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2019年6月6日木曜日

日露戦争11 情報戦、勝ったか負けたか

戦争においては、必ずしも軍事力の差がそのまま勝敗に反映するわけではございません。
日露戦争では、10倍の国力を持つロシアに対して日本が講和に持ち込む事ができたのも、軍隊同士の戦いの裏で、もう一つの「陰の戦い」が繰り広げられていたからだと言えます。
陽の当たらないその戦いとは、「情報戦」です。
諜報や謀略から成るその「陰の戦い」の中心となったのは、明石元二郎(あかし もとじろう)陸軍大佐でした。
明石 元二郎

日露戦争の開戦と共に駐露公使館はスウェーデンのストックホルムに移動する事になりますが、明石はここを拠点として活動を開始します。
当時、帝政下におけるロシア国内の政情は不安定でした。
皇帝の一族や貴族などが裕福な暮らしをする中、ほとんどの国民は重税をかけられ苦しい生活を強いられていたのです。
ロシア帝政政府は、国民の不満を政府からそらすために南下政策を強め、さらにユダヤ人排斥主義を助長し、「ポグロム」を推進させました。
ポグロムの犠牲者

明石元二郎はロシア支配下の地域での反ロシア運動を支援し、ロシア国内を内部から揺さぶりました。
様々な反政府運動の指導者たちと連絡を取り合い、デモや破壊工作運動を活発化させ、その鎮圧にロシア軍の兵力を消耗させようとしたのです。
その結果、ロシアの政情はどんどん不安定になって行きました。
そんな中、労働者たちは日露戦争の中止や権利の保障などの要求を掲げてロシア王宮へ行進を行いましたが、政府はこれに対し軍隊を動員し民衆に向かって発砲、1000名を超えると言われる死傷者を出す事になります。
血の日曜日事件

この「血の日曜日事件」によってロシア皇帝の権威は地に堕ちてしまい、ロシア革命が起こるきっかけとなります。
結果的には、明石工作は共産主義革命に力を貸してしまう事になったわけですが、少なくとも日露戦争においては多大な貢献をしました。
さて、奉天会戦や日本海海戦に勝ったとはいえ、ロシアの国力にはまだ余裕がありました。国力を使い果たした日本がロシアを講和の場に引き摺り出すには、他国からの斡旋が必要不可欠です。
日露戦争の終結を想定して外交工作を任されたのは「金子堅太郎」でした。
金子堅太郎は貴族院の議員で、日露開戦に伴いアメリカへ渡っていました。
アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトと親密な関係にあり、私邸への訪問、晩餐会への招待、直接会見など25回にもわたり広報外交を行い、さらに50回もの演説を行いニューヨークタイムズへ寄稿するなど、日本の正当性をしっかりと主張し、アメリカ国内の世論はすっかり対日友好ムードにしてしまいました。
金子堅太郎

アメリカ人の心を掴んだ金子堅太郎は1942年に89歳で亡くなりますが、日米が戦争中であるにも関わらず、金子の死はニューヨーク・タイムズの死亡欄に載り、長文の追悼文が記載されたほどでした。
「金子外交」によってバリバリの親日家になったセオドア・ルーズベルトは、日本からの依頼を受けてロシアに講和勧告を行い、日露和平交渉が行われる事になったのです。
講和交渉というものは非常に重要で、たとえ戦争に勝っていたとしても、有利に交渉をまとめる事が出来なければ、それは負けに等しいものになります。
日本国内では日本の度重なる勝利に酔いしれ、マスコミはこぞって「賠償金」「領土割譲」など講和内容の予測を書き、国民感情をさらに煽っていました。
しかし辛勝に辛勝を重ね、国家予算の8年分を使い切ってようやくたどり着いたロシアとの和平交渉すです。
軍部の人間からすれば、国内で報じられている高額な賠償金など取れるはずもない状況であることはよくわかっていました。
全権大使を任された「小村寿太郎」が交渉のためポーツマスへ発つ時、駅には大勢の人々が集まって大歓声で彼を見送りました。
この時、小村は首相である桂太郎に「この人気は、帰る頃には真逆になっているでしょう」とつぶやいたそうです。
小村寿太郎

