2019年5月19日日曜日

明治維新16 北海道のジャガイモが美味しい理由

「ドイツ料理」と聞いてもあまり食す機会が少なく、すぐにピンとは来ませんが、どんな食材が思い浮かぶでしょうか??私の頭に浮かぶのは・ジャガイモ・ソーセージ ・チーズ・パン等です。
トウモロコシもよく使用されるみたいですね。
そしてこれらの食物を思い浮かべた時、日本のとある場所が連想されてこないでしょうか?
北の大地「北海道」です。
北海道の農産物は、ドイツ人が喜びそうなものばかりなのであります。
実は、これは偶然ではなく、ドイツと北海道の歴史的な繋がりによる必然なのでした。
そして、それは明治維新に大きく関わっているのです。
話は変わりますが、「戊辰戦争」と言えば、「薩摩藩・長州藩を中核とする新政府軍と、旧幕府勢力の戦い」という認識を私はしておりました。
新しい時代を作る新政府軍に対し、旧体制に固執する旧幕府勢力の戦い。
まるで「善と悪」の二元論で片付けられてしまいそうな、そんなイメージを与えられていたような気がします。
しかし調べていくと、戊辰戦争において新政府と旧幕府が直接戦ったのは、初戦の「鳥羽・伏見の戦い」くらいで、「江戸無血開城」の後のに起こった「東北戦争」は、新政府の強硬姿勢が生み出してしまった「第三勢力」との戦いなのだということがわかりました。
幕末の動乱期において、会津藩は「京都守護職」庄内藩は「江戸市中取締」として、治安維持に当たっていました。
要するに反幕府勢力を取り締まっていたでのす。
その経緯から、会津藩、庄内藩と新政府は、非常に仲が悪かったと言えます。
そして、鳥羽・伏見の戦いが起こった事により徳川慶喜に次いで会津・庄内両藩も「朝敵」に認定されてしまったのです。
新政府は仙台藩に対し、会津藩を討伐するよう命令を出しましたが、会津藩に出兵する理由も特にない仙台藩は兵を出しませんでした。
会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)は謹慎し、謝罪状を提出して恭順の姿勢を示す一方、新政府への降伏は拒み、庄内藩と「会庄同盟」を結んで最新式の「スナイドル銃」などを購入して軍備を整えました。
会津藩は防衛と和平の二方向の体制を整えたのです。
しかしこのような会津と庄内の動きは、新政府の態度を硬化させた一因であったかもしれません。
新政府は会津、庄内両藩を討伐すべく、奥羽鎮撫総督府を仙台に置き、東北諸藩に会津討伐を命じました。
この時はまだ江戸城無血開城は為されておらず、江戸城総攻撃のために兵力を集中していたために、東北へ兵力を割く余裕がありませんでした。
奥羽鎮撫総督府の兵力はわずか570名。
これでは東北同士の戦争を避けたい東北諸藩を従わせる為の圧力とはなり得ません。
仙台藩、米沢藩を中心とする東北諸藩は会津、庄内藩へ寛大な処置を求める嘆願書を奥羽鎮撫総督府に提出しましたが、却下されて逆に再度討伐命令を下される有様でした。
しかし東北諸藩としては、いきなりやって来た新政府軍に「会津を討て」と言われても、従う道理がないのです。
さらに、奥羽鎮撫使達は東北に来てからかなり横暴な行動をとっており、東北諸藩の反発を買っていました。
奥羽鎮撫総督府の参謀「世良修蔵」は、東北諸藩からの和平の斡旋をことごとく蹴りました。
世良修蔵
その強硬な態度を不審に感じた仙台藩が、彼の周囲に探りを入れてみると、一通の密書を手にすることができました。
その密書は、兵力不足によって奥羽鎮撫がうまく進展しない為、増援を願い出る内容のものだったのですが、その中に「奥羽皆敵」という言葉が含まれていたのです。
この言葉を、「世良修蔵は奥羽全土を武力討伐しようと画策している」と捉えて激昂した仙台藩は、藩士を送り込んで世良を捕獲し、処刑してしまいました。
・奥羽鎮撫使の横暴、執拗な会津討伐命令などに対する不満
・奥羽鎮撫総督の強硬姿勢によって、東北諸藩は会津・庄内藩に着くか、新政府に着くかの二者択一を迫られていた事
・奥羽鎮撫総督府参謀・世良修蔵の斬首
これらの理由により、東北諸藩と新政府との対立は不可避になりました。
その頃、江戸では無血開城が実現し、徳川幕府は完全に解体されました。
しかしそれに納得しない徹底抗戦派の旧幕臣達により、2000名の旧幕臣が船橋大神宮に陣を張って新政府軍と戦った「船橋の戦い」や、徳川家の聖地である「日光廟」で決戦を行うべく北上した旧幕府軍勢力と新政府軍との間で繰り広げられた「宇都宮城攻防戦」、上野寛永寺に立てこもる彰義隊との「上野戦争」などの争いが起き、その戦いの結果、新政府は江戸における反乱分子の制圧を完了しました。
新政府軍の勢力が東北へ迫る中、東北諸藩は結束し、団結することになります。
奥州、羽州、越州などの31藩による「奥羽越列藩同盟」の誕生です。

