【130・140・150高地の戦い】
幸地の激戦から生き残って撤退した日本兵たちは、南方の弁ヶ丘北東地区を守備につきました。
しかし重火器は尽き、戦力実数は一個中隊ほどにまで低下していました。
弁ヶ丘の北方に位置する「130」「140」「150」の3つの高地は、首里まで直線距離にして約2km、150高地からは迫撃砲の射程距離にも入る位置で、首里防衛のための最後の要地と言えます。
幸地の戦いが集結した5月10日の翌日には、米軍の130・140・150高地への侵攻が始まります。
平地から突き出た岩だらけの130高地を、その姿から米軍は「チョコレートドロップ」と呼んでいました。
この付近は沖縄では最大の地雷原となっており、米軍の戦車を悩ませました。
貧弱な武器と少ない兵力であるにも関わらず、日本兵達は果敢に戦いました。
わずかな兵力ながらも反斜面陣地を生かして戦い、正確な射撃は米兵たちを震え上がらせました。
とある小隊では、その狙撃で全ての下士官と一等兵を1日で失ったほどです。
地雷と対戦車砲によって米軍の戦車は次々と撃破され、戦車に随伴していた米兵達は機銃掃射を浴びせられて全滅していきます。
前線に陣地を構えようとするものなら忽ち夜襲をかけられて撤退せざるを得ない有様で、米軍の侵攻は思うように進みませんでした。
しかし圧倒的な兵力差を前に、徐々に日本軍は包囲されていき、3つの高地は占領されてしまう事になります。
米兵達は日本軍の地下壕を発見しては次々と爆破していき、日本軍の各隊には無線で撤退命令がくだされました。
150高地を守備していた伊東大隊は、爆破された地下壕の中で生き埋めになっていましたが、5月21日未明になんとか這い出して脱出する事に成功しました。
300名以上いたはずの大隊も生存者は残り25名、それでも次の戦場へ向かって撤退を開始するのでした。
この川の河口は狭いものの、非常にぬかるんでいて、橋はすでに日本軍によって破壊されています。
米軍は9日に17名の偵察部隊を渡河させて様子を伺います。
対岸の稜線の低い部分には大きな洞窟の開口部があり、内部には狭い通路があって線路が敷かれていました。
このような洞窟は他にいくつもあり、偵察隊が爆雷攻撃によって破壊しようと斜面を登り始めた時、突如として日本兵があらゆる方向から攻撃を仕掛けてきました。
第22海兵連隊K中隊のポール・ダンフェイ中尉は「この地獄から抜け出すんだ!」と叫んで撤退を指示します。
ダンフェイ中尉はマーシャル諸島やグアム島でも戦闘を経験していますが、このような洞窟陣地を経験した事はありませんでした。
撤退して数時間後の作戦会議にて、どんな砲撃にも耐えられ、銃眼があちこちに向けられている優れた防御陣地に対し、正攻法で攻撃する事に意味はあるのか、とダンフェイ中尉は発言しています。
ダンフェイ中尉はその翌日の戦闘で腹部に銃弾を受けて戦死しました。
5月10日、米軍は安謝川に人員用の橋を構築して渡河を開始しますが、そこに2名の日本兵が爆雷を持って飛びこみ橋を爆破、米軍の攻撃計画を頓挫させます。
しかし米軍は水陸両用戦車を用いて対岸へ物資や人員を増派しました。
安謝川を渡河した海兵隊員たちは地獄に引き込まれる事になります。
第22連隊C中隊の海兵隊員は、まるでハリネズミが作ったかのように張り巡らされた日本軍のトンネルを見て「奴らは簡単には引き下がらない」と覚悟を決めるのでした。
分隊以上の人数で移動すれば忽ち日本軍はどこからともなく射撃を加えてきます。
とある分隊は少し前進しただけで4名の兵士を失いました。
彼らにとって、目標である首里に到達する事など、夢物語に思えてしまうのでした。
それでも米軍にとって、安謝川から数十メートル先にある安謝南東稜線、通称「チャーリー・ヒル」は、安謝川渡河の確保と、進軍する米軍の支援に重要な拠点であるため、必ず制圧せねばならない場所でした。
5月11日、C中隊は256名の隊員のうち戦死35名、戦傷者68名、後世に「チャーリーヒルの試練」と呼ばれた40%の損耗率を叩き出す激戦を耐え抜き、ついにチャーリーヒルの頂上を確保することに成功します。
その後、米軍は天久台に到達。
天久台は那覇市街を見渡せる高台になっており、ここを制圧すれば那覇市街を砲撃の射程圏に収めることができる、米軍にとって重要な場所でした。
ここでも日本兵による夜襲切り込みなどの激しい抵抗が行われましたが、5月15日には守備隊のほとんどが戦死し、天久台での戦闘が終結します。
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