日本は同盟国イギリスと打ち合わせをしてポーツマス会議に臨んだのですが、実は日本とイギリスのやりとりは全てロシアに筒抜になっており、ロシアは日本の出方を全て把握した上で交渉に向かう事が出来ました。
日本からイギリスに電信を送る際、デンマーク系の「大北電信会社」のケーブルを使っていたのですが、なんとこの会社の大株主はロシア皇帝だったのです。
大北電信会社

日本とロシアの情報戦、土壇場でロシアに軍配が上がったと言えます。
日本はロシアに対し譲歩した要求しかできず、賠償金も取れませんでした。
ロシアの全権代表であるセルゲイ・ウィッテは交渉後に「勝った」と叫んだと言われています。
セルゲイ・ウィッテ

南樺太を手に入れた日本にできた、初めての国境線
賠償金を取れなかった事に怒った日本国民は、ポーツマス条約反対を掲げた野党議員の集会に集まりデモを起こし、17名の死者を出す暴動へ発展しました。
(日比谷焼打事件)このような事から「戦争に勝って外交に負けた」などと揶揄される日露戦争の勝利ですが、それでも「満州からロシアを排除する」という戦争目的はしっかりと達成しており、日本の勝利は世界中に大きな影響を与えました。
日露戦争に日本が勝利した事は、20世紀最大の「大事件」であり、世界史における「白人世界」に一つの区切りをつけたのです。
そして白人国家の植民地支配下にあったアジアやアフリカの有色人種に希望と勇気を与え、民族独立の可能性を切り開きました。

1921年に皇太子(後の昭和天皇)が第三艦隊でスリランカに入港された際、日本海軍を一目みようと多くの人々が集まりました。
その中の一人の母親が、子供にこう語りかけていました。
「見なさい、あれがロシアを打ち破った日本海軍です。私たちと同じアジア人なんですよ」
母親に手を引かれて日本海軍の艦隊を見ていたその少年は、のちにスリランカの大統領となる「ジャヤワルダナ」でした。
ジャヤワルダナ大統領はサンフランシスコ講和会議の演説で日本を救ったとして有名です。
日露戦争の勝利は、思わぬ形で還ってくる事になったワケです。
イギリスのタイムズ社が「日露戦争以降、これまでのように白人が植民地をケーキのように切り分けることは不可能になった」と書いているように、日本の勝利は間違いなく世界のパワーバランスを崩しました。
そしてロシアの矛先はアジアではなくヨーロッパへ向けられるようになり、親日的だったアメリカは、日本を敵視し始めます。
白人を中心として出来上がっていた帝国主義の秩序が崩され、世界は混沌としていき、二度に渡る世界大戦へと繋がって行くのでした。
最後に名将・乃木希典の事を書いて終わりにしたいと思います。
乃木大将は多くの将兵を死なせてしまった事を死ぬまで悔やんでいました。
「日露戦争の英雄」として師範学校の講演を依頼された時、演壇に登ることもなく立ち尽くし、
「私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります。」
と一言だけ話して涙を流し、その姿を見た生徒も先生も共に涙を流したと言います。
そして乃木は時間さえあれば戦死者の遺族や廃兵院を訪問し、両手を失った者のために「乃木式義手」を開発しました。
乃木式義手

日露戦争で二人の息子を失った乃木の最期は、「乃木家を断絶させる覚悟」と遺書に記し、明治天皇の大葬の日に妻と共に自刃します。
明治時代に全てを捧げた名将・乃木希典に敬意を払って、日露戦争のまとめを終わらせていただきます。
自決当日の乃木夫妻

