2021年10月30日土曜日

大東亜戦争55 沖縄の戦い②特攻戦艦、大和

 


米軍は、硫黄島、フィリピンのルソン島を攻略した後、日本本土上陸作戦である「ダウンフォール作戦」を立案していました。

そのための拠点として、沖縄は非常に重要な戦略目標となってしまいます。

沖縄攻略作戦「アイスバーグ作戦」は、1500隻の艦艇、450隻の輸送船、兵員54万8千人と、太平洋上における史上最大規模の作戦になりました。

さらに、投入された米軍の陸上戦力である「第10軍」は、装備・士気・練度どれをとっても史上最強と謳われるほどでした。


3月18日、米軍の空母12隻と1400機の艦載機が日本近海に現れ、九州、四国、和歌山の各地域を襲撃します。

これは4月1日に予定されていた沖縄上陸のための事前攻撃で、日本の反撃能力を殲滅するのが目的でした。

これに対し、宇垣纏中将の率いる第5航空艦隊が反撃を行います。

神風攻撃隊などの日本軍の攻撃により「エントレピッド」「エンタープライズ」「ヨークタウン」などの空母3隻が小破しますが、日本軍は出撃した攻撃隊193機の8割を失ってしまいました。

翌日には米軍は瀬戸内海を襲撃し、呉に停泊していた艦船に損害を与えました。

日本軍は再び反撃に転じ、室戸岬に接近していた空母「ワスプ」「フランクリン」を大破、「エセックス」を中破させます。

3月21日、宮崎県の都井岬沖に移動した米軍艦隊に対し、日本軍は初めて「桜花」を投入しました。

桜花は1200キロ爆弾を搭載し、母機から切り離されて滑空するグライダー式の特攻機で、ロケットエンジンの使用により最高時速は983キロにも到達します。

「特攻専用」を目的として開発され、実用まで至ったのは、この桜花が世界で唯一の兵器だそうです。

ですが母機として桜花を搭載して出撃した「一式陸攻」は、米軍機の格好の的になってしまい、16機全機が撃墜されてしまいました。

結局、米軍による一連の攻撃により、日本軍は400機もの航空戦力を失ってしまうのでした。


3月27日、関門海峡近海に1350もの機雷が投下されました。

機雷とは、いわば「海の地雷」であり、艦船が接近すると磁気や音、水圧などを感知して爆発する仕組みになっています。

この米軍の機雷投下は、瀬戸内海の軍港から沖縄へ救援部隊が航行するのを防ぐことを目的としたものでした。

日本軍は関門海峡を通行禁止にして機雷掃海にあたりますが、米軍はさらに30日に450個もの機雷を再び投下します。

この沖縄への救援防止を目的とした機雷投下は、「飢餓作戦」の始まりに過ぎませんでした。

その後は関門海峡のみならず、北部九州や日本海側の諸港にも機雷が投下され、朝鮮半島と日本との航路が完全に塞がれてしまいます。

穀物と塩の輸入が途絶え、文字通り国内は「飢餓状態」に陥るのです。

投下された機雷の総数は1万2千を超えました。

日本軍は、沖縄を救いたくても、「行けなかった」のです。

3月19日の時点においても、日本軍は「米軍が次にどこに攻めてくるのか」を決定できないでいました。

なにせ、海軍は「次は小笠原諸島」陸軍は「次は台湾に来る」と、陸海軍の間でも考えがまとまらない有様だったのです。

しかし3月23日、沖縄本島の南東90キロに敵機動部隊が発見されたことにより日本軍はにわかに色めき立ちました。

沖縄を守る陸軍第32軍は、この艦隊が沖縄へ本格的に侵攻してきた部隊なのかを確信することができずにいましたが、翌日に米軍が艦砲射撃をしてきたことで、ようやく「米軍の次の目標は沖縄」だと判断できたのです。

日本軍は直ちに反撃を開始、攻撃機が敵駆逐艦2隻を損傷、さらに特殊潜航艇、甲標的・改「蛟龍(こうりゅう)」も出撃し、駆逐艦「ハリガン」を撃沈させますが、蛟龍部隊も全滅してしまいました。

