相手にダラダラと慎重すぎる」と陸軍を批判しました。
マスコミがアホなのは昔も今も変わっていないようです。
さて、イギリスが日本に期待していたのは「ドイツ東洋艦隊の殲滅」でしたが、ドイツ東洋艦隊は日本の連合艦隊と交戦するのを避けてスタコラサッサとドイツ本国へ帰還すべく、東太平洋へ向かっていました。
ドイツは太平洋のマリアナ諸島やパラオ、マーシャル諸島などの「南洋群島」を植民地化しており、オーストラリアを自治領とするイギリスや、フィリピンを植民地とするアメリカにとって、脅威になりつつありました。
南洋群島はドイツの植民地
日本は、ドイツ艦隊がいなくなった赤道以北のドイツ領の島々を無血占領します。
この時、海底ケーブルが切断されて通信手段を失っていたサイパン島では食糧不足に陥っており、日本軍は本国から食料を調達してあげました。
東太平洋へ向かったドイツ東洋艦隊を恐れたイギリスは、日本共同で警戒態勢を築きます。
イギリスの自治領であったオーストラリアとニュージーランドの混成部隊「ANZAC軍団」の欧州派遣の護衛を皮切りに、太平洋やインド洋での輸送船団の護衛は日本が一手に引き受ける事になります。
ANZAC軍団の上陸を描いた絵画
1917年に入るとドイツ軍の潜水艦による通商破壊が活発化したため、イギリス・フランス・ロシアは、「ドイツが持っていた山東省や南洋群島の権益を日本に引き継がせる」と言う密約を交わし、日本の護衛艦隊を地中海へ派遣させる事にしました。
地中海のマルタ島へ派遣された「第二特務艦隊」は、70万人の兵員輸送を守り抜いただけでなく、攻撃された仲間の艦船から7千名を助け出し、各国から高い評価を得ました。
大日本帝国海軍は不眠不休で活動し、いつも艦内は救助した人達で溢れかえっていました。
自分たちの食料や水も要救助者達に与え、自分たちは空腹と不眠に苦しみながらも任務を遂行したのです。
しかも、敵と戦闘しながらです。
帝国海軍は「地中海の守護神」と呼ばれるようになり、「日本の護衛がなければ出航しない」と言う船長まで出て来たと言われています。
現在、マルタ島には第二特務艦隊として戦死した78名に捧げる慰霊碑が建立されています。
このような第一次世界大戦における日本の活躍は、なぜか歴史教育ではあまり教えられる事はありません。
代わりに授業で取り上げられるのは「対華21か条の要求」です。
これは日本と中華民国が、第一次世界大戦中に交渉をし、ドイツが保有していた山東省の利権や、南満州の利権などを5項目21か条にまとめて日本が要求したものです。
そもそもこの要求は、清の滅亡によって不安定になったポーツマス条約による満州権益を再び明確にし、
さらに山東省は戦時国際法上の「軍事占領」として日本が管理すべきであるという、至極真っ当な主張であります。
実際、イギリス、フランス、ロシアはこの要求を妥当なものだと判断し、介入して来ませんでした。
しかし「そうは問屋が卸さない」とでも言いますか、支那利権乞食のアメリカはこれにガブリ噛み付いて来ます。
「対華21か条の要求」は支那のみならず、アメリカ国内でも日本を非難する材料に利用され、世論は一気に反日へと傾きました。
結局、交渉の末に「16か条」が日本と中華民国の間で締結されます。
この条文の中に、満州では日本人が土地を借りることができるという「土地商租権」が明記されていましたが、中華民国政府はその1ヶ月後に「日本人に土地を貸したら死刑」という条例を交付しました。
国家間の条約を守らないのは、今も昔も支那のお家芸です。
ところで、歴史教育において、交渉の末に締結された「条約」ではなく、交渉の前段階である「要求」が取り上げられる例って、他にあるのでしょうか??
「16カ条の条約」ではなく、「21カ条の要求」という名前を覚えさせようとする歴史教育は、「日本はこんなに多くの事を要求したんだぞ〜」と言うイメージを刷り込ませようと言う幼稚な自虐史観なのではないでしょうか。