日露戦争10 海の決戦・日本海海戦

これまで多大な損害を出しつつも辛勝を重ねてきた日本軍は、最後の大一番を迎えていました。
バルト海を出発したバルチック艦隊との戦いが近づいていたのです。
この戦いに連合艦隊が敗れて制海権を失えば、大陸に残された日本陸軍は孤立してしまいます。
そしてそれはロシアの逆転勝利を意味していました。
1905年の1月に入ると、日本海軍は来るべき日の為に猛特訓を開始します。
艦隊編成、陣形運動、一斉射撃、命中率、射撃速度、夜戦での魚雷発射など、あらゆる面で血の滲むような猛特訓を行い、精度を高めました。
また、この海戦には必勝を期すために新技術が導入される事になります。
当時の艦砲射撃の砲弾は、敵艦の装甲を貫くには威力が足りませんでした。
その為、日本海軍は貫通力よりも爆発力を優先し「下瀬火薬」を導入します。
この下瀬火薬は非常に高感度で危険性が高く、海軍技師の「下瀬雅允」が自身も暴発事故で重傷を負いながらも完成させたものです。
下瀬火薬の爆発力は当時の常識を覆す程の規模で、命中した瞬間に激しい熱を発し全てを焼き尽くすのでした。
下瀬雅充
さらに、当時の砲弾は「不発弾」が多かったのも深刻な問題点でありました。
そのため、超即働信管である「伊集院信管」を採用します。
「下瀬火薬」「伊集院信管」この二つの新技術により、連合艦隊の砲弾は、敵艦のマストに触れただけでも周囲を火の海にできるようになりました。
さらに日本海海戦は、「世界で初めて無線を使った海戦」とも言われています。
ロシア艦隊が手旗信号で連絡を取り合っているのに対し、日本軍は無線を使って連携をとれるようにしていました。
そして日本周辺に独自の海底ケーブルを敷設し、イギリスのケーブル回線と連携してバルチック艦隊の動向を探ったのです。
このように万全の態勢で迎え撃つことができた連合艦隊を、さらにアシストしたのは「日英同盟」でした。
1904年10月に出航したバルチック艦隊は、33340キロもの距離を、半年以上もかけてウラジボストークを目指す事になります。
その航路において、日本海軍を警戒するあまりにイギリスの漁船を日本の水雷艇を間違えて撃沈してしまい、イギリス世論の猛反発を買い、イギリス植民地への入港ができなくなってしまったのです。
ロシアの頼みの綱は同盟国のフランスですが、イギリスが圧力をかけてきた為に積極的な支援を行うことができませんでした。
そのためバルチック艦隊は水・食料の不足に悩まされ、特に石炭においては良質な「無煙炭」をイギリスに抑えられてしまい、劣悪な石炭しか手に入れることができませんでした。
その結果、バルチック艦隊は黙々と黒い煙を上げながら航行する事になってしまい、艦隊の位置を周囲に晒し続けていたのです。
バルチック艦隊の航路
そのような状況下で、長旅で疲弊しきったバルチック艦隊は、「とにかくウラジボストークに逃げ込んで態勢を立て直そう」と考えていました。
日本軍にとって最も重要な課題は、「バルチック艦隊がどのルートでウラジボストークへ行くか」を予測する事です。
広い洋上で敵艦隊を捕捉する事は困難ですが、ウラジボストークへ行くには必ず海峡を通らねばなりません。
ならば海峡で待ち伏せすれば良い話なのですが、
最短ルートの「対馬海峡」
太平洋側を回って本州を迂回する「津軽海峡」
北海道を迂回する「宗谷海峡」
という三つの海峡があり、指揮官の東郷平八郎を悩ませました。
戦力を三つに分けて三箇所で迎え討つのが確実ですが、三分の一の戦力では撃破されてしまいます。
宗谷海峡を通るルートでは石炭の洋上補給が必ず必要になるであろう事、津軽海峡には機雷を敷設してある事などから、東郷平八郎
は「対馬海峡」にバルチック艦隊がやってくるだろうと懸け、主力艦を集中配備する事を決意しました。
しかし待てども待てどもバルチック艦隊はやって来ません。
東郷の頭の中には「対馬海峡ではなく、太平洋側へ行ったのか?」という不安と焦りが駆け巡ります。
そこへ、バルチック艦隊に随伴していた石炭運搬船が上海に入港したとの情報が入りました。
運搬船が艦隊から離脱したという事は、洋上での石炭補給が行われない事を意味します。
これは、バルチック艦隊が太平洋側へ行かない事の証明でもありました。
もしこの情報が一日遅れていたら、東郷は連合艦隊を対馬海峡から北海道へ移動させていたかもしれません。
