江戸時代にこんな大きな馬はいなかった |
日本は今や、北米や欧州と並ぶ「競馬大国」と言えます。
年末に行われる「有馬記念」というレースは、1レースにおける馬券の売り上げが世界競馬史上の最高金額を記録し、ギネス認定されているほどです。
このようにメジャーなスポーツ、ギャンブルとして日本に定着した競馬のおかげでしょうか、「馬」という単語を聞くと、競馬場の芝生を走るスラッと細長い脚をした競走馬「サラブレッド」を思い浮かべると思います。
しかしサラブレッドが日本に初めて輸入されたのは明治10年の事。
それ以前に日本に生息していた馬といえば、体高は140センチ程度の、足が太くて小さい馬でした。
日本の軍馬が外国より劣っている事は、すでに日露戦争の10年前の「日清戦争」で明白になっており、日本陸軍の課題となっていました。
日露戦争開戦前の世界各国の前評判では、「海軍はともかく、陸の戦いで日本はロシアに全く歯が立たないであろう」と言われていました。日露戦争は「自動車や戦車が投入されなかった最後の戦争」と言われており、軍馬の機動力、輸送力は戦局を左右する重要な要素だったのです。
そして何よりロシア軍は、世界最強と謳われた「コサック騎兵」を擁していました。
さて、前回私は沙河会戦を終えた日露両軍が、満州で対陣したまま膠着状態に入っていた事を書きました。
日露両軍共に歴戦の損耗が激しく、戦闘を行える状態ではなかったのです。
しかし1905年の1月になり、旅順攻略戦が終わると戦局は再び動き出します。
ロシア軍は大規模な騎兵隊を投入し、日本軍の後方を威力偵察しました。
そしてこの偵察によって、ロシア軍はついに日本軍の弱点を見つけ出したのです。
日本軍は東西方向に幅広く布陣しており、中央の防御こそ厚かったものの、場所によってムラがありました。
ロシア軍の偵察行動を察知した秋山少将は、「敵軍の大作戦の予兆あり」と総司令部に警報を送り続けましたが、「極寒期に軍隊が積極的に動くはずがない」と考える司令部に、ことごとく無視されてしまいます。
しかし歴史上、寒さはロシア軍にとって「地の利」となってきました。
ロシア軍にとって、冬将軍は味方なのです。
さらにロシア軍の背後には、シベリア鉄道による補給が続々と届いていました。
1月22日、ロシア軍は10万の軍勢で攻勢に出ます。
当然、守りの薄い秋山支隊が敵の銃弾に晒される事になりました。
ここで秋山支隊は脅威的な粘りを見せる事になります。
秋山少将は、普段から「騎砲兵」の重要さを説いていました。
日本の軍馬が劣っている事を認識し、騎兵同士の戦いでは勝ち目がないと考えていたのです。
秋山支隊は、騎兵部隊を中心に砲兵、工兵などを随伴させた混成部隊でした。
そして戦闘になると馬から降り、「機関銃」でロシアのコサック兵を馬ごとなぎ倒していったのです。
これは騎兵の常識を打ち破る画期的なアイデアでした。
この秋山支隊の戦いは日本軍の突破口となり、日本軍はロシア軍の撃退に成功する事になります。
この戦いは「黒溝台会戦」と呼ばれ、10万のロシア軍を5万の日本軍が撃退する奇跡的な勝利となりました。
これをきっかけに日本軍は反転攻勢に出ます。
日本軍は、「奉天」に陣を構えるロシアの主力軍に、最後の決戦を挑むのでした。
日露戦争中の日本の軍馬 |
昭和13年に建てられた軍馬忠霊塔 戦場で傷つき、日本軍を目で追う事しかできなくなった軍馬をイメージして作られました。 |