2019年6月5日水曜日

日露戦争7 旅順港は見えたか

旅順港は、元々は清国の軍港でしたが、日清戦争の後に三国干渉によってロシアの手に渡る事になりました。
しかし防御施設が旧式で不十分であった為、ロシア軍は旅順港を取り囲む高地に防御線を設定し、要塞を築く事にします。
旅順港を取り囲む要塞
この旅順要塞には深い堀や障害物、高圧電流が流れる鉄条網が張り巡らされました。
建設に携わった清国人は皆殺されてしまい、日本軍は要塞の情報をほとんど手に入れる事ができませんでした。その為、当初は「封鎖監視で良い」と陸軍内で認識されていた旅順要塞ですが、満州へ向けて北上する陸軍の背後に、二個師団3万人のロシア兵を温存させる事は非常に危険だという考えから、陸軍内からも「旅順要塞攻略」の必要性が唱えられ始めました。
しかし海軍は、独力での旅順艦隊殲滅にこだわり、陸軍の介入を拒みました。
その海軍の態度が一変したのは、第三次旅順港閉塞作戦に失敗し、後がなくなってからです。
陸軍にしてみれば、いきなり
「バルチック艦隊が出発したから、到着するまでに旅順要塞を攻略して!なるべく早くね。そいでその後すぐに満州に行ってね」
と無茶な要求をされたワケです。
こうして乃木希典率いる第三軍は、まともに情報収集をする間も無く旅順要塞へ挑む事になりました。
8月19日、5万の兵力と380門の火砲を用いて旅順要塞に対する総攻撃が開始されました。
二日間に渡る砲撃戦で敵軍の砲台や弾薬庫に大きな損害を与え、日本軍将兵の士気は大きく高まります。
しかし、いざ日本軍が突撃を開始すると、要塞に備え付けられた機関銃によって日本軍は大損害を被りました。
等間隔に斃れた日本兵はさながら「編み物」の様だったそうです。
そして鉄条網や落とし穴などの仕掛けに、日本兵達は意味もわからず死んでいきました。
それでも果敢に攻め込む日本軍は、敵陣地を奪ったり獲り返されたりと攻防を繰り返しますが、日本軍の戦死者はついに5000名を越え、第一回総攻撃は中止されました。
この総攻撃の失敗により日本陸軍は当面の間、満州に陣取るロシア軍と旅順の二方面に戦力を分散せねばなりませんでした。
8月末、日本軍は「遼陽」に陣地を構築していたロシア軍主力と決着をつけ、早期講和を目論みます。
鴨緑江を北上した第一軍、遼東半島から北上した第二軍、そしてそれらの中間点の大弧山から上陸した第四軍がそれぞれ遼陽を目指しました。
迎え撃つ遼陽のロシア軍の兵力は15万。日本軍は12万で、戦力不足は明白でした。
しかしそれでも「敵戦力の殲滅」が目的であった日本軍は、第一軍を東に迂回させ、少ない兵力ながらもロシア軍を包囲すべく戦います。
ロシア軍は退路を絶たれる事を恐れてさらに北方の「奉天」まで撤退しましたが、日本軍の死傷者も23000名に達し、弾薬も尽きてしまったので追撃できませんでした。
日本軍はこの会戦に勝利したものの、ロシア軍主力を殲滅する事はできず、ロシアとの「早期講和」は実現しませんでした。
大激戦となった「遼陽会戦」でしたが、その凄まじい戦いの中でひときわ勇猛に戦い、数多くの銃弾を浴びながらも死ぬまで味方を鼓舞し続け、壮絶な死を遂げた「橘周太中佐」は後に軍神と呼ばれるようになります。
橘中佐の像(長崎県雲仙市 橘神社)
遼陽会戦が終わって一ヶ月、早くも体制を立て直したロシア軍は、満身創痍の日本軍に襲いかかります。
意表を突かれた日本軍は遼陽を出て「沙河」で迎え撃ちました。
大兵力を集結させた22万のロシア軍に対し、12万の日本軍は弾薬も乏しく圧倒的に劣勢でしたが、日本軍は効果的に夜襲を行い、ロシア軍を撤退させる事に成功しました。
この戦いでの日本軍の死傷者は20000名。
日本軍は辛勝を続けてはいたものの、確実に継戦能力を消耗していきました。
この「沙河会戦」を終えた10月以降、日露両軍は弾薬の補給と陣地の強化、寒さ対策の為に三ヶ月ほど対陣したまま、満州戦線は膠着状態となります。
そして戦いの舞台は再び旅順へと移るのでした。
