2019年10月22日火曜日

大東亜戦争8 蘭印作戦① 最後の咆哮

タラカン島でペットの猿と戯れる日本軍パイロット(1942年)




1941年の8月から、日本には石油が一滴も入って来なくなっている状況の中、開戦当初の日本の最大の目標は「蘭印の石油資源を手に入れる事」でした。

「蘭印」とは、「オランダ領東インド」の事で、今でいう「インドネシア」です。

とはいえ、大小様々な島に民族も宗教も違う人々が暮らしていたわけであり、1つの「国家」としてまとまっていたわけではありませんでした。
島によって宗教が違う

皮肉にもインドネシアという「国」が形作られたのは、17世紀にオランダが、島々を一括りに「植民地」として支配した事がきっかけでした。


オランダによる支配は、現地住民にとって非常に過酷なものとなりました。

耕地面積の20%は、オランダ向けの「お茶」や「コーヒー」を強制的に栽培させられるようになり、食料の自給体制は崩壊し餓死者が続出して人口も激減します。

さらにオランダ人男性は、インドネシアの女性と積極的に子供を作り、その混血児や華僑に統治を任せました。

イスラム教が多かったインドネシアにキリスト教を持ち込み、改宗した者を優遇するなどして、宗教的な対立をも起こさせました。

当然ながら、教育を施すこともしなかった為、読み書きができず宗教も部族も違うインドネシアの先住民達が団結する事はありませんでした。

300年にも渡るオランダの支配によって、先住民達は「抵抗する力」を奪われてしまったのです。

オランダに対する最後の抵抗「ジャワ戦争」
しかしこのような「愚民化政策」は20世紀の初頭には限界を迎えていました。

オランダ領東インドの住民達の生活水準は極度に悪化し、植民地で生産されるオランダ製品の品質をも劣化させる恐れがあり、オランダ資本にとっても好ましくない状況となっていたのです。

そのため、現地住民に初等教育を受ける機会を与えた「倫理政策」が行われる事になります。

とりわけ、オランダ側に近しい一部のエリート層の現地住民のみ、東インドに設立された大学で専門的な教育を受ける事もできました。

そしてそのような高等教育を受けた者の中から、「独立」を志す者が現れ、団結していくようになりました。

彼らの運動が礎となって、オランダ領東インドの住民達に「インドネシア」という1つの「国家」の概念が出来上がっていったのです。

1920年創立のバンドン工科大学は、インドネシア初代大統領のスカルノを輩出しました。

インドネシアを取り巻く世界情勢は大きく動いたのは1940年です。

第二次世界大戦の勃発によってオランダはドイツに奇襲を受け、オランダはあっという間に敗北したのです。

オランダ本国はドイツに占領されましたが、オランダ王族と政府はイギリスに亡命し、引き続き蘭印を統治することになりました。

日本軍としては、そのような不安定な政情につけ込んで、可能ならば蘭印に無血進駐したいところでありました。

下手に蘭印への侵攻に手間取れば、石油施設を破壊されてしまう恐れがあるからです。

しかし地理的に考えても、どうしても蘭印への侵攻はマレー作戦やフィリピン作戦の後になってしまうため、「奇襲」は非常に難しい話でした。

大東亜戦争開戦と同時に開始された「フィリピン作戦」において、北部のレイテ島を攻略するのに時間がかかってしまってしまった日本軍ですが、南部のミンダナオ島の攻略は迅速に進める必要がありました。

フィリピン南部は位置的にも蘭印に近いため、攻略拠点として重要である事に加え、ダバオに住む二万人の日本人居留民を保護する必要があったのです。

蘭印攻略を担当する第16軍司令官「今村均(いまむら ひとし)」のもと、猛将・坂口静夫少将が率いる「坂口支隊」と第14軍から引き抜かれた「三浦支隊」が共同でミンダナオ島の「ダバオ」を攻略する事になりました。
今村均中将
坂口静夫少将

12月20日、坂口・三浦両支隊はミンダナオ島に上陸、翌日にはダバオを占領し、監禁されていた日本人居留民を救出する事に成功しました。

当時、フィリピンは宗主国アメリカの主導により独立準備が進められており、フィリピンの現地住民達にとって日本は明確に「敵国」でした。

12月8日に日米が本格的に開戦してからは、ダバオに住む日本人居留民はフィリピン人の民兵によって監禁され、男は陣地構築のための労働力に使われ、年寄りは炊事をさせられ、女性は慰み物にされていたのです。

毎夜毎夜、若い日本人女性がフィリピン軍民兵に連れていかれ、一人一人暴行されていきました。

中には自ら命を絶った既婚者もおり、その夫は怒りに任せてフィリピン軍の兵舎に乗り込み、射殺されたと言います。

日本人が住んでいた家屋の95%は、現地住民による略奪や打ち壊しにあい、その惨状を見聞きした日本軍兵士は涙を隠す事ができなかったそうです。

解放された日本人達は、軍の指導のもとで居留民団を結成しました。

そして治安維持の為に自警団が組まれたのですが、軍より銃が支給されていたため、しばしば抗日組織や、かつて日本人に暴行・掠奪を働いた現地住民との間に衝突が起きてしまい、時には過度な掃討戦が行われました。

復讐心のあまりか、強姦・強盗などを働く「不良日本人」が多数出たため、軍部は「皇国の威信を汚すことの内容に、現地住民に寛容に接するように」との要望を新聞に載せています。
戦前のダバオの日本人小学校

1942年1月11日、坂口支隊はボルネオ島北部に位置するタラカン島へ攻撃を仕掛け、オランダとの戦闘が始まりました。

タラカン島は1400名の蘭印軍が守備していましたが、上陸する日本軍を止める事はできず、13日に降伏します。

しかし、日本軍の軍艦に狙いを定めていたカロンガン砲台には降伏の知らせが届いておらず、油断していた日本軍の掃海艇2隻が砲撃を受けてしまいました。

沈み行く掃海艇の中で、乗組員たちは仁王立ちになって最後まで戦いました。

砲座まで沈んだ状態で、果たして一体どうやって発射させる事ができたのか、最後の咆哮をあげるかのように、掃海艇の砲塔がドカンと火を噴いたのです。

「壮絶な大和魂である」と、日本兵は皆、涙を流しながら掃海艇の最期を見送りました。
掃海艇の砲塔を利用して作られた慰霊塔 ※おそらく現在は無くなっています
沈没したのは13号・14号型掃海艇

坂口支隊がタラカン島を急襲したのと同日、セレベス島北部のメナドの空は、白い大輪の花に埋め尽くされていました。

その花の正体は、帝国海軍空挺部隊のパラシュートでした。

334名の落下傘兵がランゴアン飛行場へと降り立ち、ほとんど損害もなく占領する事に成功したのです。

この「メナド降下作戦」は、日本で初めての空挺作戦となりましたが、一ヶ月後に陸軍が行う予定だったパレンバン空挺作戦の秘匿性を守る事が優先され、大々的に発表されることはありませんでした。

また、この作戦を遂行する途中、落下傘兵を乗せた九六式陸上輸送機が友軍機から誤射されてしまい、搭乗していた12名が死亡する悲惨な事件も起こりました。

何はともあれ、ダバオを拠点にメナド・タラカンへ攻め入った日本軍は、いよいよインドネシアに侵攻を開始します。

着実に近づいてくる「地獄」の存在を忘れさせてくれるかのような蘭印作戦の圧勝劇は、後にこう語られる事になります。

「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」