3月26日、米軍は慶良間諸島の座間味島などに上陸、日本軍はこの動きを全く予測しておらず、29日までに慶良間諸島は米軍の手に落ちました。


米軍の沖縄侵攻に伴い、沖縄防衛作戦「天一号作戦」が発令されます。

3月26日、27日と立て続けに特攻機、通常攻撃機による日本軍の反撃が行われ、米軍の巡洋艦、駆逐艦に損害を与えました。

沖縄を救う為の航空作戦が行われている中、戦艦大和は瀬戸内海に停泊していました。

飢餓作戦による機雷封鎖で呉港に入港できずにおり、このままでは遅から早かれ国民の目の前で撃沈する姿を晒すのみだったのです。

大和を「砲台」として利用する案もありましたが、連合艦隊参謀・神重徳大佐は大和による海上特攻を主張しました。


しかし制空権、制海権のない沖縄までの航路を航空支援なしで辿りつけるはずがありません。

大和の出撃、航空特攻のための陽動程度にしかならないのです。

しかし大和出撃は決定されてしまい、日本に残された残り少ない備蓄燃料から4000トンがかき集められました。

この無謀な作戦はなぜ通ってしまったのでしょうか?

それには、昭和天皇陛下の「お言葉」が少なからず関わっています。

軍令部総長・及川古志郎大将が沖縄への特攻作戦を陛下に上奏したとき、陛下から

「航空機だけの特攻なのか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えぬのか?」と尋ねられたのです。

