グアムは、ウェーク島とフィリピンの中間地点であり、日本の委任統治領であるパラオやマリアナ諸島に非常に近い場所に位置しています。
そのため、大正12年の「帝国国防方針」には、「アメリカと戦争になった際にはグアムを攻略する事」が明記されており、日本にとって太平洋における重要拠点とし認識されていました。
1941年11月末、日本海軍は小笠原諸島の母島に集結し、12月8日の開戦と同時にグアム島空襲を行いました。
一方で、開戦とともにアメリカ軍は、当時グアムに住んでいた数十名の日本人を逮捕、監禁してしまいます。
12月10日の午前3時に日本軍5000名が上陸を開始、グアムを守る米兵は700名前後でした。
日本軍の圧倒的な兵力によって戦闘は1日で終結し、グアム島の占領は完了し、監禁されていた日本人も救出されます。
米軍は50名の戦死者と650名の捕虜を出たのに対し、日本軍は1名の戦死者のみという大勝利でした。
ところでこの「グアム作戦」ですが、その目的は戦略的なものだけではなかったようにも思えます。
グアムは、戦争を遂行する上での重要拠点なだけではなく、「海底ケーブル」が敷設されていたのです。
国際通信を可能にした「海底ケーブル」は、資本主義や帝国主義の広がりに伴い普及していました。
世界の4分の1を支配していた大英帝国は、自国の植民地を海底ケーブルで結び、世界を一周する「オール・レッド・ライン」を築き上げます。
オール・レッド・ライン |
海底ケーブルは、単なる「電線」だけではなく、絶縁体となる「ゴム」が必要となります。
マレー半島は、「グッタペルカ(ガッタパーチャ)」と呼ばれるゴムの木の産地であり、ここを植民地として所有していた大英帝国はまさに「世界の通信」を掌握していたのだと言えます。
海底ケーブル敷設作業 |
日本に初めて電線が通ったのは明治2年、1869年のことです。
そこから10年も経たないうちに函館から長崎まで電線が繋がる事になるのですが、このような日本の近代化に伴う「電信利権」は列強国によって貪られる事になります。
銀座周辺の電線 |
日本に電線が敷設された1869年に開設されたデンマークの「大北電信会社」は、北欧からシベリアを経由して、ウラジヴォストークから香港、上海、長崎などの極東地域までの電信網を完成させ、日本の対外電信の独占権を得ました。
海底ケーブルを敷く為の国力も、技術も、材料も持たなかった当時の日本は、「通信」を外国に依存するしかなかったのです。
その為、日本は様々な問題に直面する事になります。
1つは、「情報戦」です。
大北電信会社はデンマークの企業ですが、実はロシアのロマノフ朝が大株主でした。
その為、日露戦争の講和会議の時、代表団と日本政府とのやり取りは全てロシアに傍受されており、日本の交渉は後手に回ってしまったのです。
そしてもう1つは、海底ケーブルの「巨額の使用料」でした。
日本は回線使用料として、通信費の三分の一を大北電新会社に支払っており、日本政府を悩ませていたのです。
国を守っていくためには、日本にとって「通信自主権」を得ることが、至上の命題だったわけです。
太平洋海底ケーブル |
そんな日本にとって、大東亜戦争は大きな転機となりました。
開戦と同時にゴムの産地であるマレー半島に侵攻し、日本は太平洋へと繰り出します。
実は、日本とアメリカの間にも海底ケーブルが繋がっており、そのルートは東京→小笠原→グアム→ミッドウェー→ホノルル→サンフランシスコだったのです。
日本軍の侵攻目標とケーブルの中継点が一致しているのは、果たして単なる偶然でしょうか?
1940年に大北電信会社グアムを占領した後、日本はグアムの海底ケーブルを引き込んで、パラオや、占領地のメナドに引き込んで使用しています。
日本がマレー半島、ハワイ、グアムに攻め込んだのは「海底ケーブルを手に入れるため」という1つの側面もあったようです。
そしてその翌年には大北電信による電信業務を全廃させ、日本は長年の夢であった「通信自主権」を獲得する事に成功したのです。
「情報戦に弱い」と言われる大日本帝国でしたが、日本も必死だった事が窺えます。