2019年6月5日水曜日

日露戦争8 馬と共に戦う

江戸時代にこんな大きな馬はいなかった
日本は今や、北米や欧州と並ぶ「競馬大国」と言えます。
年末に行われる「有馬記念」というレースは、1レースにおける馬券の売り上げが世界競馬史上の最高金額を記録し、ギネス認定されているほどです。
このようにメジャーなスポーツ、ギャンブルとして日本に定着した競馬のおかげでしょうか、「馬」という単語を聞くと、競馬場の芝生を走るスラッと細長い脚をした競走馬「サラブレッド」を思い浮かべると思います。
しかしサラブレッドが日本に初めて輸入されたのは明治10年の事。
それ以前に日本に生息していた馬といえば、体高は140センチ程度の、足が太くて小さい馬でした。
200年以上も戦争がない江戸時代を経験した日本は、「騎兵」の概念が発展せず、軍馬を育成する必要などなかったのです。
日本の軍馬が外国より劣っている事は、すでに日露戦争の10年前の「日清戦争」で明白になっており、日本陸軍の課題となっていました。
日露戦争開戦前の世界各国の前評判では、「海軍はともかく、陸の戦いで日本はロシアに全く歯が立たないであろう」と言われていました。日露戦争は「自動車や戦車が投入されなかった最後の戦争」と言われており、軍馬の機動力、輸送力は戦局を左右する重要な要素だったのです。
そして何よりロシア軍は、世界最強と謳われた「コサック騎兵」を擁していました。
ちなみに「日本の競馬」は、日露戦争後に軍馬育成の産業を推進させるために始まったものです。
コサック騎兵
さて、前回私は沙河会戦を終えた日露両軍が、満州で対陣したまま膠着状態に入っていた事を書きました。
日露両軍共に歴戦の損耗が激しく、戦闘を行える状態ではなかったのです。
しかし1905年の1月になり、旅順攻略戦が終わると戦局は再び動き出します。
ロシア軍は大規模な騎兵隊を投入し、日本軍の後方を威力偵察しました。
そしてこの偵察によって、ロシア軍はついに日本軍の弱点を見つけ出したのです。
日本軍は東西方向に幅広く布陣しており、中央の防御こそ厚かったものの、場所によってムラがありました。
中でも最左翼を守備する「秋山支隊」は、秋山好古(あきやま よしふる)少将が率いる騎兵支隊でしたが、わずか8000名の兵力で40kmの戦線をカバーさせられていたのです。
秋山好古
ロシア軍の偵察行動を察知した秋山少将は、「敵軍の大作戦の予兆あり」と総司令部に警報を送り続けましたが、「極寒期に軍隊が積極的に動くはずがない」と考える司令部に、ことごとく無視されてしまいます。
しかし歴史上、寒さはロシア軍にとって「地の利」となってきました。
ロシア軍にとって、冬将軍は味方なのです。
さらにロシア軍の背後には、シベリア鉄道による補給が続々と届いていました。
1月22日、ロシア軍は10万の軍勢で攻勢に出ます。
当然、守りの薄い秋山支隊が敵の銃弾に晒される事になりました。
ここで秋山支隊は脅威的な粘りを見せる事になります。
秋山少将は、普段から「騎砲兵」の重要さを説いていました。
日本の軍馬が劣っている事を認識し、騎兵同士の戦いでは勝ち目がないと考えていたのです。
秋山支隊は、騎兵部隊を中心に砲兵、工兵などを随伴させた混成部隊でした。
そして戦闘になると馬から降り、「機関銃」でロシアのコサック兵を馬ごとなぎ倒していったのです。
これは騎兵の常識を打ち破る画期的なアイデアでした。
この秋山支隊の戦いは日本軍の突破口となり、日本軍はロシア軍の撃退に成功する事になります。
この戦いは「黒溝台会戦」と呼ばれ、10万のロシア軍を5万の日本軍が撃退する奇跡的な勝利となりました。
これをきっかけに日本軍は反転攻勢に出ます。
日本軍は、「奉天」に陣を構えるロシアの主力軍に、最後の決戦を挑むのでした。

そしてその戦いは、両軍合わせて60万人の大兵力をつぎ込む世界史上でも稀に見る最大規模の会戦となったのです。
日露戦争中の日本の軍馬
昭和13年に建てられた軍馬忠霊塔
戦場で傷つき、日本軍を目で追う事しかできなくなった軍馬をイメージして作られました。