及川大将はこれを「水上部隊はなにもしないのか」と叱咤されたと捉え、「全海軍で総攻撃を行う」と奉答してしまいました。

神大佐はこの話を聞き、「陛下のご意向でもあるし」と自分の都合の良いように大和出撃の意見を押し通したのです。



あまりにも無謀で成功する見通しのない作戦ではありましたが、海軍が沖縄を守るためにできる事が他にあるかというと、「ない」のです。

4月5日15時、大和の乗組員が甲板に集められ「今度の作戦は特攻である」という事が告げられました。

しばらくの沈黙の後、「よしやってやろう」と士気が高まったと言います。

乗組員たちは皆、これまでも死ぬつもりで乗ってきており、既に覚悟はできていました。

翌日、戦艦大和は徳山沖から出撃します。

君が代の斉唱と万歳三唱が行われ、乗組員たちは故郷の方角に向かって帽子を振りました。


大和率いる艦隊の構成は、戦艦「大和」軽巡洋艦「矢矧」駆逐艦「雪風」「磯風」「浜風」「初霜」「朝霜」「涼月」「冬月」の9隻です。

しかし大和の動きは既に電信を米軍に傍受・解読されてバレバレでした。

4月7日12時32分、米軍の空母から発進した攻撃機386機が、鹿児島県の坊ノ岬沖を進む大和の艦隊へ攻撃を開始します。


この戦いは「坊ノ岬沖海戦」と呼ばれていますが、その実態はもはや「海戦」ではなく、一方的ななぶり殺しでした。

次々と駆逐艦・軽巡洋艦が撃沈していく中で、大和の損害も大きくなっていきます。

大和は少なくとも魚雷10本、爆弾5発を喰らい、ついに横転し始めます。

14時23分、完全に転覆した大和は大爆発を起こしました。

そのキノコ雲は800m上空まで達したと言われています。



この戦闘で日本軍は4000名以上が死亡、米軍の戦死者は13名でした。

奇しくも大和が沈没したこの日は、新しく内閣総理大臣として鈴木貫太郎が就任し、新内閣が発足した日でした。

親任式の控え室で大和の沈没をしった鈴木総理は、「そこまで日本は追い詰められていたのか」と実感します。

そして新内閣の全員が「敗戦」「降伏」を現実のものとして受け止めたのです。

大和沈没によって、日本は終戦へと加速していく事になるのでした。


2021年10月27日水曜日

大東亜戦争54 沖縄の戦い①疎開大作戦


連合国の反転攻勢が進む1944年2月、日本陸軍は沖縄防衛を担当する「第32軍」を編成、渡辺正夫中将を司令官に任命しました。

当初は後方組織としての色合いが強く、「沖縄で米軍を迎え撃つ」というような大きな戦力は配備されていませんでした。


しかし、1944年7月にサイパンが陥落して絶対国防圏が侵されると日本の防衛計画は練り直される事になります。

大本営は沖縄周辺海域での航空決戦を計画し、さらに第32軍の増強に着手します。

第32軍参謀長・長勇(ちょう いさむ)少将は、大本営参謀本部に乗り込み、陸軍5個師団の増強を訴えます。




大本営もそれに応える形で、沖縄を中心とする南西諸島に18万人の大兵力を配備する事を決定しました。

しかし沖縄への増援の最中、独立混成第44旅団が乗った輸送船「富山丸」が米軍潜水艦に撃沈され、4000名近くが死亡するという事件が起きてしまいます。

この先行きを不安視させる事件に、司令官の渡辺中将は心労で病に伏せてしまいました。

代わりに第32軍司令官に着任したのは、牛島満中将です。

牛島中将は、同郷の偉人、西郷隆盛に例えられるほど、温厚で有能、人望の厚い人物でした。



そんな牛島中将の右腕となったのが、第32軍高級参謀の八原博通大佐です。

エリート軍人だった八原大佐は優れた戦略家として有名で、後に米軍からも高く評価される事になります。


これら第32軍の首脳陣は、大本営が重視していた「航空決戦」を疑問視していました。

マリアナ沖海戦など直近の航空戦を見ると、日本の航空戦力は既に歯が立たない状態になっていたからです。

飛行場建設よりも地上戦の準備を優先していた第32軍は大本営から非難され、「方針に従わないなら戦力を他へ移動させる」と脅しをかけられてしまいます。

やむなく飛行場建設に取り組んだ第32軍ですが、このような大本営と第32軍との考えの違いが、後の沖縄戦で足を引張る事になるのでした。


沖縄で米軍と決着をつけるために、決戦準備を進めていた第32軍でしたが、その状況が変わってしまったのは1944年10月のことでした。

フィリピン、レイテ島の戦いが起こると、台湾の第10師団がフィリピンへ送られ、その代わりとして、沖縄の最精鋭、第9師団が台湾へ転出させられてしまったのです。

これによって第32軍は戦力の三分の一を失ってしまいます。

大幅な作戦変更を余儀なくされた第32軍は、飛行場を実質放棄して地上戦を重視、小部隊による遅滞防御を戦術として採用しました。

その頃、レイテ島での日本軍の敗北、フィリピン各島での劣勢を見届けた大本営参謀本部・作戦部長の宮崎周一中将は、ただちに「本土決戦」の計画を立て始めました。




宮崎中将は「本土防衛に必要な兵力は50個師団」と算出し、150万人を動員する計画を練りました。

その結果、沖縄へ増援される事が決まっていた第84師団の沖縄派遣は中止されてしまいます。

制海権・制空権がない現状で一個師団を沖縄まで無事に送り届けるのは土台無理な話だったのも事実ですが、第32軍は大本営に不信を抱きました。

長勇少将は、「我々は結局、本土防衛のための捨て石なのだ。尽くすべきを尽くして玉砕するしかない」とその覚悟を語るのでした。

沖縄決戦、本土防衛をめぐるこの一連のやりとりや長勇少将の「捨て石」という言葉は、「日本は沖縄を見捨てた」「沖縄戦は捨て石作戦だった」と、現在もマスコミの政治論争の材料として利用されています。



日本軍は戦力不足を補うため、住民を動員せざるを得ませんでした。

主に陣地構築などの後方支援を目的とした徴用でしたが、地上戦が開始されると前線での戦闘任務も担うようになってしまいました。

第32軍は、17歳から45歳までの男性ほぼ全て、2万5千人を召集し「防衛隊」と名付けました。

また、14歳から16歳までの男子生徒1780人による「鉄血勤皇隊」、従軍看護婦の代役として女子生徒による「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」が結成されました。

「少年たちが戦争に参加する」というと、明治維新の時に起きた「薩英戦争」を思い起こします。

この頃の日本人は、国の存亡がかかった戦いでは子供であろうと自ら命を懸けて戦うのです。

鉄血勤皇隊の少年たちは爆弾を抱えて戦車に飛び込んで破壊するなど勇猛に戦い、無傷で済んだものはいなかったと言われています。

しかし、私はこれを美徳として伝える気にはなれません。

近現代の戦争において、どんな理由があろうと少年少女を戦地に送り込むなど、大人の判断が狂っていたとしか思えないのです。




さて、沖縄での戦闘準備と並行して行われていたのが、「民間人の疎開」です。

とはいえ、沖縄本島・宮古島・石垣島・奄美・徳之島から本土への疎開が許されたのは15歳未満と65歳以上、そしてその看護者である婦女のみであり、その目標人数は10万人でした。

