2019年6月5日水曜日

日露戦争5 セーラー服と機関銃

こんな話を聞いた事があります。若い兵士が戦地から郷里の母親に宛てて送った手紙の内容の変化についてです。
かつて戦争が剣や槍で戦うものだった時代には
「人を殺した事の罪悪感」
「敵を貫いた剣や槍を通して伝わってくる息絶えた敵兵の重さの心地悪さ」
などが書き綴られていたそうですが、銃が登場してからは
「敵を何人殺したか」
を自慢するような手紙が多くなったそうなのです。
15世紀前半に火縄銃が発明されて以降、銃は戦争と歴史を共にしてきましたが、ほんの150年前に「ライフル」が登場するまでは、弾がどこに当たるかわからない程度の命中率でした。
「戦列歩兵」のように、大勢で隊列を組んで「一斉射撃」をするような戦術で運用されていましたので「自分が発射した弾が敵を殺した」という実感が湧かなかったのかもしれません。
昔の銃は、横一列で一斉射撃しないと当たらなかった
しかし銃の進化とともに命中率も上がり、ライフルの登場によって「狙い撃ち」ができるようになると状況は変わってきます。
「弾丸を装填する」「照準を定める」「引き金を引く」これらの手順を踏めば確実に敵兵を殺す事ができるようになったのです。
これは兵士達の嫌忌感を呼び起こし、大きなストレスになりました
戦争といえども、平気で人を殺せる人間はそう多くないのです。
アメリカが行なった興味深い調査があります。
南北戦争の時、回収された27000丁のライフル銃のうち、90%には弾が残っていたと言われています。
要するに、実は皆、あまり銃を撃っていないのです。
また、第二次世界大戦でのアメリカ軍においても、8割以上の前線兵士が「敵に向かって発砲しなかった」という聞き取り調査の結果が出ています。
弾を込めて、狙いを定めて、引き金を引く。
戦場でこの動作をしっかり行える人間は20%以下なのだという、その事実はなかなか理解される事なく、銃の進化は一人歩きします。
リチャード・J・ガトリングというアメリカの発明家は、
「一人で100人分の働きをする銃を作れば、兵士の数を減らせるので、戦死者も大幅に減るだろう」
と考え「ガトリング砲」を開発しました。
これが製品化された初の「機関銃」です。
ガトリングの理想とは裏腹に、機関銃は「最凶の兵器」としての道を歩んでいきます。
機関銃は、弾倉さえ装着すれば、弾丸を装填する動作を省略できます。
引き金を引きっぱなしにしておけば自動的に弾が装填され次から次に弾が出るので、狙いを定める必要もありません
「弾丸の装填」→必要ない「狙いを定める」→必要ない「引き金を引く」→引きっぱなし機関銃は、ライフルで人を撃つ際に嫌忌を感じる動作を全てぶっ飛ばしてしまったのです。
そんな恐ろしい武器を初めて実戦で使用したのがイギリス軍でした。
アフリカを舞台にした植民地戦争で、鬼畜イギリス軍は50名の兵士と4丁の機関銃で、迫り来るアフリカ原住民5000名をミンチにしてみせたのです。
イギリス軍の損害はありませんでした。
ヨーロッパ諸国はこの戦果を「アフリカの原住民相手では参考にならない」と一笑に付しましたが、日本はこの戦果を重要視し、機関銃を取り入れた戦術を研究しました。
そしてついに近代国家同士の戦争に機関銃が投入される事になったのが、「日露戦争」なのです。
日戦戦争で1000名だった日本軍の戦死者数は、日露戦争では9万人に膨れ上がっています。
その背景には「機関銃」の存在がある事でしょう。
日露戦争で各国が目の当たりにした「機関銃の威力」は間違いなく戦争の在り方を変えました。
そして機関銃に対抗するために戦車や航空機が発展して行き、戦争の形は人と人が戦うものではなく、機械同士の無機質なものになって行きました。
そしてその無機質な戦いは、想像を絶する大きな犠牲者数を生み出していくことになるのです。