米軍は、硫黄島、フィリピンのルソン島を攻略した後、日本本土上陸作戦である「ダウンフォール作戦」を立案していました。
そのための拠点として、沖縄は非常に重要な戦略目標となってしまいます。
沖縄攻略作戦「アイスバーグ作戦」は、1500隻の艦艇、450隻の輸送船、兵員54万8千人と、太平洋上における史上最大規模の作戦になりました。
さらに、投入された米軍の陸上戦力である「第10軍」は、装備・士気・練度どれをとっても史上最強と謳われるほどでした。
3月18日、米軍の空母12隻と1400機の艦載機が日本近海に現れ、九州、四国、和歌山の各地域を襲撃します。
これは4月1日に予定されていた沖縄上陸のための事前攻撃で、日本の反撃能力を殲滅するのが目的でした。
これに対し、宇垣纏中将の率いる第5航空艦隊が反撃を行います。
神風攻撃隊などの日本軍の攻撃により「エントレピッド」「エンタープライズ」「ヨークタウン」などの空母3隻が小破しますが、日本軍は出撃した攻撃隊193機の8割を失ってしまいました。
翌日には米軍は瀬戸内海を襲撃し、呉に停泊していた艦船に損害を与えました。
日本軍は再び反撃に転じ、室戸岬に接近していた空母「ワスプ」「フランクリン」を大破、「エセックス」を中破させます。
3月21日、宮崎県の都井岬沖に移動した米軍艦隊に対し、日本軍は初めて「桜花」を投入しました。
桜花は1200キロ爆弾を搭載し、母機から切り離されて滑空するグライダー式の特攻機で、ロケットエンジンの使用により最高時速は983キロにも到達します。
「特攻専用」を目的として開発され、実用まで至ったのは、この桜花が世界で唯一の兵器だそうです。
ですが母機として桜花を搭載して出撃した「一式陸攻」は、米軍機の格好の的になってしまい、16機全機が撃墜されてしまいました。
結局、米軍による一連の攻撃により、日本軍は400機もの航空戦力を失ってしまうのでした。
3月19日の時点においても、日本軍は「米軍が次にどこに攻めてくるのか」を決定できないでいました。
なにせ、海軍は「次は小笠原諸島」陸軍は「次は台湾に来る」と、陸海軍の間でも考えがまとまらない有様だったのです。
しかし3月23日、沖縄本島の南東90キロに敵機動部隊が発見されたことにより日本軍はにわかに色めき立ちました。
沖縄を守る陸軍第32軍は、この艦隊が沖縄へ本格的に侵攻してきた部隊なのかを確信することができずにいましたが、翌日に米軍が艦砲射撃をしてきたことで、ようやく「米軍の次の目標は沖縄」だと判断できたのです。
日本軍は直ちに反撃を開始、攻撃機が敵駆逐艦2隻を損傷、さらに特殊潜航艇、甲標的・改「蛟龍(こうりゅう)」も出撃し、駆逐艦「ハリガン」を撃沈させますが、蛟龍部隊も全滅してしまいました。
3月26日、米軍は慶良間諸島の座間味島などに上陸、日本軍はこの動きを全く予測しておらず、29日までに慶良間諸島は米軍の手に落ちました。
米軍の沖縄侵攻に伴い、沖縄防衛作戦「天一号作戦」が発令されます。
3月26日、27日と立て続けに特攻機、通常攻撃機による日本軍の反撃が行われ、米軍の巡洋艦、駆逐艦に損害を与えました。
沖縄を救う為の航空作戦が行われている中、戦艦大和は瀬戸内海に停泊していました。
飢餓作戦による機雷封鎖で呉港に入港できずにおり、このままでは遅から早かれ国民の目の前で撃沈する姿を晒すのみだったのです。
大和を「砲台」として利用する案もありましたが、連合艦隊参謀・神重徳大佐は大和による海上特攻を主張しました。
しかし制空権、制海権のない沖縄までの航路を航空支援なしで辿りつけるはずがありません。
大和の出撃、航空特攻のための陽動程度にしかならないのです。
しかし大和出撃は決定されてしまい、日本に残された残り少ない備蓄燃料から4000トンがかき集められました。
この無謀な作戦はなぜ通ってしまったのでしょうか?
それには、昭和天皇陛下の「お言葉」が少なからず関わっています。
軍令部総長・及川古志郎大将が沖縄への特攻作戦を陛下に上奏したとき、陛下から
「航空機だけの特攻なのか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えぬのか?」と尋ねられたのです。
及川大将はこれを「水上部隊はなにもしないのか」と叱咤されたと捉え、「全海軍で総攻撃を行う」と奉答してしまいました。
神大佐はこの話を聞き、「陛下のご意向でもあるし」と自分の都合の良いように大和出撃の意見を押し通したのです。