第一次世界大戦は、ロシア・イギリス・フランスからなる協商国と、ドイツ・オーストリア・イタリアの同盟国との戦いでした。注(イタリアは最初の1年間HA参戦せず傍観、1年後にドイツとオーストリアを裏切り、協商国側に立って戦いました。)
しかし大戦中にロシアで革命が起こり、300年続いたロマノフ朝が滅んで共産主義国家「ソヴィエト共和国」が誕生します。
そしてソヴィエト共和國はなんと、ドイツとの間に「ブレスト=リトフスク条約」を締結して、いきなり第一次世界大戦をやめてしまいました。
ロシアが大戦から離脱した事で、東西に戦力を分散させていたドイツは西方へ集中できるようになってしまい、イギリス・フランスにしてみれば迷惑な話であります。
しかもソヴィエト共和國はロシア帝政時代の借金をチャラにしようとしたため、諸外国はロシア国内の様々な外資を保全する必要が出て来ました。
特にフランスは、露亜銀行の四分の三の資本を所有していたので必死です。
共産主義革命だからと言って、勝手に国有化されてはたまったものではありません。
しかも、共産主義思想の究極は「無政府社会」に行き着く事になるので、自国内に共産主義が蔓延する事は、国家の転覆、国の滅亡につながるのです。
列強各国は、軍事面、経済面、内政面などあらゆる面において「ソヴィエト共和国」を脅威として捉え、なんとかしてソヴィエト共和国に軍事介入をしようと目論むようになりました。
ソヴィエト共和国の共産主義政権「ボリシェビキ」は、「戦争の停止」という国民との約束を果たしはしたものの、そのために結んだブレスト=リトフスク条約はあまりにも過酷な内容となってしまいました。
これが原因で、ボリシェビキと、条約締結に反発する反ボリシェビキ勢力との間での内戦が激化します。
ロシア革命を起こしたボリシェビキの軍隊は、革命旗にも使われていたシンボルカラーから「赤軍」を名乗りました。
これに対抗するロシアの右派や君主主義者などは「白軍」と呼ばれましたが、白軍は複数の勢力が別個に組織されており、連携を取ることはありませんでした。
列強各国は共産主義の浸潤を阻止すべく「白軍」を支援しようと目論みます。
そんな列強各国には、ロシア内戦に介入するための口実がありました。
「チェコ軍団の救出」です。
当時、「チェコ」「スロバキア」はオーストリアの属領であり、第一次世界大戦は同盟国側として参戦していましたが、チェコ人とスロバキア人は「むしろ同盟国が負けたら、俺たち独立できるんじゃない?」と考えており、本来なら東進してロシア軍と戦うべきところを、連合国側について西進し、ドイツ軍やオーストリア軍と戦いました。
しかしロシアがドイツを講和を結んでしまったため、東部戦線は休戦状態となり、チェコ軍団はやる事がなくなってしまいます。
ロシアの新政府ボリシェビキはチェコ軍団に武装解除を要求しますが、チェコ軍団はこれに反抗してボリシェビキと戦闘を始めたのです。
「シベリアで孤立するチェコ軍団を救出する」という大義名分のもと、イギリス、フランス、アメリカ、カナダ、イタリア、中華民国、そして日本はシベリアに出兵しました。
その戦力は
日本軍 73000人
アメリカ 7950人
イタリア 2400人
イギリス 1500人
カナダ 4192人
フランス 200人
中華民国 2000人
です。
日本の派兵数が抜きん出ているため、「日本は大陸を侵略する気だったんだな」なんて言われたりしていますが、そもそも日本にしつこく「派兵しろ」と再三迫ってきたのはイギリスとフランスです。
そこへアメリカが共同出兵を持ちかけてようやく日本の派兵が実現したのです。
確かに日本にも領土的野心や、権益確保の下心が全くなかったとは言えませんが、他の列強国もそれは同じ事が言えるのでした。
「ロシア内戦の白軍勢力を応援する」とは言っても、英仏は第一次世界大戦の西部戦線で手一杯で、シベリアへ大兵力を派遣する余裕などありませんでした。
そこで、必然的に日本とアメリカがシベリア出兵の主力になるわけです。
日本からしてみればシベリアは国境を接するお隣さんです。
