ジャワの夜明け |
1942年、1月11日にタラカン島を制圧した日本軍の次なる目標は、ボルネオ島の「バリクパパン」でした。
バリクパパンには製油工場があり、この油田地域をなんとか破壊せずに攻略できないものかと、日本軍参謀は秘密裏でオランダ軍との交渉を行いましたが、オランダ側は降伏勧告を受け入れませんでした。
バリクパパンの製油工場 |
1月21日、バリクパパンを目指して日本軍の輸送船団がタラカンを出発します。
この動きを察知していたのは、連合軍ABDA艦隊です。
ABDAとは「America」「 British」「 Dutch」「Australia」の米英蘭豪艦隊の事で、連合軍がオランド領東インドを日本から守るために結成されたものです。
オランダ軍潜水艦「Kー18」 |
1月24日未明、日本軍の輸送船団はオランダ海軍の潜水艦の魚雷攻撃や爆撃機による空襲、アメリカの駆逐艦の砲撃などによって39名の戦死者をだし、輸送船を5隻喪失する大損害を被りました。
しかし戦局に大きな影響を与える事はなく、日本軍はバリクパパンへ部隊を揚陸させることに成功、坂口支隊はバリクパパンを占領します。
油田はすでに破壊されていましたが、復旧作業によって完全に復活し、戦中の日本を大きく支えてくれることになります。
オランダ軍は、他にもバリクパパンの水道や電気設備などを破壊する「焦土作戦」を行い、日本軍が使用できないようにしていました。
現地住民を追い出して住宅までも破壊する徹底ぶりだったため、日本軍がバリクパパンに到着した時、現地住民たちは皆、飢餓状態でフラフラだったといいます。
日本兵たちが食料を与えると、手を合わせて涙を流しながら抱きついてきたそうです。
敵と戦闘中にも、住民たちはぞろぞろと日本軍のそばにやってくるので、流石に危ないと思った日本兵が「危ない、弾が飛んでくるぞ」と身振り手振りで伝えても、「日本軍は勝つから、後ろにいれば安全だ」と言ってついてくるのでした。
オランダによる非人道的な植民地支配がいかにひどかったのかを感じさせるエピソードです。
さて、いよいよボルネオ島攻略の大詰めに入った日本軍が目指す次なる目標はボルネオ島南端の「バンジェルマシン」でした。
しかし坂口支隊はバリクパパン沖海戦にて輸送船を喪失してしまった為、海路での進軍は困難でした。
そのため、主力部隊は陸路でバンジェルマシンを目指す事を余儀なくされたのですが、400キロあるその道中のうち、100キロはジャングルという悪路でした。
400kmというと、東京から京都? |
1月30日にバリクパパンを出発した坂口支隊は、753もの架橋を作りながら、マラリアで9名の戦病死者を出しながらも2月10日に先頭部隊がバンジェルマシンに到達し、あっという間に占領してしまいました。
バンジェルマシンに進駐する日本軍 |
このような急襲作戦を可能にしたのは、坂口静夫兵団長によって行われた、パラオでの演習でした。
大東亜戦争海戦直前、パラオに駐留した坂口兵団の各隊に、兵団長から
「各隊はジャングル突破の演習をし、平地と変わらないように進めるようにすべし」
とのお達しがあったのです。
ボルネオ島のジャングル |
各隊は毎日、朝から晩までジャングル突破の訓練を行いました。
どうしても木に触れてしまうために、「漆かぶれ」によって兵士たちの顔や体はパンパンに腫れ上がってしまいます。
それでも身体中を包帯でぐるぐる巻きにした兵士達を前に、坂口兵団長は「血を流すくらいなら汗を流せ」と厳しく訓示し、皆それに応えるかのように演習を続けるのでした。
やがてジャングル突破もすっかり慣れてしまい、まるで平地であるかのように進むことができるようになりました。
この訓練の成果は「ジャングルを走破しての奇襲攻撃が多くなるだろう」という坂口兵団長の読み通り、蘭印作戦の大成功に大きく貢献する事になったのです。
しかし、過酷な訓練を強いた兵団長の心中は苦しかったようで、兵舎で眠りにつく兵士達の顔を、窓の外からじっと見ている兵団長の姿を、パラオの人によって目撃されています。
坂口静夫少将 |
日本軍はその後、「アンボイナ事件」で有名なアンボン島や、現在ではリゾート地として名高いバリ島、蘭印とオーストリアを結ぶ要衝ティモール島などを占領していきます。
次回は、蘭印作戦の本丸とも言える「スマトラ島」「ジャワ島」の戦いについて書きたいと思います。