こうして、戊辰戦争の後半戦は、新政府軍VS奥羽越列藩同盟という構図が完成します。
ところで、江戸で起こった「上野戦争」の舞台となった寛永寺ですが、この寺の住職は代々、皇族が務めることになっていました。
上野戦争の際、彰義隊の有志により保護された寛永寺の住職、「輪王寺宮」は、旧幕府海軍の指揮官、「榎本武揚」の助力によって東北へ移ることになり、奥羽越列藩同盟の盟主となりました。
輪王寺宮(北白川宮能久親王)
一説によると、それだけでなく「東武帝」として、東北朝廷の天皇に即位したという話もあります。
この時のことを、海外では「日本には二人のミカドがいる」と報じられています。
奥羽越列藩同盟は、「新しい国」を作ろうとしていたのかも知れません。
これまで、新政府をイギリス、旧幕府をフランスが支援していた事は既に書いて来た通りですが、奥羽越列藩同盟もまた、独自に支援先を探していたようです。
その支援先とは、「プロイセン(後のドイツ)」です。
奥羽越列藩同盟に最新の武器を送り込んでいたのは、プロイセン出身の「スネル兄弟」でした。
兄・ジョン・ヘンリー・スネル
弟・エドワルド・スネル
スネル兄弟の武器商売は、プロイセンと列藩同盟を結びつけるルートとなりました。
そして、プロイセンは北海道に目をつけたのです。
プロイセン公使のマックス・フォン・ブラントは、母国の首相ビスマルクに「プロイセンは、北海道に基地の獲得を目指すべきである」「北海道は気候が北欧に似ており、農業牧畜に適し、5000名ほどの海兵隊で手に入れることができる」という手紙を送っています。
マックス・フォン・ブラント
当時、北海道は「蝦夷」と呼ばれ、東北の諸藩が警備を行っていました。
会津藩、庄内藩はなんと、蝦夷の領地を売却する事でプロイセンとの外交ルートを築こうとしたのでした。
蝦夷
しかしこの案は、イギリス、フランスとの関係を重視したビスマルク宰相によって却下されました。
ラントは以前から北海道に目をつけており、二度に渡って調査を行っています。
そこに同行していたのが、ラインハルト・ガルトネルという商人です。
ラインハルト・ガルトネル
北海道の植民地化案を本国から却下されても、ガルトネルは諦めずに日本で初めて西洋式の農業を持ち込み、開墾して行きました。
これは土地の実効支配とも言えるものでした。
ガルトネルの行った農業は、現在の北海道の農業の原点となりました。
北海道の農産物にドイツ人が好んで食べそうなものが多い理由は、「ドイツ人が住むつもりだったから」だったのです。

結局、新政府が東北戦争・箱館戦争に勝利する事でプロイセンが介入する隙はなくなりました。
そしてガルトネルの報告書を手に入れたアメリカが日本に送り込んだのが「クラーク博士」だと言われています。