2019年6月6日木曜日

日露戦争10 海の決戦・日本海海戦

これまで多大な損害を出しつつも辛勝を重ねてきた日本軍は、最後の大一番を迎えていました。
バルト海を出発したバルチック艦隊との戦いが近づいていたのです。
この戦いに連合艦隊が敗れて制海権を失えば、大陸に残された日本陸軍は孤立してしまいます。
そしてそれはロシアの逆転勝利を意味していました。
1905年の1月に入ると、日本海軍は来るべき日の為に猛特訓を開始します。
艦隊編成、陣形運動、一斉射撃、命中率、射撃速度、夜戦での魚雷発射など、あらゆる面で血の滲むような猛特訓を行い、精度を高めました。
また、この海戦には必勝を期すために新技術が導入される事になります。
当時の艦砲射撃の砲弾は、敵艦の装甲を貫くには威力が足りませんでした。
その為、日本海軍は貫通力よりも爆発力を優先し「下瀬火薬」を導入します。
この下瀬火薬は非常に高感度で危険性が高く、海軍技師の「下瀬雅允」が自身も暴発事故で重傷を負いながらも完成させたものです。
下瀬火薬の爆発力は当時の常識を覆す程の規模で、命中した瞬間に激しい熱を発し全てを焼き尽くすのでした。
下瀬雅充
さらに、当時の砲弾は「不発弾」が多かったのも深刻な問題点でありました。
そのため、超即働信管である「伊集院信管」を採用します。
「下瀬火薬」「伊集院信管」この二つの新技術により、連合艦隊の砲弾は、敵艦のマストに触れただけでも周囲を火の海にできるようになりました。
さらに日本海海戦は、「世界で初めて無線を使った海戦」とも言われています。
ロシア艦隊が手旗信号で連絡を取り合っているのに対し、日本軍は無線を使って連携をとれるようにしていました。
そして日本周辺に独自の海底ケーブルを敷設し、イギリスのケーブル回線と連携してバルチック艦隊の動向を探ったのです
このように万全の態勢で迎え撃つことができた連合艦隊を、さらにアシストしたのは「日英同盟」でした。
1904年10月に出航したバルチック艦隊は、33340キロもの距離を、半年以上もかけてウラジボストークを目指す事になります。
その航路において、日本海軍を警戒するあまりにイギリスの漁船を日本の水雷艇を間違えて撃沈してしまい、イギリス世論の猛反発を買い、イギリス植民地への入港ができなくなってしまったのです。
ロシアの頼みの綱は同盟国のフランスですが、イギリスが圧力をかけてきた為に積極的な支援を行うことができませんでした。
そのためバルチック艦隊は水・食料の不足に悩まされ、特に石炭においては良質な「無煙炭」をイギリスに抑えられてしまい、劣悪な石炭しか手に入れることができませんでした。
その結果、バルチック艦隊は黙々と黒い煙を上げながら航行する事になってしまい、艦隊の位置を周囲に晒し続けていたのです。
バルチック艦隊の航路
そのような状況下で、長旅で疲弊しきったバルチック艦隊は、「とにかくウラジボストークに逃げ込んで態勢を立て直そう」と考えていました。
日本軍にとって最も重要な課題は、「バルチック艦隊がどのルートでウラジボストークへ行くか」を予測する事です。
広い洋上で敵艦隊を捕捉する事は困難ですが、ウラジボストークへ行くには必ず海峡を通らねばなりません。
ならば海峡で待ち伏せすれば良い話なのですが、
最短ルートの「対馬海峡」
太平洋側を回って本州を迂回する「津軽海峡」
北海道を迂回する「宗谷海峡」
という三つの海峡があり、指揮官の東郷平八郎を悩ませました。
戦力を三つに分けて三箇所で迎え討つのが確実ですが、三分の一の戦力では撃破されてしまいます。
宗谷海峡を通るルートでは石炭の洋上補給が必ず必要になるであろう事、津軽海峡には機雷を敷設してある事などから、東郷平八郎
は「対馬海峡」にバルチック艦隊がやってくるだろうと懸け、主力艦を集中配備する事を決意しました。
しかし待てども待てどもバルチック艦隊はやって来ません。
東郷の頭の中には「対馬海峡ではなく、太平洋側へ行ったのか?」という不安と焦りが駆け巡ります。
そこへ、バルチック艦隊に随伴していた石炭運搬船が上海に入港したとの情報が入りました。
運搬船が艦隊から離脱したという事は、洋上での石炭補給が行われない事を意味します。
これは、バルチック艦隊が太平洋側へ行かない事の証明でもありました。
もしこの情報が一日遅れていたら、東郷は連合艦隊を対馬海峡から北海道へ移動させていたかもしれません。
