インドネシアの影絵芝居「ワヤン・クリ」 |
12世紀の初めに王国の最盛期を築いた「ジョヨボヨ王」は、宮廷詩人に命じて古代インドの民族叙事詩でありヒンドゥー教の聖典である「マハーバーラタ」をジャワ風に仕立て直させました。
マハーバーラタは、日本で言うなら「古事記」みたいなものでしょうか? |
こうして完成した「バラタユダ」は、国家統一のために同族争いをして大量の犠牲を出した事に対する、ジョヨボヨ王の懺悔の書でした。
king-jayabaya(ジョヨボヨ、又はジャヤバヤ) |
しかし不可思議な事に、バラタユダは単なる文学ではなく、その内容にはジョヨボヨ王の予言が含まれていました。
電線、電話、飛行機、電車などを暗示する言葉が書かれ、中には民族の行く末を指し示す重大な内容もあったのです。
「我が王国は、どこからか訪れる白い人々に何百年も支配されるだろう。
彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。
しかしやがて、北方から白い衣を身につけた黄色い人々が攻めてきて、白い人々を追い出してくれる。
黄色い人々は我が王国を支配するが、トウモロコシの花が咲く前に去っていく。
その後に救世主ラトゥ・アディルが降臨する」
この予言にはいくつものパターンがあり、白い人々を「水牛」黄色い人々を「猿」として表現しているものもあります。
クディリ王国が滅びた後、インドネシアにはイスラム教が広がっていく事になるのですが、「メシア思想」を持つイスラム教にとってこの予言は受け入れやすく、民衆の間に広がって行きました。
やがてその予言通り、ジャワ島は白い人々(白人)に支配されてオランダ領となったわけですが、スラカルタ王家に仕える宮廷詩人「ロンゴワルシト」によって、バラタユダは影絵による歴史劇「ワヤン・マディオ」として公開され、人々に伝承されて行きました。
1932年に出版された本 ジョヨボヨ王の予言が書かれている |
1942年2月14日、スマトラ島の「パレンバン」に日本陸軍の落下傘部隊が降下し、オランダ軍の飛行場を占領する様を見た現地住民たちは、予言通りに「白い衣を纏った黄色い猿がやってきた」と歓喜したと言われています。
空の神兵 |
パレンバンの石油施設の鹵獲に成功した日本軍はスマトラ島を制圧し、蘭印作戦最後の目標であるジャワ島へと侵攻して行きます。
ジャワへ向かうべく、2月18日にベトナムのカムラン湾を出港した日本軍の主力軍を迎え撃つためにABDA艦隊も出撃し、「スラバヤ沖海戦」が起こりました。
2月27日から3月1日にかけて激しい海戦が繰り広げられますが、統率に欠けるABDA艦隊は大惨敗を喫しました。
ABDAは重巡洋艦1隻・軽巡洋艦2隻・駆逐艦9隻を失ったのに対し、日本軍の損害は駆逐艦一隻が大破したのみでした。
この戦いで特筆すべきは、「日本軍による敵兵の救助活動」です。
海戦が終わった翌日の3月2日、駆逐艦「雷」の艦長「工藤俊作」は、撃沈されたイギリスの重巡洋艦「エンカウンター」の乗組員たちが海面に漂流しているのを発見します。
工藤俊作中佐 |
駆逐艦「雷」 |
その数はおよそ400名、雷の乗組員の数より多い人数であり、捕虜とはいえそれだけの敵兵を艦内に入れるのは危険な事でした。
さらに救助活動中に潜水艦に狙われる可能性もあったのですが、工藤艦長の「おい助けてやれよ」の一言で救助が行われることになりました。
3時間にも渡る救助活動によって422名ものイギリス兵が救助され、オランダ海軍の病院船に引き渡されました。
日本海軍が敵に対して救助活動を行うのは珍しい事ではなく、このスラバヤ沖海戦のみにおいても、重巡「羽黒」が20名、「江風」が37名、「山風」が67名の敵兵をを救助しています。
工藤艦長は「当たり前の事」をしただけだと思っていたので、内地に帰還した後もこの劇的な救助劇を誰にも話さなかったので、親族すら知らなかったといいます。
そんな工藤俊作の今際の言葉は「俺は独活の大木だったよ」だったそうです。
工藤艦長に命を救われたイギリス海軍士官「サムエル・フォール」 |
さて、スラバヤ沖海戦の大勢も決していた3月1日、日本軍はいよいよジャワ島へと上陸します。
首都バタビア、ボイテンゾルグなどを次々に占領しながら進軍し、ジャワ島最大の軍事拠点「バンドン要塞」に到達しました。
日本軍が多大な犠牲を出したあの「旅順要塞」の6倍の広さを持ち、35000名の守備兵力を誇るバンドン要塞を前にして、日本軍の兵力はわずか4000しかありませんでした。
バンドンの地下壕 |
そこで、日本軍は700名の挺身隊を結成し、要塞の一角を奪取し、そこを防御陣地にしてしまおうという捨て身の作戦を決行します。
若松満則少佐が率いる「若松挺身隊」は、全員討ち死にする覚悟で何度も何度も突撃を繰り返し、要塞の重要拠点を占拠することに成功しました。
この鬼のような勢いに怖気付いたのはオランダ軍です。
「あんなに少人数で突撃してくるはずがない。おそらく、背後に強力な大部隊が控えているのではないか」
と勘違いしたオランダ軍はすぐさま降伏しました。
日本軍司令官「今村均」は、8000名のオランダ人捕虜にピストルの携帯を許しました。
今村均 |
捕虜が武器を持つなど異例のことなのですが、インドネシア人が襲撃してくる事を恐れたオランダ人が願い出たのでした。
彼らがインドネシアに強いてきた支配は、それほどまでに過酷なものだったのでしょう。
こうして蘭印作戦は成功に終わり、日本軍は天然資源を手に入れるという目的を達する事ができました。
これからインドネシアの資源は、日本の戦いを支えてくれる事になります。
インドネシアでは、フィリピンやシンガポールなどのような抗日活動は少なく、日本軍はインドネシアの独立を支援する事にしました。
日本は、教育を行う事が最も重要だと考え、師範学校を設立し、教師を育成しました。
マカッサル師範学校 |
そしてインドネシアの青年たちに武器の使い方、軍事技術、化学などを教え、軍事訓練を行いました。
インドネシアに持ち込まれた訓練機「赤とんぼ」は、今でも大切に保管されています。
九三式中間練習機 |
バンザーイ |