2020年3月2日月曜日

大東亜戦争22 ガダルカナル島の戦い① 飢餓地獄のはじまり



開戦当初より日本海軍は積極攻勢を展開し、連合国軍の反攻拠点となりうるオーストラリアとアメリカの連携を断つべく、フィジー、サモアやポートモレスビーを攻略する構想を立てていました。



しかしミッドウェー海戦で大敗し、主力空母4隻を失った日本軍は戦争計画が破綻してしまいます。

それでも米豪分断作戦に固執する日本海軍は、ラバウルよりも南のガダルカナル島へ滑走路を築き、航空機部隊を進出させて制空権を得る事で目的を達しようと考えました。

日本軍大本営は、米軍の本格的な反攻は1943年を越してからだと考えており、ガダルカナル島には600名足らずの戦力しか配備していませんでした。

しかし、米軍はミッドウェー海戦勝利の勢いに乗じて既に「ウォッチタワー作戦」を発令し、ガダルカナル島への上陸準備が進められていたのです。



8月7日、米軍はフロリダ諸島とガダルカナル島へ上陸を開始します。

ツラギ島、タナンボゴ島などに配備されていた日本軍守備隊1100名は、3名の捕虜以外全員戦死しました。
ツラギ島へ上陸する米軍

同日、オーストラリア軍の援護を受けて米軍海兵隊10000名がガダルカナル島へ上陸します。

敵兵力の把握もままならぬうちに日本軍の守備隊は壊滅し、建設中だった飛行場は米軍の手に落ちました。

そしてその飛行場は、米軍によって「ヘンダーソン飛行場」と名付けられ、そのまま米軍が使用する事になりました。
ガダルカナル島へ上陸する米軍

これらの上陸作戦は、日本軍にとって奇襲となりました。

日本海軍は直ちにラバウルの航空戦隊に反撃を指示、さらに陸軍に協力を要請します。

「ガ島奪回作戦」の始まりです。

陸軍はグアムの「一木支隊」、パラオの「川口支隊」をガダルカナル島へ投入する事することになりました。

ラバウルの航空戦闘隊はガダルカナル島の米軍へ空襲を仕掛けますが、その距離はなんと片道1000km、往復の航続時間が8時間半という非常に過酷なもので、零戦はその威力を十分に発揮することはできませんでした。

なにしろ、燃料が持たないので空戦に使える時間は15分しか残されていなかったほどなのです。


三川軍一中将が司令官を務める「第八艦隊」は、ラバウルを出撃してガダルカナル島を目指していました。

ガダルカナル島には、空母3隻を伴う米軍機動部隊が待ち構えていましたが、第八艦隊の後方に空母がいるのではないかと警戒し、米軍機動部隊は空母を戦線離脱させました。

8月8日深夜、第八艦隊はガダルカナル島の戦闘海域に到達、輸送船団を護衛する米軍の重巡洋艦、駆逐艦に魚雷を発射し、「第一次ソロモン海戦」が始まります。

この攻撃は夜襲になったため、第八艦隊は敵に気付かれずに攻撃を加え、重巡洋艦4隻撃沈、1隻大破、駆逐艦1隻大破、1隻中破という大戦果をあげました。

第八艦隊の損失はゼロという大勝利でした。

しかし夜が明けて敵航空機の攻撃に晒されることを恐れた三川司令官は、輸送船団への攻撃を行わずに早々と撤退を指示してしまいます。

本来の目的である輸送船団を攻撃しなかったことに対して海軍からは非難の声が上がりました。

もしも輸送船団を殲滅していたらガダルカナル島への米軍の増強を止められたかも知れません。

戦闘で勝利したのは日本軍だったかもしれませんが、戦略的に見れば、結果的に輸送を成功させた米軍の勝利だったとも言えます。


三川軍一中将

海軍の協力要請を受けてガダルカナル島へ向かっていた一木支隊は、8月18日の深夜にガダルカナル島のタイボ岬に上陸します。

支隊長である一木清直大佐は、後続の第二梯団を待たずして900名の将兵を率いて前進を開始しました。

しかし海岸線を進む一木支隊の偵察隊は、米軍の待ち伏せ攻撃を受けて全滅してしまいます。

この戦闘により、日本軍が東方から攻撃を仕掛けてくると判断した米軍は、イル川西岸の防備を固めました。

さらに同時期、米軍の護衛空母「ロング・アイランド」はガダルカナル島にF4F ワイルドキャット戦闘機19機とドーントレス爆撃機12機をヘンダーソン飛行場へ空輸しました。

