アウステン山平和記念公園 |
1942年12月31日、御前会議にて「ガダルカナル島からの撤退」が決定され、「捲土重来」を意味する「ケ号作戦」が実行される事になりました。
撤退作戦を成功させるには、まずは米軍にその意図を悟られず、日本軍に再び総攻撃の意図がある、と思わせなければなりません。
そのため、駆逐艦による輸送を継続し、さらにヘンダーソン飛行場への航空攻撃を強化しました。
しかし1月25日には72機の零戦と一式陸攻12機がガダルカナル島へ侵攻しますが、ラバウルの基地からガダルカナル島までの片道1000キロの航路はパイロットにとってあまりにも負担が大きく、戦果をあげられませんでした。
そんな中、1月29日、日本軍偵察機がガダルカナル島の南西にあるサンクリストバルの南方に米軍艦隊を発見します。
日本軍は、夜間攻撃を行うためにわざと少し遅れて攻撃隊を発進させ、29日、30日と二回にわたって戦闘が繰り広げられる「レンネル島沖海戦」が勃発しました。
この戦闘により米軍の目をそらす事ができた日本軍は、2月1日からガダルカナル島撤退作戦を決行する事ができたのです。
重巡「シカゴ」 |
1月14日にガダルカナル島最北のエスペランス岬へ上陸したのは、矢野桂二少佐率いる30歳前後の補充兵を臨時編成した750名の「矢野大隊」と、現地日本軍に撤退を伝えるために来た第八方面軍参謀、「井本熊男中佐」です。
15日、井本中佐がガダルカナル島現地の司令官、百武晴吉中将に大本営の決定した撤退作戦を伝えます。
現地の将校は皆、最後の突撃を行い、名誉ある戦死を選ぶべきだと主張しましたが、翌日、百武中将は「大本営の決定に従うべきだ」と決断をしました。
百武晴吉中将 |
これを受けて矢野大隊は最前線へと向かいます。
彼らは、生還を生還を期さない決死の救出作戦を行う為にやってきた陽動部隊であり、撤退完了までの間に防衛線を死守する事が役目なのです。
しかし矢野大隊の将兵たちは皆、自分たちが決死隊である事は知らされてはおらず、あくまでも米軍への反転攻勢の糸口となるための再攻撃だと信じていました。
そんな彼らは補充兵の寄せ集めとは思えないほど、想像以上に頑強な戦いぶりをみせます。
一食分の食料を「1日分」とし、20日以上もの戦いに耐え抜きました。
迫撃砲による集中砲火を浴び、戦車に蹂躙されながらも、爆雷を戦車に貼り付けて破壊する対戦車攻撃や、夜襲、奇襲作戦を展開し、米軍の侵攻を食い止め続けました。
日本軍陣地へ砲撃を加える米軍 |
こうした矢野大隊の奮戦によって、米軍は日本軍の撤退作戦に全く気づかないまま、最初の撤退は2月1日に行われました。
ガダルカナル島に到着した駆逐艦によって、海軍250名、陸軍5160名を収容し、翌日にはブーゲンビル島に帰還することに成功したのです。
2月4日にも再び撤退は行われ、20隻の駆逐艦により海軍519名、陸軍4458名を救出することに成功します。
しかし2度にわたる撤退作戦によって作戦が見破られている可能性も捨てきれず、海軍は3度目の駆逐艦の出撃を拒みますが、陸軍からの強い要請と、全ての駆逐艦長が志願した事により、2月7日に第三次撤退作戦は行われる事になりました。
3度に渡って行われた「ケ号作戦」は、総じて海軍832名、陸軍12198名を救出する大成功を収めました。
米軍が日本軍の真意を理解したのは、その翌日の事でした。
米軍を指揮していたニミッツ提督は、のちに
「最後の瞬間まで、日本軍は増援作戦をしているように思われた。彼らの、計画を偽装させ、果敢に敏速にこれを実行できる能力が、日本軍の残存部隊の撤退を可能にしたのである」
と書き綴っています。
しかしこの成功には、矢野大隊の奮戦があった事を忘れてはなりません。
大本営は、彼らを全滅が前提の「捨て駒」として送り込みましたが、彼らは大隊の半分以上の戦死者を出しながらも、なんと2月4日の時点でいまだに防衛線を死守していたのです。
しかし矢野大隊は最後まで「捨て駒」としての扱いしか受けられず、生き残った300名の兵士達ですら「70名は島に残れ」と言われる始末でした。
矢野少佐は直ちに「ならば全員で残る」と腹を決めました。
足を負傷して歩行困難になっていた宮野政治中尉が見かねて「自分が残ります。」と志願した事により、代わりに宮野中尉率いる傷病者達が現地に残る事になり、矢野大隊は第三次撤退で駆逐艦に乗る事ができたのです。
128人の「宮野隊」はほぼ全滅しましたが、中には捕虜となって帰国する事ができた者もいるそうです。
ガダルカナルに取り残された残置部隊 |
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