2019年6月6日木曜日

日露戦争11 情報戦、勝ったか負けたか

戦争においては、必ずしも軍事力の差がそのまま勝敗に反映するわけではございません。
日露戦争では、10倍の国力を持つロシアに対して日本が講和に持ち込む事ができたのも、軍隊同士の戦いの裏で、もう一つの「陰の戦い」が繰り広げられていたからだと言えます。
陽の当たらないその戦いとは、「情報戦」です。
諜報や謀略から成るその「陰の戦い」の中心となったのは、明石元二郎(あかし もとじろう)陸軍大佐でした。
明石 元二郎

日露戦争の開戦と共に駐露公使館はスウェーデンのストックホルムに移動する事になりますが、明石はここを拠点として活動を開始します。
当時、帝政下におけるロシア国内の政情は不安定でした。
皇帝の一族や貴族などが裕福な暮らしをする中、ほとんどの国民は重税をかけられ苦しい生活を強いられていたのです。
ロシア帝政政府は、国民の不満を政府からそらすために南下政策を強め、さらにユダヤ人排斥主義を助長し、「ポグロム」を推進させました。
ポグロムの犠牲者

明石元二郎はロシア支配下の地域での反ロシア運動を支援し、ロシア国内を内部から揺さぶりました。
様々な反政府運動の指導者たちと連絡を取り合い、デモや破壊工作運動を活発化させ、その鎮圧にロシア軍の兵力を消耗させようとしたのです。
その結果、ロシアの政情はどんどん不安定になって行きました。
そんな中、労働者たちは日露戦争の中止や権利の保障などの要求を掲げてロシア王宮へ行進を行いましたが、政府はこれに対し軍隊を動員し民衆に向かって発砲、1000名を超えると言われる死傷者を出す事になります。
血の日曜日事件

この「血の日曜日事件」によってロシア皇帝の権威は地に堕ちてしまい、ロシア革命が起こるきっかけとなります。
結果的には、明石工作は共産主義革命に力を貸してしまう事になったわけですが、少なくとも日露戦争においては多大な貢献をしました。
さて、奉天会戦や日本海海戦に勝ったとはいえ、ロシアの国力にはまだ余裕がありました。国力を使い果たした日本がロシアを講和の場に引き摺り出すには、他国からの斡旋が必要不可欠です。
日露戦争の終結を想定して外交工作を任されたのは「金子堅太郎」でした。
金子堅太郎は貴族院の議員で、日露開戦に伴いアメリカへ渡っていました。
アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトと親密な関係にあり、私邸への訪問、晩餐会への招待、直接会見など25回にもわたり広報外交を行い、さらに50回もの演説を行いニューヨークタイムズへ寄稿するなど、日本の正当性をしっかりと主張し、アメリカ国内の世論はすっかり対日友好ムードにしてしまいました。
金子堅太郎

アメリカ人の心を掴んだ金子堅太郎は1942年に89歳で亡くなりますが、日米が戦争中であるにも関わらず、金子の死はニューヨーク・タイムズの死亡欄に載り、長文の追悼文が記載されたほどでした。
「金子外交」によってバリバリの親日家になったセオドア・ルーズベルトは、日本からの依頼を受けてロシアに講和勧告を行い、日露和平交渉が行われる事になったのです。
講和交渉というものは非常に重要で、たとえ戦争に勝っていたとしても、有利に交渉をまとめる事が出来なければ、それは負けに等しいものになります。
日本国内では日本の度重なる勝利に酔いしれ、マスコミはこぞって「賠償金」「領土割譲」など講和内容の予測を書き、国民感情をさらに煽っていました。
しかし辛勝に辛勝を重ね、国家予算の8年分を使い切ってようやくたどり着いたロシアとの和平交渉すです。
軍部の人間からすれば、国内で報じられている高額な賠償金など取れるはずもない状況であることはよくわかっていました。
全権大使を任された「小村寿太郎」が交渉のためポーツマスへ発つ時、駅には大勢の人々が集まって大歓声で彼を見送りました。
この時、小村は首相である桂太郎に「この人気は、帰る頃には真逆になっているでしょう」とつぶやいたそうです。
小村寿太郎

日本は同盟国イギリスと打ち合わせをしてポーツマス会議に臨んだのですが、実は日本とイギリスのやりとりは全てロシアに筒抜になっており、ロシアは日本の出方を全て把握した上で交渉に向かう事が出来ました。
日本からイギリスに電信を送る際、デンマーク系の「大北電信会社」のケーブルを使っていたのですが、なんとこの会社の大株主はロシア皇帝だったのです。
大北電信会社

日本とロシアの情報戦、土壇場でロシアに軍配が上がったと言えます。
日本はロシアに対し譲歩した要求しかできず、賠償金も取れませんでした。
ロシアの全権代表であるセルゲイ・ウィッテは交渉後に「勝った」と叫んだと言われています。
セルゲイ・ウィッテ

南樺太を手に入れた日本にできた、初めての国境線
賠償金を取れなかった事に怒った日本国民は、ポーツマス条約反対を掲げた野党議員の集会に集まりデモを起こし、17名の死者を出す暴動へ発展しました。
(日比谷焼打事件)このような事から「戦争に勝って外交に負けた」などと揶揄される日露戦争の勝利ですが、それでも「満州からロシアを排除する」という戦争目的はしっかりと達成しており、日本の勝利は世界中に大きな影響を与えました。
日露戦争に日本が勝利した事は、20世紀最大の「大事件」であり、世界史における「白人世界」に一つの区切りをつけたのです。
そして白人国家の植民地支配下にあったアジアやアフリカの有色人種に希望と勇気を与え、民族独立の可能性を切り開きました

1921年に皇太子(後の昭和天皇)が第三艦隊でスリランカに入港された際、日本海軍を一目みようと多くの人々が集まりました。
その中の一人の母親が、子供にこう語りかけていました。
「見なさい、あれがロシアを打ち破った日本海軍です。私たちと同じアジア人なんですよ」
母親に手を引かれて日本海軍の艦隊を見ていたその少年は、のちにスリランカの大統領となる「ジャヤワルダナ」でした。
ジャヤワルダナ大統領はサンフランシスコ講和会議の演説で日本を救ったとして有名です。
日露戦争の勝利は、思わぬ形で還ってくる事になったワケです。
イギリスのタイムズ社が「日露戦争以降、これまでのように白人が植民地をケーキのように切り分けることは不可能になった」と書いているように、日本の勝利は間違いなく世界のパワーバランスを崩しました。
そしてロシアの矛先はアジアではなくヨーロッパへ向けられるようになり、親日的だったアメリカは、日本を敵視し始めます。
白人を中心として出来上がっていた帝国主義の秩序が崩され、世界は混沌としていき、二度に渡る世界大戦へと繋がって行くのでした。
最後に名将・乃木希典の事を書いて終わりにしたいと思います。
乃木大将は多くの将兵を死なせてしまった事を死ぬまで悔やんでいました。
日露戦争の英雄」として師範学校の講演を依頼された時、演壇に登ることもなく立ち尽くし、
「私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります。」
と一言だけ話して涙を流し、その姿を見た生徒も先生も共に涙を流したと言います。
そして乃木は時間さえあれば戦死者の遺族や廃兵院を訪問し、両手を失った者のために「乃木式義手」を開発しました。
乃木式義手

日露戦争で二人の息子を失った乃木の最期は、「乃木家を断絶させる覚悟」と遺書に記し、明治天皇の大葬の日に妻と共に自刃します。
明治時代に全てを捧げた名将・乃木希典に敬意を払って、日露戦争のまとめを終わらせていただきます。
自決当日の乃木夫妻