5月27日早朝、仮装巡洋艦「信濃丸」から「敵艦見ユ」の電信を受け、連合艦隊に出航命令が下されます。
旗艦の「三笠」は大本営に「本日、天気晴朗ナレドモ浪高シ」と電文を送ります。
この電文の通り、当日は波が高く、小型の水雷艇は退避させられる事になりました。
連合艦隊の参謀・秋山真之により立案された作戦「七段構え」の第一段階は水雷艇による奇襲攻撃だったのですが、出鼻をくじかれる形となってしまいました。
ちなみに秋山真之は、「黒溝台の戦い」「奉天会戦」において大活躍をした秋山支隊で有名な「秋山好古」の弟です。
秋山真之
さて、対馬近海、12000m先にバルチック艦隊を視認した東郷平八郎は戦艦・三笠に赤・青・黒・黄の4色旗を掲揚させました。
これはアルファベットの「Z」を示す国際信号旗で、「もう後がない」「背水の陣」というような意味が込められていたと考えられます。
このZ旗には「皇國ノ興廃此ノ一戰ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」という文言が当てられており、これは1805年にトラファルガー海戦で英国艦隊がZ旗を掲げた事を模倣したのだと言われています。
ここで少し、日本海軍の戦術について説明させていただきたいと思います。戦艦は艦首・艦尾にそれぞれ甲板上に巨大な砲塔を備えています。
しかし船体の中央部には構造物があり遮られているため、前方に向かって艦尾砲塔を向ける事はできませんし、後方に向かって艦首砲塔を向ける事もできません。
しかし敵艦へ側方を向け、砲塔を旋回されば、艦首・艦尾の両方の火力を集中する事ができ、攻撃力は倍になるのです。
そのような考えに基づいて考え出されたのが「丁字戦法」です。敵の艦隊の進行方向を遮るように隊列を組み、「T字」「丁字」の陣形を作って敵の先頭艦に集中砲火を浴びせるのです。
もちろん、作戦行動中にそんな理想的な隊形が自然に出来上がる事などありません。
日本海軍が最初に「丁字戦法」を試みたのは、ウラジボストークへ逃げ込もうとした旅順艦隊との間に起きた「黄海海戦」でした。
この戦いで、連合艦隊は丁字戦法に持ち込むべく、すれ違おうと直進してくる旅順艦隊に対して横並びになろうとターンをしたのですが、丁字戦法を悟られた旅順艦隊は直ちに連合艦隊とは逆方向にターンし、あわや取り逃がしてしまうところだったのです。
この黄海海戦の失敗を踏まえて、日本海海戦では十分に敵艦に近づいてから旋回を指示します。
バルチック艦隊との距離が8000mに近づいた時、東郷平八郎の右手が上がり、ゆっくりと円を描いて左におろしました。
取舵150度の合図です。
1905年5月27日14時5分、海戦の常識を覆した敵前大回頭「東郷ターン」が行われました。
敵の射程圏内で2分余りを費やして回頭する事は非常に危険な行為でしたが、なんとか回頭を終えた連合艦隊はバルチック艦隊と並航する事になりました。
並航戦となった両艦隊は互いに砲撃をしますが、速度に勝る連合艦隊はバルチック艦隊を次第に追い抜いて行きます。
そしてバルチック艦隊の頭を斜めに抑える陣形になりました。
理想とされていた「丁字戦法」とは言えませんでしたが「イの字」の隊形を作った連合艦隊は、次々とバルチック艦隊を破壊していきました。
猛特訓を重ねていた連合艦隊の射撃精度は、「命中率」「射撃速度」がともにロシア軍の3倍になっていました。
戦闘自体は夜間や夜明けの掃討戦まで続きましたが、勝敗は戦闘開始から30分でついていたと言われています。
バルチック艦隊は21隻を沈没させて壊滅、戦死者は5000名弱、ウラジボストークへたどり着けたのはたったの3隻でした。
連合艦隊は水雷艇を3隻失ったのみで、117名の戦死者を出しました。海戦史上にも例がない程の圧倒的な勝利です。
日本軍の救助活動により捕虜となったロシア兵は6000名、対馬や日本海沿岸に流れ着いた者も住民によって保護されました。
佐世保の海軍病院へ収容されたバルチック艦隊司令長官のロジェストヴェンスキーを見舞った東郷平八郎は、敗軍の将を手厚く労いました。
このような日本軍の紳士的な振る舞いは世界各国から賞賛される事になります。
そしていよいよ日露戦争は終結へと向かうのでした。
ボコボコにされたロシア艦
ロジェストヴェンスキー