輸送は全額国費負担でしたが、疎開には法的拘束力がなく、県外での生活に不安を感じていた沖縄県民の疎開は一向に進みませんでした。

しかし沖縄だけでは食料の自足ができず、戦闘が始まって海上封鎖されると全員が飢え死にする事になるため、県民の疎開は急務なのです。

県民疎開の責任者・荒井退造警察部長は、講演会を開いたり家庭訪問を行ったりして疎開を理解してもらえるようにと全署に指示を出し、警察や県庁の身内から疎開をさせる事で突破口を開こうと考えました。



その必死の努力により、1944年7月21日には疎開船第一号「天草丸」の出航が実現しました。

本土へ向かう船はすべからく米軍の潜水艦に狙われるわけで、この天草丸も魚雷攻撃の的になっていました。

船体をかすめる魚雷をみて子供達は「大きな魚だ」とはしゃぎますが、船員たちは皆、青ざめていたそうです。

潜水艦を避けるために動いては止まり、動いては止まりを繰り返し、天草丸は2週間もかけて鹿児島に到着、752名を送り届けました。

これが皮切りとなって、疎開は軌道に乗り始めますが、8月22日に1500名が死亡した「対馬丸撃沈事件」が起こってしまいます。

この事件は箝口令が敷かれましたが、疎開先から来るはずの手紙来ないなどの理由で忽ちにして発覚してしまい、沖縄県民に不安が広がり疎開計画は頓挫してしまいました。


膠着した疎開計画が再び軌道に乗ったのは、皮肉にも10月10日に那覇市街が大空襲を受けて数百名の民間人が死亡した事がきっかけでした。

結局、疎開活動は1945年3月まで行われ、約8万人を県外へ移送する事ができたのです。

当初、疎開活動の障壁となっていたのは、他ならぬ沖縄県知事の泉守紀(いずみ しゅき)でした。

泉知事は、1943年に沖縄県知事に赴任すると、最初は沖縄の文化を熱心に勉強したりと熱心で評判もよかったのですが、次第に習慣の違いに苛立ちを隠しきれなくなり、「沖縄は遅れている」「沖縄はダメだ」と批判するようになっていきます。

孤立した泉知事は出張を繰り返し、在任期間の三分の一を県外で過ごし、空襲の際も防空壕に立てこもり県政を放棄するほどでした。

住民の疎開活動や、疎開せずに残った非戦闘員の島内避難にも異を唱え、ことごとく第32軍と対立しました。

こうした泉知事の姿勢は、「軍に逆らった気骨のある知事」として、現在の沖縄の左派から評価される事もありますが、泉知事は決して反戦派などではなく、むしろ「県民は軍に協力すべき」と考えて、疎開や避難を問題視していたのです。

疎開活動の中心であった荒井警察部長を議会で追及するなど足を引っ張り続け、軍は次第に知事を相手にしなくなりました。

荒井警察部長に全ての負担がのしかかるようになってしまった為、軍令部は戒厳令を敷いて沖縄を軍政に置こうと考えましたが、そんな事をされては面子が潰れると危惧した内務省は慌てて泉知事を更迭します。

しかし後任者探しは難航しました。

当然のことです、これから戦場になることがわかっている沖縄への赴任は、「死ね」と言われているようなものです。

第32軍司令官・牛島中将は、大阪府の内政部長であり、旧知の仲であった島田叡を推薦します。



1945年1月10日、島田は沖縄県知事就任を打診され、これを即受諾しました。

周囲の者は皆引き止めましたが、島田は「誰かが行かねばならぬなら、俺は断るわけにはいかんやないか。代わりに誰かが死んでくれ、とは言えん。」と青酸カリを懐に忍ばせて、死ぬ覚悟で沖縄へ渡ります。

島田知事はすぐさま第32軍との関係回復につとめ、県民の疎開・避難を進め、台湾から三千石の米を確保しました。

農村を視察した島田知事は、日本軍の勝利を信じて軍に協力する民間人を不憫に思い、泉守紀が規制していた「芝居」などの娯楽を解禁、少しでも県民を楽しませようとしました。

島田知事は軍と密接で良好な関係を築き上げるも、決して言いなりになっていたわけではなく、軍隊の行動で住民が危険にさらされる場合には、憤慨して「住民を巻き添えにするのは愚策」と抗議したりもしました。

