2019年6月7日金曜日

第一次世界大戦5 ニッポンの出番!

大東亜戦争の敗因の一つとして、「陸軍と海軍の仲の悪さ」が挙げられると思います。
長州藩閥が作った「帝国陸軍」
幕府海軍と薩摩藩閥が元になった「帝国海軍」
その2つのルーツを見ただけで、陸軍と海軍は相入れない関係であることが伺えます。
日露戦争でも色々ありましたが、日露戦争が終結した後の両者は、政治の世界で予算争いを繰り広げるようになります。
1905年に日露戦争が終わり、ポーツマス条約で賠償金が取れなかった事で日本政府は財政難に陥り、経済成長がストップしてしまいました。
日露戦争直後、日本の実質・名目GDPは横ばいに。
そうした状況の中で、陸軍は19個師団体制から、さらなる軍拡を訴えます。
日露戦争に勝利し日露両国の関係は好転しつつあるとは言っても、陸軍は「ロシアの報復に備えるべき」だと考えていました。
一方、ロシアのバルチック艦隊を殲滅させ、太平洋の覇者となった帝国海軍には、倒すべき敵がいなくなってしまいました。
そこで、仮想敵国を新たに「アメリカ」に設定し、「建造8年未満」「戦艦8隻」「巡洋艦8隻」を中核とする「八八艦隊」構想をぶち上げます。
このような「陸海軍の予算争い」の結果として、陸軍と海軍との間での国防方針に大きなズレが出てしまいました。
陸軍はロシア、海軍はアメリカ。
同じ国の軍隊なのに、仮想敵国が全然違うのです。
これは大東亜戦争の敗北への第一歩となったと言えるでしょう。
そして1912年、明治天皇が崩御し、時代は大正へと移り、世界情勢は一層不安定になって行きます。
まず、単線だったシベリア鉄道が複線化された事により、ロシアは軍隊を東アジアへ大量派兵する事ができるようになりました。
もし日露戦争当時にシベリア鉄道が複線だったら、日本は負けていたと思われます。
さらに支那では辛亥革命が起こって清が滅び、政情が不安定になりました。
陸軍にとって、併合したばかりの朝鮮を守るために軍拡が必須だったのです。
陸軍大臣・上原勇作は、二個師団の増設を強く訴えましたが、内閣は「財政難」と「海軍の軍拡」を理由にこの訴えを閣議で否決してしまいます。
陸軍と内閣の対立が深まる中、陸軍は伝家の宝刀を抜く事にしました。
上原陸軍大臣が辞任したのです。
上原勇作陸軍大臣は、長州藩閥が重要ポストを占める陸軍の中で、唯一の薩摩藩出身でした
当時、内閣において陸軍・海軍など軍部の大臣は「現役の軍人(大将・中将)」しか就任できない決まりになっていました。
これを「軍部大臣現役武官制」と言います。
つまり、上原陸軍大臣が辞任し、陸軍が後任を出さなければ、陸軍大臣のポストが空いたままになってしまい、内閣は総辞職に追い込まれてしまうのです。
そしてその通り、西園寺内閣は総辞職を行い、陸軍出身の「桂太郎」が総理大臣となって場を収め、「第三次桂内閣」が組閣されました。
桂太郎
しかしこうした陸軍のやり方に世論は反発し、「憲政擁護運動」が国内で過激化していき、桂内閣はわずか53日間で解散する事になりました。
護憲運動
桂内閣の後を継いだのは海軍出身の山本権兵衛による「第一次山本内閣」です。
しかしその翌年には海軍とドイツの総合商社「シーメンス」との間に贈賄事件が発覚し、海軍出身である山本総理もその責任を取って内閣を総辞職する事になりました。
山本権兵衛
民衆の反発を受けた陸軍、汚職事件を起こした海軍。
ともに政治を混乱させる原因になってしまい、軍部は国民の信用を失ってしまうのでした。
そのような状況の中、1914年、イギリスがドイツへ宣戦布告し第一次世界大戦が勃発します。
よく言われいるのが、「日本は日英同盟を理由に無理やり第一次世界大戦に参加した」という説ですが、これは自虐史観に基づいたデマです。
日英同盟には自動参戦条項など付与されておらず、しかも同盟の適用範囲はアジア限定でした。
日本政府は、第一次世界大戦における中立宣言をしているほどです。
日本が参戦するきっかけを作ったのは、他ならぬイギリスだったのです
イギリスもドイツも、支那における権益を有しており、イギリスは支那利権を守る為にドイツの東洋艦隊を攻撃するように日本へ要請してきたのです。
しかし一方で、日本がこれ以上支那で影響力を伸ばすのも、イギリスにとっては懸念すべき事でした。
イギリスは日本に「参戦地域の限定」を要請しますが、日本はこれを突っぱねます。
「日本は参戦するけど、領土的野心はないよ〜」という了承を各国から得た上で、日本は第一次世界大戦に参戦する事になりました。
ここから、第一次世界大戦において日本がどのような役割を果たしたのかを書いていきたいと思います。
支那の山東省は、ドイツの租借地です。