ソヴィエト共和国が力をつけて日本に共産主義が蔓延する事は、日本にとって死活問題でした。
シベリアを安定化させることが日本にとってどれほど重大なことだったのかを理解せねばなりません。
現在で言えば、「イスラム国」が朝鮮半島まで占領しちゃったような、そんな危機感があったのだと思います。
日本は海外へ派兵する以上、何らかの利権を得なければ国民の納得を得られません。
勝利していながら賠償金が得られず、暴動まで発生してしまった「日露戦争」が記憶に新しかった事でしょう。
日本はシベリアへ多大な経済援助を行い、現地住民との友好関係を築き、利権を開発しようと考えました。
「成人男性2万人が一年間生活するのに必要なカロリー」を賄えるほどの食糧を支援し、医療面では120万人以上を診察して7万人分のコレラの予防注射液を供与しました。
このような日本軍の行いに少なからず好感を持つ現地民はいたはずですが、全体的に現地民の反応は芳しくありませんでした。
日露戦争で敵国であったというイメージはまだ薄れておらず、さらにボリシェビキはそれを利用して反日感情を煽っていたのです。
そもそも「シベリア」はウラル山脈以東の極寒の地で、元々はロシア帝国時代の「流刑地」でした。
しかしロシア革命の時に刑務所の囚人は解放され、共産主義者たちから武器などの支援を受けて非正規の武装ゲリラ集団「パルチザン」を形成していました。
「無法地帯」とも言えるシベリアに来た日本軍は、このパルチザンの便衣戦術に苦労する事になります。
どこで誰が襲ってくるのかわからない戦場では、暴徒と良民を区別する事は不可能です。
日本軍にできる事は、民間人の巻き添えも覚悟の上で村ごと焼き払う事でした。
その中でイワノフカ村の数百名の住民が日本軍や白軍兵士に銃殺、焼殺されてしまう「イワノフカ事件」という惨劇が起こってしまいました。
「居留民保護のため」「共産主義を食い止めるため」どのような大義名分を掲げても、シベリアに進出してきた他国の軍隊の姿は、現地の民衆の目には「侵略者」として映ってしまった事でしょう。
シベリア出兵の主力を任された日本軍は、列強各国にしてみれば、言わば都合の良い「汚れ役」だったのです。
イワノフカ事件の慰霊碑 |
赤軍に殺されたチェコ軍団 |
イギリスやフランスなど各国の軍隊はさっさとシベリアから引き上げてしまい、今度はシベリアに駐留し続ける日本を非難し始めました。
日本は「梯子を外された」状態になり、完全に悪役に仕立て上げられてしまったのです。
そんな中、シベリアに駐留する日本人に悲劇が襲います。
「尼港事件」です。
広大なシベリアに唯一残った日本軍は、戦力を分散させて駐留し、白軍を支援し続けました。
その中で、ニコライフスク(尼港)にはわずか260名の日本軍が駐屯します。
ここには
日本人居留民 700名(二個中隊260名含む)
白軍ロシア兵 15000名
支那人 1000名
朝鮮人 500名
が住んでいました。
ニコライフスクには日本企業の「島田商会」が1890年代から進出しており、ロシア革命による経済混乱期には、島田商会の小切手が紙幣がわりに使用されるほどの信頼を築いていました。
そんなニコライフスクを、1920年1月29日、4000名の赤軍パルチザンが包囲します。
すでに三ヶ月前から電線はパルチザンによって切断されており、外部との交信は無線に頼るしかない状態であった日本軍は完全に孤立しました。
パルチザン達は、町の引き渡しを要求し、受け入れられなければ「砲撃して街を破壊する」と脅します。
日本軍は平和と治安の維持を条件に、パルチザン達を街へ受け入れました。
しかし2月28日、パルチザン達は白軍の将兵や町の富裕層、聖職者などの知識層を、女子供の区別なく400名を投獄し、その多くを拷問の末に処刑してしまいます。
パルチザンの主要メンバー |
さらに個人宅に押し入って強盗も働いたため、日本軍はパルチザンに抗議しましたが、逆に日本軍は「武装解除」を要求されてしまいました。その期限は3月12日までです。もし武装解除をしたら、パルチザンが牙を剥くのは明らかでした。
しかし救援を頼もうにも海路は凍結しており、陸路からの救援は40日かかります。