第一回目の旅順総攻撃では、大本営からの早期攻略要請に応えるために突撃強襲戦法を行い甚大な被害が出たため、乃木希典大将は戦法を正攻法へと変更しました。
弾薬不足などを理由に突撃強襲戦法を支持する声も多い中での、乃木の決断でした。
塹壕を掘りすすみ、安全な突撃陣地を構築し、さらに日本本土から28センチ砲を取り寄せました。
10月26日、第二回旅順総攻撃が開始されました。28センチ砲は4日間に渡り火を吹き続けます。
28センチ砲
そして10月30日、歩兵部隊による攻撃が開始されましたが、要塞の強固さは予想以上のもので、戦果は一箇所の砲台を占拠するのみに留まりました。
日本軍は1000名の戦死者を出したところで総攻撃の中止を決定、第二次総攻撃は失敗に終わります。
二回に渡る総攻撃の失敗は、バルチック艦隊を異常なまでに警戒する海軍を大いに失望させました。
海軍からは、要塞攻略よりも旅順港を観測できる「203高地」を攻略せよとの声が上がり、参謀本部もそれを支持しました。
しかし203高地攻略が決定したにも関わらず、第三軍の上級司令部である満州軍の司令官、大山巌元帥はこれを受け入れず、あくまでも要塞攻略を目標としました。
こうした上層部の食い違いは、乃木希典率いる第三軍を混乱させてしまいます。
そのような状況下で、11月26日に第三回旅順総攻撃が実行されました。
地下道を掘り進め、敵軍の堡塁(ほうるい)の下に爆薬を仕掛けるなど、新しい戦法が試されましたがロシア軍の反撃は激しく、日本軍の攻撃は頓挫します。
夕方になり各師団の攻撃が失敗した事が判明すると、乃木は夜間突撃を決意します。
そして敵味方の判別をつけるために白いタスキをかけた3000名の将兵に向かってこう訓示しました。
「北陵には敵軍の大増加あり。
海にはバルチック艦隊の来航近きにあらんとし、国家の安危は我らの正否如何にあり。
この時にあたり、この独立隊突撃の壮挙を敢行す。
予は死地に臨まんとするこの隊に対し、嘱望の実に切実なるものあり。
諸氏が一死を以て国恩に報ずるはまさにこの時にあり。
願わくば努力せよ。」
26日夜半、白タスキ隊は一斉に突入を開始します。
結局、2000名の死傷者を出し白タスキ隊の攻撃は失敗に終わりましたが、堡塁や砲台を守るロシア軍守備兵も数名の生き残りしかおらず、もう一歩で突破されるところでした。
ロシア軍は皆、白タスキ隊の勇猛さに驚嘆したといいます。
白タスキ隊
乃木将軍は、第三回総攻撃が失敗に終わると要塞正面への攻撃を諦め、「203高地」へと目標を切り替えました。
実は旅順要塞は、日露戦争開戦の時点で、ロシア軍の資金不足によってまだ40%程度の完成度しかなく、特に203高地の防御は未完成のままでした。
日本軍の動きを察知したロシア軍は203高地の守備兵力を増強、万全の体制で日本軍を迎えうちます。
11月27日、203高地へ28センチ砲が火を吹き、突撃が開始されました。
熾烈な山頂争奪戦が繰り広げられ、日本軍が203高地を完全に占領できたのは12月5日のことでした。
この戦いでの日本軍の戦死者数は5000名、乃木将軍の次男も戦死し、乃木は完全に後継ぎを失うことになりました。
203高地を制圧した日本軍は旅順港を完全に観測する事が可能となり、旅順艦隊に砲撃を行い壊滅させる事に成功します。
その後、旅順要塞へも攻撃が続けられ、年が明けた1月1日、ついに旅順要塞司令官ステッセリが降伏し、旅順要塞は陥落しました。
1月5日、乃木とステッセリは会見を行い、両軍の武勇を讃え合います。
「ヨーロッパ最強の軍隊でも旅順要塞攻略には三年かかる」と言われた難攻不落の要塞は、名将・乃木によって半年で落とされたのです。
日本がロシアに勝利するために越えなければならないハードルは後二つです。
満州に居座るロシア陸軍を掃討する事、世界最強のバルチック艦隊に勝利する事。
しかしこれまでの戦闘での損耗はあまりにも大きく、この時点で既に日本は国力の限界を超えていました。