このように県民のために尽くし、信頼を得た島田知事でしたが、最期は沖縄戦の最中に消息を断ち、未だに遺体は見つかっていません。










2021年10月21日木曜日

大東亜戦争53 硫黄島の戦い③日本人、立ち入り禁止



摺鉢山が陥落した米軍は戦力を硫黄島北部に集中させ、戦いはいよいよ激化していきました。

米軍はまるで巣穴の害虫を駆除するかのように日本軍陣地を潰していき、少しずつ前進していきます。

坑道を見つけると上部から穴を開け、大量の水を流し込みます。

坑道に潜んで飢えと渇きに苦しんでいた日本兵達はその水に飛び込むのですが、実はその水にはガソリンが浮いていて、米兵が引火させると坑道内は火の海になるのです。

最高指揮官・市丸利之助海軍少将は「米軍の戦法は、さながら害虫駆除のようだ」と語りました。

まさに地獄のような戦場でした。


日本軍は元山飛行場を守るべく、バロン西率いる戦車第26連隊を投入、M-4中戦車と一進一退の激しい戦車戦を展開します。

バロン西こと、西竹一は、オリンピックの馬術で金メダルをとった事により、アメリカ人にも尊敬されるロサンゼルスの名誉市民でした。

戦闘中、米軍はスピーカーでこう呼びかけます。

「オリンピックの英雄、バロン・ニシ。君は立派に軍人としての役目を果たした。ここで君を失うのは惜しい。こちらに来なさい。」

しかし西中佐にはほんの少しの動揺も見られませんでした。


2月26日にもなると、硫黄島の主戦場は元山飛行場一帯となっていました。

この時までに米軍の戦死者・戦傷者は7758名にものぼっていました。

戦車戦とは言うものの、日本軍の戦車は壕の中に身を隠しており、自由に移動することはできません。

いわば、日本軍の戦車は「壕の中を多少移動することができる、動く砲台」といったところでした。

米軍は戦車3両を破壊されますが、後続の戦車部隊を次々に送り込んできます。

この戦闘では日米双方とも大きな損害を被りますが、日本軍は「最後の井戸」を米軍に奪われてしまいます。

これは致命的な損害でした。

戦車隊の奮戦もむなしく、翌日には元山飛行場も米軍の手に落ちてしまいます。

この頃になると、日本軍の戦力はすでに半分に減少しており、弾薬も三分の一になっていました。


それでもバロン西の戦車隊は戦い続けました。

戦車を全て失った後も、凄まじい白兵戦を行なっていたのです。

仲間の死体の腹を裂いて内臓を出し、それを自分の腹部に乗せて仰向けになり、死を装って敵の戦車が来るのを待ち、側を通る時に起き上がって投雷するのです。

またある時は、突撃して戦車を破壊し、搭載してあった機銃を奪っては米軍に反撃を加えるのでした。

しかし、その阿修羅のような戦い振りも、水がなければ次第に朽ちていくのみです。

戦車隊が立て籠もっていた洞窟には負傷者がよこたわり、入り口からは幾度となく火炎放射器が浴びせられました。

3月17日に音信を絶った西竹一中佐の消息は定かではなく、戦死の状況も諸説あります。

西中佐が「自分を理解してくれるのはウラヌスだけ」と、共に金メダルを獲り信頼を置いていた愛馬ウラヌスは、西中佐の後を追うように、3月下旬に死亡しています。

西中佐はあの世で、戦車ではなく愛馬に乗っている事と思われます。


元山飛行場からさらに硫黄島の奥地へ足を踏み入れると、元山・二弾岩・玉名山があり、そこは千田貞季少将率いる混成第二旅団が守備していました。

地形の標高を考えると、「山」と名はついているものの、というより「丘」のような感じだったのではないかと考えられます。




練度の低い寄せ集めだった混成第二旅団は千田少将によって鍛え上げられれ、「突撃部隊」と化していました。

米兵たちはここで血の河を流す事になり、千田少将は「ミート・グラインダー(肉挽き機)」と恐れらるようになります。



3月2日からの8日間で米軍第4海兵師団は2880名の死者を出して壊滅、硫黄島に来てからこれまでの戦闘の間に30%が戦死してしまった第4海兵師団は壊滅しました。

しかし米軍は千田少将の部隊のある玉名山を迂回して進軍、第3海兵師団が硫黄島の中央突破に成功します。

硫黄島は南北に分断され、玉名山の千田少将の部隊は包囲されてしまいます。

千田少将は壕を出て、427名の兵とともに兵団司令部へと向かいますが、米軍の攻撃を受け壊滅、千田少将は自決しました。


司令部の栗林中将は、絶大な信頼をお置いていた千田少将の死を聞くと、最後の総攻撃を決意します。