日本軍は、座して死を待つよりも戦って死ぬことを選びました。
3月12日未明、水上大尉率いる90名の日本軍がニコライフスクに居座る赤軍本部を襲撃します。
石川陸軍少佐は60名を率いて監獄を襲い、投獄されていたロシア白軍兵士や市民を救おうとしました。
しかし数で劣る日本軍は半数の兵を失い、二日間に渡って市街戦を繰り広げます。日本兵は家屋に立てこもって凄惨な戦いを続けました。
3月13日、なぜか支那軍の砲艦が日本軍の兵舎を砲撃し、多くの日本兵が戦死します。
それでも生き残った20名の日本兵は日本領事館を目指しました。
軍人以外の日本人居留民もまた、日本領事館を目指しましたが、たどり着いたのは250名のみでした。
逃げ切れなかった者はパルチザンに捕まり、子供は壁に叩きつけられ、女は犯されて殺されてしまったのです。
3月14日早朝、パルチザンは日本領事館を包囲すると火を放ち、支那軍から借りた艦載砲とガトリング砲で攻撃しました。
これによって、領事館にいた日本人は全員死亡しました。
ニコライフスクで生き残っている日本人は、兵営にいた80名の日本兵と、兵営に逃げ込んできた民間人13名、陸軍病院に26名のみとなりました。
3月18日、残った全ての日本人は衣服を奪われ監獄へ入れられます。
そして4月になると、ニコライフスクには「雪解けと共に日本軍の救援が来る」との噂が広がった為、
パルチザンは監禁していた日本人に土嚢を運ばせ、防御陣地を構築させました。
そして5月24日、ニコライフスクで監禁されていた日本人全員が虐殺されました。
6月3日、日本の救援部隊がたどり着いた時には、既に街は焦土と化し、遺体が散乱していたと言われています。
監獄の壁に書かれた文字 大正九年五月24日12時 忘るな |
この凄惨な「尼港事件」の詳細が明らかになると、日本国内では政府批判が沸き起こり、その矛先はシベリア出兵そのものにも向けられました。
しかし同時に「共産主義者の残虐性」も明らかになったわけで、日本軍としては余計にシベリアの共産主義者を排除せねばならない事態に追い込まれました。
結局、第一次世界大戦が終わった後も日本軍はシベリアに駐留しましたが、事態は一向に好転する事なく、1922年に撤兵が決まりました。
何一つ国益にならなかったシベリア出兵でしたが、明るいニュースがなかったわけではありません。
「ポーランド」という国は、ドイツやオーストリア、ロシアなどの強国に囲まれていたため、しばしば国土を分割され、国家が消滅してしまう事がありました。
もちろんポーランドの人々の中には、分割されて国を失っても、独立のために活動をする者が多くいました。
しかしロシア領内ではそのような活動家は逮捕され次々にシベリアへ流刑された為、シベリアには15万人ものポーランド人が住んでいたのです。
彼らは飢えと寒さに苦しみ、親は少ない食料を子供に与えて息を引き取り、子供はそんな親に泣きながらすがって死んで行きました。
その悲惨な状況を、シベリアにいた日本兵は目の当たりにしていたのです。
ウラジボストーク在住のポーランド人達は「ポーランド救済委員会」を立ち上げますが、欧米諸国は救済の依頼をことごとく断りました。
救済委員会が最後にすがりついたのは日本です。
日本は救済要請からわずか17日後にポーランド孤児の救出を決定します。
そして700名以上の孤児達が日本へ来る事になりました。
弱り切った子供達はみるみるうちに元気を取り戻し、第一次世界大戦が終わって独立する事ができた祖国ポーランドへと帰国して行きました。
ポーランドの子供達 |
この時の孤児達はいつの日かまた日本に行くために少しずつ積み立てをし、そのお金で1995年に起きた阪神淡路大震災の被災児童達をポーランドへ招待してくれたのです。
他にも、内戦により親と離れ離れになった800名のロシアの子供達を、機雷をくぐり抜けて命がけで親元へ帰してあげた「陽明丸」など、極寒の地で奮闘した彼ら日本人の人道的な行いは、現在も私たちの「民族の誇り」として気高く輝いています。
陽明丸に乗ったロシアの子供達 |