その南部には膠州湾があり、ドイツはここに軍港を築き、「青島(チンタオ)」をアジアの根拠地としました。
1914年10月末、日本はイギリスの要請通りに青島を攻撃します。
この「青島攻略戦」は、日本の戦いで初めて飛行機が導入された戦いとなりました。
航空機同士の空中戦、航空機に対する対空砲火、都市への爆撃など、最新兵器の導入によって戦争の形はこれまでとは大きく変わりました。
日本軍は、日露戦争で多くの犠牲者を出した経験を基に、これでもかと言うくらいに慎重に慎重に、戦いを進めていきます。
何しろ準備期間に2ヶ月以上もかけて、ドイツ軍の要塞の火力以上の火砲や弾薬を確保したのです。
その結果、戦闘自体は一週間でケリがついたのですが、国内メディアは「弱い相手にダラダラと慎重すぎる」と陸軍を批判しました。
マスコミがアホなのは昔も今も変わっていないようです。
さて、イギリスが日本に期待していたのは「ドイツ東洋艦隊の殲滅」でしたが、ドイツ東洋艦隊は日本の連合艦隊と交戦するのを避けてスタコラサッサとドイツ本国へ帰還すべく、東太平洋へ向かっていました。
ドイツは太平洋のマリアナ諸島やパラオ、マーシャル諸島などの「南洋群島」を植民地化しており、オーストラリアを自治領とするイギリスや、フィリピンを植民地とするアメリカにとって、脅威になりつつありました。
南洋群島はドイツの植民地
日本は、ドイツ艦隊がいなくなった赤道以北のドイツ領の島々を無血占領します。
この時、海底ケーブルが切断されて通信手段を失っていたサイパン島では食糧不足に陥っており、日本軍は本国から食料を調達してあげました。
東太平洋へ向かったドイツ東洋艦隊を恐れたイギリスは、日本共同で警戒態勢を築きます。
イギリスの自治領であったオーストラリアとニュージーランドの混成部隊「ANZAC軍団」の欧州派遣の護衛を皮切りに、太平洋やインド洋での輸送船団の護衛は日本が一手に引き受ける事になります。
ANZAC軍団の上陸を描いた絵画
1917年に入るとドイツ軍の潜水艦による通商破壊が活発化したため、イギリス・フランス・ロシアは、「ドイツが持っていた山東省や南洋群島の権益を日本に引き継がせる」と言う密約を交わし、日本の護衛艦隊を地中海へ派遣させる事にしました。
地中海のマルタ島へ派遣された「第二特務艦隊」は、70万人の兵員輸送を守り抜いただけでなく、攻撃された仲間の艦船から7千名を助け出し、各国から高い評価を得ました。
大日本帝国海軍は不眠不休で活動し、いつも艦内は救助した人達で溢れかえっていました。
自分たちの食料や水も要救助者達に与え、自分たちは空腹と不眠に苦しみながらも任務を遂行したのです。
しかも、敵と戦闘しながらです。
帝国海軍は「地中海の守護神」と呼ばれるようになり、「日本の護衛がなければ出航しない」と言う船長まで出て来たと言われています。
現在、マルタ島には第二特務艦隊として戦死した78名に捧げる慰霊碑が建立されています。
このような第一次世界大戦における日本の活躍は、なぜか歴史教育ではあまり教えられる事はありません。
代わりに授業で取り上げられるのは「対華21か条の要求」です。
これは日本と中華民国が、第一次世界大戦中に交渉をし、ドイツが保有していた山東省の利権や、南満州の利権などを5項目21か条にまとめて日本が要求したものです。
そもそもこの要求は、清の滅亡によって不安定になったポーツマス条約による満州権益を再び明確にし、
さらに山東省は戦時国際法上の「軍事占領」として日本が管理すべきであるという、至極真っ当な主張であります。
実際、イギリス、フランス、ロシアはこの要求を妥当なものだと判断し、介入して来ませんでした。
しかし「そうは問屋が卸さない」とでも言いますか、支那利権乞食のアメリカはこれにガブリ噛み付いて来ます。
「対華21か条の要求」は支那のみならず、アメリカ国内でも日本を非難する材料に利用され、世論は一気に反日へと傾きました。
結局、交渉の末に「16か条」が日本と中華民国の間で締結されます。
この条文の中に、満州では日本人が土地を借りることができるという「土地商租権」が明記されていましたが、中華民国政府はその1ヶ月後に「日本人に土地を貸したら死刑」という条例を交付しました。
国家間の条約を守らないのは、今も昔も支那のお家芸です。
ところで、歴史教育において、交渉の末に締結された「条約」ではなく、交渉の前段階である「要求」が取り上げられる例って、他にあるのでしょうか??
「16カ条の条約」ではなく、「21カ条の要求」という名前を覚えさせようとする歴史教育は、「日本はこんなに多くの事を要求したんだぞ〜」と言うイメージを刷り込ませようと言う幼稚な自虐史観なのではないでしょうか。