日露戦争9 陸の決戦・奉天会戦

日本軍は開戦からこれまでロシア軍に対して連勝を重ねてきましたが、あくまでも「ロシア軍を撤退させた」という程度の勝利であり、目標である「主力殲滅」を成功させたわけでもなく「辛勝」と呼ぶべきものでありました。
歴戦の戦いでの人的・物的損害は既に国力の限界を超え、これ以上継戦する事が危ぶまれている状態の日本に対し、ロシアは政情不安定ではあったもののシベリア鉄道を通じて満州へ続々と増援が到着しており、日露両軍の戦力差は決定的になりつつありました。
日本軍は「一か八か」の覚悟で、奉天にてロシア軍に決戦を挑むことになります。
大山巌元帥はこの戦いを「関ヶ原の戦い」と比喩しました。
日本軍24万、ロシア軍36万の大兵力が一堂に会した世界史上最大規模の決戦、「奉天会戦」の始まりです。
旅順を攻略して満身創痍の第三軍は、奉天での決戦のために休みも取らず、巨大な28センチ砲を曳きながら移動を開始します。
日本軍の作戦はこうでした。
・右翼から順に鴨緑江軍、第一軍、第四軍、第二軍、第三軍が布陣
・鴨緑江軍、第一軍がロシア軍の左翼を衝き、引きつける
・第三軍がロシア軍の右翼を迂回し、側背から攻撃する
・第二軍、第四軍が正面から攻撃を仕掛ける
この作戦はロシア軍を包囲して殲滅する事を目的としたものでしたが、はっきり言って無謀でした。
敵軍よりも少ない戦力で包囲戦を挑むなどあり得ません。
しかし日本軍はどうしても、ここでロシア軍主力を壊滅しなければならなかったのです。
日本軍が動員兵力のほとんどを満州につぎ込んでいるのに対し、ロシア軍はまだ動員兵力の半分も使っていませんでした。
日本軍は一刻でも早く講和に持ち込まねばならなかったのです。
日本軍の戦いにおいて鍵となるのは、第三軍の動きでした。
第三軍が布陣した最左翼から奉天まではなんと60kmも離れており、「敵の側背を衝く」とは言うものの、それだけの距離を、敵の陣地を撃破しながら進軍せねばならないのです。
しかも、第三軍の精鋭、第十一師団は、右翼からの陽動攻撃を強化するために、鴨緑江軍へ引き抜かれてしまっていました。
旅順戦の疲弊もあいまって、第三軍の戦力ダウンは否めません。
しかしその一方で、ロシア軍総司令官クロパトキンを始めとするロシア軍将兵達は、異常な程に第三軍を警戒していました。
何しろ、あの難攻不落の旅順を陥落させたのです。
その勇猛さは世界中に名を轟かせ、クロパトキンは乃木の第三軍こそが日本軍の主力だと考えていました。
戦いの前、ロシア軍将兵が神に祈っている所を従軍記者は目撃しています。
「天帝よ、願わくば乃木軍との戦いだけはお許しください」
ずらりと並んで対峙する両軍の戦線の長さはなんと60km。
2月21日、先手を打ったのは日本軍でした。
作戦通り、最右翼の鴨緑江軍による陽動が開始され、清河城に立てこもるロシア軍を攻め落として進軍しました。
この時、鴨緑江軍には、第三軍の精鋭、第11師団が加わっていました。