5月27日早朝、仮装巡洋艦「信濃丸」から「敵艦見ユ」の電信を受け、連合艦隊に出航命令が下されます。
旗艦の「三笠」は大本営に「本日、天気晴朗ナレドモ浪高シ」と電文を送ります。
この電文の通り、当日は波が高く、小型の水雷艇は退避させられる事になりました。
連合艦隊の参謀・秋山真之により立案された作戦「七段構え」の第一段階は水雷艇による奇襲攻撃だったのですが、出鼻をくじかれる形となってしまいました。
ちなみに秋山真之は、「黒溝台の戦い」「奉天会戦」において大活躍をした秋山支隊で有名な「秋山好古」の弟です。
秋山真之
さて、対馬近海、12000m先にバルチック艦隊を視認した東郷平八郎は戦艦・三笠に赤・青・黒・黄の4色旗を掲揚させました。
これはアルファベットの「Z」を示す国際信号旗で、「もう後がない」「背水の陣」というような意味が込められていたと考えられます。
このZ旗には「皇國ノ興廃此ノ一戰ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」という文言が当てられており、これは1805年にトラファルガー海戦で英国艦隊がZ旗を掲げた事を模倣したのだと言われています。
ここで少し、日本海軍の戦術について説明させていただきたいと思います。戦艦は艦首・艦尾にそれぞれ甲板上に巨大な砲塔を備えています。
しかし船体の中央部には構造物があり遮られているため、前方に向かって艦尾砲塔を向ける事はできませんし、後方に向かって艦首砲塔を向ける事もできません。
しかし敵艦へ側方を向け、砲塔を旋回されば、艦首・艦尾の両方の火力を集中する事ができ、攻撃力は倍になるのです。
そのような考えに基づいて考え出されたのが「丁字戦法」です。敵の艦隊の進行方向を遮るように隊列を組み、「T字」「丁字」の陣形を作って敵の先頭艦に集中砲火を浴びせるのです。
もちろん、作戦行動中にそんな理想的な隊形が自然に出来上がる事などありません。
日本海軍が最初に「丁字戦法」を試みたのは、ウラジボストークへ逃げ込もうとした旅順艦隊との間に起きた「黄海海戦」でした。
この戦いで、連合艦隊は丁字戦法に持ち込むべく、すれ違おうと直進してくる旅順艦隊に対して横並びになろうとターンをしたのですが、丁字戦法を悟られた旅順艦隊は直ちに連合艦隊とは逆方向にターンし、あわや取り逃がしてしまうところだったのです。
この黄海海戦の失敗を踏まえて、日本海海戦では十分に敵艦に近づいてから旋回を指示します。
バルチック艦隊との距離が8000mに近づいた時、東郷平八郎の右手が上がり、ゆっくりと円を描いて左におろしました。
取舵150度の合図です。
1905年5月27日14時5分、海戦の常識を覆した敵前大回頭「東郷ターン」が行われました。
敵の射程圏内で2分余りを費やして回頭する事は非常に危険な行為でしたが、なんとか回頭を終えた連合艦隊はバルチック艦隊と並航する事になりました。
並航戦となった両艦隊は互いに砲撃をしますが、速度に勝る連合艦隊はバルチック艦隊を次第に追い抜いて行きます。
そしてバルチック艦隊の頭を斜めに抑える陣形になりました。
理想とされていた「丁字戦法」とは言えませんでしたが「イの字」の隊形を作った連合艦隊は、次々とバルチック艦隊を破壊していきました。
猛特訓を重ねていた連合艦隊の射撃精度は、「命中率」「射撃速度」がともにロシア軍の3倍になっていました。
戦闘自体は夜間や夜明けの掃討戦まで続きましたが、勝敗は戦闘開始から30分でついていたと言われています。
バルチック艦隊は21隻を沈没させて壊滅、戦死者は5000名弱、ウラジボストークへたどり着けたのはたったの3隻でした。
連合艦隊は水雷艇を3隻失ったのみで、117名の戦死者を出しました。海戦史上にも例がない程の圧倒的な勝利です。
日本軍の救助活動により捕虜となったロシア兵は6000名、対馬や日本海沿岸に流れ着いた者も住民によって保護されました。
佐世保の海軍病院へ収容されたバルチック艦隊司令長官のロジェストヴェンスキーを見舞った東郷平八郎は、敗軍の将を手厚く労いました。
このような日本軍の紳士的な振る舞いは世界各国から賞賛される事になります。
そしていよいよ日露戦争は終結へと向かうのでした。
ボコボコにされたロシア艦
ロジェストヴェンスキー