2019年8月2日金曜日

支那事変6 上海の女狐



<参考>

清の滅亡〜辛亥革命まで    第一次世界大戦3 清の滅亡
辛亥革命〜上海クーデターまで 満州事変3 中華民国という名の「まぼろし」



「宋美齢(そう びれい)」は清朝時代の1898年に、上海で誕生しました。

上海を拠点に展開する金融資本家集団「浙江財閥(せっこうざいばつ)」の創始者「宋嘉樹」を父に持つ、上流階級の大富豪の家に生まれたのです。

一番上の姉の「宋アイレイ」、下の姉の「宋慶齢」と共に、中華民国の重要人物に嫁ぐ事になる彼女達は、後に「宋三姉妹」と呼ばれることになります。

(彼女たちは「1人は金と、1人は権力と、1人は国家と結婚した」と揶揄されました。)

宋美齢は9歳の時にアメリカへ留学して流暢な英語能力を獲得、大学を首席で卒業します。

宋美齢は、アメリカで受け入れられ支持される土台を青、既に青年期に築いていたのです。

中華民国に帰国した宋美齢は、22歳の時に孫文の家で「蒋介石」に出会います。

蒋介石はこの時宋美齢に一目惚れし、7年の交際を経て結婚することになりました。

蒋介石は孫文に倣って日本で結婚式を挙げたかったそうですが、宋美齢の母の反対もあって、上海で挙式する事になります。

一見、恋愛結婚に見えるこの結婚には、「政略結婚」と言う見方があるのも否めない事でした。

蒋介石は、最初の妻・毛梅福を見捨て、二番目の妻・陳潔如には「これは政略結婚だから5年間我慢してくれ」とアメリカへ追い払い、その他愛人との関係を断ち切り、さらにキリスト教へと改宗し、ようやく宋家に結婚を許されたのです。

そして蒋介石は宋一族の「浙江財閥」という後ろ盾を得る事に成功しました。

浙江財閥は海外の大資本とも強い結びつきを持っており、蒋介石は言わば「世界を味方にしたも同然」と言えました。

蒋介石が国民党内部から共産主義分子を排除した「上海クーデター」も、共産主義を警戒する浙江財閥の後押しがあってこその出来事だったのです。

宋家にしてみても、中華民国の若き指導者に登りつめた蒋介石との関係を築く事は、決して悪い話ではなかったのです。
宋一家。
さて、キリスト教に改宗した蒋介石とその妻・宋美齢を、アメリカは熱烈に支持しました。

「敬虔なクリスチャン夫婦が率いる中華民国が、異教徒である日本国に蹂躙されている」
というイメージをアメリカに刷り込んだのです。

アメリカの政治家やマスコミはすっかりこの夫婦に騙されてしまい、支那事変においてアメリカは国民党に過剰な支援を行う事になるのでした。

TIME誌の表紙を度々飾った蒋介石夫妻
さて、「上海クーデター」によって共産党と袂かち、「国共合作」を終了させた国民党の蒋介石は、「安内攘外(内を安んじ、外を攘う)」という方針をとりました。

まずは共産主義勢力を排除して国内を安定させてから、外敵(日本)を追い払おう、と考えたのです。

蒋介石は「日本軍は軽い皮膚病、共産党は重い内蔵疾患」と語り、日本には譲歩しつつ、共産党には強硬姿勢をとっていたのです。

日本の資本が投入された満州地方の発展を見て、まざまざと国力差を見せつけられ、「今の日本と戦っても仕方がない」と感じた結果でした。
国共合作(蒋介石と毛沢東)
蒋介石は共産主義と散発的な戦いを繰り広げていましたが、1931年、追い詰められた共産党は江西省に集結し、毛沢東を中心に「中華ソヴィエト共和国」を樹立しました。

一方で蒋介石は「共産党掃討作戦(掃共)」を展開すべく、ドイツからの支援を受け入れることにします。

国民党とドイツが急接近した理由としては、ドイツは第一次世界大戦の敗戦によって山東省などの支那利権を失っており、他の列強国と比較して国民の反発が薄れていた事や、かつて清国時代にはドイツの力を借りて軍備の近代化を図っていた事などの理由が挙げられます。(日清戦争で日本海軍のライバルとなった戦艦定遠・鎮遠はドイツ製)

第一次世界大戦の敗戦国・ドイツは、ヴェルサイユ条約によって戦車や装甲車などの近代兵器の製造・輸入を禁じられていましたが、「外国に売るための製造」には記載がありませんでした。