「現在進行している日本軍の兵士の襟に書いてある連隊番号の中に第三軍が含まれている」という報告を受けたクロパトキンは、鴨緑江軍を第三軍だと勘違いして、慌てて予備兵力の全てを鴨緑江軍へぶつけました。
このため、右翼を進撃する鴨緑江軍と第一軍の進行は遮られ膠着状態に陥りますが、ロシア軍の戦力がここに集中したために第三軍が進撃しやすくなりました。
2月28日、最左翼に布陣していた第三軍が動き出します。
「要塞戦とは比較にならん爽快さだ!」と第三軍の将兵達が口にするほどの快進撃で一気に北上します。
東の鴨緑江軍、西の第三軍が奉天を取り囲む包囲網ができつつある中、正面を担当する第二軍、第四軍は思わぬ苦戦を強いられていました。
28センチ砲やカノン砲を発射しても凍った地面に弾かれ、火薬も寒さのせいで威力が落ちてしまい、準備砲撃の効果が半減してしまったのです。
さらに、ロシア軍右翼を迂回している日本軍こそが第三軍の本隊である事に気がついたクロパトキンは、これに対し10万の兵を差し向けます。
乃木の第三軍の兵力は38000でしたが、10万のロシア軍を相手に互角以上に戦いました。
しかし戦況は膠着し、大石橋など日本軍が敗走する箇所も出てきました。
日本軍の戦線は崩壊寸前までに追い込められます。
しかしここでクロパトキンは第三軍に退路を断たれる事を恐れて後退を始めます。
この奉天会戦における日露両軍の損耗は激しく、ロシア軍は後退の過程で士気が下がり軍隊秩序を失い、全軍撤退をやむなくされました。
追撃する日本軍も弾薬が尽き果て戦闘不能に陥り、鉄道で撤退するロシア軍を眺めている事しかできませんでした。
日本軍は死者16000名、負傷者60000名。
ロシア軍は死者8700名、行方不明者28000名、負傷者50000名という凄まじい激闘でした。
圧倒的に劣勢でありながらも日本が勝利した要因は、ひとえに第三軍のおかげと言えるでしょう。
中でも、黒溝台の戦いでも活躍した秋山支隊の配下の「長沼挺身隊」は、176騎の部隊でロシア軍を陽動し、ロシア軍3万の兵を奉天会戦へ参加させない事に成功していました。
アメリカ人の従軍記者は、「この奉天会戦における乃木軍以上に恐れられた軍隊は他にない」と書いています。
奉天会戦の勝利に日本国内は沸き上がりますが、陸軍の損耗は限界を超えていました。
既に奉天会戦の時点で、補充された応召兵の中に練度の低い者や老齢の者が多く存在する有様だったのです。
陸軍はもはや活動困難な様態に陥っていました。
とはいえロシア陸軍も態勢を立て直すのが困難で、皇帝ニコライ2世は勝利への最後の望みをバルチック艦隊へと託し、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの和平交渉の斡旋を拒否します。
世界最強と呼ばれたバルチック艦隊が日本の連合艦隊を打ち破れば、制海権を失った日本は補給ができなくなり、満州に残された陸軍が孤立するのです。
こうして、日本の命運を賭けた「日本海海戦」が始まろうとしていました。