3月16日、栗林中将は大本営へ決別電信を行いました。

「国のため、重き努めを果たし得て、矢弾尽き果て散るぞ悲しき」

17日には、米軍はついに島の最北端の岬にまで到達します。

3月26日、400名の将兵が米軍陣地に夜襲を行い、米軍側に53名の死者を出す損害を与えました。

この攻撃をもって、日本軍の組織的な戦闘は終結することになります。

栗林中将は階級章を外していたため、遺体を見つけることはできず、どこで戦死したのかはわかっていません。

日本軍の総兵力2万1千人、米軍は11万。

日本軍の戦死者2万人、米軍は6821人でした。

「5日で終わる」と豪語された硫黄島の戦いは、36日間も続き、さらにその後も散発的なゲリラ戦が行われました。


この最後の総攻撃の際、市丸利之助少将は「ルーズベルトに与える書」を書いていました。

この書は英訳され、村上大尉に渡されました。

村上大尉は戦死しましたが、懐に忍ばせておいた手紙は目論見通りに発見され、7月11日にアメリカの新聞に掲載されることになります。

しかし当のルーズヴェルト大統領は4月11日に死去していたため、この書を目にすることはなかったと思われます。


組織的な戦闘が終結したのち、米軍は日本兵の遺体や、まだ兵が潜んでいる壕の上にコンクリートを流し、滑走路を作りました。

そしてそこから戦闘機を発振させ、B-29の護衛につかせる事ができるようになったのです。

そのため、日本本土の爆撃は昼間でも、低高度でも可能になり、より確実に、効率よく日本人を殺す事ができるようになりました。

今でも、硫黄島には数千名の日本人の骨が埋まっており、一般人は立ち入り禁止になっています。







2021年10月14日木曜日

大東亜戦争52 硫黄島の戦い② 血で書いた日の丸

 


サイパンが陥落したことによって、米軍はB-29による日本本土爆撃が可能になったわけですが、航続距離が長すぎるために護衛戦闘機を随伴させる事ができず、度々大きな損害を出して米軍を悩ませていました。

日本軍はサイパンと東京の中間地点にある硫黄島を防空監視拠点としており、B-29を本土上空で迎撃する事ができたのです。

米軍は、「故障したB-29の退避場所」「護衛戦闘機の基地確保」「日本軍航空基地の殲滅」「日本軍の防空警戒システムの打破」などを目的として、硫黄島攻略を決定します。

この作戦は「デタッチメント作戦」と呼ばれ、この戦争において日本固有の領土への初めての侵攻となりました。

しかし米軍は4月に沖縄への大規模な侵攻を予定しており、硫黄島攻略に与えられた時間は二ヶ月間しかありません。

米軍上陸部隊の司令官、ホーランド・スミス海兵中将は、記者会見で「攻略は5日間で終わらせる」と豪語しました。


1945年2月16日、硫黄島へ押し寄せた米軍の艦隊からの事前艦砲射撃が開始されました。

硫黄島に上陸する海兵隊からの「艦砲射撃は10日間必要だ」という意見は却下され、沖縄戦を控えていた米軍の事情などにより3日間に短縮されてしまいます。

しかし米軍は、日本軍機が硫黄島へ航空支援を行えないようにするために「ジャンボリー作戦」と呼ばれる日本本土空襲を行うなど、硫黄島攻略の用意は周到でした。



2月17日、機雷などの障害物を取り除くために掃海艇が海岸に接近すると、摺鉢山陣地を守備していた海軍が栗林中将の命令に背いて砲撃を開始してしまいました。

このせいで米軍の激しい集中砲撃を招くことになってしまい、摺鉢山の主要な火砲は失われてしまいます。

摺鉢山は硫黄島最南端に位置する169mの高地であり、島を一望できる最重要拠点で、この山の陥落は日本軍の敗北を意味するのです。


あまりにも激しい艦砲射撃によって摺鉢山の海側の火口壁が崩壊するほどで、米兵たちは「俺たち用の日本兵は残っているのか?」と会話しました。

2月19日、3日間に渡る艦砲射撃と爆撃で島が焼け野原になった後、午前9時に米軍の上陸部隊の第一波が上陸を開始します。

大した抵抗もなく上陸できた米軍は「日本兵は全滅したのか」とばかりに内陸部へ前進を開始しました。


日本軍は地下坑道に身を潜め、激しい艦砲射撃を耐え抜いていました。

午前10時、日本軍は前進してきた米軍に一斉攻撃を仕掛けます。

柔らかい砂地に足を取られて移動もままならない米軍の第24、25海兵連隊は忽ちにして損耗率が25%に到達し、上陸した56両のM4中戦車のうち28両が撃破されました。