この合法的な「抜け穴」を利用して、ドイツは海外に会社を設立し、そこで兵器を製造するようになりました。

軍隊の近代化が急務である国民党軍と、支那の鉱物などの軍需資源を手に入れて密かに軍拡を計りたいドイツとの間で利害が一致し、「中独合作」が実現したのです。

ナチスドイツは国民党軍に兵器、物資、軍事指導などあらゆる支援を行いました。
ヘルメットの形状がナチスドイツと国民党軍とでは一緒
ドイツ式に近代化された国民党軍は強くなりました。

敗北を喫した紅軍(共産党軍)は江西省の瑞金を放棄し、1934年〜36年までの間、国民党軍に追われながら12500kmを徒歩で逃げる「大敗走」を繰り広げ、ソ連に近い延安へと逃げ込みました。

この長い長い大敗走「長征」の中で、「毛沢東」は着実に共産党の指導者として台頭していくことになります。
逃げるが勝ち
蒋介石に「最後の5分間」と言われるほど追い詰められ、弱体化した共産党でしたが、共産党撲滅に専念する蒋介石に不満を持っている人物が国民党内部に存在していました。

父・張作霖を日本軍に殺されたと信じている「張学良」です。

共産党の北上を食い止める役割を担っていた張学良は、密かに延安で共産党の「周恩来」と会談しました。
張学良
周恩来

1936年12月12日、中華民国の運命を大きく動かす事件が起こりました。

張学良が差し向けた拉致部隊が蒋介石を襲撃し、連行して監禁したのです。(西安事件)

張学良は蒋介石に対し、
・南京政府の改組
・国共内戦の停止
など、8つの要求(要するに、「日本軍と戦いなさい」という要求)を突きつけましたが、蒋介石は頑なに拒否します。
蒋介石を説得する張学良(張学良記念館)


国民党軍や国民党と友好関係にあったドイツ軍は、蒋介石を奪還すべく西安へ爆撃などの軍事行動を起こし、蒋介石奪還を試みます。

長引く監禁生活の中で、蒋介石は今回の拉致には張学良が独断で行ったものではなく、裏で糸を引く者がいて、張学良など何ら決定権を持たないのだと感づきました。

事実、蒋介石の処遇を決めたのは張学良ではなく、周恩来など共産党の代表達です。

西安入りした周恩来達と、蒋介石の妻・宋美齢とその兄・宋子文との間で交渉が行われ、蒋介石は釈放される事になりました。
西安事件後、仲直りしてニッコリ??

どのような交渉が行われたのかは誰の口からも語られることはありませんでしたが、蒋介石はこの後、共産党掃討を撤回し、「第二次国共合作」を成立させて抗日路線を突き進んでいくことになります。

この西安事件、実は当初は支那共産党内部からは蒋介石の死を望む声も出ていました。

しかしソ連のスターリンから「蒋介石を殺すな」という指示が出ていたのです。

コミンテルンは、支那共産党を守り、さらに蒋介石率いる国民党を日本と戦わせることによって、両者の弱体化を狙ったのです。

ここで思い出されるのが、1935年にスターリンが発表した「砕氷船のテーゼ」です。

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアへ向けさせてはならぬ。
ドイツの矛先はフランスと英国へ。
日本の矛先は蒋介石の中華民国へ向けさせよ。
そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。
日独の敗北は必至である。
そこで、日本とドイツが荒らし回って荒廃した地域、つまり砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ」

西安事件は、スターリンが描いた青写真の、「はじめの一歩」だったのかもしれません。

そしてそれは、人類にとっても大きな曲がり角だったと言えるでしょう。

また、朝日新聞の記者「尾崎秀実」は、他の新聞各社が「蒋介石死亡」の誤報に惑わされる中、蒋介石の生存を言い当てるばかりでなく、その後の顛末まで正確に予測しました。

そして腕利きの対支分析家として注目され、近衛内閣のブレーンとして働く事になります。

実はこの尾崎秀実は「コミンテルンのスパイ」であり、以後、日本の機密情報はソ連に筒抜けになってしまいます。
尾崎秀実
満州事変が収束した事によって蒋介石は支那の政情を安定させる事に集中でき、日本との関係も改善の兆しにあったのですが、その束の間の平和も長くは続かなかったと言う事です。

そして1937年、「1発の銃弾」が、日本の運命を大きく狂わせる事になるのでした。