2019年6月5日水曜日

日露戦争8 馬と共に戦う

江戸時代にこんな大きな馬はいなかった
日本は今や、北米や欧州と並ぶ「競馬大国」と言えます。
年末に行われる「有馬記念」というレースは、1レースにおける馬券の売り上げが世界競馬史上の最高金額を記録し、ギネス認定されているほどです。
このようにメジャーなスポーツ、ギャンブルとして日本に定着した競馬のおかげでしょうか、「馬」という単語を聞くと、競馬場の芝生を走るスラッと細長い脚をした競走馬「サラブレッド」を思い浮かべると思います。
しかしサラブレッドが日本に初めて輸入されたのは明治10年の事。
それ以前に日本に生息していた馬といえば、体高は140センチ程度の、足が太くて小さい馬でした。
200年以上も戦争がない江戸時代を経験した日本は、「騎兵」の概念が発展せず、軍馬を育成する必要などなかったのです。
日本の軍馬が外国より劣っている事は、すでに日露戦争の10年前の「日清戦争」で明白になっており、日本陸軍の課題となっていました。
日露戦争開戦前の世界各国の前評判では、「海軍はともかく、陸の戦いで日本はロシアに全く歯が立たないであろう」と言われていました。日露戦争は「自動車や戦車が投入されなかった最後の戦争」と言われており、軍馬の機動力、輸送力は戦局を左右する重要な要素だったのです。
そして何よりロシア軍は、世界最強と謳われた「コサック騎兵」を擁していました。
ちなみに「日本の競馬」は、日露戦争後に軍馬育成の産業を推進させるために始まったものです。
コサック騎兵
さて、前回私は沙河会戦を終えた日露両軍が、満州で対陣したまま膠着状態に入っていた事を書きました。
日露両軍共に歴戦の損耗が激しく、戦闘を行える状態ではなかったのです。
しかし1905年の1月になり、旅順攻略戦が終わると戦局は再び動き出します。
ロシア軍は大規模な騎兵隊を投入し、日本軍の後方を威力偵察しました。
そしてこの偵察によって、ロシア軍はついに日本軍の弱点を見つけ出したのです。
日本軍は東西方向に幅広く布陣しており、中央の防御こそ厚かったものの、場所によってムラがありました。
中でも最左翼を守備する「秋山支隊」は、秋山好古(あきやま よしふる)少将が率いる騎兵支隊でしたが、わずか8000名の兵力で40kmの戦線をカバーさせられていたのです。
秋山好古
ロシア軍の偵察行動を察知した秋山少将は、「敵軍の大作戦の予兆あり」と総司令部に警報を送り続けましたが、「極寒期に軍隊が積極的に動くはずがない」と考える司令部に、ことごとく無視されてしまいます。
しかし歴史上、寒さはロシア軍にとって「地の利」となってきました。
ロシア軍にとって、冬将軍は味方なのです。
さらにロシア軍の背後には、シベリア鉄道による補給が続々と届いていました。
1月22日、ロシア軍は10万の軍勢で攻勢に出ます。
当然、守りの薄い秋山支隊が敵の銃弾に晒される事になりました。
ここで秋山支隊は脅威的な粘りを見せる事になります。
秋山少将は、普段から「騎砲兵」の重要さを説いていました。
日本の軍馬が劣っている事を認識し、騎兵同士の戦いでは勝ち目がないと考えていたのです。
秋山支隊は、騎兵部隊を中心に砲兵、工兵などを随伴させた混成部隊でした。
そして戦闘になると馬から降り、「機関銃」でロシアのコサック兵を馬ごとなぎ倒していったのです。
これは騎兵の常識を打ち破る画期的なアイデアでした。
この秋山支隊の戦いは日本軍の突破口となり、日本軍はロシア軍の撃退に成功する事になります。
この戦いは「黒溝台会戦」と呼ばれ、10万のロシア軍を5万の日本軍が撃退する奇跡的な勝利となりました。
これをきっかけに日本軍は反転攻勢に出ます。
日本軍は、「奉天」に陣を構えるロシアの主力軍に、最後の決戦を挑むのでした。

そしてその戦いは、両軍合わせて60万人の大兵力をつぎ込む世界史上でも稀に見る最大規模の会戦となったのです。
日露戦争中の日本の軍馬
昭和13年に建てられた軍馬忠霊塔
戦場で傷つき、日本軍を目で追う事しかできなくなった軍馬をイメージして作られました。