火山灰でできた砂浜では身を隠す塹壕を掘ることもできず、水陸両用車や上陸用船艇は高波に押し戻されて損壊しました。

それでも夕方までには3万名の海兵隊が上陸し、橋頭堡を築きますが、そこへも日本兵は少人数で夜襲をかけました。

結局、この日だけで海兵隊は戦死者501名、負傷者1755名という大損害を被ります。

しかし、この夜襲は日本軍にとっても非常に危険な攻撃で、帰ってこない日本兵も徐々に増えていきました。


2月20日、米軍は摺鉢山のふもとにある千鳥飛行場の制圧に成功、摺鉢山と日本軍司令部との連絡路を断ち切りました。

米軍第28海兵連隊は摺鉢山へ向かいますが、その道中は「1mおきに戦闘が起こった」ほど激しい道のりとなります。

米軍は火炎放射器と手榴弾で日本軍の陣地を破壊しながら前進します。

火炎の届かない地下陣地には、発煙弾の煙の流れで出入り口を発見し、ブルドーザーで出口を塞いだ上で、削岩機で穴を開けて坑道の中にガソリンを流し込み、火を放って洞窟内の日本兵を焼き殺しました。

米兵たちのヘルメットにはこう書かれていました。「ネズミ駆除はお任せ!」

アメリカ本国では、硫黄島での苦戦が衝撃的に報じられ、マスコミは「毒ガスを使用すべきだ」と報じました。


2月21日、日本本土を出撃した32機の神風特攻隊が硫黄島近海に停泊していた米国艦隊への突撃を行いました。

まずは先遣隊が錫箔(チャフ)をばらまいて敵のレーダーを錯乱させ、その混乱に乗じて後続機が護衛空母ビスマルク・シーを撃沈、正規空母サラトガを大破させました。

硫黄島の守備隊は、自分たちのために散ってくれた特攻隊の最期を、涙を流しながら見届けました。


23日午前10時15分、米軍第5海兵師団はついに摺鉢山山頂に到達し、拾った鉄パイプに星条旗をくくりつけて掲揚します。

沖の艦船からは次々と汽笛が鳴り響き、海岸線の敵陣地からは勝鬨のような歓声や口笛が聞こえます。

摺鉢山が陥落したのです。

ホーランド・スミス中将はこの旗を記念品として保管することを希望し、回収しました。

そして12時15分に、先ほどのよりも2倍ほど大きい星条旗を「今まさに山頂へ到達し、戦闘の最中に危険を顧みずに国旗を掲げた」かのように演出して掲揚し、写真を撮ったのです。

この「後撮り写真」こそが後にピューリッツァ賞を受賞した有名な写真「硫黄島の星条旗」となります。


しかし翌日の24日早朝、日本海軍の秋草鶴次一等兵曹によると、そこに掲げられていたのは星条旗ではなく日章旗だったそうです。

摺鉢山ではいまだに散発的な抵抗が続けられており、日本兵の誰かが夜間に旗をすり替えたのでした。

これを見た日本軍守備隊の士気は鼓舞されました。

米軍は山肌が削り飛ぶほど摺鉢山にロケット砲弾を集中的に浴びせ、再び星条旗を掲げました。



25日早朝、誰もが目を疑いましたが、そこには再び日章旗がはためいていました。

秋草一等兵曹によると、その日章旗は先日のものよりは小さく、日の丸も茶色かったそうです。

おそらく血で書いた日の丸なのではないかと、秋草一等兵曹は拝む思いでこの日章旗を壕から眺めていたそうです。

2月26日、そこに日の丸の姿はなく、その後も奇跡が起こることはありませんでした。





大東亜戦争51 硫黄島の戦い①死ぬために掘った穴

 


