第一次世界大戦中に起こったロシア革命によって共産主義国家が誕生し、世界中を混乱に陥れる事になるのですが、今回はその過程を書いてみたいと思います。
封建社会において、ほんの一握りの支配者層を除くほとんどの人間が貧困層であったため、民衆の間には「貧しいのが当たり前」と受け止められていたように思えます。
しかし18世紀後半に「産業革命」が起こると、貴族などの「支配階級」とそれ以外の「労働者階級」の他に、第三身分である「中産階級(ブルジョワジー)」が現れました。
同じ「支配される側」の人間なのに、資産を持つ「中産階級」が、生産手段を持たない「賃金労働者(プロレタリアート)」から搾取するという構図が浮き彫りになると、人々は「貧富の差」を強く意識するようになります。
こうした状況で、「格差」と「独占」を生み出す資本主義社会に異を唱えたのがドイツ出身の「カール・マルクス」でした。
まさに「搾取」 |
マルクスは、個人の「資本」を社会の共有財産に変える事で富の集中を防ぎ、さらに均等に分配する事で階級のない平等社会を目指そうとしました。
この考えは貧困にあえぐ当時の労働者達の間に受け入れられ、熱烈に支持されていきました。
しかし実は、マルクスの正体は現代で言うところの「ニート」でした。
マルクスの考えの根拠は「あんまり働きたくないなぁ」という思想からくるものであります。(個人の感想)
資本主義を否定しておきながら、資本家の息子の「フリードリヒ・エンゲルス」を金づるにしており、さらに父親が嘆くほどの浪費家でパーティ三昧。
挙句の果てにはメイドに手を出してフレディという名の子供を作り、認知もせずにエンゲルスに押し付けました。
周囲は「フレディはエンゲルスの子供」だと思い込んでいたようで、結局フレディは誰にも認知されずに里子に出され、工場で働きながら本当の父親を知ることもなく人生を終えてしまいました。
フリードリヒ・エンゲルス |
さて、マルクス個人に対する悪口で話が逸れてしまいましたが、彼の思想に決定的に欠落していたのは「資本家の努力」です。
資本家達は常にリスクを背負い、会社経営などの重要な役割を担って利益を出し、それを労働者達に分配しているのです。
それを考慮せずに「労働者から搾取する事で、資本家達は楽に儲けている」というマルクスの主張に囚われ、「資本家達を追い出そう」という労働者達の考えは暴走していきます。
ところで、共産主義のような「身分階級のない、平等な世界」という理想は、1516年にトマス・モアの著書「ユートピア」から影響を受けたものであります。
「ユートピア」とは、「実現や到達が不可能な夢や願望」を意味しており、トマス・モアの作中では「どこにも存在しない、貧富の差のない理想郷」として登場します。
ロシアにはこのユートピアを信仰する土壌が整っていました。
言葉は違えども、ロシア正教にも古くから「キーテジ」と呼ばれる理想郷があったのです。
そのユートピア思想を土台として共産主義が浸透したロシアでは、マルクスの考えを推進すべく革命家達が1898年に「ロシア社会民主労働党」を結成します。
しかしやがて党の規約を巡って対立が発生し、党は「ボリシェビキ」「メンシェビキ」に分裂してしまいました。
ロシア政府は彼らの政治活動を弾圧し、レーニンらは国外へ亡命する事を余儀無くされてしまいました。
1905年、日露戦争でロシア軍の敗走が続くと、首都サンクトペテルブルグでは6万人の労働者によるデモ行進が行われ、数千名の死者が出る「血の日曜日事件」が起こります。
これによってロシア帝政の権威は地に堕ち、反政府運動は活発化して行きました。
その中でいつしか、労働者や農民、兵士などの無党派層のための代表機関が結成されます。
彼らは「ソヴィエト」と呼ばれました。
1914年、第一次世界大戦が勃発します。
予想外に長期化した戦争によって、農業生産の低下、生活物資の不足などが起こり、労働者達はストライキを起こしました。
しかしロシア皇帝・ニコライ二世は内政に見向きもせず、最高司令官として戦地へ赴いてしまいます。
内政を任されていたアレクサンドラ皇后でしたが、相談役であったラスプーチンとの愛人関係が取り沙汰されたり、「皇后がドイツと講和を結ぼうとしている」という噂が立つと、国民の不満はさらに高まって行きました。
その余波として政権は不安定になり、さらに翌年には食糧難が原因で大規模なデモが発生します。
ニコライ二世はデモの鎮圧を命じますが、兵士たちは続々とデモ隊に寝返り、臨時政府が発足してしまいました。
臨時政府から退位を要求されたニコライ二世は、これを受け入れるしかありません。
ロシア帝政が転覆した後は、貴族議会が設立した「臨時政府」と、民衆の代表機関である「ソヴィエト」の二重権力状態が続くことになります。
臨時政府は第一次世界大戦の継続を主張したため、同盟国であるイギリスやフランスの支持を得ました。
しかしロシア帝政を転覆させるデモを起こした民衆が望んでいたのは「戦争を終わらせる事」でした。
「二月革命」の事を亡命先のスイスで知ったレーニンはロシアへ帰国し、戦争停止を主張します。
そして臨時政府を支持しない事、ロシアの全権力をソヴィエトへ移行する事などを謳った「4月のテーゼ」を発表しました。
ボリシェビキは武装蜂起を起こし、臨時政府を打倒、レーニンを首相とする社会主義政権を樹立させました。
(十月革命)レーニンは武力で議会を閉鎖して「一党独裁体制」を築き、ボリシェビキは「共産党」へと改名されました。
ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国の誕生です。
平等社会を目指しておきながら独裁体制を築くという、なんとも滑稽な革命ですが、共産主義においては「プロレタリアト独裁」として正当化されていました。
そしてドイツと講和条約「ブレスト=リトフスク条約」を締結、ロシアは第一次世界大戦から1抜けする事になります。
しかしこの条約によってロシアは、ウクライナやバルト三国の領土を失い、さらに多額の賠償金が課せらてしまいました。
あまりにも過酷な内容であったため、条約締結を国民に対する裏切りだと感じた連立与党の「社会革命党」はボリシェビキと決裂します。
そしてロシア国内では反ボリシェビキ運動が活発化し、日本を含む諸外国を巻き込む凄惨な内戦へと突入するのでした。