お金の話をしますので、参考として過去の記事を貼っておきます。
支那事変4 日本経済近代史
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清の時代から伝統的に、支那で流通していた貨幣は「銀貨」が一般的でした。
そして中華民国の時代においては、その発行はそれぞれの銀行が独自で行っていました。
中華民国の政治基盤は非常に軟弱で近代的な統一国家と呼べるものではなく、各地で軍閥が割拠して独自の政権を主張していたので、国家としての統一貨幣が存在していなかったのです。
その為、銀行の信用度によって銀貨の価値も変動し、使用地域なども制限されていました。
軍閥割拠 |
1928年に「北伐」を完遂して一応の中華民国統一を果たした蒋介石は、南京国民政府の名の下に経済活動の統一化を目指し、共通貨幣の獲得に向けて動き出します。
これに伴い、上海に「中華民国中央銀行」が設立され、支那の銀行業務は国民党の指揮下に置かれました。
この銀行の監事会首席に就任したのは、もちろんあの「浙江財閥」の銀行家です。
中央銀行はさっそく銀行券の発行を開始しますが、すぐに世界恐慌の荒波に飲み込まれる事になります。
世界中で起こった「金本位制」の崩壊の影響を受けて、中華民国の「銀本位制」も深刻な打撃を受け、経済は破局的な状態となってしまいました。
1934年、蒋介石は抜本的な経済改革に乗り出します。
銀本位制を放棄し、国内での銀の流通を禁止して国有化し、不換紙幣「法幣」を発行しようとしたのです。
単位は「元」 |
このような「幣制改革」に介入して支那利権を貪ろうと、舌なめずりをしながら様子を窺っていた国がアメリカです。
支那で大きな既得権益を有していたイギリスはアメリカの動きを警戒し、日本を抱き込んで対抗しようと画策しました。
イギリスの経済学者のフレデリック・ウィリアム・リース・ロスは、日本とイギリスが共同でお金を出し合って、中華民国経済を下支えして法幣の流通を助けよう、と持ちかけました。
その金額は「1000万ポンド」です。
当時のレートでは1ポンドは17、2円、つまり17億二千万円の借款となります。
これは当時の日本の国家予算に匹敵する金額でした。
日本がそれだけの金額を出せばその見返りとして、「満州国を認める」という条件を提示したのです。
国際連盟を脱退した日本にとって、この提案は日本が国際社会へ復帰する最後のチャンスでした。
もしこれを日本が受け入れていれば、再び日本とイギリスが歩調を合わせる事ができ、もしかするとアメリカと戦わなくて済んだかもしれません。
しかし日本はこの提案を一蹴してしまいます。
日本の「円」とリンクしていた満州国や、その付近の自治政府における日本の経済的影響力が弱まるのを恐れた、というのも理由の一つですが、それだけではありません。
日本は、欧米列強による支那での経済活動こそが中華民国の統一を妨げている元凶だと認識しており、延いてはアジアの平和を脅かすものだと考えていました。
イギリスの支那利権を確保するための駆け引きに日本が乗るわけがないのです。
これによって、日本はかつて同盟国だったイギリスと完全に袂を分かつ事になり、まさしく「抜き差しならない関係」になりました。
リース・ロス |
結局、アメリカと中華民国が1936年に「米華銀協定」を結んだことによって、中華民国が国有化した銀を全てアメリカが買い取り、その資金を信用の裏付けとして法幣の紙幣価値を安定させる事になりました。
こうして中華民国経済は「ドル」の支配下に置かれる事になったのです。
これで中華民国は、アメリカと世界一つながりの強い国となりました。
つまり、中華民国と戦うという事は、アメリカに戦争を吹っかけるという事と同じ意味を持つ事になったのです。
アメリカ(America)・イギリス(British)・中華民国(China)という、日本と敵対する「ABC経済圏」が出来上がりました。
これは、後に日本が戦う事になる「連合国」の原型と言っても過言ではないと思います。