航空戦力を配備した米軍は、ガダルカナル島周辺の制空権を手にする事に成功します。




20日深夜、一木支隊はイル川東岸へ到達したのですが、対岸にすでに敵陣地が構築されていた事に驚愕しました。

ルンガ岬の飛行場からこれだけ離れた位置に陣地が作られているなどとは想定していなかったのです。

一木支隊はイル川西岸に対して攻撃を開始します。

突撃した第一派100名のほとんどは機銃掃射を浴びて倒れ、わずかに対岸に辿り着いて白兵戦の末に陣地を確保した者もいましたが、その後ろに待機していた米軍の中隊に壊滅させられました。

一木支隊の最初の攻撃は、開始から1時間足らずで全滅させられる事になったのです。

第二波として今度は200名を差し向けますが、結果は同じことでした。
イル川河口
一木支隊は体制を立て直し、北の海側の浜辺に集結しましたが、この動きもすぐに米軍に察知され、みたび機銃掃射と砲撃の餌食になります。

撤退できないのか、するつもりがないのか、壊滅的な打撃を被った一木支隊はなおもイル川東岸に留まり続けます。

米軍は一木支隊を包囲し、イル川東部のココナッツ林に追い込みました。

ヘンダーソン飛行場から離陸した航空機による機銃掃射を浴びて身動きがとれなくなった一木支隊は、戦車による砲撃でココナッツ林ごと吹き飛ばされました。

横たわる日本兵の上を、生死を問わず戦車が踏み潰して進み、戦車が通った後には挽肉だけが残りました。

米兵たちは砂浜で負傷していた日本兵達すべてにトドメをさし、生き延びて逃げることができたのはわずかに30名でした。

彼らはタイボ岬で待機していた残存部隊と合流し、一木部隊に残された兵力は128名となりました。
一木清直大佐 イル川渡河戦にて戦死

一木支隊壊滅の報せが入る前、ガダルカナルに向けて、川口清健率いる川口支隊4000名の輸送が行われていました。

しかし8月20日、ガダルカナル島付近で敵機動部隊が発見されると、川口支隊の輸送は一旦中止され、翔鶴、瑞鶴、龍驤の3隻の空母が出撃する事になり、「第二次ソロモン海戦」が起こります。

24日、龍驤ヘンダーソン飛行場を攻撃すべくガダルカナル島へと向かいますが、これを発見した米軍空母「サラトガ」から龍驤へ向けて攻撃隊が発進、龍驤は爆弾4発、魚雷1発を受けて沈没してしまいました。

敵の攻撃が龍驤に集中し、存在を悟られなかった瑞鶴と翔鶴は米軍機動部隊に攻撃を仕掛けます。

敵空母「エンタープライズ」に爆弾3発を命中させましたが、撃沈には至りませんでした。

日本軍はヘンダーソン飛行場へ駆逐艦による艦砲射撃を行いますが効果はなく、逆に米軍空母は飛行場への航空機の輸送を成功させました。

完全敗北となった日本軍はソロモン海における制海権、制空権を失い、川口支隊を輸送船団で派遣する事ができなくなってしまいました。

「鼠輸送」と呼ばれた駆逐艦による輸送や、島伝いに少しずつ船艇で移動する「蟻輸送」に頼るしかなくなってしまい、ガダルカナル島への増援は大幅に遅れました。
攻撃を受ける空母エンタープライズ

それでも川口支隊は、遅れていた一木支隊の第二梯団と共に9月7日までにガダルカナルへの上陸をなんとか完了させました。

到着した彼らを出迎えたのはヨボヨボに痩せ衰え、食べ物を求めて手を突き出してくる一木支隊の先遣隊でした。

川口支隊の兵士達は「自分たちが来たからにはもう大丈夫」と元気付けるのですが、1ヶ月後には彼らも同じ有様になってしまうのでした。

9月12日、日本軍は左翼隊、中央隊、右翼隊に分かれてヘンダーソン飛行場へ総攻撃を行います。

しかし米軍の凄まじい放火により700名の死者を出し、攻撃は失敗に終わってしまいました。

撤退した日本軍はマタニカウ川西岸に集結し、その数は負傷兵も含めて5000名にも達しました。

これ以降、ガダルカナル島の日本兵達は食料不足に悩まされ、この島は「餓島」と呼ばれるようになるのでした。
川口清健少将
米兵は、生焼けの日本兵の首を戦車に突き刺して飾りました