硫黄島は東京の南方1000キロの位置にあり、東京とサイパンの中間地点にある小笠原諸島に属する火山島です。

面積は東京都品川区とほぼ同じ21㎢で、島の表面は硫黄で覆われ、飲料水は塩辛い井戸水しかありませんでした。

しかしここにはサトウキビなどを栽培して生活をしていた日本人が1000名ほど住んでいました。

日本軍は開戦後、この島を南方との中継地点として重視し、飛行場を建設して兵力を配備していました。

マリアナ諸島が米軍の手に落ちてB-29による日本本土への爆撃が開始されると、硫黄島は無線電信による早期警戒システムの中枢となり、本土上空でB-29を迎撃するための重要な通信拠点となっていきます。

マリアナ諸島からB-29を片道2000kmの日本本土まで飛ばすことは可能であっても、可載燃料の少ない護衛戦闘機を随伴させることはできず、B-29は度々、日本軍の迎撃にあって大きな損害を出していたのです。

米軍としても、「故障したB-29の退避基地」「護衛戦闘機の基地」になる硫黄島を。重要な戦略拠点として認識していきました。



1944年5月に小笠原諸島の父島に赴任した小笠原兵団長・栗林忠道中将は兵団司令部を米軍の攻撃対象になるであろう硫黄島に移し、直々に指揮をとりました。

米軍の上陸を防ぐことは困難であると考えていた栗林中将は、7月までに軍関係者以外の住民を疎開させた後、島内で持久戦を行うための作戦に着手します。

その計画とは、島の地下に坑道を張り巡らせ、硫黄島そのものを地下要塞にし、米軍を内陸部まで引き込んでゲリラ戦を展開しようというものでした。




海軍はこの計画に猛反発し、水際での陣地構築や、飛行場陣地の構築に固執しましたが、栗林中将は全兵員に工事への参加を命じます。

工事中は敬礼を禁止するなどの効率化をはかりますが、硫黄ガスが噴出し、50度の地熱に晒される掘削作業は5分しか継続できず、しかも水分補給は塩辛く硫黄臭の強い井戸水か雨水にしか頼ることができなかったため、下痢に悩まされる者が続出しました。

この過酷な作業において栗林中将は島内を巡回し全将兵と顔を合わせ、現場の士気を鼓舞、「一堀の土は一滴の血を守る」が合言葉となりましたが、それでも病死、脱走、自殺者が相次ぎました。



米国駐在大使を務めたこともある栗林中将は、アメリカが「敵にしてはいけない国」だという事をよく理解していました。

小笠原諸島への赴任が決まった時には、妻に「骨も残らないかもしれない」と告げたそうです。

指揮官でありながらも、自ら工事現場の指揮を周り、本土から送られてきた貴重な野菜や水をみんなに分けました。

「師団長の食事は◯皿用意すべし」という決まりがあったため、栗林中将は空の皿を並べて他の将兵たちと同じ食事をとり、1日にコップ一杯の水を口にしました。

栗林中将は、自分が将兵たちに要求している事があまりにも残酷、過酷である事がわかっていたのです。

生きて祖国の地を踏むことを許さず、あっさりと潔く戦死する事も許さず、暑い壕の中で飢えと乾きに耐えて最後まで持久戦をする事を要求し、爪が剥がれても手作業でトンネルを掘らせたのです。

しかし硫黄島が米軍の手に落ちれば、日本本土へは、護衛戦闘機を伴ったB-29の爆撃が開始され、B-29の迎撃が非常に困難になり、日本全土の都市が蹂躙される事になるのです。

栗林中将の目的はただ一つ、「硫黄島を1日でも長く守り、本土の女子供達を1日でも長く生きながらえさせる」事でした。

そのために、血の涙を流して将兵たちに、死ぬための穴を掘らせたのです。



米軍の空襲などの妨害を受けながらも、なんとか18kmにも及ぶ坑道を完成させた守備隊に対し、本土からは多くの輸送船団を失いながらも兵力の増強が続けられていました。

その中には、ロサンゼルスオリンピック馬術金メダリストの「バロン西」こと西竹一中佐もいました。

最終的に硫黄島の兵力は2万1千名にまで増強されます。

1944年12月頃になると、毎晩のように米軍機による爆撃が行われましたが、地下陣地はほとんど無傷でした。

1945年1月5日、硫黄島の最高指揮官である市丸利之助海軍少将は、海軍上級将校を集めて「連合艦隊はすでに壊滅している事」「米軍がまもなく硫黄島へ侵攻してくる事」を伝えます。

2月13日、海軍の偵察機が硫黄島へ向かう170隻もの米軍大艦隊を発見するのでした。