長州藩士として生まれた乃木は、長州征伐、秋月の乱、西南戦争、日清戦争、台湾平定など、日本の近代化を見届けつつも荒波を潜り抜けてきた猛者です。
しかしこの日露戦争は、彼のその後の人生に暗い影を落とすものになってしまいました。
乃木希典 |
まず、海軍によって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅し、黄海・対馬海峡における制海権を確保する。
陸軍の「第一軍」が朝鮮半島へ上陸し、朝鮮半島のロシア軍を駆逐する。
そして「第二軍」が遼東半島に橋頭堡を築き、旅順要塞を孤立させる。
そして満州でロシア軍の主力と決戦を行い、早期講和へと導く。
しかし実際にはこの青写真通りにはいかず、海軍は旅順のロシア太平洋艦隊を無力化できずにいました。
最初から躓いてしまった海軍は、陸軍に旅順要塞の攻略を要請します。
そして陸軍は「第三軍」を編成し旅順を目指すのでした。
第三軍の司令官は乃木希典です。
1904年5月1日、第一軍は朝鮮半島の仁川から北上し、朝鮮と清国の国境、鴨緑江を越えて満州へと向かいましたが、これを待ち構えていたロシア軍と戦闘になりました。
この「鴨緑江会戦」において、ロシア軍は日本軍を侮り兵力を分散配置していた為に、日本軍はロシア軍の撃退に成功します。
しかし日本軍1000名、ロシア軍1800名と、多大な死傷者を出すことになりました。
第一軍の「鴨緑江会戦」によって朝鮮半島北部のロシア軍を後退させる事ができた日本軍は、さらに第二軍によって遼東半島へ進軍し、旅順を孤立化させる事にします。
ロシア軍は旅順への入り口となる「南山」に要塞を築いていました。
塹壕を掘り、鉄条網を張り巡らせ、地雷を埋設した上に大砲や機関銃を備え付けた近代的な要塞でした。
日本軍は勇猛に粘り強く戦い、ロシア軍は砲弾を打ち尽くして撤退する事になりましたが、日本軍の損害は大きく、兵力4万のうち4千名の死傷者を出してしまいました。
大本営はその数の多さに「桁を間違っているのではないか」と驚いたと言われています。
「機関銃」の登場によって、戦闘による被害がこれまでの戦争とは全く違う規模になってたのです。
乃木大将も、この戦いで長男を失ってしまいます。
南山の戦い |
「南山の戦い」を戦った第二軍はそれを迎え撃つために北上し、「得利寺」でロシア軍と激突し、これを撃退します。
そしてそのまま補充する暇もなく「大石橋」に陣取るロシア軍への攻撃を仕掛け、ロシア軍を遼東半島から追い出す事に成功しました。
「南山の戦い」「得利寺の戦い」「大石橋の戦い」によって、第二軍は遼東半島を制圧し、旅順を孤立させる事ができました。
一方その頃、旅順港内のロシア艦隊は、「バルチック艦隊による救援を待つか」「出港してウラジボストークまで航行するか」で意見が分かれていました。
ロシア太平洋艦隊の司令官ステパン・マカロフは、既に日本軍との戦闘で死亡していたのです。
確かに旅順港内は外海からは見えませんが、間接照準で砲撃する事は可能で、徐々に日本軍の砲撃による命中弾が出始めていました。
損害の出た艦船を修理しようにも、旅順港内には戦艦規模の修理ドックがなく、ウラジボストークに行く必要があったのです。
8月10日、旅順のロシア太平洋艦隊はついに旅順港を出発しウラジボストークへ向けて出港しました。
待ち構えていた連合艦隊にとっては、絶対に逃してはならない旅順艦隊殲滅のチャンスです。
当時の日本海軍では、「艦隊同士の海戦では、敵に側面を向けて攻撃すると効果的」という事が日清戦争によって認識されていました。
よって、敵軍の艦隊列の進行方向を、自軍の艦隊列が遮るような「T字」の戦列に持ち込んで、敵の先頭艦に集中砲撃を浴びせることが理想とされる「丁字戦法」が唱えられていました。
丁字戦法 |
しかし旋回するのが早すぎて、連合艦隊の動きを察知されてしまい、ロシア艦隊は逆方向へ旋回を開始、互いの艦隊は完全にすれ違い、あわや取り逃がしてしまうところでした。
数時間の戦闘の後、沈没艦こそ出さなかったもののロシア艦隊のダメージは大きく、ウラジボストークへ向かうことを諦めてロシア艦隊は旅順へ帰還しました。
この「黄海海戦」でロシア艦隊を殲滅できていれば、旅順要塞を攻略する必要もなかったのですが、日本海軍は敵艦を沈めることもできず、ロシア太平洋艦隊が機能しないほどダメージを受けた事も知らず、その後も旅順港殲滅に固執する事になります。
その頃、旅順港を出港したロシア艦隊に呼応して、ウラジボストークからも巡洋艦隊が出撃していました。
実は「ロシア太平洋艦隊」は、主力の旅順艦隊と、ウラジボストーク巡洋艦隊に分かれていたのです。
日露戦争が始まって以降、このウラジボストーク巡洋艦隊は旅順とは別行動を取り、通商破壊活動を行っていました。
6月には輸送船団が襲撃され兵員千名が死亡する「常陸丸事件」が起こっており、巡洋艦隊を捕捉できていない海軍に対し、国内から非難の声が寄せられていました。
8月10日に旅順艦隊がウラジボストークへ向けて一か八かの脱出を図ると、それを援護するためにウラジボストーク巡洋艦隊も出撃します。
8月14日、ウラジボストーク巡洋艦隊は朝鮮半島南部の蔚山沖で日本軍の巡洋艦隊と遭遇し、戦闘になりました。
この「蔚山沖海戦」では、ロシア側は一隻沈没、二隻大破という損害を被ります。
日本軍の指揮官・上村 彦之丞(かみむら ひこのじょう)は、沈みながらも砲撃をやめない敵艦リューリク号を見て、「敵ながらあっぱれである。生存者は全員救助し丁重に扱うように」と命令し、ロシア兵627名を救助しました。このエピソードは、海軍軍人の手本として全世界に広まりフェアプレー精神の手本とされているそうです。
上村 彦之丞 |
第二軍による遼東半島の制圧、海軍による制海権の確保によって、旅順要塞のロシア軍は完全に孤立する事になります。
これによって「第三軍」による旅順攻略戦が始まるのです。
ここから日露戦争は急速に激化していき、その戦いは凄惨を極めていくことになるのでした。