1943年1月、ニューギニア島のポートモレスビー攻略を目論んだ「スタンレー作戦」は、ブナ守備隊の壊滅により失敗に終わりました。
続く2月には、ガダルカナル島からの撤退を余儀なくされるなど日本軍の戦局は劣勢に転じており、連合軍の次なる攻撃目標はパプアニューギニアであると予測されました。
日本陸軍は連合国軍の侵攻に備えるため各拠点に兵力を送るべく、護衛の駆逐艦8隻と輸送船8隻で輸送船団を結成し、「第八十一号作戦」を展開しました。
しかし護衛といっても駆逐艦の防空能力は低く、航空戦力も乏しいものでありました。
2月28日にラバウルから出航した輸送船団は3月2日にB-17爆撃機の襲来を受け、輸送船一隻を失います。
さらに3月3日には、爆撃機、戦闘機など連合国軍の大部隊の攻撃を受け、7隻の輸送船を失います。
駆逐艦や小型艇による救助活動は敵機の攻撃によって妨げられ、漂流中の日本兵には容赦なく機銃掃射が加えられ虐殺されました。
結局この「ビスマルク海海戦」において日本軍は輸送船8隻、駆逐艦4隻、戦闘機4機、2500トンの物資と3000名以上の将兵を失う大損害を被り、この戦いは「ダンピール海峡の悲劇」と呼ばれました。
日本軍はこれで船団方式による輸送を諦め、駆逐艦や潜水艦などの細々とした輸送に頼らざるを得なくなりました。
その頃日本軍はソロモン諸島のコロンバンガラ島に飛行場の建設を計画しており、米軍はそれを察知して砲撃を計画していました。
3月5日深夜、コロンバンガラ島への輸送任務についていた日本軍の駆逐艦2隻「村雨」「峯雲」が、コロンバンガラ島を攻撃しようと襲来した米軍艦隊と遭遇し、「ビラ・スタンモーア夜戦」が勃発します。
軽巡洋艦3隻、駆逐艦3隻の米軍艦隊に対して、たった駆逐艦2隻の日本軍は一方的に攻撃を受けて沈没してしまいました。
この敗戦の結果を受けて連合艦隊司令長官の山本五十六は、このままでは現状の戦線を維持することも困難であると考え、航空兵力を集結させて大規模な作戦を展開し、敵に大打撃を与える必要があると考えました。
しかもこの時点で、歴戦の勇士である腕利きのパイロットの多くが戦死しており、日本軍はパイロットを育てることが急務であるような状況でした。
い号作戦は、ソロモン方面を「X」ニューギニア方面を「Y」とし、攻撃を二期に分けて行う事になっていました。
4月7日、X攻撃(フロリダ沖海戦)が行われ、日本軍は零戦157機、爆撃機67機でガダルカナル島を襲撃しました。
さらに11日、Y2攻撃では零戦72機、爆撃機21機でニューギニアへ。
続く12日のY攻撃においては零戦131機、爆撃機44機でポートモレスビーを攻撃。
14日にも零戦133機、爆撃機60機でラビ基地へと襲撃しました。
米軍は、日本軍の動きを逐一偵察し、レーダーなどで攻撃を事前に予測し、爆撃機や艦船を退避させて被害を極限にまで抑えました。
その結果、米軍の損害は航空機25機、駆逐艦、貨物船、油槽船などを一隻ずつ失ったのみで、その戦果は61隻の戦闘機を失った日本軍にとって、決して見合うものではありませんでした。
これだけの大規模な作戦でも、日本軍は戦力を削られるだけの結果となってしまったのです。
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